どんなときも

愛というものから逸れていくのは、誤解があるとき。

私たち人間は、誰もお母さんなしには生まれることができません。
お母さんがおなかのなかで育てて、そのころからたくさんのことを覚え続ける。

いろんな感覚を感じて記憶するけれど、一番大事な仕事は愛を吸収すること。

たとえお母さんの準備がばんたんじゃなくても、
心になにかとらわれがあったとしても。

それでも子供は全力でお母さんから愛を受け取ろうとする。
愛情がもらえなかったと感じたり、
自分は愛を受け取る資格がないと思い込んだりしながら。

でもそれらは本当は誤解です。

私たちは一生をかけて誤解という愛を隔てるものの正体とぶつかり、それを解く。
解き放つ。
そうやって愛というホームに帰っていく。

自分で作ったなぞを解きながら本当の人間へと成長していく。

社会や人間関係や、家族や、どんな小さな場面でも、
逆に一見大きく見える国家間とかいう関係でもいい。
愛が足りないと見えるところを覗いてみると、そこに挟まっているのは誤解だけ。

そこにいろんな錯覚がくっついて幻想が膨らんでいくけど、
幻想の皮を剥いでいくと誤解しかなかったとわかる。

どうしてわかるんだろう。
どんな人でも、
自分としっかりつきあおうと決めてそうすればそれがわかるようになっている。

それは、人間が、元々愛を学ぶために生まれてきているから。
すべての子供がいっせいにそうやって、それをめがけて生まれてきているから。

挫折したままの子供もいるし、
どうやって本筋に戻っていいかわからなくなっちゃった子もいるだろう。
でも、嘘だと思うかもしれないけれど、疑うなら試してごらん。
根気よく、一生をかけて。

嵐の夜に

今日はうちで使っている生活用品のこと。
生活をできる限りシンプルにして、内なる探求にエネルギーを費やすことを目的に選んでいます。

エコのためにお金をかけすぎたり、健康にいいと言われるものをすべて取り入れるのではなくて、あくまで内面を大切に快適に、そのために外面に負担がないようにというのを基準にしています。

◆まずお掃除とお洗濯に、えみなという石鹸洗剤。
バージンオイルで作られた粉石鹸に、抗酸化溶液というものが使われています。お洗濯のときはテースプーン1杯でOKなので、コスパもいい。調べていただくとわかるのですが、通常の洗剤や石鹸の概念を覆されます。うちでは食器洗い以外はすべてこの石鹸でまかなえています。拭き掃除に使うとお部屋のオーラが変わります。トイレ掃除、換気扇のこびりついた油も簡単にきれいになります。お風呂場のカビだけは、重曹やクエン酸に助けてもらいますがほとんど使いません。

どうしてこの石鹸が圧倒的に好きなったかというと、目黒の古いマンションに住んでいたとき、洗濯機置き場がベランダにあって、排水はベランダの隅から雨どいのようなところを伝って流すようになっていました。毎日洗濯排水をじかに流すことになるのですが、この雨どいのようなところに、マリーゴールドの種が流れてとても元気に花が咲き茂っていたのです。その光景は感動ものでした。

説明書には、薄い石鹸液は草花やめだかの栄養になり、害虫よけにもなり、土の質を上げるとあります。それで、洗濯機からの排水は、ベランダのプランターにあげることにしました。日照時間が多かったせいもあるのでしょうが、東京のベランダ栽培とは思えないほど、きゅうりもゴーヤーも立派に育って収穫できましたし、みんな本当に元気でした。今沖縄では家の構造上それができないのですが、東京でのほうが植物は元気に育っていたのを改めて感じます。

それから入浴剤としても使っています。抗酸化作用があるそうですが、私は毒素がよく出て行ってくれる感じが好きなのです。ハミガキにも使います。

◆ハミガキ。えみなを使ってみたり、石鹸ハミガキのarauを使っています。
私が肌に触れるものでまず排除したのは、合成界面活性剤です。通常のハミガキや化粧品、洗剤にはこれが使われていますが、簡単にいうと、肌のバリア機能を突破してしまうのでこわいと知ったからです。(アンチエイジングの鬼経由でいらしている皆さんはとうにご存知ですが)私はそもそも高校生のころに『あぶない化粧品』という本を読んでからの探求になります。arauはサラヤというヤシノミ洗剤で有名な、昔からあるメーカーのものです。このハミガキはミントとラベンダーの精油で香りがついているのですが、とても自然です。そして低価格。普通のハミガキのセールの値段にはかないませんが、300円台で買えますから、負担がないのです。とにかくずっと続けられる、負担のないものが好きです。

