社会科、補足。


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なんと、今日も1位でした。

昨日のブログの補足です。

小泉さんが総理だった時代にしたことでとても重要なことを書き忘れていました。それは、自衛隊のイラク派兵です。

イラクが大量破壊兵器を保有しているとしてアメリカが攻撃しましたが、今では「イラクに大量破壊兵器はなかった」と公に認められています。どうであろうと戦争には近づきたくありません。

日本を限りなく戦争へ近づけた総理は過去には小泉さん、今は安倍さん。

戦争にはスポンサーが必要であり、その巨大スポンサーは常に、どっちが勝っても儲かるように投資していると言われています。

小泉さん、安倍さん、どっちが勝ってもどっちも負けないのではないかしら、と思えてきます。「取り引き」のにおいを感じてしまうのです。

宇都宮さんは前回都知事選で大差ながら2位でした。山本太郎さんも2回めで当選しました。もしかしたら、宇都宮さん封じの当て馬なのかも、と、ふと思いました。そうなんです。自分がマイノリティなので、宇都宮さんに人気があるのをつい忘れていました。でも今日母と電話で話したら普通に「宇都宮さんしかいないんじゃない」と言われ、そうかと思いだした次第です。

以下、リンクを貼っておきます。yahooのニュースなので数日でリンク切れになるかもしれません。拝啓 小泉純一郎様 「脱原発」語る貴方が答えるべきこと

私は小泉さんがもし本気で脱原発、本気で細川さんを応援するならこの点に触れ、改心を語るのが一番効果がある気がするのですが。そうしない限りは他意がある疑いを拭えないと思えます。とても聞きたいところです。

喉から手が出るほど結果がほしい脱原発。だからこそ、丁寧に本当を紡いでいきたいものです。次世代の誰が見ても明らかであるように。より崇高な選択をみんなでしていけるように。

しろうとの社会科。


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今朝方、初めて1位になっていました。

私は社会の中ではとってもおかしな位置で生きてるおかしな人なんですが、周囲にはすてきな人ばかりです。

現在日本国民が死活問題として抱えている原発。選挙の度に大きく揺れます。

今東京都知事選があって、どれくらいの人が関心を持っているのかわからないけれど、私はとても関心を持っています。沖縄は名護が基地にノーという結果を出しだばかり。もちろん手放しにそれが嬉しいわけではありません。それで当面生活がいい方に向かわない人もたくさんいて、きっと困っているでしょう。でもそういうこともまたみんなで助け合える社会に向かっていければと思う。なにしろ沖縄の人は、戦争がすべてをぶち壊すということを身にしみて知っているから。

原発は戦争の道具、というのが私の知っていること。発電の問題にするのはすり替えだと思ってまったく信用していません。発電をどうするんだ、というのは詭弁です。戦争したい人が、別の発電を発展させなかっただけで、人類は別の方法をたくさん持っています。やればできます。現に今、原発は一基も稼働していません。

都知事選で細川さんが小泉さんの応援で脱原発を言った時、脱原発を望む人の反応は二手に分かれたように見えました。歓迎とノー。

私はというと、あまり信用しないほうがいい、と感じている一人です。

それに関してお怒りやお叱りの意見を目にするので、自分の思いを何度も何度も見直しています。

ちなみに多くのお友達やこれまで思いを共有してきた女性の多くは宇都宮健児さんを支持しているようです。多くが主婦。小さな子どもさんを持っていて、育児や食べ物や環境や、人間のエゴやスピリチュアリティ(愛)に感心を持って努力なさっている方たちだと思います。
そして少なくても共産主義、とか、正義、とかドグマ、ではなく、愛を探求なさっている方々だと思う。私もそのひとりだという認識です。

細川さんが脱原発を主張なさるのを歓迎しないわけではない。もちろん脱原発の人が増える事は歓迎に決まっている。しかし政治と政治家はおっかない。市民が表面を見てああだこうだと言うことを見透かした上でいろいろ戦略をこうじる。私たちはずっと長いことほとんどなにも知らずにコントロールされてきています。これは特に東京で暮らして来た私の感覚。

細川さんご本人はいい方のように見えます。でも私は小泉さんがこわいです。彼はとても人気のある総理でしたが、後になって勉強してみると、最悪な総理のひとりで日本の弱者を痛めつける構造を確立してしまった人。アメリカとの関係、またもっと裏の関係にも通じ大きな役割をし、力のある人だと私は認識しています。

もし私が悪の親玉だったとしたら、まず小泉さんと取引をします。彼は目的のためなら取引に応ずる人だと思います。プロですから。小泉さんに魅力を感じている人たちはそこがいいと思っているかもしれない。彼を利用するんだ、脱原発のために、と思っているかもしれない。ですが、いったい彼を誰が利用できるんでしょう。利用されて来たのは被権力者です。

