魂の学び

梅雨の中休み

しがらみや事情や、葛藤や、いろいろあるけど、今度の参議院選挙だけは、いったん手放して、平和を選びたい。みんなで。そうしたらきっと、これまでと違った世界が見えてくる。

私は命というのは肉体ではなく意識、魂、スピリットだと思っている。だから、肉体の命が一番とは言わない。命が一番なら、悪人も利己主義者も命が一番だと思ってやっている。自分の命をばかり優先し、他人の命を軽んじる姿勢。

大事なのは全てを尊ぶという意識だ。子供たちの命を守るのは正しいけれど、全ての人の存在を尊ぶ姿勢がなかったら、その子供たちはいつまでも学ぶことができない。おとなになりまた奪うことで自己を守ろうとするかもしれない。みんな、子供だった。命は神が迎えてくれる瞬間まで全て等しく大切だ。これでも人間か、と言われるような言動をする、利己主義者の命も誰のものでもない、神のものだ。ただ、その人たちは神を忘れ、あるいは神を誤解しているだけ。それゆえに自己を誤解している。

私たちはおそらく、自己の命尽きるまで、すべてを尊ぶということについて学び続ける。喧嘩してでも、間違いをおかしてでも。しかし、その喧嘩はいづれ和解をもたらす余地をもたなくてはならない。赦すということを前提にする必要がある。

戦争は一部の人が全体を利用し支配する姿勢の表れだからまっとうな喧嘩ではない。しかし一旦巻き込まれることを許してしまったら、そのカルマは負わなくてはならなくなる。アンフェアな喧嘩に加担したことになる。まして核というものを世界に許している私たちにとって戦争はいつも最終戦争になりうる。

私たちはもう、戦争というものを卒業しなくてはならない。それを今選べる貴重な岐路に全ての人が立っている。どうかこの権利を粗末にせず、全ての命のために、全てを尊ぶことを選ぶチャンスとして扱って欲しいと願う。全ての人にできる、とても勇気ある、価値のある行動を願う。

今日のひとこと

人間は動物を見習うところはあってもお手本にはできません。お手本にするのは神です。でも神は肉体ではないので神だけをお手本にすると肉体でいるのがしんどくなります。だから、肉体であることを楽しむというご褒美をもらっています。でもご褒美を追いかけるとこの世は地獄です。それは欲望を満たすという追いかけっこで、満たされることがないからです。

人間はご褒美を目的に生きているのではありません。人間を探求しよく味わうために生きています。本当に大切なことはそれでしか学ぶことができません。意味を考えても解釈しても理由を見つけても、それは成し得ません。体験しつくしたところに学びはあります。感じきったところに。

今あなたが探しているもの、目的としているものはご褒美のほうでしょうか、それとも、今、深く満たされることでしょうか。

映画『世界が食べられなくなる日』

映画『世界が食べられなくなる日』公式サイト.

昨日那覇の桜坂劇場にて「モンサントの不自然な食べ物」と「世界が食べられなくなる日」を2連ちゃんで見てきました。

これは、この2本は強力です。とにかく人ごとではありません。現在地球上で生きる全ての人と直接関わりがあり、現在進行中の問題が明確になり、映画を見ることで解決への糸口へと大きく前進できる内容です。心からおすすめします。

この、世界が食べられなくなる日は、6月8日から渋谷を皮切りに全国上映となるそうです。できましたら何を差し置いても映画館へ行っていただきたい。本当に私たち全体の今日、明日と関わっているからです。世の中のいろいろなモヤモヤのこんがらがりが解けて一点となる可能性を持つと言えるほどの一本だと思います。

日本もたくさん出てきました。というよりも日本人が主人公のようにも見えました。

私たちが知らずに受け入れてしまっているもの、私たちはそれによってコントロール支配されます。これは私が行っているセラピーの領域でも言えることです。意識できるトゲは自らの意思で抜くことができますが、無意識下ではそのトゲは潜在的に潜伏し、痛みとして恐れを刺激し、それによって混乱を引き起こし、癒えることなく膿を出し続けます。現在の社会と私たちの心で起こっていることは全く同じです。

