原因と理由の違いについて

今、この瞬間に存在するすべては因果の果。
すべての果には因が存在している。
物質界が粒子で構成されているのに似て
それはただ性質と法則に基づく素朴な事実。
人間が出来事の原因を探そうとするとき
思考に頼るとついつい理由を探してしまう。
「こうなってしまったのは、あれがこうなったから」
「あの人がこうしたから、私はこう」という風に。
てこの原理のような力学だけれど
意識の世界は見た目のてこの原理とは大幅に食い違っている。
それで人の心は余計に混乱する。
本当の因を見つけるのはとても難しいことだ。
ほとんどの場合人間の予測を超えている。
これは潜在意識のワークをたくさん経験し、探求してようやくつかんだ真実。
原因と理由の見分け方。
人は起こっていることの原因がわかると余計な防御を手放し意識の解放が起こる。
結果、心身はすっきりとし、軽くなり、目の前は明るくなる。
クリアになる。
理由を見つけてもそうはならない。
余計に腹が立つ。
憎しみや怒りがわく。
ゆるしがたい思いが上塗りされて確固たるものとなる。
今の自分をこんな風にしてしまったのは「あれ」のせいだということが確定するからだ。
でも、それは見た目の力学による錯覚、誤解だというのが真実。
真実の原因は自己の内側にあるからだ。
真の原因を見つけるというのは
自己の内面を知ることであり
自己へ更なる愛とゆるしを注ぐことに他ならない。
だから、原因を見つけることは内なるスペースを広げ
自己をより深く知り
分離を取り去り、愛に気づくこと。
だから、人は原因に気づくと幸せになるのです。

優しさについて

先日セッションでクライアントさんから
「お母さんに笑った顔が似てたので、すぐに安心しました」
とおっしゃっていただきました。
そうなのです、気がつくと娘でもおかしくない年のお嬢さんが
セッションにいらっしゃるお年頃になっているのです^^
そしてさらに
「大変そうな人生を送って来られたようなのでもっと厳しい人かと思ってたけど違いました。
苦労すると厳しくなるんじゃなくて、優しくなるのかな」
ともおっしゃってくださいました。
嬉しくお言葉いただきました。
人は心のスペースがあると優しくなれると思います。
苦しみのさなかにあるときは
優しくありたいけどなかなかそうはできないもの。
でも受け入れ手放し浄化、でお掃除が進むと
心に空間が生まれ
その空間には内なる光が反映され
人を満たし、輝かせ、そして受容的でいさせてくれます。
苦労してもしなくても、人は優しくなれる。
自分を愛することの尊さに気づき、お手入れを始めるとね^^

いつも言うことですけれど

私がセッションでよく言う言葉に
「他人を変えようとしてもそれは無理」というのがあります。
人生で困難なときほど、私たちは「なにか(誰か)を変えよう」と力を加えています。
困難の原因は「外側の何か」にあると私たちは思うからです。
そういう時自分は何か(誰か)から攻撃を加えられていると感知しているので
防御(闘争か逃走)という本能的な対処を無意識に行います。
でももちろんその対処法だと困難と戦い続けるというスパイラルから
解放されることはありません。
そこから一歩踏み込んで、原因は自分の内側にあると考えたとします。
例えば潜在意識の中の自分のこの思い込みが原因だったんだ、とわかったとします。
自分の思い癖や感じ方の癖によっていつも同じ反応をし、
困難を繰り返しているんだ、と気づきます。
その発見はとても大きな意識の枠組みの変化をもたらしてくれます。
でも多くはそれだけでは困難は解決しません。
それで、攻撃の矛先が変わり、
「他者を攻撃する」ことから「自分を攻撃する」ことに変更している人をたまに見かけます。
自分のせいだ、自分が悪いと自分を責めます。
それで困難の質は少し変わりますが、困難は困難のままであって解放はありません。
例えばヒプノセラピーを「原因を追究する道具」として使っても
セラピーとしては意味がありません。(多くの人が誤解しています)
私たちは原因を赦し手放さなくてはなりませんし
同時に原因を作った自分をも赦さなくては真の癒しは得られません。
赦し手放すことで、新たないい心の習慣に自然に切り替わります。
それは内なる神が示す自然なあり方でもあります。
感謝や安心、平安が自然にわくようになります。
私たちは本来そういうこころを持っているので
教えられたりがんばったりしなくても
思い込みを取ってあげればわいてくるものなのです。
気づいていなかった(無意識だった)本当の原因に気づくことができると
私たちは手放すべきもの、赦すべきものが明確になり
瞬時に変容することが容易になるのです。
そうして私たちはその出来事(困難)から赦されます。
ヒプノセラピーでは
スピリチュアル風に「準備ができている人」などと言いますが、
要はもう「頭で整理し、自分や他者を赦す(真実を知る)覚悟ができている状態」
である人ですと、本当の原因を理解した瞬間にすべての重荷を解き放つ現象が起こります。
表面意識での理解に潜在意識がドンと追いつく感じになって瞬時に変わります。
そこまで明確ではなくても多くの人は、原因となった感覚を再体験することで
瞬時に心の整理が行えて、ブロックを突破したり、そのつまづきを卒業できます。
ヒプノは瞑想状態(変性意識状態)で原因を見るからこそ、
それだけで気づき(小さな悟り)が起こり得るわけです。
ですが原因を他者に求めたり、その他者を赦したくない、だからこうあるべきだ、
などの思いが非常に強固な場合
(憎んでいることで自分の尊厳を保つことを選んでいる場合など)
原因がわかったところで「わかった、やっぱりあいつのせいだ」という風に
エゴの言い分を正当化する道具となり、意識を変えることにはなりません。
さて、どうがんばっても他者を変えることができないというのなら
スピリットは無限だなんて信じられませんよね。
ですが、ただ一つだけ、他者を、いえ、世界を変える方法があります。
それが自分の意識を変えることです。
私たちは普段因果の法則上に存在していますが
その原因となった思いを赦すことで
今受け取っている世界が変わります。
赦しという神と同じ力を行うことで
因果の法則を超越して奇跡を受けとることが可能になります。
ですから冒頭に書いた私の口癖は本当はウソです。
「他者を、世界を変えるにはコツがある。
それは外側に力を加えるのではなくて
自分とワークすることだよ」が本当です。