これは本当に私の感覚でしかありません。しろうと感覚です。でももし、生命をかけた選択が迫ってきたとしたら、私は小泉さんの旗に近寄りません。家族にも、行かないで、と言うと思います。今のところ、そうです。脱原発をエサにさらに支配が深まるような取引をされたら、私たちはますます光から遠のいてしまいます。秘密保護法や改憲さえ通ってしまえば、原発なんていう隠れ蓑なしに、燃料商売、武器商売がもっと堂々とできるのです。

小泉さんが反自民、反安倍政権だという認識は本当なのでしょうか。反原発であっても秘密歓迎、改憲歓迎、戦争歓迎であれば、原発をなくして核兵器を保有となったら、と思うと恐ろしい限りです。私のクエスチョンはその点に尽きます。

細川さんが都知事選で脱原発以外を殆ど語らないのは本当にうまい戦略だと思います。ですが、本来それは都知事の仕事ではないです。確かに東京都は東京電力の大株主ですからスポンサーではありますが、どの程度力を行使できるのでしょう。私が悪の親玉で、「勝つ」ことだけを目的とするならそうします。でも誠実に仕事をしようとするなら、他の本来の重要な政策を語らなければと思います。

選挙は勝たなきゃ意味が無いというのも、詭弁だと私は思います。だって、ずっと負けてきたじゃないですか。大事なのは、多くの人が目覚めることです。そうしたら負けようがなくなります。そして今そうなりつつあります。これは、沖縄というお手本を見てください。勝ち負けじゃなく、結果に囚われずにずっと声をあげて来た人々のおかげです。どのような意見でも、声をあげてきた人がい続けたおかげです。被権力は権力を監視することが重要です。ここに勝ち負けはありません。人類の進歩は一見負けの積み重ねによってなされてきています。

長い戦いをして来た人にとってこれまでにない大物がこちらに微笑んでいるのは魅力だと思いますから反対はできません。ただ、また騙されちゃうんじゃないかと心配です。

そして、勝つにはこれしかない、これがわからないなんてバカだ、偽善者だ、非国民だ、という考えは痛々しいです。それだけがすべてだと思ってしまうと、世界は暗黒になります。

脱暗黒。脱戦争。そして、前向きな友愛と建設的な思考にはなんであれ神が後押ししてくれます。本当の勝利はどの道ずじを通ってやってくるか、人間にはなかなかわかりません。だから、いつ奇跡が来てもいいように、私たちはそこに向かって自己を開いているべきだと私は思うのです。

思想がなんであれ、人類に貢献している人は世界に大勢います。どんな小さなことでも。その思いのすべてが宇宙と地球と私たちを生かす神とともに働いています。

ノンジャッジメントと無条件の愛


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ノンジャッジメント。価値判断を手放す。ニューエイジ思想などでよく聞く言葉です。私たちは日常ありとあらゆる判断をしています。人生は毎瞬が選択の連続です。選択をするためには意識的にも無意識的にも判断をしなくてはなりません。ですからこの言葉の字面の意味だけで解釈してこれを実践してみようと思うととても大変なことになります。「勝手な思い込みによる判断をしない」などという注釈もあるようですが、ではどこまでが勝手な思い込みでどこまでが公正なのでしょう。実際人間の潜在意識は思い込みの領域です。本気で取り組むほど謎は深まります。

実際の取り組みにおいて、価値判断をやめよう、やめよう、というふうに力んでしまうのは人間なら当然のことだと思います。例えば正邪の裁きから離れるというのは、ただ離れようとする気持ちだけでは決してなしえないことです。離れていない自分を更に裁くことにもつながってしまいます。実際はそれに代わる更に高次の指針、基準が必要になります。そうすると、無条件の愛、という標榜が出てきます。

無条件の愛をあなたに送ります、などという言葉の虚しさ空々しさ。無条件の愛は念のように送れるものなのでしょうか。実際無条件の愛を実感することとはどんなものなのでしょう。

無条件の愛は、神の愛、高次元の愛です。神はジャッジしない。神は正邪の判断をくださない。あるがままのすべてである。無限で無条件ですべてでひとつです。私たちはそれを限りなく偏見や既成の観念を捨て去った眼で観じて、想像するしかありません。それを体験しようと取り組むのが瞑想することでもあります。

そして、神がもし人間という限りのある肉体を持って神のような性質を活かして生きるならどんなものになるのか、それはそれぞれの人が探求し行ってみて見つけるしかないのです。それを私たちは人間として想像し得る限りの霊的な理想として求めるしかありません。

価値判断を手放すには、霊的成長を前提とすることが当然のことながら必須です。神のように(神をお手本にして)生きてみようとする、つまりスピリチュアルに生きようと決めること以外、始めることができません。そうでなくて価値判断を手放すというのなら、無法者、破綻者になることと区別ができません。

しかし今の日本には神無きスピリチュアルが横行しています。スピリチュアルをなんとなく癒し系のようなものとして扱うもの、或いは霊的な指針やお手本なしになんとなく豊かに幸せになりたいという願望を叶えようとする都合のいいレクリエーションやビジネスの手段がたくさんあります。本質という核を持たずに、道標のないまま「より良さ」を追いかけることは、実は価値判断を助長することになりえます。目的地を告げずにタクシーに乗って走ってください、というようなもの。時間とエネルギーの浪費ばかりか環境(全体)に対する悪影響もあります。

