ほどよいってことについて

最近ものすごいことを理解しました。
それは、ほどほど、っていったいどんな基準なんだ、ってことです。
私はわりと真面目というか、ある部分とっても潔癖な気質です。
両親とも潔癖、きょうだいも輪をかけて潔白(潔白、ですね)な人たち。
そこですごく難しかったのが、子供の時から、
「もっとうまいことやりなさい」
「もっと適当にやりなさい」
「もっと図々しくなりなさい」
「もっと甘えなさい」
母から注意されることってこんなことばかりで
それがとっても難しかった。
これはきょうだいみなへたくそです。今でも。
お釈迦様の教えの中に、
この世のことすべてと距離をおきなさい、というような言葉があります。
多分正確には随分違うと思うのですが、でも意味としてはこんなことです。
その教えは頭ではなんとなくわかっても、実践するのは難しい。
すべてにこころを開いて、愛をもって、関心を持ってなおかつ距離をおく。
感情についての訓練をしていない限りはこれを実践しようとすると
こころを閉じるとか無関心、冷めている、ような状態と大差ない状態にもなりかねない。
それで、最近どうしてこれが何のことだかわかったのかというと
また登場しますが、神の使者を理解したからなのです。
神の使者ではキリストが「この世はない」
「宇宙すらも神は創らなかった」
「この世は幻想である」と教えています。
私たちは幻想の夢から覚めること(目覚め)によってのみ
神の国へ帰ることができ、天国を生きることができる、と。
このことをこころから受け入れてみると、キリストやブッダのように
人間としてこの世に生まれながら、完全に悟り目覚めることのできた人の言葉の意味が
ぴたと奥深くに感じることができます。
地上が幻想で、ひたすらに赦しを行うことで目覚めるとするならば
もう幻想と同化することはなくなっていきます。
地上のすばらしいこととも残酷で卑劣なこととも
等しく距離をおけることになります。
幻想とは過ぎ去るもの。
幻想に対しては常にほどほどがいいのです。
私たちが真剣に見張っておかなくてはならないのは
真実に対してそこからずれていないかどうかだけなのだな、ということが
最近ようやく腑に落ちた次第です。

往復3時間

妹と母が服やバッグやなぜか巨大な浮き輪を送ってくれた。
その荷物のなかに「鶴瓶の家族に乾杯~糸満」のDVDが入っていた。
私たちが糸満に越して来た直後の撮影で、
多分リアルタイムだと知らないところばかりだったと思うが
今見ると知ってるところばかりだった。
ゲストは西岡徳馬せんぱい(玉川大学の演劇専攻の先輩です)だった。
演劇専攻はとても少人数(1学年30人弱)の特殊なクラスなので
先輩はもう家族という気がする。
(だけど、せんぱい、からみがへただったね~!
あのね、いつまでも台本の中だけで芝居してちゃダメですよ!)
先日日食を見た南城市玉城には宮本亜門せんぱいの家もあり。沖縄。
西岡徳馬さんは、伝統の演専ソフタイ(ソフトボール大会)で1年の時ご一緒した。
あの時は私だって18歳だったけど、西岡さんもまだ売れてきたぜ!って感じで
ものすごいやんちゃな香りのぼんぼんだった気がする。
(やんちゃでも所詮ぼんぼんじょうじょう学校なのだ)
どうやらお嬢さんも演専なんじゃないかな。そんな話しだった。
最初に出てくる公園は糸満市役所のある埋立地の潮崎のビーチだと思う。
今日用事があって行ってきた。
午後に少し雨が降って日が陰ったので歩いて行ってみたが
湿度におえっとなるほど蒸し暑く、滝のように汗が流れた。
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ついつい知らない道を通りたくなるので
往復で3時間くらいかかった。(潮崎シティのスーパーにちょっと寄ったけど)
真面目に歩けば多分片道30分くらいで着くと思うんだけど。
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それから帰り道に公設市場のある道から漁港の脇を歩いた。
何を隠そう沖縄に来て一番にアパートを探したのは糸満の公設市場そばだ。
歩くとすでに懐かしいふるさとのような気がする。
漁港の水がペンキのようなコバルトブルーだったのに感動した。
(なぜか今日は水が緑。報江川も緑だからかな)
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那覇からは微妙に遠くなるので通勤は大変だと思うけれど
独特の人々と文化があるので、
ここに住んでもそれなりに楽しかったんじゃないかなと思った。
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那覇の人からは「なんで糸満?!」と相変わらず言われる。
沖縄でも糸満はとにかく特殊な場所らしい。
先日は那覇の人からうちの前で「これ、サトウキビですよね?!」って言われた。
え?サトウキビ、珍しいんですか?うちなんちゅですよね??
「那覇ではサトウキビ、ないですからね~」
車で30分足らずだけど、沖縄はエリアで人種も文化もきっちり区切られてるみたい。
外国の中の外国みたいでおもしろい。