映画にはとても厳しい現実が描かれていますが、この事実が映画として明確に描かれることのできる現在はすでに最悪の時を過ぎていることの証明だと私は感じます。最悪の時期は過ぎています。最悪なのは何も知らずに平和ぼけなどと言われ、バブルに躍らされなにも考えずに生きていけると私たちが思わされていた時期です。コガネを掴まされて欲しいものは何でも手に入るかのような幻想に多くが眠らされていた時期です。世界は恒久的に右肩上がりに発展して行くかのように思わされていた時期です。でも今は違います。私たちは全人類で共有できる問題と向き合うことができるほど、人間を探求することができるステージまでたどり着くことができたのだと思います。すべては大いなる意思に導かれているようです。

私は改めて、人類というものの素晴らしさを感じています。大多数はすぐにでもより善なるものを選ぶことのできるレベルに達しているのではないかと感じます。ただ必要なのは混乱を解くことです。痛みを鎮めることです。隠されている真実にただ目を向け、そして選ぶことです。そこには相互理解があり、助け合いがあります。それは全ての人間によって心地よくそして深い部分を満たす行いです。やり始めればみんながそれを好きになるでしょう。好きなこと、幸せなこと、満たされることを行うのは、人間にとって自然でとても簡単なことです。

映画『世界が食べられなくなる日』

ヒーリングの極意

入梅の朝

レイキのアチューメントは受けているんですけど・・・けど・・・と言われる方がとても多いです。これは私のセッションを受けてくださるような方の中で、ということですから世の中全体がどうなのかは計れないのですが、多くの方がヒーリングに興味を持たれていてすごいことだと思う。もっともスピリチュアルが当たり前の沖縄だから、というのはあるかもしれない。市役所の広報にも「スピリチュアル」なんて普通に書かれている沖縄(南城市)すごい。「魂」も普通用語ですし。

さて、そこでもう一歩、踏み込んでみたいのです。レイキがどれほどの可能性を持っているか、これを実践し始めると人生がどのように変化していくか、など、もっともっと多くの方に知ってもらえるように伝えなくては・・・と、瞑想中に降りてまいりました、メッセージが^^私のところでアチューメントを受けてくださったみなさんにはこんこんとお話させていただいていることですが。

私の感触では、臼井レイキのアチューメントを途中の段階まで受けたけれどほとんど使ってません、とおっしゃる方が多いので、そういう方がご自身の中でレイキを再活性してくださったら人類の意識の浄化はさらに進み世界にはより愛が行き渡るようになると思います。

臼井レイキの第一段階、ファーストでは自己ヒーリングは12のポジションを一箇所5分ずつ行いましょうとあります。12箇所カケル5分は60分。これを毎日欠かさずにするのは確かにしんどい。しかもこのやり方で効果を即座に実感できる人も少ないはず。なぜならこの方法だと意識は肉体にフォーカスされ、直接手を当てひたすら待つのでは、手の温度以外なかなか認識しずらいのです。肉体に明らかに不具合があったり改善したい点が明確であれば変化はわかりやすいですがそうでないと「なんとなく気持ちいいかなー」という程度の体感になります。この最初のステップから、自己ヒーリングを敬遠なさる方が多いと思います。それで、食べ物とか水とか、あとは家族が病気になったときぐらいしか使い道がなくなってしまって、しかもこの段階では遠隔ができないことから周囲に共有できる人がいなかったりすると、もうレイキの出番が見当たらない、ということになってしまうようです。

何度も申し上げますが、レイキの基本もそして発展系も終着点もすべては自己ヒーリングです。自己ヒーリングというのはなにかといいますと、自己意識(エネルギー)の浄化です。潜在意識下に記憶されている肉体意識、五感を通して記憶されている記憶の浄化、これがなによりの目的です。なぜなら、心身に表れるあらゆる現象はこのエネルギーによって作られているからです。ホ・オポノポノを実践さっている方またヨガ(瞑想)を実践されている方でしたらこの意味はお分かりだと思います。レイキヒーリングはホ・オポノポノでいうクリーニングを頭や言葉レベルではなく意識の深いレベル、つまり高次元のエネルギーを通して行うことができるものです。瞑想の目的もこの自己意識の浄化を行いより深い高次元の意識に手伝ってもらってさらにその中心である内なる神を見つけるというものです。瞑想もレイキと合わせると格段に深まり進みが早くなります。レイキは脳の波長レベルを即座に変えてくれる働きがあるので深い瞑想と同じような状態と言えます。どうして私がそんな風に言うかというとこれは長年のヒプノセラピーの経験から来ています。催眠状態と言われる状態と瞑想、レイキヒーリングでは恐らく脳内で同じようなことが起こります。それで一瞬にして高次元の感じ方に変わったり突然いろいろなことが理解できたりします。癒しが起こります。この癒しというが自己意識の浄化に伴うものだと言えます。