ここでの価値判断における価値というのは、人間が生きてきたこの社会を合理化するために便宜上設けてきた良し悪しの価値観全体のことです。当然ある視点においてそれらはその時々で役に立ってきました。またよりおしゃれに、よりかっこよく、より洗練された、より豪華に、より美味しくなどの趣向における価値もあります。ですからそれら自体のすべてが否定されるべきものでも間違ったものでもありません。

しかし、その価値観を、愛という観点からもう一度見なおしてみるとどうでしょう。美味しさを追求する中に、愛情や、思いやりを込めることもできますし、利益や人々の賞賛を求めることもできます。また途中までは愛情と思いやりによって構築されたものがある時点でそれを失い、名声と利益だけがひとり歩きすることは往々にして起こります。その限度や臨界点を人間が常に点検し認識することは通常とても難しいことです。

更に、それを追随する者は、最初からその名声と成功という点に惹かれることもよくよくあります。選ぶ側も、それを見分けて選ぶことは難しく、いつもその観点から観ることをしていなければその物や結果だけで判断しがちです。

それは私たちが社会的規範や集合的無意識から来る価値から基準を設け、他者や物や自分自身を常に判断していることが原因です。そしてこの価値基準は、丁寧に見直されない限りは非常に曖昧で大雑把でありながら、すべての人、すべてのものごとをとても狭い枠の中に押し込めてしまいます。

「世の中は不公平だ。」「世の中は欺瞞に満ちている。」「世の中は危険で暴力的だ。」「世の中は何一つままならない。」そして私はそんな世の中に心底疲れている。
「私は普通のことが普通にできない。」「私は多くの人が普通にやり過ごすことをやり過ごすことができない。」「私は誰にも正しく理解されない。」そして私はそんな自分に心底疲れている。以前の私の心の声です。正邪や普通という基準に照らされ縛られた非常に窮屈な価値観です。

私たち人間は確かに未知をたくさん抱え、多くの誤解をし、無知な側面を持ち、手探りです。単なる心のつぶやきですら、私たちは人間社会の規範に基いて何かを裁いています。しかしそれでも希望を持ち、勇気に溢れ、立ち向かい創造することもできます。そして希望、勇気、創造は肉体保存の本能を超えた、人間の中にある神の資質のひとつです。

神という規範、高次の愛という観点から人間を眺めた時、私たちは悪ではなく無知なのであり罪ではなく誤りをしており劣るのではなく未だ知らない者です。そのような観方を内なる世界=自己と、外なる世界=その投影に対してするとき、私たちは価値判断から自由になっていると言えます。

つまり、社会の規範を自己のものとして受け入れ採用しながら同時にノンジャッジメントであるということは(無法者、破綻者でない限り)厳密には不可能なのです。社会の規範という既存の世界を手放し霊的な本質を世界の軸であると受け入れること、選ぶことで初めて私たちは無条件の愛の片鱗にも触れているのです。

心身の変化。


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昨年の春から豆乳ヨーグルトを自分で作って食べていて続いています。ほぼ毎日欠かさないどころか1日2、3回食べます。これはからだのためはもちろんですが、美味しくて、というのが半分以上かもしれない。

元々ヨーグルトが好きでしたが、牛乳のヨーグルトを食べて体調が改善したと感じたことはありませんでした。特におなか。特に便秘傾向には。

豆乳ヨーグルトを食べていきなり激変したわけではありません。初秋から、ラジオ体操と、和食の粗食を始めました。あと、お祈り。すると、激変が起こりました。特にお腹。特に便秘傾向。

あまり詳しくは書きませんが激変しました。47年生きてきてこの激変^^

ポイントと思えることを書きます。まず、植物乳酸菌。これは植物の世界をちょっと覗くと世界観が激変します。はっぱ、木の実、などには元々乳酸菌が生きているのだそう。実験なさった方のお話では、コーヒー豆、きなこ、小麦粉をはじめ、いろーんなものが乳酸菌発酵するそう。

ちなみに私は摘んできた月桃のはっぱ、よもぎで発酵液作りました。これははっきり言って楽しいです。なにせ子供の頃から科学が好き。

植物乳酸菌は動物性よりも強い生命力を持つらしい。なぜかというと、植物にはフラボノイドのような抗菌作用を持つ物質が多いため、それらに殺されない耐性があるそう。理屈はともあれ、作ってみると実感できます。

次に、世界遺産にもなった和食。一汁二、三菜です。私は子供の頃は偏食で、ごはんはほとんど食べないおかずっくいでパンが好き。お味噌汁も嫌いでした。和食とか定食のようなものが好きになったのは大人になってから。今では和食にしみじみ幸せを感じます。

沖縄へ来てから、新鮮野菜が手に入るようになって嬉しくて野菜と果物たくさん摂っていました。酵素も摂りたいので生物も多かった。それから暑いので、半年間続く夏は冷たいもの、ごはんもサラダ中心と麺などが多くなっていた。

