瞑想の成果


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アズさんは、瞑想や自己浄化をしてきて、今どんなですか?

そうですよね。結果どんなふうになったらOKなの?どうなることが目標なの?と思わないわけがありません。
私は自分との長旅をしているので、道すがら本当にいろいろな局面も体験してきました。

多くの人が期待するであろうような状態を目指していたことももちろんあります。
でも今は、その目的と、おおむねの目標は見えるようになりました。
そして多分、そこからそう大きくぶれることはもうないだろうと思います。
違う何かを求めることはなくなりました。

結果がすべてだ、というのは今も変わっていないところです。
ただし結果、というのは、今のありのままという意味です。

人生の探求は仮説とそれに基づく実証です。
パラマハンサ・ヨガナンダジは「この世は神の実験劇場だ」とおっしゃいましたが、本当にそうだな、と思います。
被実験者でもある私たちは時にその実験の目指すところや意味がわかりません。
しかし私たちの本質は実験者とひとつです。
ですからどれだけ巻き込まれていようと、混乱していようと、まず動きを止めて抵抗をやめ、それから内面を意識すれば、私たちとひとつである実験者の側へ寄り添うことができます。
これが瞑想です。

瞑想は一度に成果を期待するものではありません。
もちろん一回での成果でさえも驚くべきものではありますが。
本質に寄り添う時間と体験を重ね、ついに感情レベルでも思考レベルでも肉体レベルでも、その本質こそが真実なのだと感服するまで、やめないことです。
そうすると、人生の目的というものが見えてきて、もうそれ以上はいらない、ということがわかります。
これは言葉にすると簡単ですが、実際は体験してみないとなかなか納得いかないか、すぐにぶれます。

アズさんは完全なの?と言われると決してそうではないですし、感情や肉体の苦痛も普通にあります。
ありますが、それがなんなのか、今起こっていることがどんなレベルの何であり、何が重要で目指すところはどこか、というようなことを微細に認識し、そしてそれを癒す道は知っています。
また自分ですぐにはできないことも、どのように願い、どのように努力すればいいのかもだいたいわかります。

瞑想は、意識の波長を高めます。
そうすると、単純に言えばものごとの優先順位などが自然にわかるようになります。
ヒーリングを始めると、理解できなかったことが急に理解できたり、頭で理解したことがすとんと腑に落ちたりということがよくあります。
(いつも言いますが、ヒーリングもヒプノも瞑想と同じです。)
人生の質を高めるとは、時間の価値を変えていくことでもあります。

インナーチャイルドから学ぶ子育て、人間育て。


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このところ、ご家族からご家族についてのご相談が立て続けにありました。

心は家庭で培われます。学校が、友人が、社会環境が、色々な影響があるから、一概にそうではない、と理性的な人は考えるかもしれません。しかし、本当はそうはなっていないのです。

家庭の中でももっとも影響力を持つのはお母さん。どうしてお父さんではないんですか、同じではないんですか、私はほとんどおばあちゃんに育てられました、よくよそへ預けられていたので、育ての母の影響が強いと思います、など、色々な声をうかがってきました。そして実際に退行催眠で見た世界では、やっぱり産みの母はその人の世界観の最初の起点を作ることが確かめられます。

潜在意識の基盤は3才くらいまでにほぼ作られてしまうと言われます。それは、普通に肉体の成長のことを考えても理解ができることです。3歳までの脳の発達はすごいスピードです。その3年間に覚えること身に付けることの量といったら、驚異的ですらあるでしょう。

たとえば耳は、胎児の6ヶ月くらいから聴くものを記憶し始めるそうですが、まず身近な音は心臓の音とお母さんの声、お母さんの体内音かと思います。絶え間なく鳴っているお母さんの心臓の音。人間には心地よく落ち着くテンポと、逸る(はやる)テンポがあります。これも本能的な感覚、つまり潜在意識の記憶から来ているとも考えられますね。それで、赤ちゃんによってはお母さんの心臓の音のテンポがストレスとなることもあるかもしれません。逆に、いつまでもここにいたーい、どこにもいきたくなーい、と思ってしまうほど、居心地よく響くこともあるかもしれません。

ここでひとつ確認しておきたいのですが、色々と勉強なさるお母さまに限って、ものごとを良し悪しで考えがちです。たとえば心臓の音が早いことが胎児期のトラウマ的な影響を持つ可能性はあるかもしれませんが、それはその赤ちゃんの課題です。またお母さんの心臓の音がゆっくりで心地いい早さだったために、その赤ちゃんはのんびりしすぎて、動くことに消極的だというような反応を持つかもしれませんが、それもその赤ちゃんが持つテーマになります。どちらにしても、それはお母さんへの評価ではありません。