一度でもアチューメントを受けた人にはこの自己ヒーリングを行うことができます。宝物はその両手の中にすでにあるので、これをぜひ使いこなしていただきたいのです。

シンボルが使える人はとにかくシンボルを自分に対して描きまくってください。手の指を動かせないときはイメージ、目線、口の中に舌で描くというやり方でOKです。遠隔が可能なので、自分に、と意図すればシンボルはどこにどう描こうとヒーリングが行えます。シンボルがないファーストの段階の方は合掌して心の中で「レイキを使います」と宣言してから「私の心の浄化」などと意図してください。数十秒~数分合掌していられるだけしていてください。宣言は自分の心の奥底、心の中心に向けて(そうイメージして)心を込めて丁寧に伝えるという感じです。宣言した後はずっと念ずる必要はないので、リラックスして流れを妨げないようにおおらかなツツになっていてください。シンボルを使える方ももちろん同じ使い方が可能です。

いらっとしたとき、焦ったとき、不安なとき、心配事が頭を離れないとき、ネガティブな感覚、体感がよぎったとき、感情に振り回されそうなとき、疲れたとき、体調不良のとき、寝不足だけど眠るわけにいかないとき、眠れないとき、落ち着かないときなど使える場面は無限です。内面のエネルギーが外側のすべてを作る、引き寄せるなどの知識がある方が増えているのはとてもいいのですが、だから内面にこのような感覚を感じたときに非常に恐れてしまうという人も増えています。それ自体本当はもともとあるから反応し浮上している感覚的記憶なので、恐れるのではなく浄化してください。私がよくお勧めするのは「この感覚を浄化してください」「この感覚の原因を浄化してください」と、レイキにお願いするやり方です。レイキというのは本当は内なるもっとも高き神のパワーなので、命令よりはお願いがふさわしいのです。

多くの人が現象として表れた事象や、体感として感じる感覚の原因について考えます。でも、頭でいくら考えてもその本当の原因というのは遠い過去に作られていて、作られる工程自体が不合理だったりするので解明はほとんど不可能です。自己ヒーリングができない方の場合はその感覚の原因を考えるのではなく、その感覚を感じきってからこれを浄化してください、と、やはり内なる神、ハイヤーセルフに願って、手放しましょう。実際に感じきることでエネルギーは燃焼され役目を終えるので手放すことが容易になります。感じているうちに記憶が蘇ったり、連想ゲームのように感覚が移っていき、その感覚の奥にある本当の心の声が聞けることもあります。怒っていると思っていたら実は寂しかった、というような感じです。人間のネガティブな感覚、感情というのは「本心を隠す」ために装っています。なぜなら人はみな弱くあってはならないしそれを悟られてはいけないと、防御しているからです。防御という本能の反応によって、傷つかないふりをして代わりに攻撃したり、閉じたりします。ですから表面だけの感情ではその原因どころか本当に心が訴えていることすらわかりません。表れているものではなく、その奥にある心の叫びを感じることは、本当の自分と仲良くなる第一歩となります。そのためにも感覚や感情は分析ではなく「客観的に感じて」あげることです。

話が膨らみすぎるのでこのくらいにしますが、ヒーリングというのは要は内なる神と親しむことですので、どうぞご興味のある方はどなたでも試してみてください。そして、成果を気にせず、されど変化を見守る姿勢でいてください。変化は必ずあります。こんな変化に違いない、という思い込みをはずせばそれが感じられるでしょう。

手作り、実験

手作り、というものは元々全然好きではありません。機能的でスマートな既成品が割りと好きです。お料理もそこそこ、好みの味と栄養への興味があるので工夫はしますが凝りはしません。でも年々なんだか手作りに手を出すようになってきています。