結果、私は体重が増え(歩く量が減り、ステージで歌わなくなったのも大きかったけれど)だんなさんは冷えに拍車がかかったように見えました。

で、思い立って食を転換しました。この秋からなのでまだ本当に数ヶ月ですが。がんこにごはんと味噌汁がメイン。おかずは飾り、というイメージ。時には飾りが多くなったりもしますが。でも主役はごはんと味噌汁。と、私が強くイメージ。

これは、お料理も楽になって、心身とお財布にも優しくていいことばかりです。
無駄な外食も減りました。

思うに、植物乳酸菌とごはんと味噌汁の相性は抜群なのでは。植物乳酸菌の最適なエサになっている気がします。

味噌汁が楽しくなったので、味噌を三種類くらい日替わりに使ったり或いは合わせたり。沖縄はお味噌が豊富で、JAの直売所や道の駅で手作りのお味噌が買えたりします。今まで全部ヒットです^^うるま市の海中道路にある道の駅に行ったら玄米味噌、オススメです。

さて、ラジオ体操。はぁ?今さらラジオ体操?ヨガじゃないの?って感じですよね。私もそう思います。ヨガもストレッチもこれまで散々やりましたが、毎日、こまめに、短時間で気軽に、などのキーワードを統合し、効果を合わせてみると、ラジオ体操抜群の成果をあげてます。

これは私の体質にも合っていると思います。基本超低血圧で、パワーが足りなく、油断するとウツ傾向にダウンし、肺活量が少なくて呼吸が浅く、臆病で緊張しやすい。顔が青白い感じ。中医学で言うと肺虚の傾向にあるようです。これは長年のあれこれで大分バランスされてきたので今は極端に出ることはありません。低血圧と頻脈だけはあまり変わりませんが。

ラジオ体操を採用してみたのは、実はパラマハンサ・ヨガナンダジの教えている心身活性と瞑想を深めるための体操が、ハタヨガではなくてラジオ体操と演劇の訓練(野口体操みたいな)に似ていたからです。静めるというより活性し、緩めるイメージです。ヨガナンダ先生の体操がなかなか覚えられなかったので、ラジオ体操を、神に捧げるイメージでやることにしました。そうすると、わずか五分前後で明らかにエネルギーが全身に巡りパワーアップとバランス効果を感じました。ストンと力が抜けしかもセンタリングしている気持ちのいい感覚です。

やり方は色々やってみています。例えば意識を集中して、とか、呼吸を意識して、とか、ゆっくりと勢いなしで、とか。時に面倒な時は完全に気を抜いて適当に、など。でもどれでもあまり違いない効果を感じます。その点でもラジオ体操すごいです。

さて、プレ瞑想としてのラジオ体操も素晴らしかったので、瞑想と祈りをすることにしました。そう、どうしてこれまで具体的に祈らなかったのだろうとその時気づきました。効果がなくてがっかりしたくなかったのかもしれません。それで思い立って(よく思い立つのです。これが気づきと内なる導きなんですね)最高次元の根源なる神に、「私の便通を完璧にしてください」と祈りました。あからさまですみません。しかし、神はどのような祈りにも即座に応えてくれました。翌朝から完璧に改善されてしまったのです。

その後、もしかしたら一時的なものかと見守っていますが、素晴らしい改善は順調に日常になっています。ラジオ体操は気分転換、リフレッシュ、活性、鎮静、また筋肉バランスなど色々な効用があるようです。

余談ですが、レイキのアチューメントを受けただけで、慢性のお腹の不調が毒出しと共に劇的に改善されたというご報告も立て続けにいただいています。自律神経に宿る神の仕業は私たちのカルマの解消とともに姿を見せてくれることがよくあります。

エドガーケイシーは「私たちのからだは日々の思いと食べ物でできている」と言い「食べ物には二種類ある。身体をきれいにするものと汚すものだ」とも言っています。栄養価なども大事ではありますが、それよりも、身体の内なる働きを邪魔するものはなるべく入れない。摂るなら助けるものをというのが私の基本姿勢です。また嗜好品はとびきりの感謝とともにいただきます。

私たちがあらゆる固定観念から自由になり内なる神と同調できるようになれば、食物は生命を生かすのに不要になると言われています。まさに人間はパンのみにて生きるにあらずです。炭素を媒体とせず光から生命力をいただく。神から直接生命をいただくわけですね。まずは心の毒の排泄をスムーズにすれば、からだに入れたい食物の選択もとてもしやすくなります。身体の前に意識ありです。

忘れていました。植物性乳酸菌の豆乳ヨーグルトの作り方です。最近はもち米で作る味が気に入っています。私は500CC弱入るジップロックのスクリューキャップのタッパを使います。これを最初に煮沸消毒。
ここにもち米を大さじ2~3杯。
黒糖(私はてんさい糖)を小さじ1。
海塩ひとつまみ。
豆乳(私はスジャータのおからまるごと豆乳)いっぱいに入れます。

