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霊的なメッセージを受け取りたいなーと感じている人は多いのではないでしょうか。
私も以前はチャネリングできるようになりたい!ととても望んでいました。
私は芸術などの想像を通して、チャネルの感覚というものを知ってはいましたが
いわゆるチャネラーたちが言葉を降ろすような感じで、自在に、と願っていました。
でもある時、望みは既に聞き入れられている。
今はそれが成就する途上にある、と悟りました。
それからはとても早かった気がします。
何かを心から望んで、神や宇宙に願ったとして
それが遂げられないと人間は「何が間違っているんだろう」と考えます。
それはとても合理的な思考で
何かを順調に遂行するためにはとても建設的な方法です。
けれどエネルギー的な観点からみたら
何も間違っていない、ただそのプロセスの途上にあるだけ、ということもたくさんあります。
高次元の導きのやり方は私たちの物理次元的思考では計り知れないというか
まともに観ることができないのが普通です。
ですから、まずは自分の視野(エゴの知覚)ではなく
広大な次元の視野を養うことがとても大事になります。
まず自分自身が霊的な存在だと知ることがとても大切だと思います。
今の私は、以前の自分が望んでいたことができるようになってきました。
でも以前の自分が想像していたような使い方はしていません。
セッションでその力を使うことは癒しのために大きな力になります。
自分の気づきを促すには、以前からやってきたやり方で充分だし
それと大した違いはない感じです。
それに第一、達成したいみたいな願望がなくなってきていて
自分のことはおまかせします、という心境です。
けれど神聖なるものとのふれあいというのは心底すばらしいもので
きっと誰もが魂の奥底ではそれを望んでいるのではないかと感じます。
正直、それ以外に本当の平安、大いなる安心というのは存在しないのではないかと
密かに確信している次第です。
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ざわわ~ざわわ~ざわわ~♪ご近所ドライブです。
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葉っぱはおいもみたい。色がすてき。
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糸数グスク。なぜか主人が大好き。
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今週の休日でした。

最大限に生きる

OSHOは大好きで尊敬しているマスターです。
彼のタロット(オラクルカード)に
「キリスト教のように最小限に生きることでなく
禅はあなた方に最大限に生きることを求める」という言葉があります。
キリストはまた、私の最も敬愛するマスターです。
キリスト教という人間が組織した規律はそうなのかもしれませんが
恐らく、というか間違いなく、キリストは人間にそう求めてはいないでしょう。
ACIMはマスターであるキリストを人がチャネルして降ろされた情報ですが
主人に「ねえ、ACIMは最小限に生きることを求めていると思う?」と聞きました。
すると「思わない。だって、すべてを赦すんだよ、この世で出会うすべてを。
最大限じゃない。」
といいました。
なるほど。
赦すことは、最大限にそれを感じて、受け入れる作業です。
自己の内面とこんなにも親密に、向き合い丁寧に付き合うことは
なかなかないほど、最大限かもしれませんね。

光の中で生きる

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南城市のお宅のすてきな屋根。愛車と私の影付きです^^
沖縄は秋晴れ。本当にさわやかでいい気持ちです。
気温は30度まで行くようです。(現在は29度)
おさんぽ、お昼寝に最高な季節ですね^^
少し前にレイキヒーリングを受けてくださった方が
「わ~ぁ、レイキってこんなにいいものだったんだぁ」と
とても嬉しそうに言ってくださいました。
その方は臼井レイキのアチューメントを受けている
プラクティショナーだったのですが
よくわからなかったので、ほったらかしていたとおっしゃっていました。
臼井レイキのセカンドくらいまでだと
もしかしたらあまり実感もなく
そういうこともあるかもしれません。
私もそうでした。私はファーストだけで15年くらい放置してました。
友人のセラピストはサードか、ティーチャーだったのに
「なんか、へんな、こんなの描くのよねぇ」なんて言ってましたもの。
でも今はおはようからおやすみまで、レイキを意識しない時間はないくらいです。
本格的にアチューメントを受けて数年経っていますが、親密さは深まるばかり。
もちろん仕事にしているのだから当たり前かもしれませんが
私はこれをビジネスと割り切って考えたりしたことは一度もありません。
これは、生き方そのもの、自分の生命そのものです。
レイキを本当に身につければ、そういう風にしか考えられないものではないかと思います。
「私は光、私は愛です」と、どの瞬間も心から自分に宣言することができたら
人生からあらゆる問題は消えてしまいます。
問題は問題として存在できません。
けれど単なるアファーメーション(肯定的宣言)だけだと
意識の中の多くはすぐにはそれに同調できないのです。
潜在意識の中に無意識のブロックや
光や愛そのものに同意できない何かが潜んでいるからです。
そこで大切なことは、自分のバイブレーションを高次元の波動に同調することです。
アファーメーションから祈りへと、
エゴを明け渡し、高貴な内なる神の次元へと自己を同調させることです。
レイキ、祈り、そして瞑想(ヒプノセラピーにおける変性意識状態)はみな、
この光、愛という内なる最高次元に自己をゆだねることです。
自分をエゴの指令下においていた場合に到底起こりえない美しい出来事が
この光と愛の法則の下に身を置き替えた時に起こります。
それは、あたかも奇跡のごとく人の目には映るのです。

