家族のワーク

2013年もあとひと月ですね。昨年はアセンションという、何年も前から注目を集めた年でした。アセンションという言葉もスピリチュアルという言葉も知名度、市民権を得てきた一方、誤解や誤認や言葉のひとり歩きと言っていい現象もあり、進歩というのは本当に一歩一歩なのだと実感します。

厳密な意味で、私は「これがアセンションだ」と言えるような体験と実感をしました。きっとこんなだろう、という思い込みの予測なしに体験を見なおして見れば、きっと多くの次元上昇の証を見つけることができることと思います。

私にとってのアセンションは、家族と家族関係の中に最も色濃く顕現しました。

昨年春は父の喜寿のお祝いということで、妹が付き添って沖縄でお祝いするというイベントがありました。妹と父のツーショットの旅行、私と主人でホテルを用意し、そして何より私の心が、一片の曇りなく父への愛でいっぱいだったことが奇跡でした。これは私の家族の涙無くして語れない歴史を知らなければごく当たり前の光景ですが、私の内なる世界においてはすべてが奇跡でした。

父の心からも私や家族や世界への愛が溢れているのを感じることができました。私と父の間が「すべてわかっている」という感覚で埋め尽くされた至福の感覚でした。地上にありながら天国にいて、これがすべてだったのだ、という思いに満たされたのです。南城市のカフェのテラスで美しく眩しい海を眺めながら「お父さんこんなに幸せでいいのかい」と言った父の目や声やセリフのトーン(笑)を心で再現するといつでも天国が私の中で蘇ります。

そして、この年の秋に妹が結婚しました。私が結婚したのは40歳。きっと妹は私よりは早く嫁ぐのではと漠然と思っていましたが、妹は更に1年遅く41歳での結婚でした。私は子どもの頃に家族の不和から結婚というものに疑問を持ち、自分は結婚しないと決めていました。けれども意識の世界を探求し、愛、人間の幸せというものに取り組むにつれ、結婚の重大さに気づき始めました。また世間で言われている結婚というものと、実際の結婚というものの神聖さとのギャップにも気付かされました。父と母なしにこの世に肉体を持ってくることはできません。誰もが肉体の父と母を持ちます。戸籍がどうであろうと、呼び名がなんであろうと。そして私たちは、その父と母の世界観を通して愛と、そして神を体験し始めることを最初に選びます。

私はヒプノセラピストの仕事を通して、幼少期にインプットされる体験の記憶が人間の意識にどのように影響し続けるかを学び続けています。すべての舞台措置や人物設定は、そこから愛を体験し始めるために魂が選ぶのですが、それは必ずしも望む、という選び方だとは限りません。選ぶというのは、過去のデータ(カルマ)から今とこれからの魂の学びにふさわしい波長、波動で設定されるということです。ですからそれは個の感覚としては望ましく感じられないこともおおいにあり得ます。選んだからと言って、望んだとは言えないのですが、魂という高次元の人格があるとするなら、その高次元の人格はそれを望んだということです。

結婚は、この世で愛を学ぶためには最も近くて対等な鏡だと私はよく語ります。子どもの目から見れば「どうしてお父さんとお母さんはけんかばかりしているのに一緒にいるんだろう」というように思えても、近くて密接で同等な波長である互いは強く引きつけられる一方でよく反発もし、ぶつかり合いもします。互いはその解決を、相手が変わることに求めることが多いのですが、ぶつかってしまう時には自分が一歩下がって視野を広げるか、自分が一歩抜きん出て成長すると、膠着した状態から脱して、また互いに磨き合う流れに変えることが可能です。このようにして結婚という神聖な絆は洗練され高められる可能性を秘めた土壌となっているのです。

私は主人との結婚を切望して叶い、主人は結婚してからその良さ、素晴らしさを実感してとても喜んでくれました。結婚してからこの方、2人で行うワークは絶え間なく継続し、そしてその気づきと感謝と愛からもたらされるギフトは私たちにとってかけがえなく最上のものだと言えます。妹の結婚には長い物語がありますが、この物語もまるで奇跡のようです。結婚から1年を過ぎ、彼女が日々創りだされ満ちていく幸せを体験している様子がよくわかるのも私の何よりの幸せであり、人生への問いかけに対する応えでもあります。