米は気になる人はざっと一回洗ってください。私はそのままいっちゃってます。
あと保温します。夏場は置いておくだけですが、冬は発泡スチロールの箱に熱めのお風呂くらいのお湯をはって一緒に入れます。アンカや湯たんぽでもいいです。最近はヨーグルターを一緒に入れちゃってます。アンカ代わりに。なんて雑な。

沖縄では暖房をあまり使わないのですが、内地だったらストーブのそばに置いておくだけでも大丈夫だと思います。

ひと晩から丸1日でできます。発酵してパンパンになるので飛び散り注意です。

平和を祈るなら。


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平和祈念堂(糸満市)の祈りの像。

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心惹かれた一枚。

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平和祈念資料館。

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平和の礎。

何度も行きます。沖縄で最高の場所のひとつだと感じます。

旅の終わりと幸せの始まり。


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「旅と放浪の違いはなにか知っているか」という映画のセリフがあった。旅には帰る場所があるけれど放浪には帰るところがない、だったかな、なんかそういう答えだった気がする。

その本当の意味を考えているうちに、その違いや答えはどうでもいいという気になる。どっちにしろ、帰るべき場所を見つけることだけが人生の目的だからだ。

人生が旅に喩えられるのは、だからかもしれない。しかし実際の旅をしようが放浪をしようが、帰る場所を探さない限りそれを見つけることはできない。そして旅しようが放浪していようが帰る場所を見つけることは可能だ。

人生の目的としての帰るべき場所は、外側の世界にはなく、ただあなたのうち側に存在している。しかしそのことを知っていようがわかっていようが、それは真剣に探さないと見つからない。本当に真剣に、求め、探さないと。探求しないと。

なぜなのか。それはあまりに真実すぎて、嘘がなさすぎて、単純な真理すぎて、複雑な頭を持った人間には受け入れることができないから。信じられないから人間は見て見ないふりをする。

だから、他のところを可能な限り探しまわってひっくりかえして、そこらにはないことを確かめるまで、探すべきところは探さない。すぐに見つかってしまったら困ると信じて。旅の最後までとっておきたいと願う。

それが見つかったらどうすればいいのだろう。答えは簡単。そこで幸福に生きればいいだけだ。

エネルギーを整理する。


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今月も半分が過ぎようとしています。早い早い。時間をいーっぱい使い切りたいものです。時間を使い切るにはどうすれば一番いいかというと、私はエネルギーの整理整頓だと思います。そうすると時間は増えます。

時間を有効に使うことを、予定をびっちり入れたり、たくさんこなすことだと解釈し、それを目標にしてしまうことはありませんか。私は以前はそうだったと思います。そうしていると一時期は気分がよかったり達成感があったりしますが、何かの折に、全く以前と変わっていない自分に気づきます。それは人間性を試され、感じ方、受け止め方、対処の仕方が問われるような出来事です。成長した自分として対処しようと奮闘するのですが、格闘の挙句、結果は似たようなものになったり或いは終わった後の気分が敗北だったり、成長していなかった自分と出会うことになります。

エネルギーの整理整頓には、エネルギー漏れチェックが必須です。漏れチェックのためには1、ベクトル確認と、2、要不要確認があり、これらができるとかなりすっきりし、結果として時間の無駄遣いや回り道がぐんと減ります。

これは正確に言えば、意識のなかで心はなにをしているかを観るということです。まさしく瞑想ですね。心は意識のあるあいだじゅう、動きまわり、何か仕事をしていますがその仕事が建設的か、或いは破壊的かによって生まれるエネルギーが変わってきます。

建設的な仕事とは実際には「囚われなく柔軟で自由な流れ」をしていることです。魂は前進し、成長します。これが自然の姿だからです。破壊的な仕事とは反対に「囚われ硬直し膠着した」状態であることです。

前者では心は自然な反応と適切な対処をします。そして必要があったり考えたいことに意識を向けられる状態です。後者ではなにをしようとしてもなにかが心に引っかかっているのでなにをしても充分でない感覚が残ります。晴れない、すっきりしない、もやっとする、という状態です。

後者の状態をそのままにしておくと意識はこのひっかかる異物をなんとかしなくてはと反応し始めます。危機がある、敵が近くにいる、バイキンが入った、というような認識をし、それに対処します。対処法というのが戦うか逃げるかというやり方です。攻防戦です。見えない相手なので、その攻防は脳のなかで起こり、思考を使ってなんとか撃退しようとしたり(理屈で勝ることで負かすとか理論で決着をつけようと)したり、五感で不快を感じないように麻痺させようと(お酒やタバコや娯楽や恋愛などの快楽に没頭することを選ぶのも方法のひとつ)したりします。ピリピリして怒りっぽくなることも、無気力で無感覚な状態になることもあるでしょう。

この身体の対処法は緊急避難的なやり方です。その間になにか糸口が見つかって気づき、ほぐれ、手放すことができれば問題は去り緊急体制は解除されます。しかし緊急避難によって解決したと思い込んでしまうと、私たちはこの緊急避難を常用するようになります。そうなってしまうと異物は核を手放すことなく保留され奥に刺が刺さったまま周りを塗る固めることになり、治癒は遅れてしまいます。