スキンケアものは今では手作り。いろいろな方がなんだか情報やお手本を持ってきてくださるので、目の前で見ると勇気が出てやってみたりするうちに独自の方法に熟していきます。今はマカダミアナッツのオイルにビタミンC誘導体とシルクパウダーを限界まで加えてクリームくらいの硬さに練ったものを洗顔後に塗るだけ、になっています。オイルにマンゴーバターやアルガンオイルを混ぜることもあります。トマトシードオイルもラズベリーシードオイルもすばらしいのですが、安いのに肌に合ってる、というのがマカダミアナッツです。これ単品でも翌朝いい肌になっています。そしてコスパがいいです。これで肌のダメージの回復力はすばらしい。日焼けもしますが(沖縄ですから)回復を実感します。こんなやり方、アン鬼に怒られるだろーなー。

他にもリップクリームは一番簡単で結構続いています。乳液も作ります。クリームだとべたつくのが嫌いなだんなさん用にさっぱりのものを。それからクレンジングオイル。乳化剤を使うので本当はご法度ですが、普通のファンデーションを使っているので負担の少ないクレンジングを検証した結果がこれです。食用のオリーブオイルにポリソルベートを少量入れると洗い流せるクレンジングができます。これにローズマリーなどのアロマを垂らします。これらは満足な出来。あとは日焼け止めクリーム、ファンデーション、フェイスパウダー、ミネラルファンデも。これらは改良の余地あり。日焼け止めは春のお散歩くらいには適用できます。これも、酸化亜鉛とシルクパウダーをオイルに限界まで混ぜたもの。これだと赤くなっちゃうB波というのは防げないようなので、本格的な紫外線の季節には無理かと思います。あと汗でも流れちゃいそうですしね。でもこれを塗ってパウダーで押さえればそこそこいけるかもしれません。

少し前には塩麹を作ったらとても美味しくて定番化しています。ビンで売っているの高くないですか?漬け込みだれに使うと数回でなくなりますしちょっとしょっぱいので、麹を買ってきて仕込みました。ちょっとしょっぱい甘酒、くらいの塩加減にしていますがとっても美味しいです。たまーに食べるお肉を漬け込んで焼いたり、お魚の切り身など漬けると上品な西京焼きのようになります。

結婚当初に買ったMK精工のホームベーカリーは確か一万円を切る価格でしたが今も健在。とても優秀でずっと活躍しています。2~3日に一度は焼きます。部品の一部を買い換えましたが会社に直接電話で問い合わせると親切丁寧に教えてくれました。かまごと代えたほうがいいかと思っていたら「いいえ、はねだけで大丈夫ですよ」と言って、封筒に入れて郵便ですぐに送ってくれました。送料込みで300円くらいだったと思います。すごい。しかも私は通常薄力粉メインでパンを作ります。これに強力粉の全粒粉とオートミールを2~3割混ぜるのが最近風。ずっといける味です。

手作りではないですが、何度か紹介していますように、うちじゅうの掃除洗濯一切はえみなという粉末石鹸でしています。食器洗いだけは今はねば塾の固形石鹸。一番安い白いほうです。えみなをスプレーボトルに耳かき3杯くらい、水、アロマオイル適当、で、拭き掃除が気に入っています。オーラがいいです。えみなは建築家が発明した抗酸化溶液が入ったものだそう。自分で成分を調べたわけではないので半信半疑ではありますが、東京でこの洗濯排水を草花と野菜にあげていたところほとんどろくな肥料と手入れなしに見事に育ってくれ、排水溝にマリーゴールドが咲きみだれるのを見てなんだか納得したのでした。はみがき、入浴剤としても使っています。いけます。

いつもお土産をいただくお客様にお返しが何もないのである日えみなをお分けしたところ気に入ってくださって、ご自宅のお野菜にやはり洗濯排水をせっせとあげたら無農薬野菜が特大に育っているそうです。先日そのお話で盛り上がり、これもいいよ、と教えていただいたのがとぎ汁乳酸菌。私はアン鬼(アンチエイジングの鬼です)とお友達ですし酵素の鶴見先生ともお付き合いをさせていただいているので発酵にはとても興味があるのだけど腐敗と発酵の見分け方に自信がなくて恐る恐るキャベツなど発酵させてはびびって捨てたりしていました。で、お米のとぎ汁で乳酸菌を作るなんてこわーい、大丈夫なんだろうか~と思い切りびびりつつも、実験大好きな性分が顔を出しやり始めました。