それからつい先日には、主人の弟の結婚と挙式がありました。私と彼の関係を思う時、家族というものの神秘を私は感じます。本当の家族、きょうだいのような絆を感じるからです。元々主人と弟は仲の良い兄弟ですが、私に対しても絶大な信頼と尊敬を託してくれています。私と主人とのワークを彼はお手本にし、実践者となってくれ、リトリートツアーだと言って沖縄へ度々来てくれていました。その彼が生涯の伴侶と、愛と光と出会う旅を共にする決意をしたことは、これも私たちへのかけがえのない贈り物となりました。披露宴では主人と、義父と義弟がそれぞれスピーチをしたのですが、それぞれが本当に愛に満ちた言葉を贈り合っていて、これまでのすべてに感謝が満たされる体験でした。

主人の両親は、こんな私たちを見て最近では自分たちもワークに参加してくれます。ワークというのは要するに、自分と愛する人が幸せであるために、向き合い、話し合い、和解と修正に取り組むということです。自分の内側で感じていることを明らかにして、互いの誤解を解き、または関係を微調整し、整理し、新たな繋がりを築いていくことです。家族でこのような作業をすることは本当に素晴らしいことだと最近では確信しています。このことにより、家族に対する愛が格段に深まることが実感され、その実感は魂の充足そのものです。

私の家族のほうでは過去あまりに過酷な問題が多すぎて、半ば強制的にこのワークをしなくてはならない面もあり、また、時には機能不全により断絶せざるを得ない時期もありました。そんな時は個々が傷つきながら内面に取り組んで、時間をかけて乗り越えなくてはなりませんでした。しかし近年になり、その多岐に渡る互いの努力のすべてが導きであり、神からの応えを受け取ることだったのだという思いを家族で共有できるようにまでなったのです。

この秋には父の健康に大きな異変があり、久しぶりに家族で全力で取り組まなくてはならない局面がありました。しかしどんなときでも、互いが互いの幸せのために向き合うという姿勢からぶれることなく、協力が実を結んで大きな峠を愛とともに乗り越えることもできました。出来事は一見不幸に見えても、歩む足は神の懐の中にあります。

私と主人の家族のひとりひとりが、寸分の狂いなくこうでなくてはならなかったようにかけがえのなさを感じることができ、この一見偶然に見える現実がすべて神の絶妙なはからいだと信じざるをえません。妹のだんなさんのご家族へもきっとこの光は広がるだろうと楽しみにしています。

世界はこのようにして確実に変化するものだと感じています。世界を平和にしたければまず身内から、というのは喩え話ではなくて現実であり、また家族の関係を刷新していくことは意識的に取り組まなければ叶わない、とても高度なワークなのだと思います。家族関係は放っておけば、幼いころに信じた窮屈な絆によって繋がれています。結婚すれば情熱は薄れ、互いに窮屈な関係を維持する努力しかないように語られています。しかし真の関係性は常に刷新されていきます。この刷新を認識しあう努力こそが、関係性を光輝かせ、愛をエネルギーとして感じさせてくれます。その恩恵ははかり知れず偉大です。このギフトを思う時、私は神と天国を見たと、胸を張って語ることができます。

光のディフェンス

日本は今、非常に不安定で荒っぽいエネルギーに揺さぶられている状況だと思います。多くの方が不安やいらだちや無力感を、意識的にも無意識的にも抱えています。このエネルギーは私たち一人一人が意識的に向き合って浄化してあげるに越したことはありません。気づいた人から整理整頓、そしてお掃除することで世の中が少しでも明るくなり、明るくなればまた見通しができて、次なる気づきへと導かれます。

もし今、どうしていいかわからない、なにをすべきか、またなにに気づけばいいのか、とモヤモヤを感じている方は、どうか一番身近な問題をみつけて取り組んでみることをお勧めします。

身近というのは、一番はまず自分の内面です。内面に何かしら問題があるとお感じならそこに向き合うこと。次に自分自身の一番近辺の関係。家庭の中や家族との関係。保留にして先延ばしにしていて気になっていることなど。世界を平和にしたかったり社会問題が気になる時、けれども直接行うことが見つからなかったり直接行うことにパワー不足や虚無を感じるなら、外側でなく内側、もしくは最も身近な関係を見直すことです。

私たちの意識のシステム、認識のシステムは、内在するエネルギーを外側のスクリーンに投影します。そして、そのスクリーンに映しだされたものに対して反応します。その反応は内側にあるものが映し出されているだけですが、あたかも映しだされているものが原因であるかのように認識します。