東風平展望台

東風平アグリハウスで果物と野菜を買ってから
先日南城へ行く途中で発見した展望台へ。
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南部の真ん中から350度くらい見渡せます。
とぎれとぎれにぐるっと、海に囲まれていて
島に住んでるんだな~と改めて実感。
なにもしない休日を満喫しました。

やさしいひとといること

先日、東京からお友達家族が沖縄に遊びに来てくれて一緒に遊びました。
もりおさんとゆめこさんとうみおちゃん2歳(仮名)の親子3人です。
もとはもりおさんが私のだんなさんとバイト先での友達で
まだお互い独身だったころゆめこさんと4人でごはんを食べ、
そこで婚約発表してくれて
それで二人の結婚式に独身だった私たちが出席しました。
だんなさんの友達はおもろい人が多いのですが、
もりおさんは群を抜いてへんたいっぽい人です。
(へんたいっていうのは私の中では最上級に近い褒め言葉です。)
それで、お食事した時も、
だんなさんともりおさんでへんたいくらべっこみたいなのをしていました。
例えば、彼女(私やゆめこさん)をどのくらいかわいくてしょうがないか、くらべ、とかね。
そんなへんたいなもりおさんの奥さんであるゆめこさんはというと
とーぉってもおっとりしていて、ずーっと笑顔で、それでいて
へんたいなもりおさんのことがやはり大好きでしょうがない人です。
結婚式はとても盛大で、ちゃんとプロの司会の人がいましたが
花嫁のエピソードのところで司会の人が
「花嫁から、これは私の人生で一番がんばったことなので、
絶対に言ってくださいと言われたエピソードです。
バイト先でご主人と知り合った花嫁は、絶対にこの人と結ばれたいと思い
本当に努力をしたとのことです」
というところがものすごく印象的で、ずっと忘れられません。
ガツガツした人が、結婚でトクしたいわ、とかこの男をゲットしたいわ、
みたいな風に語られたら本当に下品に聞こえただろうと思うのですが
ゆめこさんの清らかでキラキラした人柄から聞こえたエピソードは
本当に美しく、感動的でした。
私たちが最後に会ったのはうみおちゃんがまだこの世に来る前だったので
再会はけっこうと久しぶりでした。
それで、到着した日の晩に那覇で一緒にごはんを食べました。
2歳のうみおちゃんが絶好調なので、ほとんど大人の会話はできませんでした。
だけど、家に帰ってからも、心の中に「たのしかった~」という感覚が残りました。
なんだろう、この感じは…という感じでした。
引っかかるものがなにもなくてとてもすっきりとしあわせです。
それから、だんなさんがお休みの日には
私たちが一週間で一番早く起きる時間よりも少し早いくらいに電話があり
今那覇のホテルを出ましたと言われました。
大急ぎで出かける支度をして、ようやくなんとかなったころ
3人は到着しました。
二人とうみおちゃんがどんなところが楽しいのか、今ひとつつかめなかったので
まずはうちの周りでもさんぽしてみようか、ということになりました。
うみおちゃん、カメさんとお魚見る?と聞くと(うちの前のどぶ川で、ですが)
「お魚?サメもいるかな」とウキウキしています。
2日前に行ったちゅらうみ水族館みたいなのを想像しちゃったみたいでした。
その日はいつにも増してものすごい日差しで、
朝でしたがUVカットのパーカーを着ていても肌が焼けて痛いくらいです。
うちの前の橋の上まで来ると、干潮で水がほとんど浅い水溜りのようなところに
これでもかというくらいのおびただしい数の魚が群れをなしています。
私はいつもどうしてもこれを見るのがおもしろくて、橋の上で止まって見てしまいます。
すると、ゆめこさんが炎天下で帽子もないままの姿で
橋から下をじーーーーっと見て「すごーい。おもしろくてあきない~。」…
だんなさんともりおさんとうみおちゃんはゆっくりと先に行っていましたが
私とゆめこさんは橋の上から言葉もなくずーっと魚をみていました。
しばらくすると、だんなさんともりおさんが「来て来て!カワセミがいた!」と叫びました。
行ってみるとコバルトブルーのカワセミが2羽、連れ立って飛んでいます。
カワセミは何度か姿を見ていますが、2羽一度には初めてです。
それから今度はおじいちゃんと孫二人で蝉取りをしているところに出会いました。
お姉ちゃんは5歳、弟は2~3歳くらいかな。真っ黒に日焼けして、
野生っぽいとてもかわいい顔立ちです。
ここらへんの子供はみんなそうですが、大人がいるとすぐに話しかけてきます。
この子たちもすぐに私たちの仲間に入ってきました。
お姉ちゃんは「カメね、わたしが呼ぶと来るよ!(気合いを入れて)カメこーーーーい!」
ぴんと透き通った声で精一杯叫びました。
カメは知ってか知らずか、なんとなくこちらのほうに泳いできます。
「ほらね、呼んだら来たよ。(気合を入れて)カメ、こーーーーーーーい!」
この間おじいちゃんは私たちには目もくれずにセミを追いかけていました。
おじいちゃん、孫の世話じゃなくて、自分がセミとりたい一心なのね。
私たちが来た道を戻ろうとすると、
きょうだいは手を振って「バイバーイ!」と見送ってくれました。
20分にも満たないようなお散歩ですが、とてもほかほか楽しかった。
それから南部のお気に入りスポットを廻り、最後は大きなお風呂に行って
あっという間に日は暮れました。
うみおちゃんは車で眠ってしまい、二人と車のそとでお別れを言っていると
ゆめこさんは笑顔のまま「なんかさびしくなっちゃったー…」といったかと思うと
大きな目からぽろぽろ涙をこぼしました。
私とゆめこさんは抱き合って、また会う約束をしました。
それから数日間、私の胸のあたりには、
まだゆめこさんのやさしい気持ちがくっついています。
ゆめこさんとは多分全部で3回くらいしか会っていなくて
まともに込み入った話しすらしていないのに
どうしてこんなに安心なんだろう、と何度も考えました。
お昼を食べていた時にだんなさんともりおさんがお店のお庭でうみおちゃんと遊んでいたとき
二人で少しお話しをしました。
その時ゆめこさんは「ひげおさん(うちのだんなさんの仮名)もやさしい。
やっぱり、やさしさって大事なポイントですよね。
私やさしくない人とだと、うまく一緒にいられないんです。…悲しくなっちゃって。
それで、あとからずっと、考えちゃったりして。
あずこさん(私のこと)と橋の上で魚ずっと見ていられたとき、すごく嬉しかった^^」
ゆめこさんはとても落ち着いていて嫌な顔ひとつしない人なので
どんな場面でもどんな人とでも大丈夫なのかと思いましたが
そんなことはなかったんだな。
ゆめこさんのおかげで、やさしい人と過ごすことの幸せを改めて感じることができて
それがどんなに私にとってすてきで大事なことなのか、よくわかりました。