ジューグヤーの月

沖縄移住、という言葉がいまだに自分のことだとピンとこない私です。
ですが、沖縄生活は1年9ヶ月を過ぎました。
おとといは旧暦8月15日、じゅーぐやーで糸満の大綱引き。
昨日は真栄里(糸満市の集落)の大綱引きでした。
去年はばたばたしてほとんど地域のおまつりを見ていなかったのですが
今年は夕方、二人とも時間が空いていて行くことができました。
糸満の大綱引きは沖縄の三大綱引きと言われてるほど大規模で
国道を封鎖して、朝から巨大な綱をみんなで作り(180m 10トンですって!)
道ズネーと言われるパレードがあって
その後綱引きをします。
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綱です。
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太いです。どうやって引くんだろうというくらい。
細い縄がたくさん出ていてそれをみんなで引っ張る。よくできてます。
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こども踊りなんですけど、楽しいオーラが写ってるみたいでしょ。
昨日の真栄里は山里の集落でもしかして全員知り合い同士で
よそ者がいたらすぐにわかっちゃうんじゃないかと少し心配でしたがそんなことはなくて
エイサーを見にギャルたちがおしゃれをして続々と集まって来てびっくりしました。
ここでは棒術の演舞があって子供から大人まで次々に披露するのがものすごく良かったです。
芝居で昔棒術をやったことがあったので血が騒ぎました^^
動きが早くて携帯だとうまく写真が撮れなかったのが残念です。
真栄里は以前自転車の旅でも行ったことがあったのですが
本当にタイムスリップしたみたいな、古くて美しい、すごいところ。
集落の中心には立派な屋根のあるステージがあって
向かいにはひな壇が作られていたので
お祭り用かな~なんて話していたら本当にそうでした。
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ひな壇はこんな感じ。おとぎ話みたい。
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帰り道、ロンドン杜公園からの月。
幻想とはいえ、三次元の地球はきれいです。

Awakenings

みなさんこんにちは。
芸術の秋、なのか、最近は家で映画のDVDをよく鑑賞しています。
80年代終わりから90年代に見た映画でとびきりのやつを
主人と一緒に見るというのが最近気に入っています。
「今を生きる」「セントオブウーマン」は
青春学園ドラマにカテゴライズされていて驚きですが
久しぶりに見て、さらにいろいろなことをふかーく感じる
本当にすご――――――い映画だと思いました。
人が人たる所以はここにありという秘密が描かれている映画です。
そして「レナードの朝」。
この映画は初めて見た当初はあまりにすご過ぎて
号泣、放心、号泣、放心で疲れ果てたのを覚えています。
久しぶりに見て私がどう感じるのか見ものでもありましたが
トラウマ的な感動はほとんど浄化されていて
その分また深く洞察を得ることができたようです。
人が人たる所以、というところが
どうやら私にはとても大切なのです。
私が育った家庭はいつも私に究極の問いかけをしてきました。
私は自分のプロフィールに赤裸々に自分のことを書いていますが
私の心に究極の問いかけを迫った核心の部分はほとんど何も書いていません。
なぜかというとそれは家族に大きくかかわっていることだからです。
当初「レナード」を見たとき本当に自分の生きてきた家庭の中にあった
様々な問いかけが一気に押し寄せてきました。
それを20年を経てそれがどういうことなのか言葉にすることができます。
人が人たる所以、その仕組み、からくりを解き明かし変化させることのできる人になりたいと
私はその時何よりも強く思ったはずです。
それは、医学や科学には不可能で
(それをしていたとしても、学問ではなくそれをする人の在り方が重要で)
もし可能性があるとしたなら、哲学?神秘学?神学?スピリチュアリスト?芸術家?…
…中でも、愛と心を身をもって探求する人。
そういう人にしかできないのだということを潜在的に理解し
打ちのめされたのでした。
後に私はDrクラズナーのヒプノセラピーの講座に出て
昼休みに六本木のカフェで一人嗚咽しました。
もしかしたら、私の知りたいことがここにあるかもしれないと思ったからです。
そこからさらに10年が過ぎました。
私はこの人生の中に、魂を感じます。
私、という小さな枠を越えて
壮大な力とイマジネーションと創造の源と共にある意識。
すべては本当につながっているのです。…

沖縄 ありんくりん(あれこれ)