私たちの悩みのほとんどは人間関係です。自己の欠点そのものが私たちを混乱させることはあまりありません。欠点によって、何かがうまく行かなくなると私たちは葛藤し混乱します。そのうまくいかないことというのは殆どの場合人間関係です。

ある人とうまくいかない、ということがあっても、その相手に対して、愛と信頼をもって丁寧に向き合うことができさえすれば、その問題は時間をかけたとしても解決します。うまくいかないという状況下にあるとき私たちは混乱し、本来の愛という自己の中心にいることができなくなります。ぶれる、というのはこのことです。ぶれないというのは動じないということではありません。愛という光の衣の中にいることを知っていてその場所からものごとを観たり聴いたり対処したりすることです。光の衣を着たままで動けるということです。

けれど私たちはなにかうまくいかないことがあると感じたとたんに、光の衣を脱ぎ捨てて、素手やもしくは戦闘用の鎧に着替えてものごとに当たります。風当たりは厳しさを増し、相手も同様に戦闘衣に着替えて挑んできます。

私たちは何かに対処する時、確かに向き合い、時に闘う必要があります。この闘いというのは、虚構との戦い、幻影との闘い、恐れとの闘いです。つまり闘う相手は自己の内側に在ります。その闘いをするのに、重たい、不自由な、足手まといになるような鎧をつける必要があるでしょうか。そのディフェンスは役に立たないばかりか自己を縛りつけ、能力を阻みます。

私たちは光の衣によるディフェンスを選ぶべきです。

この光のディフェンスは、闇を照らし、心を暖め、受け入れるスペースを生み出してくれます。理解する根気と、落ち着きと、勇気と、叡智を私たちに与えてくれます。

うまくいかない時、私たちがしなくてはならないのは、まず立ち止まり、ひと呼吸置いてからこの光を呼び出すことです。そして光にディフェンスをお願いし、それから実際に出来得る対処について考えます。第三者に助けを求めることが必要なこともあるでしょう。いずれにしても光の衣のディフェンスによる加護と導きを忘れずにいて、そして願うことです。

求める人すべてにこの光の衣は与えられています。しかし私たちはついつい求めることを忘れます。他者や自己にばかり求め、導きを願うことを忘れます。他者や自己にばかり求める時、人は与えられているものを忘れてしまいます。すでに持っているものが見えなくなり、与えられているという感謝も感じることができなくなってしまいます。

そんな時人は地獄にいます。けれどこの地獄にさえ無感覚になることができるのが人間の特技でもあります。地獄に気づかなければ地獄から抜け出すこともできません。点検し、ディフェンスして取り組んでみてください。

あとは具体的にしなくてはならないのは整理整頓です。混乱を解き、誤解を解くことができれば、あとはエネルギー的なお掃除が進み進化へと私たちを連れて行ってくれます。この作業のお手伝いが私の仕事と心得ています。コツを覚えてどんどんご自身でできるようになるまでサポートさせていただければ一生もののお供になると思います。

つぶやきました

先日フェイスブックにつぶやいたつもりが長くなって、せっかくなのでこちらにも上げておきます。推敲していない文章なのでお見苦しいところもありますが、以下転載。

☆彡☆彡☆彡

映画、『戦場のピアニスト』を公開時に映画館で見て以来11年ぶりにDVDで。
改めて本当にすごい映画だと思った。
二度目だし、シーンやセリフも結構覚えていたけれど、それでもすごく緊張しながら見た。
冒頭から、あれよあれよと市民が戦争に巻き込まれていく感じがあんなにリアルに描かれているものは少ないと思う。
ユダヤ人がじわじわと逃げ場を塞がれていき、まさかそこまで、まさかそこまで、そんなに長く続くわけがない、と思っているうちに収容所へ送られる。
収容所が今より良いところなのかどうかもわからないまま。
その場で射殺は当たり前。
抵抗も、質問すらもできなくなる。
完全なる家畜。家畜以下。
心や尊厳を持つ人間が、心や尊厳を持つ人間をそのように扱い、当たり前にことが進んでいく。
終戦を向かえると、支配者だったドイツ軍は捕虜になる。
心あるドイツ人も同様に収容される。
本当にクレージーなことだけど、人間は追い込まれるとああなる。
個々がどうであれ、ああなると思う。
勇気ある人や、心ある人は即殺される。
追い込まれてからでは遅い。
いったん戦争になると、平和な良識なんて全く通用しない。
憲法を国家の都合のいいように変えるのも、国民に秘密を作る法案も、結局は人間が尊厳を失う道に続いている。
家畜以下の道へ続いている。
まさかそこまでは、まさかそこまでは、とずるずる後ずさりをして、地獄へ落とされる。
殺す方も殺される方も結局は地獄だ。