この状態が何日かつづくことがあれば何十年と続くことがあります。特に子どもの時に作られた核は、存在さえ忘れ去られます。これが幼少期のトラウマなどと言われるものの正体で、この核を中心に大人になっても何度も上書きされたり、似たような核を作っては緊急避難を繰り返したり、或いは緊急避難対処をすることが日課であったり目的のようになっていたりもします。

これくらい古くなった核を癒やすには適切なやり方が必要になります。簡単に言えば感じきることですが、これは一人では容易ではないでしょう。ポイントを絞った瞑想であるヒプノセラピーや高次元波動のヒーリング、的確な問いかけなどが最良だと私は思います。いったんそのお掃除が済んだ後は、エネルギーの整理整頓がとてもしやすくなり、また整理整頓の効果もぐっとあがります。

そうするとベクトル確認=私の心は今なにをしていますか?充電=愛することでしょうか、漏れ=破壊行為でしょうか、というこの意味がわかりやすくなります。そして、破壊行為であれば、それは必要でしょうか、不要でしょうか、と問いかければ、無駄なことをしているかどうかがはっきりとわかります。この作業で内面を解決、解放し、エネルギーの整理ができ、ロスが減って、魂と歩調を合わせて歩くことがしやすくなるでしょう。

文章で伝えるのは本当に難しいのですが、セッションを受けてくださるとわかりやすいと感じていただけるのではと思います。やはりご自身の実際に則した実践には個人セッションが一番の早道なのです。大勢の方に一度に伝えたいと以前は考えていたのですが、本当の実践と実感を個人セッションでご体験いただくことが実は着実な前進なのだと最近は納得しています。

運命。


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『自分自身を変えると決意しなさい。そうすれば、あなたは運命を自分の意志に従わせることが出来るようになります。』 ―パラマハンサ・ヨガナンダ

私は人生の前半、常に運命から逃げまわり、運命に追いつかれないように連続でダッシュし続けていたように思います。ゆっくりしていると次から次へと困難と苦しみが押し寄せてきて、人生が問題の対処に追われて終わってしまうように感じられました。逃げまわるほど悪いことをした覚えはないのにやってくるのは考えるのも恐ろしいようなことばかりでした。そしてそんな状態から想定する未来はろくでもないものばかりです。そんな未来と出会わないために必死で別の未来を探していました。そして「これさえ手に入れば」「これを変えることができたら」といつももがいていました。

そんなみじめな状態であると同時に頭の中では「自分は本当はこんな人生を送るはずではなかった」「自分はもっとできるはずなのにやれることをやっていない」という焦りでいっぱいでした。

常に全力でダッシュしているのですから、それ以上がんばろうとすると心の糸は張り詰めすぎていてすぐにぷっつりと切れてダウンしてしまい、またそんな自分を責めていました。なんてがんばりが効かないんだ、なんて弱いんだ、なんて怠け者なんだ、というふうに。また、家族に精神病を患う人がいたために、自分もいつそちら側へ行ってしまうのだろうかと内心いつも恐れていました。そして、そんな自分になってしまった原因を探し回りました。スピリチュアルについて少しずつ学び始めてみても「今の良くない状態を作った理由」ばかり探しては見つけるだけで、長いこと解決にも繋がりませんでした。

そんな私を知っているのは目の前で見ているのはほんのわずかな友人と、やや遠巻きに感じていた家族だけです。とても危うい不安定な自分のことは社会や仕事場では極力隠さなくてはなりません。時には自分にさえも隠していたかもしれません。ところが恋愛となると内側にいる自分の素顔が否応なく出てきます。いつも恐れ、ビクビクし、未来を思うだけで疲れ、自分の欠点が気になり、愛されるのは表向きのいい顔をしている自分だけだと信じていた自分。相手を必要だと思うほどにこの内側の自分の気持ちが出てきて、どうしても愛され続けることは不可能だと自分に信じさせます。ですからどんなに楽しい華やかな日を過ごしても1日の終わりには孤独な気持ちに襲われ、きっと人生の結末はこんな気持で終わるのだろうと思えるのでした。

真理を表す言葉の中に「自分が与えたものが自分に返ってくる」という教えがあります。私は幼い頃から心に理想を持ち、人生を意識的に生きようと努力していました。10歳になったときはっきりと意識してそう思いました。そして「優しい人でありたい。そのためには強くならなくては」とも思っていました。ところがおとなになる頃にはすでに人生との格闘に疲れていて「元気?」と聞かれて「元気」と心から答えられたことはありませんでした。そしてとてもじゃないけれど自分が与えたものが自分に返ってきているとは思えませんでした。ですからこの世でなにを信じていいかも見失っていました。

