すべての問題は無限の世界への扉である

今にいる、今を観る、というお話を先日書きました。これは、スピリチュアルの世界でもセラピーの世界でもよく大切だと言われる言葉です。

敏感な人はよく、起こってもいないこと、確かめようのないことを『想像の世界』で決めてしまって、頭の中でその対処に追われています。どんな感じかと言えば「あの人はこう言った。だからきっとこう思っている。私にこうしてほしいに違いない。だけどそうすると私はこうなってしまう。したくない。でもしないときっとあの人にこう思われるだろう。そんな風に思われたら私は傷つくし、私はそんな人間ではない。そんな人間になりたくない。いや、私はそんな人間なのだろうか。そうだったらどうしよう。すごくいやだ。いったいどうしたらいいんだろう。」

これは自分自身のアイデンティティに関わることなので人を悩ませますが、こうしている内に相手と自分との境界線があやふやになってしまいます。境界線をどう引いたらいいかわからない、境界線がわからない、あるいは境界線を引くことに抵抗がある、冷たい感じがする、というふうにおっしゃる方は多いですが、実際の境界線というのは難しくありません。

私はこう言った。私はこう思った。相手はこう言った。相手はこうした。これがすべてです。「相手はこう思った。」は存在しません。こう思っているに違いない、というのは可能性の問題としてはありですが、事実としては推測にすぎません。

共感能力の高い人は、この部分をありにしてしまうことが多いです。私も以前はそうでした。それでそれに対してなんとか対処しようとするのですが、起こっていないことに対しては対処できません。 ですから境界線というのは、自分の領域と相手の領域をはっきりさせること、また『ザ・ワーク』風に言えば、神の領域(私には対処できないこと)をはっきりさせるということです。相手がこう思っている、という項目はありませんから、相手の思っていることに応えることはできません。

ここまでが明確であれば、相手がたとえこう思ったとしたら、という仮説は、仮設として立てることができます。しかしそこでもあくまで、自分ができることは自分の領域内で考えなくてはなりません。相手にこう思われたいから自分はこうする、という仮説はあまりに根拠がなさすぎるのです。

しかしそれよりも重要なのは、そこで自分はそれをどう感じているのか、と、自己の内面に入っていくことです。対人関係の悩みというのは、この境界線上にしか起こり得ません。ですからこの線を確認して、それから更に自己の内面に入っていくことができたら、対人関係と言えるものすべてに対処することも可能です。

「相手がこう言った、(だから私は相手にこう思われていると思った。)そして私は傷つく感じがする。」とすれば私の中の願望は「私はこう思われたくない。」「私はこうでなくあのように思われたい。」だということがわかります。そして実際どう思われているのかは、わかりません。ここでわかるのは私はこう思われたいが、そのように(私が)思えないということであり、この実際はそうではないだろうという部分を多くの人は知りたくないのです。ですから、頭の中でそのことを受け入れなくて済むように、その考えを押しやろうとしてみたり或いはそうであったらどうだろうというようにシュミレーションして傷つくことに慣れようとしたりいろいろします。ですが、本当に問題なのは、自分が自分をどのように思うか、そして思いたい自分と実際の自分に差があるかどうか、またその思いたい自己像自体が本当に正しいのかどうか、という点です。

こんな自分でありたい、という気持ちの裏にあるのが、世間とくらべてこうなら問題ないからだとか、こうであれば突っ込まれても大丈夫、だとか、こういう自分であれば文句を言われないから、というような理由であることは、細かく見ていくとよくあります。基準は他人から見てどうか、であるということです。世間から見て配偶者から見て、子どもから見て、親から見て、であることもあります。 多くの人が知らず知らずの内にこの他者から見た自己像を追求して人生の時間とエネルギーを費やしています。そしてなにが本当に自分を幸せにするのか、ということはあまり吟味しないのです。他者から見た自己像が完成すれば幸せになるはず、という風に信じているからです。

目に見えない小さな壁に私たちは四六時中ぶつかっていますが、どのような小さな壁にも実は扉がついていて、その扉を開けてその向こうで世界はひとつところへと繋がっています。起こっていないことに対処するのではなく、本質であるエネルギーのレベルでなにが起こっているのかに目を向けることができれば、それは対処すべき問題ではなく、生きる神秘になり、人生は開く扉を見つけてその向こうへ歩み出す冒険になります。

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