これは酷い、市民や子どもの生命をどう思っているのか、と日本の現状に疑問を持っている人は多いけれど、生命のために政府が動くのであればもうとうに、まったく違う方向へ動いているだろう。国家は市民や子どもの生命を守るためにはまったく動いていないということに気づいて認めなくてはそこから先へは行けない。

憲法改定で、内容次第ね、という考えは一見正論だけど、本当は違う。
国家が国に有利に変えるということは市民にリスクが来ることと直結している。
政府は実利のない無駄なことをわざわざしない。
世論を騒がせるようなことでは特に。
例えば今は少しお金が増える人もいるだろうけど、そのうちに家族に地獄が入り込んでくるだろう。

秘密保護法って言われたら、終わった、と思わなくては次に行けない。
権力は被権力に対して隠したいことだらけだ。
そんなの当たり前だ。
とうとうそれをあからさまにやろうというのだから相当本気だということだ。

私たちひとりひとりがどんな意思を持つか、それが大事だ。
一番いいのは認識を共有することだ。
現状を把握し共有することだ。
そうしなければ、力を合わせることができない。

力を合わせなければ大衆は権力の流れに抵抗することすらもかなわない。
主義や方法ではない。
まず現状起こっていることを観て、それを共有することだ。
共有するためには知ること、考えること、そして伝えることだ。
伝えあうことができるのもいつまで可能かはわからない。
でもそれしかない。

すべての問題は無限の世界への扉である

今にいる、今を観る、というお話を先日書きました。これは、スピリチュアルの世界でもセラピーの世界でもよく大切だと言われる言葉です。

敏感な人はよく、起こってもいないこと、確かめようのないことを『想像の世界』で決めてしまって、頭の中でその対処に追われています。どんな感じかと言えば「あの人はこう言った。だからきっとこう思っている。私にこうしてほしいに違いない。だけどそうすると私はこうなってしまう。したくない。でもしないときっとあの人にこう思われるだろう。そんな風に思われたら私は傷つくし、私はそんな人間ではない。そんな人間になりたくない。いや、私はそんな人間なのだろうか。そうだったらどうしよう。すごくいやだ。いったいどうしたらいいんだろう。」

これは自分自身のアイデンティティに関わることなので人を悩ませますが、こうしている内に相手と自分との境界線があやふやになってしまいます。境界線をどう引いたらいいかわからない、境界線がわからない、あるいは境界線を引くことに抵抗がある、冷たい感じがする、というふうにおっしゃる方は多いですが、実際の境界線というのは難しくありません。

私はこう言った。私はこう思った。相手はこう言った。相手はこうした。これがすべてです。「相手はこう思った。」は存在しません。こう思っているに違いない、というのは可能性の問題としてはありですが、事実としては推測にすぎません。

共感能力の高い人は、この部分をありにしてしまうことが多いです。私も以前はそうでした。それでそれに対してなんとか対処しようとするのですが、起こっていないことに対しては対処できません。 ですから境界線というのは、自分の領域と相手の領域をはっきりさせること、また『ザ・ワーク』風に言えば、神の領域(私には対処できないこと)をはっきりさせるということです。相手がこう思っている、という項目はありませんから、相手の思っていることに応えることはできません。

ここまでが明確であれば、相手がたとえこう思ったとしたら、という仮説は、仮設として立てることができます。しかしそこでもあくまで、自分ができることは自分の領域内で考えなくてはなりません。相手にこう思われたいから自分はこうする、という仮説はあまりに根拠がなさすぎるのです。

しかしそれよりも重要なのは、そこで自分はそれをどう感じているのか、と、自己の内面に入っていくことです。対人関係の悩みというのは、この境界線上にしか起こり得ません。ですからこの線を確認して、それから更に自己の内面に入っていくことができたら、対人関係と言えるものすべてに対処することも可能です。