この言葉の意味がわかったのは30歳少し前です。言葉もこの通りではありません。本当は「自分が【自分に】与えたものが自分に返ってくる」です。こう考えてみると、これは確かにそうなっていると納得がいきます。私は自分に対してダメ出しばかりしていて、自分の中にいて居心地がいいと感じたことがありません。芝居を始めてからは唯一芝居の稽古をしているときと舞台に立っているときにそれを感じましたがそれもごく限られた条件の下においてのみだとだんだんわかりました。同じような思いで芝居を創る人たちと一体になったときだけです。それはプロとして演技をする上においてなかなか簡単に巡り会える条件ではありませんでした。

当時は自己愛が強いように見られましたが、その愛はとても未熟で幼い愛でした。気に入っているところは愛せるけれど殆どの部分は早く切り捨ててしまいたいと思っていました。つまり自分の殆どの部分は気に入りませんでした。そしてこういう思いこそが「私が自分自身に与えていたもの」です。

そのように自分の内面を見なおしてみると、私は自分にろくなものを与えていませんでした。他人に褒められて初めて自分を認めることができ、その褒められる部分というのはなにか格別に他者より秀でた部分だけです。ですから私は自分の中の殆どの部分を認めていない上にその認める基準も自分ではなく、他人の賞賛によるものでした。

このことに気づいてから私は自分の中身を徹底的に洗いなおす作業を始めました。自分が自分の内面でなにを与えているのか。常にチェックをし始めました。生活のためにしていたアルバイトの最中は格好のチェック機構でした。自分が自分に与えた思いが即座に周囲の反応として返ってくるのを実感しました。私はまず、日常をつつがなく送るために全力で自分に対する思いを変えていきました。そうしてみると、実際周囲が自分に対してとる姿勢というのは、自分が周囲になにをしたかではなく、自分が自分をどう扱ったかに同調していました。つまり「自分を尊重すれば周囲からは尊重され、自分を可愛がれば周囲から可愛がられ」ました。

この法則は真実です。なぜそんなにも真実なのか、それはこの法則が更に深い真理に基づいているからだということが後になってはっきりとわかりました。それが「世界は外側にはない」という真理です。内面(意識界)が真実で、外側(物質界)はそれを映し出す鏡であり、スクリーンに映し出された映像に過ぎないということです。ここまでは概念として理解していましたが、当時は外側を整えたいがために内面を変えていく、というのが私のやり方でした。ですから当時の私は仕組みはわかっているつもりでもまだ外側は在ると認識していたのだと今ではわかります。

本当に世界が完全にひっくり返ったのを体験したのは沖縄へ来てからです。その間にももちろん進化はしてきていましたし、一歩ずつ内面を変えることで世界は変わりつつありました。そうでなければどんでん返しを体験することはなかったと思います。36歳くらいまでに私は古いカルマの片付けをコツコツとやっていたのだと思います。意識の仕組みを知り真剣に実践し始めたのが27歳の誕生日からでしたからまる9年経ってのことでした。取り組みの中で最も重要で大きく浄化を進めてくれたのは瞑想です。そして36歳の誕生日に朝から何度も、私は内なる声が「ああ間に合った、間に合った」と言うのを聞きました。それがなんのことを言っているのかは当時なんとなくしかわかりませんでした。古いカルマを手放す準備ができて、なんとか今世の目的を果たすための下準備が間に合ったのだと今では言うことができます。

世界がひっくり返ったのは、おぼろげにも目的だと思っていたものが無かったこと、そしてこれまで原因だと思っていたものも幻想だったこと、そして世界は自分の中にだけあるということが当たり前になったこと、その世界には神と私だけが存在していることがわかったことによってです。ここまできて、私はクリアになりました。同時に世界がクリアになりました。

みなさんがもし、このクリアというものに惹かれるのであれば、瞑想以外に近道はないと思います。瞑想が自然に出来る状態になるためにはヒプノ、レイキなどの潜在意識への働きかけが役立つと思います。そして自分で出来るワークの手立てとしてはACIM『奇跡のコース』が、その前段階として『神の使者』が役立つと思います。

私の個人的な体験としてこのクリアな世界へのガイドでありティーチャーとなってくださったのが、マスター、パラマハンサ・ヨガナンダでした。私はアメリカ発のスピリチュアリティーの著作を数えきれないほど読み実践してきましたが、その源泉を東洋のインドからアメリカへ実際に伝えたのがヨガナンダジです。実際あらゆるスピリチュアルの叡智の本質と全体がヨガナンダジの教えの中で見つかりました。ヨガナンダジの教えが真理だとすればその他の多くのスピリチュアルの教えは、長い鼻はゾウである、太い足はゾウである、と言っているようなものでした。ゾウそのものを見たことがない人の言葉のようです。ヨガナンダジはゾウをゾウだと、あるがままに教えてくれます。

私は彼の言葉に出会ったとき、これまで自分がして来た旅の答えはここにあると感じました。そして彼に心から「帰依します」と、初めてこの言葉を人生で使いました。すると私の瞑想の質が激変しました。そして光として高次元のエネルギーや存在を目で見るようになりました。彼の導きや愛を実在感とともに感じることができます。ヨガナンダジは私がこの人生で見つけた最初で最後の完全な師です。彼の肉体は今この世にありませんが、私の内側で私は師の声をとても近く聴くことができます。ひとたび本を開くとその言葉が声となって響くのです。