使い心地はとてもすっきりしていて、丁寧に磨くと最後はきゅっきゅっという舌触りになります。汚れ、取れました、という感じ。歯の質が弱いので以前はよく虫歯になっていましたがこれを使ってから虫歯になったことはありません。以前はフッ素や酵素配合のものがいいと思っていたのですが、フッ素は本当は危険という情報を最近知りました。

◆台所用洗剤。これもサラヤのarauです。
どれもいろいろ試しました。もっと純粋なものもあるのですが、あまりに不便なのはストレスなので無理しません。これは、合成洗剤に負けないくらい油にも強いのです。これもきゅっきゅっとなります。手にもかなり優しい。というか、ハンドウォッシュに使ってみたこともありますが、全然OKでした。これはお勧めはしませんが。他の石鹸洗剤はどうしても弱さを感じてしまうのですがこれはOK。コスパは他の石鹸洗剤よりかなりいいはず。

◆マジックソープは、何年もずっと使い続けています。有名なオーガニック素材の石鹸ですね。
最初は、もったいないので洗顔だけに使っていました。これをもったいないのでと言っちゃうくらいの生活水準だったのです。メイクも落とせます。なんで石鹸でメイクも落とせるのか不思議ですが、毛穴まできれいになるというのが宣伝文句。確かにきれいになる。メイクスポンジを洗うとわかるのですが、さっとファンデーションも落ちます。不思議。

で、シャンプーは何度もいろいろな石鹸シャンプーにチャレンジしては挫折しました。私はさらさらっとした髪が好きなのですが、どうしても思うように仕上がらなかったので、無添加と書いているもので妥協していました。シャンプーはarauのもだめだったです、きしきししすぎで。初めてなんとなかったのが、パックスナチュロンのひまわりの絵が描いてある緑のボトルのものでした。ベストではないけど、OK。ただ香りが好きじゃなかった。ラベンダーだと書いてあったかな、でもどうしても昔の化粧品のにおいで。これも、高価なナチュラル素材のものでいいのはいくらでもあるんだろうけど、私なりのシャンプーコスパのハードルがありますので、厳しいのです。

あるときマジックソープでシャンプーして、パックスのクエン酸リンスというもっともシンプルで安価な石鹸リンスで中和というのを試したら、これがパーフェクトでした。ただ、石鹸シャンプーは最初のうちは合成シャンプーの科学物質の吸着がなくなるまではきしきし、べたべたするそうなので、しばらくパックスナチュロンでがんばった成果もあるかもしれません。でも、いづれにしてもマジックソープで一定期間を乗り切ればやがてこんな感じになるかもしれませんね。地肌の感じもすっきりが長持ちしますし、クエン酸での中和って、まさにマジックのように一気にさらっとなって楽しいです。クエン酸とグリセリンは、化粧水の成分にもなっているものなので、肌に触れても安心です。

時々、気分転換にボディにもマジックソープを使いますが、そりゃいいです。私にとってはちょっと贅沢な気分を味わえます。これは、アメリカのものなので、大瓶があるのです。先日初めてガロン買いをしましたが、コスパますます良くなりました。ありがたいです。

◆普段の浴用石鹸は、ねば塾という長野県佐久市の福祉事業所で作られた白雪の詩という石鹸を使っています。
ねば塾というところがすてきなのと、石鹸の質がすばらしいので、ずっと使っています。コスパのことばかり言うようですが、貧乏時代が長かったための性分です。でも良い物はいいです。1個180gって、普通の石鹸2個分くらいのでっかさで、2個で263円って、百均のものよりへたすると安いのですよね。キッチン用にもどうぞとあります。パーム油が原料で無香料無添加です。

でもね、いろいろな素敵な石鹸をいただいたり、もう少しハイレベルな石鹸といろいろ使いましたが、どうもこれがいいようなんです。お肌が。本当の自分の肌に戻れるような感じで。ねば塾の中でもこれは最安値なので、もう少し上のものだと違いがあるかもしれませんが、今のところこれで満足です。