用心深い性分ですので、ネットで情報収集しまくったところ驚いたことにあるある。これまでまったくヒットしなかったのがうそのように、放射能関連の領域で過熱しているのです。なんでもお米のとぎ汁で作る乳酸菌は、放射能に負けない免疫力を強化するという目的で注目されており、とびきりいきのいい元祖提唱者とものすごい反発勢力との間であたかも菌のせめぎあいのように情報が共生し続けていたのでした。

私にとってこの乳酸菌の魅力はなんといっても豆乳でヨーグルトがおうちで作れるという夢のような事実です。鶴見先生、アン鬼の提唱で牛乳の人体にとっての有害性を知っていましたので元々乳製品が大好物だったのですが、牛乳やヨーグルトは控え、豆乳を常食していました。それで何度か豆乳でヨーグルトを作れないものか実験したことがあるのですが、市販のヨーグルトでは完全に失敗、ケフィアでも失敗したのであきらめていたのです。

乳酸菌には大きく分けて動物性と植物性があり植物性は動物性よりもうんと強いとあります。植物の中には殺菌作用のある物質が多くそれに勝つべく強くなっているのだそう。で、豆乳にはこの植物性乳酸菌の発酵を促進する物質が満載なのだそうです。子供のころから学研のかがくと学習のかがく大好きの私にとってこんな楽しい遊びはありません。チャレンジすること数日、2回目の仕込みで見事に豆乳ヨーグルトは完成しました。

米のとぎ汁の豆乳ヨーグルト

上質なお豆腐のような見た目ですが、お味はヨーグルトです。乳くさくなくちょっと大豆くさい感じ。あっさりでおいしいです。これ、たのし~です。しかし、これを放射能対策として真剣になさっている人がとても多いようで、それに対する潰し勢力との戦いは、読んで疲れます。どちらの意見もごもっともな感じがしますが一つ感じたのは、反対意見をかなり過激に自信を持って言っている人の多くは恐らく実際に作ってはいないようだ、ということです。「こうに決まっています」「考えたらわからないんですか?」というような言い回しがとても多い。いやいや、考えたってわからないし考えたらどちらの可能性もありうるのです。だからもし確かめたかったら、検証しなくてはならないのです。

私はただあったらいいな、があったのでうれしくて作っているのですが、でもとても用心深くこわがりなところもあるので、顕微鏡ほしいな~とか、実際に目で確かめたいと思ったりもします。味だけで確認というのでは確かに確証が持てません。でも食べてみています。美味しいし、おそらく多くの方が実践さなっているものなのでいい面、魅力があるのだし、致命的な事故はまだないようですしね。

ところでこんなバトルを見ているうちに、そういえば私のやっている前世療法とか退行催眠、レイキなんかも、こんな風に言われておかしくない領域なんだよな、と改めて思いました。十数年前にこの仕事を雇われて始めたとき、そのことを知った高校時代の友人が「絶対にやめなさい!」とわざわざ連絡をくれたりしました。私は特に前世を信じてやまないとかスピ大好き(スピなんて言葉は当時なかったです)みたいな部分は微塵もなく、どちらかというと大真面目に、存在をかけた学問のように捉えていて、確証はないまでも理論と実績に納得がいってしかも私の持っている限られた素質が役立つだろうと思え、また身近に迫る問題解決の糸口がこれしか見当たらず手にした導きの糸だったがゆえに、非常に怒りました。

あなたは何の確証があって私に命令するのですか、もしそうするなら少なくても私と同等かそれ以上にこのことについて調べて、なおかつ私がどのようにこのことと向き合いどのような姿勢で臨んでいるのか知ったうえですべきですよね、そうでないのにただ未開の分野だから、世間体が悪いから、という理由で完全否定するのは、私への信頼はまるでないと言っているようなものです、そういう人の意見をどうして私が受け入れるのでしょうか、という具合に。