こころを見つめる 神を見つける

今日のの空は黄砂が多いみたいです。煙っています。
それでもプラーナはいっぱいに満ちています。
最近では金色の網目のオーラはキリスト意識と呼ばれているものなのでは、と
考えるようになりました。
網目のオーラは一説では第7層のオーラと言われていますが
人体に関係がなく充満しているものなので
オーラを生体エネルギーと捉えるとするなら
第7層って関係あるの?見えるのはまあありがたいけど・・
というような程度の存在なのではと思います。
私も金色の網目が見え始めて数年ですが、
とにかくとても高い次元の光だ、という風に思い
寄り添って感謝するに留まっていました。
なぜ次元が高いと思うかというと
深い瞑想に入り、内なる神と繋がるほどに
それははっきりくっきりと表れ
時にその網目がぎゅーーーっと凝縮されて大きな金色の塊になったり
それがいくつも表れてぐーっと迫ってくることがあり
そうしたときの神々しい、聖なるものに触れた感覚は例えようもないからです。
マスターやアバターの出現と同じような感じですが
私の目には金色の網目が毛糸だまのようにまるまったものに見えます。
体感もオーバーライティングと呼ばれている
重圧が乗っかっている感覚があります。(最近はあまり感じなくなりました。慣れたのかな)
それで家にいてリラックスしているときはほとんど
この網目とともに暮らしています。
壁と天井と床が白いので、黄色い網目模様がくっついているように見えます。
洗面台はしみがあるのかと思ってこすったことが何度かあります。
でも幸せです。
こんな風に暮らしていて少し前、
もしかしたら私は神と出会っているのかもしれない、と思いました。
ヨガナンダやダスカロスのいうエネルギーや宇宙の仕組みの中でいうなら
この網目の光はなんだろう、と思いました。
もしかしたらこれは、オーラの一部みたいなものではなくて
根源的なとても重要なものなんじゃないかな、よし、ではそう捉えてみよう、と思いました。
それまではこの網目がそんなにすごいものなら
なにかしらの働きかけがあるだろうというふうな感覚で捉えて待っていました。
でもそれはただそこにずっとあり
見え始めて以降は私がだいたいどんな状態であろうと
消えてしまうこともありませんでした。
これは実はすごいことを私に教えました。
私たちがどんな状態であろうと
それはそこにある、ということです。
当たり前に聞こえるかもしれませんが
今多くの方がスピリチュアルの教えを学ぶなかで
自分が招いた、引き寄せた、ということに罪悪感を強めている方が多いのです。
でも出来事が起こるたびに罪悪感を感じるなんて本当に本末転倒なことです。
ジャッジメントを手放す、なんて言葉で言うのは簡単ですが
ジャッジメントの連続だからこそ私たちは
(都合の)悪いことを常に恐れ(都合の)良いことだけを歓迎しようとします。
でも神と愛は、そんなこと気にしません。
私たちがばたばたとしている隣で待機してくれています(笑)。
でももしそこに待機している神に
手伝ってください、とお願いしたらどうでしょう。
神は私たちのばたばたをなしにしてくれるわけではないですが
私たちがのびのびとちからを発揮できるように助けてくれるはずです。
ばたばたを解きほぐして片付けやすいように整頓したり
(波長が上がると理解力が増します)
「起こっていることはすべて正しいんだ」という安心感を与えてくれます。
網目のお話に重ねますと
網目をただ眺めていても良かったのですが
それを神の愛(意志)だと私が意識することで
神に介入していただけるようになるのでは、とある日気づいたわけです。
それで、この光を通してヒーリングをお願いしてみると
これまでの何十倍どころではないパワーを感じました。
私はこの光を根源であってすべてである光だと認識しました。
レイキや瞑想を通して、ここにつれて来てもらったのだ、と感じました。
神とともにあると、日常の捉え方が変わります。
先ほども触れましたが多くの人が
正しい選択ができているか、ということを気にします。
過去の間違った選択によって、間違った場所にいるのではないだろうか、と恐れ
その結果今のような不幸があるのでは、という風に。
ですが、神の在り方をお手本にするなら
(この因果律の世界において)起こっていることはすべて正しい。
今からする選択も最善です。
その「信頼のこころ」の中で生きる人は「幸い」です。
そしてその信頼こそが私たちの「今」を作ります。
私たちの思考の理解の仕方とは違っていて
今この発しているエネルギーの質こそが今を形作っています。
ですから過去の因縁によって起こる出来事は起こりますが
それをどんな質感として捉えるかは自由なのです。
お釈迦さまは肉体としての人間は「生老病死」の苦を避けることができないと知り
だからこそどのような状態であれ人が幸せであることができる道を示しました。
病気にならないように努力する姿勢は大事でも
病気は敗北ではありません。
肉体は病気になりえます。
でも病気でも人は幸福でありえます。
本当は関係ないのです。
なぜなら私たちが苦に縛られた肉体という存在ではなく
霊(スピリット)という意識であるから、です。
意識こそが私であるという認識を私たちのこころが受け入れ教化されると
私たちは幸せでいることができます。
それは真実だから私たちを満たすのです。
網目が見えなくても
そうなんだな、と受け入れて生きることでそれを体験できます。
今日もすばらしい一日を。