多くのお母さんが、悪影響を与えることを恐れているように見えます。確かにこういった知識が広まる前に、もっとたくましく世の中を生きてきたお母さんからやや雑に扱われたことで傷ついた経験のあるお母さんは今、多いかもしれません。ですが、それは、自身が取り組むべきテーマです。お母さんがこうだったために、今の私がこうなってしまった、と思っている人は、自分の子供への悪影響を消したがっています。私はああはなりたくない、したくない、という気持ちです。私が癒やされる前にもし母になっていたら、間違いなくそう思って子育てをしていたと思います。ですが今度は、そういう恐れ自体が、否定や萎縮や消極性というような抑圧となって子供に何らかの影響を与えます。

実際のところ、どうしてみてもお母さんの影響の多大さというのは消すことはできません。たとえば、生まれてまもなく産みのお母さんを離れ、別の女性に育てられたという人でも、インナーチャイルドの声を確かめてみるとそれは、産みのお母さんと離れてしまったことの方が、育てのお母さんとうまく行かずにいじめられたり愛されなかったことよりも重大であることを示します。

これがどういうことかと、かつて検証しました。それはひとつは胎児期の記憶によって生まれる前からすでにお母さんとの絆はできているため、その母の喪失の傷が大きい。もうひとつは、魂は母に宿るときにすでに父母を選んで(父母の波長に引き寄せられて)生まれてくる。つまりその父母から愛情の基盤を与えてもらおうと決めている。それが叶えられないことへの喪失の痛みは大きい。

つまり、たとえ産んですぐにいなくなったとしても母の影響力を避けて生きることはできない、というふうに私は理解しています。ですからお母さんはお子さんに、惜しみなくご自身の持てるものすべてを与えてあげてください。それを踏み台にして、時には反面教師として、心置きなくお父さんとお母さんを超えて行くことができるように。

もし家庭内でお母さんがしないほうがいいことがあるとすれば、パートナーの愚痴や悪口を子供さんに聞き役にさせることでしょうか。子供さんは二人の愛の結晶としてこの世に誕生していますので、その片割れを否定されるのは自己存在を根底から否定されていることになってしまいます。子供さんの前で喧嘩して仲直りすることのほうがうんと罪がないと思います。お父さんはただでさえ子供さんと触れ合う時間は少ないもの。子供さんがお母さんを愛したいようにお父さんを存分に愛することを妨げることはしないであげてください。両親の関係は子供の世界観の天と地そのものです。天と地がそり合わない世界は不安です。見せかけの穏やかさよりも、お母さんの幸せ度を子供は感じ取って吸収しています。お母さんが子供をいかに愛しているか、というより、お母さんが自分を愛しているか、またパートナーを愛し、幸せか、ということは、子供にとって一番重要な、愛情における満足度と、根底的な自己肯定感に直結してきます。

ですから、お母さんは、というか、すべての人は全力で幸せになる努力をしていいのだと私は思います。当然ながら幸せというのは、真実の自己を生きるということなのですが。そうやって自分と向き合い自己の人生を存分に探求し満喫し、人生を愛しているお母さんがいれば、たとえば離婚など家庭の崩壊があったとしても子供はなお、そこから満たされることが容易になります。家庭というのは格好や構えのことではなくて、もっと言えばパートナーシップであり、そこに生きる人の価値観、人生観の交わりでもあります。

祖母のちぎり絵
祖母のちぎり絵

どこにいて何をしているかに気づく。


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先日の台風19号のあとは、この上なく爽やかな秋らしいお天気が数日続きましたが、ここは沖縄、再び蒸し暑さが戻って参りました。わかっていてもつい、このままこんな感じでいくんだっけな、と思ってしまう、四季に馴染んだ内地育ちです。勝手にからだが来るべき寒さに対して構えているんですね。頭ではそうはならないと思っていても。

心の反応というのもこんなことが無意識にいつも行われています。これらは悪いことではなくて、潜在意識の中でも肉体存続のための重要な仕事です。

けれどもこの反応が自分自身だと思ってしまうと、自分というのはとても限定された不自由な存在に見えてきます。まるで、生き延びるために生きているみたいに。

瞑想はこの小さな枠から抜け出す唯一の方法です。

私は以前はそうだったのですが、意識について、考えることがすべてだと思っていました。これ以上ないほど突き詰めて考える。あらゆる想定をし、検証する。でもそのやり方で人生を進めると、あっという間に壁に突き当たります。どうしたって人間は不遇な生き物なのです。のんきに生きられるのはその不遇さに気づいていないだけだ、というふうに思えます。牢屋に入れられていても、牢屋の外を想定しなければ不自由ではないのです。ですがいったん想定すれば牢屋は地獄と化します。そうなると、知らぬが仏、要は気づかないことのほうが幸せ、ということになります。そんなことでいいのか、というのが私の以前の悩みでした。