もちろんその子はなんのみかえりもなく純粋に私を心配して言ってくれたのです。でも納得いきませんでした。すぐに撤回して謝罪までしてくれましたが。

あるものごとを否定するのはとても難しいのです。あることよりないことを証明するのが難しいのと同じです。

敬意と熟考なしに否定するのはただのうっぷんばらしであることが多いと見えるのは、望むではなく少数派の道を歩んできた私の実感でもあります。放射能の悪影響について語る人よりも、それを躍起になって否定している人のほうが話しの内容や論法はほとんどヒステリックです。そしてヒステリックに相手をヒステリックだと罵倒しています。このことはよく見ていると簡単にわかります。

今日も「私は前世を完全に信じているわけではないんです」とセッション中に申し上げました。前世かどうかは置いておいて、こういった意識の仕組みと、個の意向や企てによっては図り知ることのできない、太刀打ちできない大いなる意志というものがあることは確信しています。もはやそれによってしかこういった日々の奇跡はありえないとわかっています。私はこの仕事、神とのふれあいができることに感謝しかありません。必要とし、来てくださる方がいることがなによりの神からのこたえであり、私にとってはみなさんが神の使者です。

話がそれましたが、手作りというか、私は実験が好きなのだと書いているうちにわかりました。人生は神の実験劇場だとパラマハンサ・ヨガナンダジはおっしゃいました。しかしそれはただ野放図に行われるのではなく、崇高な秩序に基づいてなされるというのががすばらしいところです。

直観と直感

真実を見るのは難しい。難しいというのは、いくつかのひっかけがそこに潜んでいるからだ。

見た目。

雰囲気。

数値。

体感。

感覚。

直感。

人間が判断する材料は五感を通して体験した過去のデータの蓄積を使う。このデータが潜在意識の記憶。確かに潜在意識の記憶は思考の理屈よりは真実を含むこともある。訓練、または刷り込みもこの領域。でも、誤解、思い込みがとても多いこの領域。

潜在意識の形成期はお母さんのおなかの中に始まって3歳までがピーク。13歳くらいにはほぼ完成という風に言われる。となるとその時期の環境、お母さんの接し方やお母さんの意識がほぼその基盤を作る。誤解が多いのはそういうわけだ。人間は大人になって、違った人間になっていくように見えるが、根っこが変わらない。三つ子の魂百までってよく言ったものだと思う。

感覚的な誤解は、例えばおなかがすくと不安、とか、寒いと悲しいとか、風の音がこわいとか、そんな風にインプットされている。

例えば私には風の音がなんとなく不穏。つい最近まではこの感覚は普通、当たり前だと思って気にしていなかった。豊崎のマンションはいつも風があり密閉性の高い部屋にはビューという音がよくしていた。こわいと強く思うのではなく、無意識に近いレベルで漠然と心地悪く感じている。そこになにか1つでも負のイメージの要因がプラスされるととても不安になる、というような仕組みだ。例えば電話の音にすごくびくっとするとか。(電話は今はそんなことはないのですが昔とてもこわかったのです。なにかよからぬ知らせが来るといつもおそれていたから。)

これ自体はたいした問題ではないので多くの人は気にかけたり対処しようとはしないのですが、これにさらに目に見えるプレッシャーが加わると、心はとても追い詰められたような感覚にとらわれるようになります。

そこで多くの人は原因はその目に見えるプレッシャーだと思うのですが、心を掘っていくと、幼少期に台風の夜、部屋に置き去りにされたという体験から、風の音は心細くとても不安、という風に記憶されていたります。これは実話で、私の母が最近になってふと笑い話で私に話してくれたことです。みおちゃんを部屋に置いてお隣さんのところに避難したんだよ、という風に。私はとてもびっくりして「どうして置いていったの?!」と聞くと「だって赤ちゃんだからわかんないもん」と平静に言われました。かくして気づきは促されたわけです。あとは浄化あるのみ。

多くの人が直感を信じる、と語っているのも実はこの潜在意識の感覚的記憶から来ているものを指していることが多い。幼少期や過去世の記憶によって良し悪しの基準が決められている。それは信じるに値するものとは言いがたい。本当は「直観」を養わなければならないのです。直覚を使って判断するのです。

直感は、本能の領域であり動物的な感覚によって肉体と肉体意識を守るという目的のために使われるもの。ですからなんとなくこっちに行ったら安全だったとかいうのは確かにある。ですが、それが神聖な導きだったり高次の目的を示すかというとそうではない。高次の目的、魂の目的、人生の指針などは直感ではなく直観に従ってください。

