いわちゃんチルドレンの、この世でもっともシュールでリアルな夢

ご好評いただいている(?)6-4(ろくよん)シリーズ、今回は、みんなでお見舞い編です。

今年4月に33年ぶりの再会を果たした狛江6小6年4組の愉快な仲間たち。そのクラスメイトの一人が多発性硬化症という病気を20代に発病してほぼ寝たきりの療養を続けているということをクラス会開催に際して知りました。

クラス会で、次はお見舞いに行こうという案が出て、今週日曜日にそれが実現し、先生と8人の仲間と2人の子供たちでお見舞いへ行くことができました。私も沖縄からの参加です。

クラス会から2ヶ月半、まさかこんなに早く実現するとは思いませんでしたが、これが6-4パワーと呼ばれるものなのか、(64パワーという言葉はどこからともなく発生し、みんなが使っています)なんだか物語の登場人物になって作品作りに参加しているような不思議な感覚です。

彼の名前は「スガ」です。
この記事を書き始めて一晩考えましたが、どうしてもイニシャルや別の名前で書く気がしなかったので、みんなに呼ばれているあだなを書かせてもらおうと思います。

私たち64のメンバーは、当時本当に毎日あほのようによく遊びました。でもスガはクラスではあまりやんちゃなチームではなく、放課後も男の子同士で遊ぶことが多かったようです。私自身はお家の場所も遠かったので、それほど一緒にいた記憶はありませんでした。でもなぜだか、どうしても彼に会いたかった。それはある意味、小さな私自身(オミ)への贈り物であったような気がします。オミががんばって人生を生きておとなになって、ただしたいから、ということのために自分で決めてなにかをするという、とても贅沢な贈り物です。

今回の計画も、我ら64の教室でありホームルームであるメーリングリストのやり取りでことは進められました。そのホームルームで、ある男の子が「ぼくは行けない」と言いました。寝たきりになったスガを見るのがこわいし耐えられないかもしれないからだ、とその子は言いました。きっとその子がそう言わなくてもそう思っている子は何人もいたはずです。だから彼が言葉にしてくれたことで救われた子もきっと何人もいたでしょう。それだけでもその子はとても勇敢だな、と私は思っていました。

当日は親友のシモと少し早めに待ち合わせをして、各駅停車にゆられながら積もる話をしました。前回クラス会ではほとんど個人的な話をする暇がなかったので、今回私が突然思いついて誘ったのですが、彼女は私の最寄の駅まで迎えに来てくれました。「そのほうが15分くらい余分にしゃべれるよ」と言って。そこで、その「ぼくは行けない」と言った男の子の話になりました。シモはその子の発言が気になって、それで「もう一度卒業文集を引っ張り出して読み返したの」と言いました。シモは普段ホームルームではほとんど発言しません。決定事項だけ端的に書きます。参加します、待ち合わせ時間了解、帰りは飲まずに帰ります、というふうに。そんなあっさりしたシモが、卒業文集を引っ張り出して、その子とスガの作文を読んでみてわかったことがある、と言うのです。

「スガは卒業文集で○○くんとつりに行ったことを書いてた。○○くんもスガのことを書いてた。二人は私たちが知っているよりもっと、ずっと仲が良かったんだよ。だから、余計、会うのがつらいんだよ」

そこまで聞いて、私は頭の後ろをガーンと打たれたくらいの衝撃を受けました。それは自分が気づいていなかったことへの落ち度を感じるとか、そういうショックでは微塵もありませんでした。ただ、二人の、優しさの深さのその深みに、まるで底の見透かせない海を覗き込んでしまったような、想像を絶する底知れなさへの畏怖のような念を感じたのです。

誰が誰に向けたものでもなく、それを伝えることもなく、ただそこにある思いやり。ただ黙ってそれを察する思慮深い佇まいの奥深さを感じずにはいられませんでした。今回のその旅で、私は合計3回ではすまないほどそのガーンという衝撃を体験しました。そのどれもが同じ類のものでした。64パワーというものの磁力の正体はこれだ、ということを私は沖縄に戻ってから反芻しています。

スガは初期のステロイドによる治療がうまく行かずに、今のような状態になったそうです。神経がおかされているので、記憶がどんどんなくなってしまうと聞いていました。だけど、お母さんのお話では「64のことは覚えているよう」だというのです。どのくらい、どんなふうになのかはわかりませんでしたが、それぞれの思いを胸に私たちは施設へ向かいました。