昨日は久しぶりに北部へドライブしてきました。
水族館で有名な本部までとりあえず走ってみました。
私たちの住んでいる南部は戦跡で有名ですが
普段は観光客も少ないので
主人は沖縄が観光名所だということがわかっていません。
ですが北部では各スポットに行列ができていたりしているのを目の当たりにして
「そうか、こういうところに観光客はいるのか~」と
少し実感ができた感じです。
私も改めて納得。まったく沖縄へ来て1年8ヶ月が過ぎたというのに。
北部では古い民家の屋根はセメントのような色をしているのが多いようですが
わが町豊見城や糸満のすーじぐゎー(路地)を少し入ると
赤瓦のおうちがたくさんあります。
私たちの趣味は、すーじぐゎーのお散歩です。
離島と変わらないんじゃないかという感じの石垣と赤瓦。
ブーゲンビレアとガジュマルの木。
それになぜか野良猫が全員超美形です。
本部の町並みは古い漁港のそれという感じ。
どことなく、内地の風情も感じられて懐かしい感じがします。
市場に入ってみると、なんと店番のおばさんはみーんなお昼ね中。
ゆんたくしている人たちもまったく商売する気がうかがえない。
糸満の市場だったらきっとみんなが声をかけてきたんじゃないかな。
沖縄では南部の人は沖縄の中でも気質が違うとよく言われるのですが
なんとなく違いがわかってきたような気がする。
漁港に川が流れ込んでいるあたりでは
美しい海とは対称的に川の水はとても濁っています。
なにげなく川面を覗き込んだりしていると
向かいのおうちの前に立っていたおじいが何かしゃべりながら歩いてきて
私たちを促すように海辺へ向かいます。
なんだろうとうかがうと
カニを捕る仕掛けの網に魚がびっしり。
わー、これ、どうしたんですかと言うと
カニを捕ろうとしたらかかったけど毒がある魚だそう。
「子供の時捕まえたことがあって嬉しくて両手でつかんだら刺されてひどく痛かった」
のだそうです。
「毒がなければ、大漁なんだけど」
おじいは私たちが豊見城から来たというと意外そうに微笑んで
あそこらへんは村だったが発展したねと言う。
この辺は水族館ができて変わりましたか?と聞くと
全然変わらない。変わった方がいいよ、と言っていた。
でも人の心は変わってしまった。自分のことばかりしか考えないように、と。
おじいは優しい静かな物腰の人だった。
話していると少しお酒の匂いがした。
この毒のある魚はよくかかるんですか?と聞くと
いやぁ、初めてだよ、と驚いていた。
今日はなにか変わったことがあったんですかね、と言うと
あんたたちは楽しく過ごして、いい日にしてください、と言ってくれた。
楽しく話していたんだけど炎天下で汗は噴き出しふらふらしてきた。
おじいは汗ひとつかかずに涼しい顔で話してる。
どうもありがとうございました。お元気で、と言うと
すごく嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
この日のなかで一番心に残る場面だった。
いい日になりました。

レイキ、ある使い方

我が家は夫婦でレイキを使っていますが
主人は鍼灸、なかでも中国医学の経絡治療をベースに施術しますので
レイキもその経絡を流れるイメージが大きいようです。
そもそもレイキは必要なところに必要なだけ、勝手に流れるので
それを使い手が意識的にコントロールする必要はありません。
けれど、明確に意図することは、レイキはもちろん
あらゆることにおいて非常に大切です。
レイキも例外ではないと感じています。
私は人間の心の問題に造詣があるので
レイキを使うときも心、意識、エネルギーというふうにみながら
ヒーリングします。
ある日自己ヒーリングをしているとき、主人が
からだに流したいときは心臓に送るといいよ、血液と一緒に流れるから、と言いました。
レイキのマニュアル本などでは、脳が全身の司令塔なので
脳のポジションは欠かせないとはありますが
心臓から流すというのは初めて聞きました。
そうなの?と聞き返すと
いや、俺がそう思うだけだけど、とのこと。
私が普段レイキを使っていて、とてもわかりやすいと感じるのは
お水の味が本当に一瞬でまろやかに変わるということ。
お水より結合の緩い気体や想念、などにはさぞかしもっと一瞬なんだろうと想像しつつ
いつもお水には驚かされていました。
ですので血流の起点である心臓というのはなかなかいい案に感じました。
ある日頭痛が起こり、時間を追うごとに酷くなっていったので
これはもう鍼を打ってもらうか頭痛薬飲まないとどうにもならないかな、と思っていました。
その時、苦し紛れに、イメージも意図も面倒だったので掌にシンボルを描いて
そのまま心臓のあたりに当てていました。
ものの3分もしないうちだったと思いますが
耳鳴りのような、遠くで蚊の鳴く声が耳に入ったような
プーン、という音が1,2秒聞こえたかと思うと
エンジンがぶぅんといって切れるように
頭痛がぶぅん、とダウンしてしまったのです。
そのあと少し寝落ちて(頭痛の時は痛くて眠れないんですよね)
完全に治ってしまいました。
あくまで一例に過ぎませんが、ご参考になればと思います。
(病気の治癒には自己判断だけでなく医師の指示を仰ぐことをお忘れなく)
祈りは祈り方が、ハイヤーセフルとの対話は質問の仕方がとても大事です。
明確さには明確さが返ってきます。

