光と意識と存在と

スピリチュアルであるということは
自分は肉体ではない、無限の存在であると知っているということだ。
でも実際にそれを本当に知っている人は少ないだろう。
或いは信じたいけれど、確信がない。
それで人生をコントロールするために苦闘する。
自分はスピリチュアルかどうか、という問いは
愛を信じるかどうか、という問いと同じ意味だと私は思う。
愛がどれとははっきりと言えなくても
人は心で愛というものが存在していることを
多かれ少なかれ感じていて
その存在を完全否定することは難しいことだと思う。
高校生の頃読んだ曽野綾子さんのエッセイで
彼女は無神論者だという人に問いかける。
「では、あなたの子供が山で遭難して消息不明の時
あなたは神に祈らないんですね」という風に。
「無神論者だというなら神に祈らないはずです」と。
彼女はそんな感じの極論を用いて人の意識の思い込みをひっくり返すことをよくなさる。
そういうのがとてもおもしろかった。
人は心の底で信じていることを「信じていない」と言ってみたり
恐れていることを恐れていない、
感じていることを感じないとよく口にする。
実際に人は自分の力でどれほどのことができるのだろうと思う。
その結果何をもたらすことができるのだろう。
我(が)の力は一見パワフルではある。
我のパワーというのは我(われ)の意思をもって周囲をコントロールしようと奮闘する。
我にとっては周囲の環境、つまり現象がすべてだからだ。
でも自分という肉体や周囲を意のままに変えようとするのは本当に生命を消耗させるものだ。
自分がスピリットであり愛であると知ると
外側の世界は完全に内なるエネルギーの投影だとわかる。
外側に愛の欠如を感じるとき
内側に愛を妨げる思考がある。
その思考は、防衛や攻撃から生まれている。
防衛と攻撃は恐れによって発動される。
人は恐れから自由にならない限り
愛の欠如した状況を作り出し続ける。
負のカルマというのはそういうことだ。
内なる進化と呼ばれているのは
恐れを信頼に変えていくことであり
目覚めとは、恐れを幻想と知り
真実に還ることだと思う。

“光と意識と存在と” への2件の返信

  1. 自分が人を愛すこと、余裕のある時は、自分が相手をどの位愛しているかということに自信を持てるものだが、自分に余裕がないとき、人が自分の事をどの位愛しているのかが、とても気になる。自分がその人を愛していることだけに自信を持てれば、相手に自分の愛を表現することに恐れはなくなるだろう。。。

  2. りんさん
    >自分が人を愛すこと、余裕のある時は、自分が相手をどの位愛しているかということに自信を持てるものだが、自分に余裕がないとき、人が自分の事をどの位愛しているのかが、とても気になる。自分がその人を愛していることだけに自信を持てれば、相手に自分の愛を表現することに恐れはなくなるだろう。。。

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