チャミエルはサミエルだよ

昨夜の睡眠中のお話なのですが
夢とは別に、ずーっと頭の中というか意識の中で声がしていて
その声が「チャミエルはサミエルだよ」と何度も何度も何度もしつこく聞こえていました。
あんまりしつこいので、きっとこれは覚えておかなくちゃいけないんだろうな、とか
夢とは別に思ったりしていました。
夢は夢ではっきり覚えていますが、内容と言葉は全く関連がないようです。
チャミエルは天使の名前です。
私はカラーオブエンジェルズというアチューメントをしてもらっていて
この天使は愛を司るとのことでしたが
今ひとつこの存在を身近に感じていましせんでした。
ですが、毎朝主人を見送る時には
必ずチャミエルを含む7人の天使を呼んで、守ってくれるようにお願いしていました。
ベッドから出るとパソコンのスイッチを入れ、サミエルを検索しました。
サミエル、という名前は一度も呼んだことがないし読んだ記憶もないのですが
オーラソーマの102番にサミエルがありました。
ボトルの意味は「恐れを超えて、ハートを開く」でした。
この言葉は私が日々取り組んでいるテーマそのものでした。
チャミエルとサミエルは違う天使でしょうか?
調べようとしたのですがよくわかりません。
ただ、サミエルとチャミエルが
並列に同じ所に並んで書かれているサイトはみつかりませんでした。
天使は同じ存在がに似たような名前で呼ばれていることはよくあります。
どっちでもいいんんだけどもしチャミエルとサミエルが同じ天使のことなら、
毎日私に呼び出されていたチャミエルが、
もっと私をちゃんと感じるように、と教えてくれた声だったのかもね。