◆そのねば塾の石鹸を思い切り泡立てて洗うのはオーガニックコットンのタオルです。
オーガニックコットンは、お客さまがプレゼントしてくださったものが出会いで、普通との違いを痛感しました。天然のUV効果なんかもあるくらい、出来が違うんですね。で、ボディタオルを探していたら、安価なもの(また、こだわりますが)見つけちゃいました。マーナってところのもの。今ぐぐってみたら、他にも1000円以下でありますね。これ、普通のコットンやシルクと全然洗った後の肌が違います。きめ細かくなってつるつるになります。ネットのレビューを見て、またまたぁと期待せずに買いましたが、あんまり書いてある通りで驚いたものです。

オーガニックは紅茶や珈琲ですごさを感じていましたが、やはりすごいんですね。逆に言えば、農薬ってすごいんですね。・・・

◆アイメイクだけは、ひまし油で落とします。最近はアイメイクというほどのものをしていないのでソープだけのことも多いのですが、ひまし油のすごさを書いておきます。

ひまし油は、私の精神世界の最初の出会いともなったエドガーケイシーがそのリーディングのなかで健康法や治療法の中で頻繁にベーシックに勧めているオイルです。私が出会った当時は取り寄せるのが面倒でもあり、高価でもあったのですが、最近は手軽になりました。

ひまし油は、保温や浸透しにくいという特質があり、また下剤としても知られているように、包んで流す、解毒のような働きがあるようです。メイクの基材としても使われています。ケイシーはあらゆる身体の不具合に、右側腹部へのシップを進めています。これにはすごいメカニズムがあると説明されています。興味のある方は『エドガーケイシーの人類を救う治療法』を読んでみてください。

アイメイクのお話に戻ります。ひまし油はとても粘度が高いオイルですが、気にせずコットンにたらしておおざっぱにまぶたにのせます。マスカラなんかも簡単に落ちます。そして何より目にしみません。あとで知ったのですが、ひまし油は点眼して使うことができるそうです。ですのでしみないだけでなく安心ですね。メイクは入らないほうがいいので、気をつけますが、入っちゃったらひまし油点眼もいいかもしれません。

私はここ最近はとうとう化粧水というものを使わなくなってしまいました。佐伯チズさんかわいいので、化粧水のパックなんかも以前はしていたのですが、内面のエネルギーの浄化が進むと本当に外面にもトラブルが少なくなってきます。で、ある日、いらないんじゃない、となりました。洗顔して、オイルを塗って終わりです。今使っているのはトマトシードオイル。手作り化粧品の素材やさんの、マンディムーンというところをアロマの先生をしているおきゃくさまに教えていただき、気に入って買っています。ひまし油もそこで購入できます。オーガニックのものもありますがびっくりするほど安いです。

それにビタミンA誘導体やビタミンC誘導体なんかを適当に混ぜたりもします。あと、最近ではラノリンが気に入っています。目にした事のある素材なのですが、これはなんと、羊さんの毛にくっついているあぶらだそうです。馬油はお肉の脂なので殺生したものですが、ラノリンは毛を刈ったときに出る副産物を精製したものだそうで、これがものすごい保湿力です。これもひまし油のように浸透せずにふたになってくれるものです。赤ちゃんに母乳をあげるときの乳首のひび割れを治すために産婦人科で処方されたりもしているようですね。未精製のものはアレルギー反応を引き起こす場合があるそうですが、吸着精製してあるものはほぼクリアできるそう。乾燥はとにかくお肌を弱めます。成分がどうのと難しいこと言わずに、悪いものを使わずに乾燥を防いであげるだけでもいいケアができます。

洗顔してひまし油だけつけて終わりのときもあります。べとべとするのですが、ぬるぬるはしないので、やがて普通のお肌になります。お肌をあっためてふたしてくれるので、翌朝は結構嬉しい感じになります。

それからひまし油は髪の毛のワックスとして使えます。これはかなり使えます。私は今ベリーショートなのですが、ふざけてつんつんに髪を立てておくと一日そのまま持ったりします。鏡見てびっくりしたりして。ラノリンも同じように使えます。どちらもべとべとだけどぬるぬるしないオイルなので、髪の束をしっかりキープします。普通オイルを塗るとべたっ、ぺたーっとして、かっこ悪いのですが、これらはボリュームアップできるという優れものです。精油を1滴垂らすといい香りも結構続きます。市販のワックスってそういいものではないでしょう?代わるものがなくて使っていましたが今は全廃しました。