「相手がこう言った、(だから私は相手にこう思われていると思った。)そして私は傷つく感じがする。」とすれば私の中の願望は「私はこう思われたくない。」「私はこうでなくあのように思われたい。」だということがわかります。そして実際どう思われているのかは、わかりません。ここでわかるのは私はこう思われたいが、そのように(私が)思えないということであり、この実際はそうではないだろうという部分を多くの人は知りたくないのです。ですから、頭の中でそのことを受け入れなくて済むように、その考えを押しやろうとしてみたり或いはそうであったらどうだろうというようにシュミレーションして傷つくことに慣れようとしたりいろいろします。ですが、本当に問題なのは、自分が自分をどのように思うか、そして思いたい自分と実際の自分に差があるかどうか、またその思いたい自己像自体が本当に正しいのかどうか、という点です。

こんな自分でありたい、という気持ちの裏にあるのが、世間とくらべてこうなら問題ないからだとか、こうであれば突っ込まれても大丈夫、だとか、こういう自分であれば文句を言われないから、というような理由であることは、細かく見ていくとよくあります。基準は他人から見てどうか、であるということです。世間から見て配偶者から見て、子どもから見て、親から見て、であることもあります。 多くの人が知らず知らずの内にこの他者から見た自己像を追求して人生の時間とエネルギーを費やしています。そしてなにが本当に自分を幸せにするのか、ということはあまり吟味しないのです。他者から見た自己像が完成すれば幸せになるはず、という風に信じているからです。

目に見えない小さな壁に私たちは四六時中ぶつかっていますが、どのような小さな壁にも実は扉がついていて、その扉を開けてその向こうで世界はひとつところへと繋がっています。起こっていないことに対処するのではなく、本質であるエネルギーのレベルでなにが起こっているのかに目を向けることができれば、それは対処すべき問題ではなく、生きる神秘になり、人生は開く扉を見つけてその向こうへ歩み出す冒険になります。

天使の羽

鏡の前で瞑想していると、身体の周りを光が取り囲んでいるのが見えます。

私は普段から世界が金色の網目で満たされ繋がれ構成されているように見えているのですが、同じような金色の網目が頭の周辺は濃くなっていて、よく宗教画などでイエス・キリストやブッダ、仏像のあまたの後ろにある後光にそっくりです。

セッション中はクライアントさんの頭の周りにそれをよく見ています。相手の方の後光を見ながらセッションしているのは素晴らしい気持ちです。今たとえどんな問題がその人に訪れてどのような状態になっていようと、それはただの現象であって、本質はどなたも光、神、愛です。

先日鏡の前で瞑想していて、身体の両サイドになんだか人のシルエットのような光があるのを見ました。両サイドに光の身体のガイドが立っていてくださるようにも見えます。

それを眺めているうちにそれはよく大天使の羽として描かれている大ぶりの翼のようにも見えてきました。おおぶりの翼は関節のようなところがてっぺんに丸く飛び出して描かれています。あそこがちょうど頭で、ベールをかぶった人の姿と重なる感じなのです。

それで私は、最初に天使を描いた人はこれを見たのではないかと思いました。

今そのビジョンを思い出しながら書いていると、ガイドのような人は私のバイブレーションが光に投影されていたようにも感じられます。それで、私の残像が両サイドに映って私の目に見えたのかもしれません。瞑想しているといろいろなことが知識を超えてふとわかったり納得したり新たに知ることがあります。

ガイドも天使も神も、すべては私たちのひとりひとりの意識の内側に在る。すると私たちが無限の可能性を秘めた存在だとわかります。その内なる秘められた私自身に日々出会っていくのが人生のようです。

言葉を聞く、観る

私は傷つきやすい子どもだったので、他人の言葉で何日も具合が悪くなったりダウンして動けなくなったりすることがよくあった。大人になってもひどかったので仕事や社会に出て行くということにとても抵抗があったし疲れやすく、何事にとりかかるのも億劫だったりもした。

この状況をどうしたかというと、私は自分のエゴ解体に取り組んで解明と転換に成功しました。実際多くの敏感な人は他人の言葉にも敏感だ。それで不用意な言葉に傷ついたりショックを受けて、悲しくなったりそれから腹が立ったり憎んだり或いは自己か他者を責めたり、それも嫌になるとそういうことを感じていないふりをして自分の感性にふたをするようになる、というような反応をする。とても大変なことで、莫大なエネルギーがここに消費されることになる。