見ました!肉眼で。

またしてもお導き。
それほど気にかけていなかった皆既日食でしたが、
(5年前に屋久島の、主人のお友達夫妻のお家にお世話になり
5年後来たいねなんて言ってましたがまだ付き合って一年弱だったあのころは
5年後どうなるかなんて想像もできませんでした。まさか沖縄に暮らしてるなんてね。)
今日の午前中は主人が初めてのお宅に往診の依頼をいただき
それが南城市玉城(宮本亜門せんぱいのお宅のほう)だったので
だんなさんが「一緒に行って、むこうで見るよ」と言ってくれて一緒に出かけました。
診療中近くに私が待っていられそうな場所が市役所くらいしかなさそうだったので
(実際は小さな陶芸&カフェとか、ものすごく小さな駄菓子屋さんとかありましたが)
南城市役所で過ごしました。
南城市は実は糸満市に着地する前、とても惹かれて、住みたいと思った場所です。
実際はものすごく山の中で
ネットが危ういのと物件があまりないのとスーパーなど全くないので
無免許の私には暮らせないし2人とも仕事を可動できないだろうと判断して断念しました。
車を降りて歩き出すといきなり歩いていた若いおじいが笑顔で「こんにちは」と
あいさつしてくれました。
それから市役所のロビーではおばあが「こんにちは、婦人会に来た方ですか?」
そして日食が始まると代わる代わるエントランス前で太陽レンズで太陽を眺める人が
みんなこっちを見てレンズを差し出してくれます。
何度も何度もいろんな人入れ替わり立ち代りで差し出してくれるので
見事に太陽の満ち欠けを眺めることができました。
糸満の人も那覇の人も優しいけれど南城ほど子供のように屈託のない方々は初めてです。
クライマックスが近づくと、あたりはどんどん暗くなってきました。
どんなお天気とも違う感じです。
妹がメールで全国の様子を実況してくれたのですが、
どうやらテレビでは那覇で太陽が一番良く見えたんですってね。
だけど多分、南城はさらに最高だったと思います。
妹が「亜門さん、NHKのスタジオにいますよ、もったいにゃい」って。
ほんと。今日は玉城(たまぐすく)にいなきゃ。
大人たちは「もう次は見られないかも」なんて言いながら一生懸命撮影なんかしてましたが
子供たちは薄暗くなろうが、どこ吹く風で、普通に元気に遊んでいます。
私は、そうだ、お祈りだ、と思い、日向に腰掛けて(ものすごく涼しかったです)
ゆるしの祈りを唱えました。
「すべてのこころから不安が消え去りますように。
私を傷つけたすべての存在をすべて完全に完璧に赦すことができますように。
私に傷つけられたすべての存在に完全に完璧な形で赦していただけますようにお願いします。
…」
すると近くで見ていた女性が小さく「あ」と言いました。
思わず空を見上げると、雲を通して太陽が三日月の形にくっきりと浮かんでいます。
太陽のふちは赤く、燃えているようです。
その周りには大きな虹色の輪が取り囲んでいて、空の色はグレーでした。
とても眩しいし、普通の視覚とはなんだか違っていました。
どうしてこんなにはっきりと見えるのかわかりませんでしたが
その時はなんだか心打たれ、祈りが通じた感じとともに
今日ここで祈っていることこそが目的であり結果だったという気がしました。
その直後に主人が往診を終えてこちらに向っていると電話がありました。
主人は決定的瞬間を見逃したことを少し残念そうにしていましたが
すぐに、いや、この時間に治療ができてよかった、と言いました。
そして今日の施術が、
今までにないほど心が静かに落ち着いてできたことを話してくれました。
施術の時にいつもする祈りの言葉が
その言葉どおりにすーっと自分に入ってきたそうです。
それからさらにおどろいたことに、
主人の勤め先の「大きな手」で経理などしてくれている女性からメールが来て
そのお友達からのメールの転送だったのですが
内容は「すべてを許してください。皆既日食で太陽と月が離れるときまでに
これまで手放せなかったことをすべて許してください。なぜなら…」というものでした。
まさにこの数ヶ月、それに取り組んできてたった今も赦しの祈りをしていた私は
なんだ、そういうことだったの~と思い、主人はひたすら鳥肌をたてていました。
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さて地球の兄弟姉妹のみなさん、今日もすばらしい日でありますように。