それから、手作りのリップクリームも、これをベースにビーズワックスとシアバターと精油でいいのが作れます。これもおきゃくさまからオーガニックのリップクリームをいただいてあまりによかったのがきっかけです。

結局、いい素材って使い道がたくさんあるんですね。頭は洗えるけど顔は洗えないって、よく考えるとこわいんですよね。顔につくとにきびができるとかって、本当は異常です。シャンプーしてその延長で洗顔して、頭からジャーって流せちゃうって、手間もストレスも軽減します。

以前はドラッグストアに寄ってムダ買いたくさんしました。これも内面の浄化が進んでいないと落ち着かず満たされないもので、もっといいものないかしらといつもなにかを欲して探してしまっていたからだと思います。外側をシンプルにして、自分を愛することに時間とエネルギーを費やすこと、内面を浄化して身軽になること、お勧めです。

プラーナを見ている人へ

台風が近づいている沖縄です。
風は強いですが、天気は晴れ。
我が家の窓辺には元気なプラーナが飛び交っています。

プラーナが飛び交っている、なんていうとあたかもそれは大気中にある自然の中のなにか、みたいに聞こえますが、それはどうも違うと思います。
飛行機に乗ったとき、飛行機の窓辺には今のように無数のプラーナが、飛行中にもお部屋と同じように窓のこちらにもあちらにも飛んでいるように見えました。
そのとき、当たり前だけどちょっと驚きました。
まあ、目を閉じても、顔にタオルをかけても、夜でも部屋でも見えるので、もうそれはそういうものなのだとしか言いようがないですが。(或いは目の病気か、笑)

先日だんなさんの弟が来ました。
フェリーで海を眺めながら、プラーナの見方を教えたら、あっという間に見えた!と言い、これ、前から知ってた!と言いました。
多くの方がそう言います。
で、それをただの自然現象みたいに捉えているのですが、そうではなくてこれを高次元エネルギーや偏在する神の光、という風に捉えてみると、すばらしいパワーを与えてくれます。
これができたら誰でもヒーリングができると思うのです。

つまりこの光は物理次元にふわふわ浮いているおまけ的な存在ではなく、この光あっての3次元界であるとみなします。
私たちはこの光を肉体の目ではなく、高次元の心の目で見ています。
サードアイで見ている、ということです。
つまり内なる意識にある光が外側の世界に投影されたものを、肉眼の目で捉えていると認識しているということです。

この光は本来内なる実在の世界の本質的な光だということです。

ですから、この光を外側に見るのではなく、内側に見るのです。
意識を向けるほどに、内側が光でいっぱいになっているのがわかります。
集めるのではなく、そもそも在るのです。
そもそも在るのに、私たちが内側が実在だということを忘れているので、光は薄れています。
ですから思い出し、目を向け、意識します。
すると、私たちは本来を思い出すのです。
光の粒子はやがてこの内なる場を満たし、大きな光の球になり、爆発します。

これで、自己ヒーリングは完了です。
私の中でのヒーリングは今ここまで発展してきました。
とても強力で、本質的だと感じています。

プラーナを見るというのは、この世にありながら、同時に偏在している高次元に意識を合わせることです。
それだけでもすばらしい瞑想なのですが、それを外にある、と認識しているともったいないので、ぜひ内側にその根源がある、と意識してみてください。

平安の極意

心が平安であるためには心を滅することが重要だと瞑想ではよく言われます。ですが、私が二人でする瞑想と呼んでいるヒプノセラピーでは、感情を感じる、感覚を感じるということがとても重要です。

一見あい矛盾するように見えませんか。

心を滅するというのは心が勝手に動きまわったり暴れたりするのを止めて、静かになることです。心を静かにするためには心を押さえつけようとしたり、無視して感じないようにしたりしてもなかなかうまくいきません。眠れないときに眠ろうとがんばっても余計眠れないという経験はどなたにも察しがつくのではないでしょうか。眠るためにはリラックスしてがんばらない、押さえつけないで心を自由にしてあげて、心が自ずから眠りに入っていくのをそっと見守ってやることです。時には眠る必要なんか全然ないんだよ、と自分に言ってあげることで安心して眠気がやってくることもあります。