これを解決するきっかけをくれたのは時々紹介するシャクティー・ガーウェインの『マインドトレーニング』という本。読みにくかったり難しいと言われることが多いようだけれど、私にはこの本はまさにドンピシャだった。20年前のことですが。

エゴの解体というとどうしてもエゴがわるもののように印象付けられるがそうではない。エゴには特性(くせ)があってそれはあるパターンになっているので、そのくせをちゃんと理解し、自分に当てはめて、自分の意志に関係なくパターン化されて反応してしまっている自分に気づきましょう。その気づきがあって、そのパータンを返上できると、本当の自分が見えてきますよ、ということです。

だから、本当の自分をみつけたければ、エゴを解体するしかないのです。旅したり新しい何かを手に入れたり習得したりというのはあくまでそのきっかけや背景にすぎず、主役は内面です。

言葉を使ってコミニュケーションしている人間の多くがエゴの解体に取り組んでいたりしたらまた世界は変わるでしょうがそうではないので、無意識に言葉を使い言葉の意味で何かを伝えようと多くの人がしています。人間が伝えたいのは意図や内面であって言葉の意味ではない。ですが言葉に傷つくとき、傷つくほうはその言葉の意味を自己解釈していて、相手の意図は見ていない。相手の気持ちには気づいていない。たとえるなら異国の言葉と風習を自国風に解釈しているようなもの。白いハンカチを手渡されたから決闘だと思ったら、愛の告白だった、というような。

エゴを解体するというのは自分のくせにとことん向き合って反応のくせを再教化するので、他者のくせに対しても寛大になります。みんな思い込んでいるし、みんな囚われているし、みんな恐れているんだ、ということがよくわかる。そうすると相手の不用意な言葉に即座に反応して攻防体制に入る前に、相手の内面にそっと入って確かめることができるようになる。自分に対していつもしているように。

だから、強くなると同時に優しくなるのがエゴの解体です。霊的な成長は常に強く優しいものです。

行動を変えることについて

行動しなければなにも変わらない、という言葉には色々な意味が含まれている。行動しても思うようにならないことはたくさんあるし、自然に体が動いちゃうほど楽しいこと、好きなことならまだしも、努力や忍耐を要するような行動はだいたい良い結果を生まないか続かないかで、結果的にその行動にネガティブイメージがますます強く貼り付いてしまうことも多い。

自然に行動できちゃうようなことを多くの人は当たり前だと思って気に留めない。だから、行動しなくちゃ、変えなくちゃ、という思いを伴うことというのはだいたいにおいて、よっこらしょ、と方向転換したり壁を超えたりしなくてはならない。

行動、と言うのはエネルギーの世界で言えば物質界に物質化して結晶する部分に近い。だから、この行動だけを変えようとするのは創造主である自己の源と外側を分断してしまうことになる。よってその行動にはエネルギーが伴わない。だから、結果が実を結ばない。

大事なのは内面のエネルギーである、感覚、感情、思考と行動が方向性として同じ方向を指し、エネルギーとして一致していることだ。ところが人間は多くの場合、感じていることと考えていることは違い、それによって選ぶ行動も一致していないことがほとんどだ。だから、行動を変えよう、こうしよう、と決める前に、内面をよく点検して、各レベルごとのエネルギーが一致していることを確認するといい。

自分の内面の今に気づいていることができれば、行動はそれに伴って来る。しっくりこない場合は内面に問いかけてみる。行動に移すことは、自己の内面に気づいて一致していればたやすいし、迷いや葛藤にエネルギーを消耗することは少なくて済む。

もう一つ、行動を変えよう、と人間が決意する時にはほぼ必ず結果を想定している。こういう結果を出すために行動を変えよう、と決める。だが、内面と行動が一致している時、私たちは結果にとらわれる必要がなくなる。あるがままに在って、それに伴って起こる変化が結果である。よって、結果を想定するのではなく常に意識するのは『今』である。今にはもちろん、未だ現象化されないエネルギーも含まれるが、その段階では私たちは意識の中で、気づきと理解をもってエネルギーを変えることも容易だ。つまり私たちは今に気づき、今をくまなく味わい、受け入れ、理解することで次の今を創るのだ。だから、行動だけを切り離して変えることにはあまり意味がない。