ふるさと-JAPAN

YAHOOの動画でアニメ映画を見ました。
テレビがないので、時々Gyaoとかyou tubeとかYAHOOとかで動画を見たりします。
ニュースはいつもこのどれかで見ています。
それで、「あしたのジョー2」なんかもちらっと見たりしてしまいました。
父が力石徹の声をやっていて、1で死んでしまったのですが2でも空に浮かんで出てきます。
それでびっくりしたのですが、ジョーは力石のテンプルへの一撃で彼を死なせてしまい
2では彼の死を時間をかけて癒し吹っ切ったつもりで試合に臨みますが
彼は相手の顔にパンチを打つことができない。ボディだけで戦います。
そしてそれには途中までまったく気づかないのです。
そしてチャンピオンとの試合で彼はその事実を突きつけられる。
それを告げる丹下段平のおっちゃんはなんと、
「力石くんを死に追いやったテンプルへのパンチが『トラウマ』となって…
頭では乗り越えたつもりでもからだはトラウマを覚えていて
無意識の反応をしてしまうんじゃ!」
と言ってます。
すごい。
潜在意識の仕組みを見事に説明している。
1のときから確かにそうだったけど
(幼少での孤独と欠乏から戦いに駆り立てられるというような)
2ではトラウマとの闘いがテーマになってる。…
話を戻しますが…
ふるさと-JAPANというアニメ映画をやっていました。
(今もやってます。)
何気なく見始めてしまったのですが結構すごい映画でした。
昭和31年の小学校が舞台で、何気ない普通のお話ですが
描かれていたのは心、でした。
それで、心について見事に描かれていたので
ついつい何度も号泣してしまいました。
とても印象的だったのが、少年を叱るお父さんとお母さんのやり方でした。
まったく怒っていないけれど、お父さんお母さんが、彼をどんな風に愛しているか
彼らが人生にどのように向き合っているかが
ほんの数行の台詞から伝わりました。
それから、子供たちが悪さをしたことに対する罰則の意味(連帯責任)について
私は生まれて初めてものすごく納得のいく解説を聞きました。
私は中学校の時に世間は不良、スケバン、暴走族が横行していて
とても厳しい罰則だらけの学生生活を送りました。
厳しいのはかまわないのですが、規則と罰則が一人歩きをし、
先生方が生徒を恐れ、暴力によって制圧しようとしていました。
人を人として豊かに育てたいという思いなどはどこかに追いやられ
恐れが不信を生み、不信が暴力を作り、悲しいことがたくさん起こりました。
いつでも時代は反動の反動でいろんなことが起こります。
昭和31年はすでに心を置いてきぼりにする時代が始まっていたように描かれていますが
時代のせいではなく
いつでも、私たちは心を失い、また取り戻してみたりを繰り返してきたのでしょう。
時代のせいではなく
心を取り戻すことは今この瞬間に始めることができます。

渡沖から半年

7月9日で渡沖から半年が過ぎました。
日々の贈り物にありがたさを感じずにはいられない日々を送っています。
沖縄の夏は真っ盛りではありますが、
夏至を過ぎると確実に陽が短くなり、光線の具合も密度が軽くなったように感じます。
あっついですけどね^^
6月初日に生命の贈り物
ゆるしの祈りを始めてからまた一つ新たなステージが始まっています。
6月は最終日までセッションのご予約が全くありませんでした。
必然的に私は赦しという作業と自己の観察の深みに集中することになりました。
とても静かでしたが、ダイナミックなうごめきを感じていました。
私生活の中でも、夫とともに、赦しの実践とそのこたえを垣間見る機会が与えられました。
一月の、祈りの磁場構築期間が過ぎる頃
遠隔ヒーリングという依頼をいただきました。
これはこれまで私がメニューに載せていなかったことでしたが
私としてはやりたいという確信がありました。
いったん始まると、今度は連日なにかしらのセッションをさせていただく日々となりました。
ヒプノのセッションでも私の中では驚くような変化がありました。
私はヒプノというツールが、まさに赦しの道具として機能していることに気づかされました。
ヒプノは心理療法として意識の仕組みを利用したきっちりとしたツールなので
マニュアルを守って安全に確実に人の役に立てうる道具です。
セッション中この仕組みのお話しをしているうちに
自然と赦しが融合され、特に何も変えることもなく
深いレベルの赦しのツールとして再登場したかたちになりました。
実際には、ただそこに横たわっていたものを私が再認識しただけなのですが。
でも不思議とセッションのとても微妙な箇所でこの気づきは役に立っています。
具体的にはセラピストとクライアント双方への負担がとても軽くなり
癒し効果が深まった感じです。
なんとも説明し難いのですが。
東京も梅雨明けだそうですね。
夏は大好きな季節です。
どうぞこころ健やかに、すばらしい時間をお過ごしくださいますように。