先生と男の子がスガとあいさつをして、いよいよ私の番が来ました。それほどたくさんの思い出を共有していないオミが、彼の中にいるのかどうかわかりません。
「スガ、オミだよ、覚えてる?」
それ以外の言葉が浮かびませんでした。そのときスガは迷いなく、とても動きの不自由な口を丁寧に動かして
「お・ぼ・え・て・る」と言いました。
「本当に?私のこと?」
「お・ぼ・え・て・る。ふ・く・わ・ら・い。」
「・・・・・え?」

ふくわらい、という単語はあまりに意外だったので、意味がわからず何度も聞き返しました。サミにも近くに来てもらって一緒に聞き取ってもらいました。

「ふ・く・わ・ら・い。」
「・・・ふくわらい?」
「そ・う。」
やっとわかったか、というように、すましてうなずくスガ。その瞬間ものすごいスピードで記憶の糸をたどりましたが、ふくわらいに思い当たる思い出がみつかりません。
「・・・もしかして・・・私の顔のこと?私の顔が似てるってこと?」
「そ・う。」

そうなんです。スガは私をからかったのです。子供のころまんまるでしもぶくれで、タミからは「オミの顔は、桜島ダイコンに目鼻。」と言われてイラストを描いてもらっていたほど私の顔はまん丸にとがったあごと離れた両目。その顔をスガは、ふくわらい、と言ったのです。

それから話は盛り上がって、スガは全員の顔と名前を覚えてるかと私に言い、全員の名前を言えと言うので、私も悪乗りしてスガの好きな子を教えてと言い、女の子全員の名前を片っ端から言ってはこの子?と聞きました。スガは好きな子は「い・た。」と言ったくせにわざわざ全員の名前を言わせてすべてに「ち・が・う。」と答えた上に、「も・う・ひ・と・り・い・た。わ・す・れ・ら・れ・て・か・わ・い・そ・う。」と言ったのです。みんなは大笑い。お見舞いではなくて、まるでクラス会の続きでした。

スガの記憶が消えていっているなんて、とてもそうは思えませんでした。私たちと同じかそれ以上に、彼の中の意識は輝いていました。タミが4歳の息子を抱き上げてスガに見せながら「スガ、見て、私の息子、」と言ったとき、もう一つのガーンという衝撃が起こりました。スガは一瞬まじめになってから、こう言ったのです。むすこさんのじんせい、おれのようにならないように、と。タミはしっかりとした口調でなにかを答えていましたが私は覚えていません。スガは6年生のときにお父さんが亡くなり、その後に弟さんも亡くなっていて、長いことお母さんと二人きりです。私はそのときに彼の言葉からメッセージを受け取り、そして確信を持ちました。それは、彼はお母さんのためにがんばってこの世にいる、というものでした。スガは私に3度死にかけたと言いました。疲れたと言いながらも彼は決して言葉を途中でやめたり私たちが理解できないので適当にはしょったりしませんでした。同じことを何度も、何十回でも言いました。スガは、私たちに伝えるべき思いを持っているのです。

お母さんとスガの佇まいを見ているとその確信はますます真実に思えました。それは寸分の狂いなく、二人で乗り越えたものを共有している空気のようなものです。スガは何度も死にそうになりながら、また20年もの歳月をかけて、どれだけのことをか思い、その思いを片付けてきたのだという美しい自信に満たされていました。お母さんからも同じ光を私は見ました。あそこにいたすべての人がこのお母さんと息子のその光に包まれていました。私たちは明らかに与えられていました。おそろしく深い安らぎのようなものを。それは、おそらくどん底や死線を体験してなお生かされている人だけが知り得るものなのかもしれません。

お見舞いの後で数名で居酒屋さんに行きました。記憶の扉はなお開き続けます。みんなそれぞれが、今日のこの奇跡を共有していることをかみしめているのがわかりました。最後に解散のときがきてお店を出て、数メートル歩きだしたところで、一人の男の子がこらえきれないように思いを口にしました。

「あぁー!でも俺さー、絶対、今日のでスガ、元気になったと思うんだけどなー!」
するともう一人の男の子が
「そうだよ!絶対そうだよ!そうに決まってるじゃん!」
その声を聞いたもう一人の男の子が思いつめたように、決意したようにぽつりと
「・・・そうなんですよね。だから、これを繰り返せば、きっと、スガ、良くなると思うんですよね・・・。」
「そっか、とっくん、また行こうと思ってるんだね。・・・ねえみんな、とっくんはお見舞いを続けたいって言ってるよ。」と私。
「え?行くよ。続けるよ。そんなの、あったりまえじゃん!これからだよ!」

60歳の先生と、46歳と45歳の生徒たちのお話はまだまだ続くようです。

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