スピリチュアルは、本質的にエコなのである。

ワークショップMillerMagic開催のお知らせです。

みなさんこんにちは。いつもAZU WORLDへいらしてくださりありがとうございます。今日は私のワークショップMillerMagicのお知らせです。

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時:12月5日木曜日14:00~16:00 (とぅんじーですが、お忙しくはないでしょうか・・・)

所:南城市知念具志堅 RUACHセラピールームにて

定員:6名さま(先着順とさせていただきます)

会費:2500円

お申込み:お電話098-948-3925 または e-mail ruach@live.jp へご参加の旨ご連絡ください。

内容:瞑想とスピリチュアルのお話をメインにいたします。

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※前回はほとんどお話が出来ませんでしたが、今回は前回を踏まえて、またお集まりくださるみなさんのエネルギーとご希望を踏まえて創りたいと思います。ご質問、ご要望もおよせください。

※ルーア、またAZUが初めての方もご遠慮無くお申込みください。

前回は本当に楽しくあっという間に時間が過ぎてしまいました。
この場でもう一度感謝申し上げます。

充実したお時間をみなさんとご一緒できますよう準備いたします。
どうぞよろしくお願いします。

感謝とともに
AZU拝

自分の愛し方

私のところへいらしてくださる方の多くはスピリチュアルの学びが進んでいらっしゃるなぁと印象を受けます。どんなところがかといえば、他者や自然や地球のいきとし生けるものに優しい気持ちをお持ちになり、すべてのものに意識があってその調和を願っていらっしゃるところです。

その上で、人間関係やご自身の生き方、在り方、また感情との付き合い方など、不具合や抵抗やままならない思いを感じて、それに向き合い非常に努力なさっています。

世間一般にスピリチュアルとくくられている、超常現象の類やお化けが見える類の話と、私が表すスピリチュアルは違っていると思います。私がスピリチュアルと言うとき、それは人間とは、愛とは、人生とは、真実とは、という人間の生き方、在り方のことを示します。

そして、人間が幸せというものを目指したとき、真実の生き方という道が見えてくると考えています。

またスピリチュアルを探求するとき、最終的に辿り着かなくてはならない場所、それが神の領域です。神というと宗教と連想する方が多いことと思いますが、私はむしろ既存の宗教からは遠く離れたところに神を見ます。神とは、一言で言うのなら「霊の理想」です。私たちはこの神を簡単に捉えることはできません。ですが、霊の理想なしに、霊的な成長というものは当然ながらあり得ません。

ハイヤーセルフとか、スピリットガイドとか、天使とか、どこの何々の神とか、まるで地球の彩りのような用語が語られていますが、それらは外側には存在していません。すべては私たちの内側に存在し、そして内側で私たちはあらゆるものと繋がっています。内面に目を向けるということはこのあらゆるものと繋がる扉を開くということです。

内側というと、なんだ、ただの空想と変わらないじゃないかと思われるかもしれませんが、そうではなく、私たちが普段この、肉体の目に見えるものとして実在と認識しているもののほうが投影されたものであって、その元となる実在は意識、またはエネルギーの次元にあるということです。ですから投影されているもののほうを変えたければ実在、またはおおもとのエネルギーのほうを変えればいいということです。

しかしこう言われると多くの優しいみなさんは、私の中にいけないものがいっぱいあるから、こんな目に遭うんだ、とか、こんなに世の中が酷いんだわ、と思われ余計にご自身を攻めたり、がっかりして自信をなくしたり、早く自分の汚いところを消さなくちゃ、と思ったりなさいます。

でも必要な対処はそうではありません。

世界を変えたければ、もっと自分を愛してください。

世界からエゴイスティックな景色を消したければ、自分のエゴを愛してください。

世界から喧嘩をなくしたければ、ご自身のわがままを認めて、よく理解してあげてください。

世界から恐れをなくしたければ、どのような自分の側面をも恐れずに良く見てかわいがってあげてください。

自分に与えたものが自分に還ってくるというのがエネルギーの原則です。ご自身を愛するということは内側ですべてと繋がっている自分を愛すること、同時にそのすべてを愛することとなります。

ご自身の内側を点検するとき、裁く人にならずに、親身になって、味方になって、点検してください。そして、見張るときは見守る気持ちを持つといいと思います。言葉とイメージが違えばエネルギーも変わります。