りゅうさまへ(愛について)

前回の記事にりゅうさまからメッセージをいただきました。
そのお返事です。
りゅうさまが私はいつも愛について書いている、とおっしゃるのを読んで
正直びっくりしました。
なぜかというと私はなるべくブログの記事では
愛には触れないように気をつけていたつもりだったからです。
それはなぜかというと、
愛という言葉はこの人間界では
まだ共通認識というものがあまりに確立されていないばかりか
誤解されることが多いので、全体の文意が損なわれると感じていたからです。
それと同時に、私自身が愛をいうものを全体として捉えることが
できていないと思っていたからです。
ですからやむおえず書いたとしても、それはなるべく
捉え難いもの、簡単に説明のつかないもの、という風に感じて想像してもらえたらな、
という私の意図がありました。
ですから、愛が出てきたとたんにちんぷんかんぷんになる、という
誠に正直な言葉で表現してくださったのは
決してりゅうさまの認識がたりないとかそういうことではなく
私の意図をそのまま受け取ってくださっていたということなのだと思います。
今世の中に出回っているスピリチュアルの概念を勉強して実践すれば
意識とかエネルギーとか、目に見えないものの仕組み
宇宙の法則、といったものがだいたいみんな同じようなことを指していて
それを利用すれば、自分の目に見える状況や心のあり方などを変化させることも可能だ、
ということで、生活向上のために、とか成功するために、という感じて
スピリチュアルというのはなんとなく
便利なグッズのように取り扱われているように思います。
私はそれを使って確かに自分の人生を地獄からなんとか立ち直らせることができてきました。
ですが私は本質的にすべての人を救うことができるもの、というところから
やっぱり離れることができません。
つまりそれは「真理」を求めるということです。
ツール(方法、技術)は大切なものですが、用途と目的が明確でないと
人の内面(心)や人格、人権を傷つけかねません。
ツールは神が与えてくれても、使うのは人間です。
使い手は神の御遣いという姿勢で臨まないと
あっという間にエゴや利己主義の遣い手になります。
ですから、スピリチュアルのツールを使う人は自分のエゴをよほど見張らないとならないし
もっとはっきり言えば、
神へ還る道を探求する人だけが使ってもよいものなのではないかと思うのです。
今の私が愛について言うなら
りゅうさまにとっては当たり前すぎる言葉かもしれませんが
愛は神のこころだと思います。
神とは完全で無限で一つであるものです。
完全で無限で一つであるということは対極はありません。
完全で無限で一つであるものの外には何も存在しません。
私は子供の頃から、心の苦しみから何とかして逃れたいと、その道を探してきました。
この世には神というものがあって、神は完全だという。
多くの人が信じている宗教があるということで
もちろん答えを探して首をつっこんでもみました。
ですが、どうしても、そこにある概念(真理と言われているもの)から
私も、周囲のいろいろな人々も、こぼれ落ちているように見えました。
そしてそこに登場したのが意識の仕組み、宇宙の法則など
ニューエイジとかスピリチュアルと言われる概念でした。
誰かが頭で考え出した理論と違って、
トランス状態になった人が聖なる存在からチャネリングによって受け取った情報、
というものに触れたとき、これだと思いました。
ニューエイジやスピリチュアルは、
古い概念をものすごいスピードで解体してきたと思います。
古い概念の一つには、
人間のつくった(既成の)宗教による人間の法も含まれていたと思います。
ですから彼らは、神、という代わりに宇宙・エネルギー、という言葉を使いました。
愛という言葉は以前から人間の間で使われてきましたが
そこには人間のエゴがつくりだした投影や感情といった意識が含まれていたので
やはりエゴの集合意識がある程度解体されるまでは
愛について語るのは容易ではなかったのだと思います。
ニューエイジやスピリチュアルの概念は一見とても矛盾がなく
これまで人々がさんざん悩まされてきた疑問にも見事に答えてくれました。
それによって、こじれた意識の問題に多くの人が取り組むことができるようになり