でも、結果、そうではありませんでした。そうでない道をみつけるには、まず自分が牢屋にいるのだということに気づく必要があります。そしてそれに不自由さなりなんなりを感じて、出る方法なりなんなりを真剣にみつけようとする必要があります。

そして結果的には、本当に必要なことはそれだけでした。今、どこにいて、なにをしているのか、気づきとはこのことです。

求めよ、さらば与えられん、というのはこのことを言っています。欲望のままに欲しいものを求めても、無限に与えられないことを人は薄々知っています。しかし、人間が本来の自己に戻ろうとするとき、天はその叡智を惜しみなく与えてくれます。

これは夏の志喜屋ビーチ
これは夏の志喜屋ビーチ


赤ちゃんの記憶に戻ることの意味


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インナーチャイルドワークを生業にしていると、特異な体験は多いのですが、たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんの声を聞けるという特典があります。

赤ちゃんはおぎゃーと泣いて生まれますが、感覚器官はだいたいできあがっていますので、いろいろなことを感じて、そして記憶しています。

(たとえばこの世に生まれでたときの感想は「まぶしい」である人は多いです。)
その頃の体感から得た記憶は潜在意識にすっと吸収されて、一生涯、また生涯を超えて記憶されていくこともあります。

そして、潜在意識にアクセスすると当時の印象的な記憶が思い出されます。

当時は言葉を操れないので、記憶は言語化されずに、もやーっとした「かんじ」で記憶されています。その「もやー」がなんとなく不快であれば言葉に出来ない不快さの記憶はなにかのきっかけがあるごとに再浮上します。

感覚器官は五官全体で協力して働いていますので、たとえば「お母さんが見えなくて不安だ。お母さん来て抱っこして」という欲求があるときに、外は風がびゅーびゅー吹いてガタガタ音がして、部屋は薄暗くて空は暗雲立ち込めているのが見えるとすれば、不安で寂しく満たされない欲求と、風の音と暗雲の空はセットで記憶されます。

おとなになって、風がびゅーびゅー吹いている音を聞くと、または暗雲立ち込める空を見ると、なんとなく不安なのはわかりますが、それ以上に孤独感や、自分は満たされてない、そして満たされないのではないか、というような思いや、自分はちっぽけな存在でどうにもできないや、というような無力感や諦めまで感じたりすることもあります。

インナーチャイルドワークはトラウマを癒やすことで有名ですが、この世にあるすべての人は心にクセを持っています。そして「私はこういう性格だから、これが私だから、仕方ない」というふうに受け止めていることでしょう。しかしながら、それは感覚的な反応の仕方のクセに過ぎません。最初に刷り込まれたパターンを繰り返しているだけなのです。レコードが何度も同じ音を奏でるのと同じです。脳に刻まれた電気信号の経路を往復しているのです。

こういったもやーとした記憶を再認識して感じ直してあげると、もやーがくっきりした自己の体験としてしっかりと認識されます。そうなると人間の処理能力(自然治癒力のような)は機能し始めます。言語化されることで整理され、しまうところといらないところがはっきりとします。また感情化されることでそのエネルギーは完全燃焼されます。この作業は「気づき」があれば自然に行われる部分です。自然というのは、内なる神の仕業という意味です。これらが「浄化」です。

ワークは、トラウマだけでなく、もっとずっと広い意味で機能します。その人の性格と言われているような心のクセ、言動、コミュニケーション、家族関係、恋愛、パートナーシップ、子育て、介護・・・すべての関係性における反応のパターンを見直し、限界の壁を取り払うことを可能にします。

余談ですが、潜在意識に取り組むことが成功哲学などに応用されるのはこういった仕組みよるものです。ですが私は、この仕組みをただひとつの現世的な目的のために「鍛える」べきではないと感じています。それは不自然な、新たな歪みをもたらす可能性があります。潜在意識の更に中心には本質が座しています。それは神聖で崇高で優しい、真実です。私たちは意識を扱うとき、いつもこの本質をその背後に観ながら、謙虚にそっと躙り寄る態度で臨みたいものです。それは本物の無限なのです。