body&soul

沖縄、今日はいいお天気です。
しばらく秋の様相でしたが、少し夏が戻ってきたみたいな。
魂、という言葉があります。
いろいろな意味や次元で使われていますが
例えば私のやっている前世療法ではこの言葉なしには説明ができません。
でもこの言葉を正式に教えられたのは、大学の授業ででした。
演劇史の授業で小山内薫という劇作家の詩が配られて
「芝居は魂だ」と18歳の私たちは教わった。
その中で印象的だったのは、芝居とは舞台の上の催しのことではなく
音響係も宣伝係も受付係も下足番もみんなみんな、魂だ、とあるところだった。
みんなの魂が響きあって初めて、人の魂を打つ芝居となる、というところだ。
それは、とてもリアルにリアルに、真実だったと思う。
魂。
ゲリーボーネルという神秘家は
「人から魂が抜けると動物と同じようなものなります」と書いている。
魂とは人を人たらしめるもの、ということだ。
NYに行ったとき、そこいらじゅうの音楽を聴いてまわったけれど
NYの音楽はすべてがソウルだった。
ソウルというのは日本では音楽のジャンルのように言われてるけれど違ったのね、と思った。
聴衆は、ソウルのない声や演奏に耐えられないようで
そう感じた時点でブーイングをする。
その違いを肌と全知覚を持って知っているところが
彼らのすごいところ。
日本人は本来人一倍そういうことを肌身を持って知っている民族だったのではないかと思う。
今のあいさつには、魂がはいっとらん。もう1回。
とか、ちょっと軍隊チックで敬遠されそうだけど
でも、社会がもう少しそういうことに重きを置くようになれば
いちいち全部をルールで縛らなくても
「ああ、今のはソウルが入ってなかった、すみません」とか
「魂に訊け」と言ってみんなで考えるとか
少しは知的な社会になるんじゃないかと思う。

台風と共に

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昨日の豊崎ビーチの夕日。
昨晩は東京の友人がだんなさんと一緒に顔見に寄ってくれました。
彼女と最後に会ったのは彼女の結婚披露宴で渡沖直前でした。
「同じ釜の飯を食う」(古い言葉ですが)仲だったので
彼女が幸せで満ち足りてるところを見るだけで私も幸せです。
沖縄は秋です。
高原の朝みたいでものすごく自分が新しくなった気がします。
みなさんも良い一日を^^
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運命

例えば、空の雲に良し悪しはありません。
でも時には暗雲立ち込める悪の予兆のように
時には夕日をまとった最高の芸術のように
私たちの心には映ります。
実際に大雨を降らせ、災害を引き起こし人命を脅かします。
でも来る日も来る日も空の雲に怯えるという人はあまりいません。
心の中のお掃除が進んでいくと
良からぬフィーリングが消えてなくなり
人生は、絶好調のあの勢いのあるいい気分ばかりになると考えている人も多いと思います。
だから、なぜまたあの不確かで混沌とした気分のような時に
戻らなければいけないんだろうと人は考えてしまいます。
実際は、お掃除が進むと、過去の思い込みが手放され
いわゆる「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というような現象がなくなっていきます。
坊主は坊主、袈裟は袈裟、と識別できるようになるということですね。
すると、今日はお天気が悪いなー、憂鬱だわ、だってお天気が悪いと
洗濯物は乾かないし出かけるのもなんだか億劫だし何がこうなって、あーあ、…という
ネガティブなストーリーによる推測がなくなり
ああ、今日は雲が多いなー。あれ、随分涼しいな。…さて、
じゃあ久しぶりに長袖を着てみようかな、雨が降ってもいい靴ででかけよう、
日焼け止めは今日はいらないや、らくちん、洗濯は今日は室内干しでいこう、…という風に
ただあることだけになっていきます。
本当に小さなことです。
でも、スタートラインが違うことでその次に起こることへのレスポンスが
随分違ってきます。
次にあなたは、ぬかるみにはまってこける運命にあるとして
前者のあなたならお天気を恨むかもしれません。
後者なら、多少はへこむけれど、笑ってtwitterにつぶやいて終わりかもしれません。
次第に両者の持つ観念の質は違ってくるでしょう。
お掃除が進むと、過去の出来事からの推論によるストーリーから自由になります。
そしてその推論から未来を限定しなくなります。