心を大切に思う人(心より物、という人が実際にはたくさんいた中で)が
息を吹き返してもきました。
けれどその中でも問題はたくさんあります。
いったい人はどこへ還ればいいのか。
どうなれば、もうそれ以上求めなくても済むのか。
どんなに学ぼうと得ようと与えようと、
結局もっと、という意識が在る以上は満たされないし悟らない。
幸せとは?満たされるとは?目覚めとは?
その最終形態を明確に示せる人がどれだけいるのでしょう。
たくさんのスピリチュアル商売が誕生し
あれが効くこれがいいこっちはもっといい誰がもっと上だ。
私には、どこまでいっても人間は
同じところをぐるぐる回っているように見えてきました。
物から見えないものへとターゲットが移っただけで
人間がもっと、もっとと求めるている以上は霊性(スピリチュアル)と
関係がないように思えました。
感情を早く超越したいがために、心を重要視せずに
心をますます閉じているスピリチュアリストもたくさんいます。
悟ってるふりです。
どれもなんか違っている気がしました。
私はずっと、
人が愛を学ぶために地球にいるのは当たり前のことだと思っていました。
愛を誓って結婚するのも、家族や隣人を愛するのも。
その中で、真実を少しずつみつけ、分かち合って行くのが人生というものだと。
当たり前すぎて、文章にしてみると陳腐にさえ見えてしまいますが。
でも、本当のことをいうと、
人生で自然に愛を学べてる人なんてほとんどいません。
そして、みんな密かにそのことを恐れています。
それはなぜなんでしょう。
それは、神はこの世の延長上にはないから、なのではないかと思います。
愛を神のこころと言わせていただくなら
この世(時空が存在し、2極性の)で
想像するもの(過去と照らし合わせて人が予測できるもの)の中には
愛は実在しないということです。
中学の時私が一番仲良しで影響を与えてくれた友達の卒業文集の作文の冒頭は
「この世に絶対存在しないものを求めて生きてゆこう。
例えば、オールマイティー。」でした。
私の中にこの感覚は、ありでした。
長いこと私は、この世にないものを求めて生きてきましたが
それでも絶望はしませんでした。
そして最近になって、最後の矛盾を解き放ってくれる概念と出会いました。
それが、「この宇宙さえも、神はつくらなかった」そして
「宇宙はない」というものでした。
この概念は私の中で少しずつ構築してきた真実のビジョンにとどめをさすものでした。
つまり私たちこそが幻想世界の住人なのです。
そして、私たちが幻想から目覚めさえすれば
そこには永遠で無限で完全である神の世界があるということなのです。
永遠無限完全なる世界を神と名づけるなら
神には対極はありません。
ですから、私たちの宇宙は実在しないことになる。
そのように仮定してみると、私がこれまで感じてきたこの世の欺瞞は
一瞬にして解消されました。
地球のところどころにしか及ばない神の業と呼ばれているもの。
まるで神とはちょっと進化したサイキックのような扱いでした。
望みは時々叶えられ、不幸は後を絶たない。
私の中で神の力がいまいち信頼に値しなかったのは
そういうわけだったのです。
地上の神は、幻想の一部に過ぎなかったということです。
ですから、私たちは地上でなんとか自分の力を高めようと奮闘してきました。
スピリチュアルのツールをかたっぱしから身につけなくてはならなかったのは
そういうわけだったのです。
形を変えた武装と大差なかったのです。
けれど、もうそんな必要はありません。
なぜなら、私たちは夢から覚めれば、永遠の中にいるわけです。
神の国にいるわけですから。
するとようやく、私たちが地上(幻想の中)で取り組むべきことも
はっきりしてきました。
それは、私たちを幻想にとどまらせようとする仕組み(エゴ)を
解体することです。
この世に(恐らくは聖なるものから)もたらされた
たくさんのツールの使い道もはっきりしてきました。
武装ではなく、解体のために。
私たちはどこへ還るのか。
愛とはなんなのか。
それだけは、やはり神抜きには語れないものなのではないでしょうか。
結局のところ私は、愛以外にすべての人を救うものはないと思っています。
すべての人を救うっていうのは、
少なくてもこの地球の存在すべてが
幸せの帰路に着くことができるってことです。