同じように、心を静めるためにはまずは心を自由にしてあげるとうまくいきます。

「意識的に感じる」「意図的に感じる」という行為は、すでに心の状態をコントロールしている領域にあります。逆に無意識に何かを感じていてそれが不快だった場合、人はそれをなるべく認識しないようにと抵抗します。それが膠着するとエネルギーのブロックになります。

ブロックがあると、心を固めてしまいます。固まっているのと静かになっているのはまったく違います。固まっているときにはその奥に「固めておかなくてはならない不快なもの」が潜んでいると常に察知しそれを恐れている状態になります。心には常に緊張が起こり平安どころか快と不快、自分の望むもの、求めるものを自由に感じることさえ困難になります。固まって重たく、波動が低いと言われている状態になります。波動の高い低いは知恵や知識や理解、また品性や高潔さ、思いやりがあるなどの人格とは無関係なのはこのためです。

意識的に、意図的に感じる、いわば積極的に進んで感じてみるとき私たちはそのブロックを突破し、気づきという無限の宇宙エネルギーによってそれを溶かしてしまうことができます。それによって私たちの心に作っていた間仕切りははずされ、スペースが広がり、世界が広がります。

押さえつけられ、無視されてきた感情や感覚の記憶は解き放たれ、赦しを得て、自由になり、やがて静かになります。私たちの心は尊重され愛されることによってそれ以上暴れたり何かを捜し求めて動き回る必要がなくなるのです。

平安への近道だと私は思っています。

わたしはだあれ

先日お誕生日を迎え、おかげさまでぴかぴかの46歳になることができました。祝福くださったみなさん、本当にありがとうございました。最高のお誕生日がまた更新されました。

スピリチュアルに生きるというのはたとえるなら、魂をエンジンにして愛という燃料で動く、みたいな感じです。ではそうでない生き方はどうなるのかというと、肉体の機能がエンジンで燃料は食べ物ということになるのでしょうか。

私が肉体主導で生きていた頃は、とにかく不調不具合が気になって仕方ありませんでした。一言で言うと、生きているのがしんどく感じるのです。気分に左右されるし感情をコントロールできないし、複雑な割には効率の良くない、取り扱いに困る、あまり価値あるとは言えない存在だと感じていました。

つまりその頃は、自分という存在を「この肉体」だと認識していました。

今はもちろんそうは認識していません。

言葉で言うのは誤解を生じるでしょうが、私は自分のことをとても広がっている意識だという風に捉えています。それが私の中心であり、そして同時に宇宙の中心でもあるという風に感じます。本当は私は誰の中心でもいいのですが、この肉体を通して体験することを選んでいます。今のところ。

この体は以前は私の無理な要求やしごきにも随分応えてくれた優れものですが、当時はそのすばらしさには気づかずにモンクと注文ばかりのメッセージを送り続けていました。そして、挙句の果てに「出来が良くない」と批判したりしていました。出来が良くないばかりに自分の人生が開けない、という風に。

その頃の私の意識は、体にまつわる記憶でびっしりと詰まり、頭の中はその感覚の記憶から来る思考で四六時中動き回っていました。その上まだ知識を欲しがり、自分がもっと上等になることばかりを求めていました。そうすればきっと、未だ知らない「幸せ」というものを「手に入れられるはず」と無意識に信じていたのだと思います。

こうして書いているだけでも本当に忙しそうだし、力んでいたのがわかります。そして、心の中は詰まっていて重たく、キャパシティが狭いため何かあるといっぱいいっぱいになります。それを「がまん」して、もっとがんばろうとするので何をするにも苦労が多く、人生は重労働という感じがして、こんなにがんばっているのに事態が好転しないことに腹を立て、最後にはまた自分を責める、というような循環が起こっていました。

この状態というのは、私がよく言う「外に向かってがんばっている」状態です。つまり、内面にある映写機で外側のスクリーンに映っている映像を動かそうと必死にスクリーンの上をかき回しているようなことです。

私がしなくてはならなかったのは、内側に戻り、上映されているフィルムを点検することでした。

フィルムに映っているのは実はどうということはない風景や情景なのです。けれどそこには私の感覚の世界から受け取った印象という色が塗ってあって画面を染めたり、タグがいっぱいついていて、いちいち、これは許せる、これは嫌い、これはだめなやつ、絶対許せないやつ、と書いてありました。