直観を養うには潜在意識、つまり自己意識、肉体保存の本能を浄化し続けることです。そして内なる神を求める生き方を望み、歩むことです。

恩寵とともに生きる

この世は二元性の世界ですから、善玉菌と悪玉菌のダンスのようなものです。それでも人間は、なんとかもっとよくなろうという努力をし、未踏の地に足を踏み入れ前進していきます。その歩みをやめると私たちは機械かもう少し単純な動物のように、食べて寝て欲を満たすというところで生きることを繰り返します。確かにそうやって生きるだけでも人生には結構努力が必要です。その努力というのはサバイバルで、地上に生きる生物は望むと望まざるとにかかわらずその努力に巻き込まれています。

人間が、より人間らしく(心ある人間という生き物らしく)生きたいという選択をするとき私たちには葛藤が生まれます。優しくありたい、とか、自分をもっと善きものだと感じたい、という願いがあると、私たちはその反対の自分、意地悪だったりずうずうしかったりずるかったりする自分が目に付きます。これらはサバイバル上、自分に都合のいい側面として自分に付随しています。他人より要領よくメシにありつく知恵でもあります。善くありたい人はそういう自分を見るとショックです。でも、そういう面を消すことはできません。サバイバルという次元を卒業することなしには。

ただ善くなろうとするだけではそれは無理なのです。つまり自分に生きる糧を与えるのが自分の肉体と肉体に付随する意識、頭脳と知恵だという次元にいる間は。

昔、神の子や化身は、人がそういう次元にいても、そうでないことを身をもって知るきっかけとなるように、たとえばお布施や献金という行いをして、物を手放すことで心が満たされる体験をするように示唆しました。私たちはパンのみにて生きるにあらず、とイエスは言ったと言われています。

しかしそれだけで私たち人間の心は平安を得ることはできません。サバイバルの次元を卒業するには、個々が内なる神に気づき、あるいは魂の存在に気づき、私たちの本質はそれであり、それが源であり、私たちに糧を与える源泉だということに気づかなくてはなりません。それ以外にサバイバルを卒業する方法がありません。このことは私が長年のスピリチュアルの探求で行き着いた当たり前の真実です。イエスが、人間は二つの神に同時に仕えることはできないと言ったのは、キリスト教とイスラム教は両立しないと言ったのではなく、自己を肉体意識だと認識しそれを生きることを選ぶか、内なる神、霊、魂だと認識しそれを生きることを選ぶかどちらかしかできない、と言ったのです。前者はサバイバル、後者は卒業です。

サバイバルを卒業すると、サバイバルにとって重要だった資質はだんだんと不要になっていきます。早い者勝ち、とか、取り損ねる、とか、そういう本能もあまり必要ではなくなります。あれをしないと、これを得ないと、取り残される、というような意識も。あいつに勝ちたいとかこいつに嫌われたくないとか、評価されたいとか。しまいにはもっとよくなりたい、もっと、もっと、という意識も。それらは、自分の飼い主を自分の肉体や社会や会社や家族や、誰かだという前提に働いているのであって、その主が自己のうちにある神、とだと信頼することができるにしたがって弱まっていくものです。自分の中のそれらの感覚に気づくとか違和感を感じるということは、これらを手放す時に来ている証拠でもあります。

これは宗教を信じることとは違います。宗教を信じることは人の教えや教義を守ることが重要だと教えられますが、内なる神を感じ、体験し、信頼する生き方を選ぶのは教義とは無関係です。これは自分と内なる自己との関係のことですから。

私は10代のころから心底信頼できるなにかを探していましたが、教義の中にそれを見つけることはできませんでした。でも今は内なる神とともにすべての瞬間を生きる生き方を望み、それを選んでます。神とは無限の愛です。無限とはすべてを超えるということです。すべてを超えているので特定したり規定することができません。愛にも人間の愛とか愛情が含まれますが、無限の愛はそれらを超えます。無限に受容し無限に赦し無限に導き無限に守り無限に教えます。原因と結果の法則すら私たちにその本質を捉えることは簡単ではないのに、それらの法則をも超えます。そしてそれを探求できるのが人間という生き物です。

つまり私たちは無限に与えられているのです。それに気づいているかどうか、それに対して開き、その恩寵とともに生きることを選ぶかどうかだけが重要なのです。