神は証明を必要としない?

即ち神を試す必要はない。けれど私たち人間のほうはいつも神に試されているみたいな気がするもの・・・でも違うな。神を疑い試したいがために私たちは試されるような出来事に遭遇するのだ。遭遇したと感じるのだ。完全なる神の懐に抱かれている人にとってはそれは試練ですらないんだろうな。
私は今年の年頭にあたって浮かんだ抱負が「今年は天使さんんとお話したい」でした。私はかなり疑いぶか~い人間だけれども、天使の存在についてはすごーく納得がいっちゃってるので信じてるんです。ですからもういつだって、彼らに助けてもらったり願いをかなえてもらったり、彼らなしには私の生活は成り立たないくらいの家族のような存在なんです。
まるで一緒に生活してるかのように彼らのことが「わかる」んだけど、面と向かって彼らとお話したことがありません。彼らは慣れ親しんだ空気のような存在(まさに!)なので私が彼らのことを気に留めなければまるでいないかのようになりを潜めています。
ですから以前は困ったとき苦しいとき恐怖に曝された時にばかり彼らを頼っていましたが、彼らは文句も言わず私に付き合ってくれました。
そんな彼らとの付き合いが続くにつれ、私は彼らに心から感謝と親愛の情を抱くようになりました。今日一日、なにか心が満たされるような、他人との心のふれあいに出会えた時、人の掛け値ない優しさや深い気づきに出会えた時、私は心の声高らかに彼らに感謝を伝えます。なぜならそれは私が常日頃心底願い、そんな日々を送れることを切望し天にリクエストしていることだからです。
もちろんそのことを「天使抜きに」説明することもできます。人の思いやイマジネーションはそれを実現するエネルギーを持っています。心から抵抗なく同時に否定することなく願えばそれは実現します。ですが、人間には利己的な欲望というものが大いにある。利己的な欲望を無理にかなえてしまうとそこにはひずみが生まれます。利己的な欲望は物質の法則の中にあるので、どこかから奪ってこなくてはならなくなります。Aさんが豊かになるにはBさんが貧乏になるってことです。私はそういうのはあんまり嬉しくないので私の豊かさは無限の宇宙からいただきたいのです。
天使にお願いすると、その辺のフィルターをうまく使ってくれるように私は思います。あれもこれもとなってしまった時でも、本当にほしいものがとてもいいルートでやってくるように思います。同じ物での心のこもったやり方だったり、それを手に入れるために行ったことが自分の成長にとって役立ったり、自分の進化につながったりというように。
私は最近思うのですが、ニューエイジのせりふに「努力なしに」「がんばることなしに」できる、というのがあります。その意味をずっと考えたり試したりしてきました。私は今はこういうことじゃないかと思うのです。
それは「本当の自分を押さえつけたり殺してしまうことなしに、できる」ってことなんじゃないかしらって。
自分が本当になりたい自分になるための努力はすばらしく楽しいものです。
また、自分以外の人=他人の心を本当に思いやるということは深遠で一朝一夕にはできないことだと思います。けれどそういう自分でありたいと願うこころがありさえすればおのずとそれを学ぶに必要なできごとに出会うことができ、それを拒否することなく受け入れ乗り越えさえすればなりたい自分に「自然に」近づくことができます。
受け入れ乗り越えることは時に痛みや苦痛を伴うことが実際あるでしょう。でもそれは、本来の自分を押し殺し、無理やりに自分を曲げたり心を押しつぶしたりして「がんばる」「努力」とは違うはずです。魂は私たちの体の奥底で必ず喜んでいるはずです。
天使はこういうおはなしがきっとすきです。私たち人間が天使のことをささやき、心を輝かせときめかせているところに来ては祝福の「粉」をまきます。
その粉は地球をきらきらと輝かせます。私たちの笑顔と同じように。

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