そのために私はその映像をあるがままに観ることがなかなかできなかったのです。

フィルムのお掃除は、自分の体験から来る印象で勝手に塗ってしまった色を抜いていくこと、本来生理整頓のためについているはずのタグが、批判や価値基準に摩り替わりなおかつ、気分が悪くなるから見ちゃだめ、となっているようなものも開いてみて、いらないタグを捨てて、本来の役割に戻していきました。

すると、映像は本来の自然な景色に戻っただけではなく、映し出す光そのものが美しくまばゆく、どの景色の背後もその光によって映し出されていたのだということに気づきました。

この映写機は魂に備わりフィルムは意識であり映像を映し出す光は愛です。

フィルムの管理を任されていますが、それは何を撮るかということではなく、映っているものがあるがままに美しく放射されるよう、お掃除を怠らないことのように思われます。

気づいてなかったなんて!

意識は気づきによって統合、拡大しています。私たちが真の成長を果たすには、気づくこと以外に道はありません。

私たちの日常の中で、気づきを妨げる大きな要素のひとつに「プライド」があります。誇りというのは本来美しいものです。それは尊敬し讃える気持ちです。ところが私たちの自尊心の中に、恐れからの防御が働くと、それは虚栄心になったりはったりになったりしてきます。プライドと和製英語で表される中にはこれらの意味合いが含まれてくることが多いようです。表面が突っ張って、突っぱねているようなイメージがあります。上手に突っぱねられないと、折れたり、傷ついたりします。

気づきというのは呼吸のように連続しています。宇宙の変化、拡大に身を任せて受け入れていると、私たちの意識も拡大せざるをえません。大いなるものに同調するには気づき続けるしかないのです。

ですが、私たちが自己というものを小さな有限の肉体とか社会の規範に当てはめて、他者の能力などを推測し、それと自分を比べたりするような意識で自分自身と付き合っていると、気づくということはつまり、さっきまで気づいてなかった、ということを認めなくてはならないという立場に立たされることになるのです。これは悔しくも恥ずかしくもあり、また恐れすらわいてくるような事態です。自分の価値が下がったような感じがするからです。

自己というものをそのような存在とみなし扱っていると、気づきというのはめんどくさくてこっぱずかしく、また立場を非常に不安定に、不確実なものにしてしまいます。それで人は気づきに対して抵抗します。すると気づきに痛みが伴うことが起こります。つまり、プライドが傷つくのです。

どうしたら痛みなく気づけるでしょう。

私の場合、痛みを感じるたびに「この痛みの奥にある私の言い分は・・・」と耳を傾けて、それに気づいて手放していきました。これは長く根気の要る作業です。でも人間というシステムを知る上で本当に役立ちます。『マインド・トレーニング』『ニュー・アース』『ザ・ワーク』などにその具体的な様相と取り組み方が言及されています。

今では、世界には自分と神しかいない、ということがわかるので、気づくことはただありがたくしあわせなことでしかありません。メッセージがどこからどんな風にやってくるかというのはあまり問題ではないのです。本当は自己の内面が、内なる神の光によって映し出されているだけだからです。ということは、世界は自分と神しかいないということがとことんわかってしまえば、気づきはぐんぐんとやってくる祝福のようなものになりえます。世の中ではメッセージが流行っていますが、本当のメッセージというのはそういう神の祝福なのです。こんな知っていたはずのことがおなかからわかってなかったなんて!神よ!という感じです。

気づくというのは神というまったき愛に近づく幸せな現象です。そこには本来防御は要らないのですが、肉体次元の自分が自己を保存しなくてはと自動的に反応してしまうのです。ナウシカに対して銃で威嚇する迷子のキツネリスのような行為ですね。ナウシカはみんなを助けたいだけなのに。

すべての人の姿をした、神を秘める幻想がはっきり見えると、その人がたとえ攻撃してるように見えても本当は、自己の内面にある恐れを教えてくれていることがわかります。それがわかったらすべきはただ感謝して、気づいて手放すだけ。

そうなるまではちょっと練習期間があります。できるだけ、積極的に練習すると痛みは早く過ぎていきます。