今となっては私の人生がどのような運命であったか、というのは全く問題ではありません。運命というのは、カルマに縛られている間だけ、重みを持ち存在しました。しかし苦しみの中にいるときこそ、私たちは自分を変えるという選択肢を差し出されます。その差し出された選択肢をその手で掴むことさえできたら、本当の自分に還る道を歩むことができます。

新年によせて。

平成26年、2014年、あけましておめでとうございます。沖縄はお正月、素晴らしいお天気に恵まれました。渡沖からあと6日でまる5年になります。なかなか沖縄ビギナーの気持ちが抜けませんが(それほどに奥が深く学ぶことが多いから)少しずつうちなーのちむぐくるに寄り添えるようになっているのも感じるこの頃です。主人とともに、沖縄へ来てくれてありがとう、と言っていただけることに深い感謝を感じます。本当に、来てよかった。ありがとう、沖縄とうちなーんちゅのみなさん。

知念具志堅に住んで初めてのお正月です。除夜の鐘は聞こえなかったけれど、花火の音で新年を知りました。あれは糸満の観光農園だったのでしょうか。今年はまだイルミネーション見ていません。今日までですね。このイルミネーションは、平和への祈りが込められているそうです。すべてのイルミネーションがそうであればいいと思います。美しいものを見て心動かされるのは、人間の心が美しいものだという証です。心が内なる神を思い出しているからそうなるのです。この世のあらゆる美しいものはそういう役割を持っています。

音を聞いて窓から花火を探しましたが見えませんでした。でも音で充分。それから夫とふたり、ヨガマットの上で正座で(笑)向かい合って新年の挨拶と抱負を互いに言葉にしてから、瞑想しました。根源なる神とすべての聖なる存在、それから家族全員、私と御縁のある人すべてに感謝を伝えていると、あっというまに30分以上が過ぎていました。途中、自分のからだのことを思い出そうとしましたが、よく思い出せませんでした。意識(スピリット)の次元にちゃんと行けているんだなーと、あとで思いました。でも意識では、ただ、感謝を伝えているだけです。そうしていると、感謝が拡大していって、世界が感謝だけになってしまいます。瞑想って、とても楽しいですよ。あれが現実世界で、こっち(物質界)が幻想世界なんです。瞑想するってことは現実世界に戻ることなんです。現実世界に戻る道と癖をつけてくれるのが瞑想です。そのクセづけができてくると、祈りは神との直接対話になります。

翌日元旦は首里末吉町の末吉宮へ初詣。神社仏閣巡り大好きな風間家二名は、普天間宮以外の沖縄八社にはすべて詣でています。そして金武以外すべてを自転車で廻ったことがあります。しかしこちらへ来た当初は初詣ひとつとっても沖縄の歴史を学ばずには通れない道がありました。神社とは。信仰とは。歴史とともにそれらの出来事に対する思いがわからないと、習慣の違いを理解することも困難です。

末吉宮と、社がある末吉公園も、戦火に焼かれたそうですが、今は本当に美しい場所です。ダイナミックな自然の様相も、人びとの思いによって守られています。1485082_438026042993275_694223578_n

1521997_438026036326609_1307581788_n元旦でありながら、行列も混雑もないところも私たちには魅力なのですが、それでもさすが元旦の日中で、人がいるね、と何度も小さく驚いてしまいます。

帰ってきて心の中に楽しい記憶として残っているものを探ってみると、それは道々、すれ違う人と交わした挨拶でした。「こんにちは」「おめでとうございます」。実は、人を元気にするのはこういうことかもしれない。主人から全く同じ感想が出てきたのも印象的です。

10年以上前になりますが、NYに歌を歌いに何度か行って、心から魅力を感じたあの町の思い出も実はそんなところです。あれだけ人が多く文明が進化した町で、目が合うと挨拶したり、後からくる人のためにドアを開けて待っていてくれたり、電車で隣り合った時間だけ、身の上話をしたり、ちょっと肩が触れただけでも目を見てごめんね、と言ったり。そういうことが普通にできる町って、歩くだけで元気になるのです。10年以上経っているのに、そういう言葉を交わしたシーンをはっきり思い出せるから不思議です。NYでやっているのだから、東京でもできるのではないかと思うのですが。最近の東京はそうなっているかしら。だったらとてもステキだけど。

私自身もとても警戒心の強い怖がりさんで、そうそうオープンにできない心情にも共感します。本当に必要な場面もたくさんありますし、それによって、予め避けることのできる困難がたくさんあります。NYなどという場所は、そういうことをきちんとしていないとひどい目に合う可能性は東京の何倍も大きい。もしかしたら、そういう暗黙の了解(自己責任)の認識を共有できているからこそ示すことができる友愛なのかもしれません。

今年も、みなさんの意識とともに、世界をともに創っていきます。ますます意図的に、意識的に。どうぞよろしくお願いします。


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