奇跡だと気安く言うけれど

奇跡を受け入れるには人間やっぱり段階があります。
「神の使者」
では、受け入れ難い概念が目白押しですが中でも
「シンクロ二シティ(引き寄せの法則)でさえもエゴが作り出している」
というところは秀逸だろうと思う。
私はこの言葉でどちらかというとすっきり救われたほうですが。
私はこの法則を使って人生を展開してきた実践者ですが
それは真理というものとは違い、ある物理法則にのっとった利用法です。
その効用は、エゴと無意識をつぶさに観察し、その解体に取り組むきっかけとなる、
ということだったのではないかと思います。
私のように自意識の強いタイプの人間は普段からエゴによって洞察しています。
生まれながらエゴの思考にはまっている間は
「正しくある」ことに心を奪われがちでその間はエゴにせっせと餌をやっていますが
いったんエゴの性質に気づくことができれば
自分のそれと重ね合わせて一つ一つ薄皮をはぐようにそれに気づいていくことが
わりと得意です。
だいたい一般的には不幸を背負う人がこのタイプで
トラウマも多く、より多くのことに傷ついているように見えます。
逆に例えば私の主人のように人が良くて要領よく一見楽天的で
起こっていないことは考えない、というタイプの人はどうかというと
一見トラウマも少なく「今に在る」ことができているようにも見えますが
実はよくよく見ると「無意識」になりがちです。
そうすると、例えば「自分への小さなウソ」みたいなものを
マインドに留めることなくあっさりと深い意識に刻んでしまったりします。
こういう人は知らず知らずに深いところで傷ついています。
空虚感、無価値感にさいなまれています。
どちらにしても、深みに足を踏み入れてそれを解体するまでは
無意識の罪悪感を抱え続けます。
神の使者では、宇宙は神が創造したものではなく「この世はない」と言っています。
すべては意識の投影による幻想だと。
ですから宇宙の物理法則はエゴの産物に属するということなのです。
この世の2極性に属するものはすべて、そうです。
神の使者でいう目指すところは、私たちが幻想から目覚めること、それだけです。
幻想にしがみつくのか、目覚めを選択するかを選ぶのは「心」ですが、
まっとうな選択をするには真実をありのままに見ることのできない「心」を訓練し
ありのままでなく幻想を追いかけようとする「エゴ」を解体する必要があり
その方法を教えているのが「奇跡のコース」です。
これまで様々なスピリチュアルの教えに出てきた概念の目的は
まず地上(幻想世界)での価値観を転換すること、だったように思います。
エゴの価値観からスピリットの価値観へ。
何よりも変わらなければならなかったのは、私たちの心だったし
それはあまりにも長いことエゴに主導権をゆだねてきました。
私たちはシンクロ二シティを体験することで
この世の目に見えない仕組みを垣間見、
内面を変えることで、現実(と見えているもの)を変えることができるという
魔法を学びました。
けれど、それは奇跡ではないのです。
そこに聖なる愛が関与しなければ、それはただの魔術です。
神の使者はそのからくりを見事に解き明かしています。
愛の本質にようやく迫ってきた感じです。

お知らせです

これまでレイキヒーリングをメニューに加えていませんでしたが
ご要望をいただいたのを機に
クンダリーニレイキによる遠隔ヒーリングをメニューに加えさせていただくことにしました。
クンダリーニレイキはなかなか強力で奥深いヒーリングですので
御用の方はご利用ください。
リアルタイムで祈りと瞑想の中で行います。
チャクラ調整の際、メッセージを受け取る事が多いので
メールにてお伝えさせていただきます。
料金は3回セットで3000円とさせていただきます。
用途はわからないけれど興味があるというかたにも
お気軽にお試しいただけるかと思います。
ヒプノセラピー、カウンセリング、誘導瞑想の対面セッションにいらしてくださった方
また、お電話、メールセッションで必要と感じられた場合には
これまで通りセッションに組み込んで使ってまいります。
クンダリーニレイキについて気になる方はこちらをクリックしてご覧ください。
遠隔ヒーリングの詳細はこちらをクリックしてご覧ください。
アチューメントもこれまでどおりいたしております。
私の体験や周囲の人々を見ても
クンダリーニレイキの成果はなかなかすごいものがあります。
奇跡を受け入れる下地を作るに大いに役立つ、という感じがします。
みなさんの幸せへの道にご利用いただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。