限界の壁を取るとどうなるのでしょう。

それが本来の姿に近い自分自身ということです。

癒しとゆるし

虹は神が二度と人間を滅ぼさないという約束のしるしだそう。
虹は神が二度と人間を滅ぼさないという約束のしるしだそう。


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インナーチャイルドの本を開くと、「潜在意識に毒をもたらし傷を作る原因となった親を必ずしも許す必要はありません」とあります。ここでの「許す」は、親に許可を与える、というような意味に見えます。

「あなたは私に著しく悪影響を与えましたが、私はそのあなたを許します。あなたは自由です」というのはなんだか不自然でいびつでいかにも力みが感じられます。インナーチャイルドの癒しにはそういう不自然な力みは必要ありませんよ、と著書は教えているのかな、というふうに私は受け取ります。

しかし私は癒しには赦しが必要だと思います。理論上でも体験上でも。この赦しは、自分が自由になることとひとつです。自分が自由になる決意をし、そして、その主権は、おおいなるものに委ねます。そうすると、その動きに必要な流れやうねりが起こります。そこでいろいろな方法や人などとの出会いが起こります。それらは聖霊の引き寄せによって起こるイベントです。

ゆるしに関して多く見られる見解として、頭と理論できっちりと結末をつけて納得することをもって、許した、と決めているケースがあります。何を隠そう私がそうでした。理性で許すことがいい、必要だ、と気づくことはすばらしい前進なのですが、理性での納得を赦しだと思ってしまうと、赦しの効果はとても薄くて、ちっとも自由と幸福へは近づけません。インナーチャイルドは更なる要求を強いられ、抑圧に耐えなければならなくなり、苦痛は大きくなるばかりです。そして、「こんなに努力しているのに、どうして私ばかりが苦しむの?うまくいかないの?」という怒りが増します。

そう、こういう壁に当たる人というのはとてもとても努力しています。努力とともに非常な忍耐を重ねています。そして、もっとやらなくては、と感じています。

そして当然勉強もしているので、やってはいけないこと、と言われていることをやらない努力もしています。怒りを抑え、感じないようにし、感情的にならない努力をしています。人に与えたものが自分に返ってくると信じ、他者へ気を配り、思いやりある態度で接しています。にもかかわらず、自分のことをちっともすてきだと思えなし、自分のことがわからないし、いつもぎりぎりまで我慢しがんばるのが普通なので、自分にはちっとも優しくありません。それで、周囲の人も、自分が与えているほどは自分に与えてくれないと薄々感じていますが、そんなふうに感じるのは感謝が足りない人みたいなので、感じることも自分には許しません。

そんな風に生きていると、まるでトンネルの中をただ走らされているように感じてきます。いつか、ここから出なくては、と、出ることが人生の目標のようになってきます。そして、その方法を探しているのですがなかなかみつかりません。時間だけが過ぎ、焦りますが焦れば焦るほど、空回りしてエネルギーは先細りに思えてきます。そして今のうちに何とかしなければと更に焦ります。徹底的に何かをやってみたりやろうとしたりしますが、成果が出ません。

・・・こんな感じのとき、人は思考の罠にはまっています。今ではなく思考の時間軸上を生きています。過去を悔やみ、未来を恐れている状態です。そうなっているとき人は、自分のパワーを肉体次元に縛り付けてしまっています。

解き放ち、自由になる。そうなるためには「道」があります。思考から出て、肉体から魂へと戻るのです。

瞑想だけがその道を示し、おおいなるものが導きます。現世的にはワークとセラピーが役に立ちます。

あるがまま


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セラピーというと「不調を治して正常に戻すこと」と捉えられがちです。言葉の意味としてセラピーは治療、療法なので当たり前のことなのですが、それが究極の目的というわけではありません。人間には無限の力が備わっていると考えると、その無限を妨げているものをみつけて癒やすことができれば、本来の、あるがままに近づくことができると思います。

あるがままを知っている人がこの地上にどれくらいいるのでしょうか。

あるがままというとまず多くの人が、欲望のまま、本能のまま、というようなイメージを持たれるかもしれません。しかし欲望、本能というのは人間が個体として持っているひとつの機能に過ぎません。人間を肉体として眺めたときに付いている部品のようなものです。あるがままはそうではなく、人間の存在の本質に沿った自然な状態のことです。

そう観ると、人間があるがままになるのはそうたやすいことではなくなります。私はそうだと思います。人間は人生を通して、あるがままになるための探求の旅をしているようなものです。

私は最近では、不調というのは人間の成長を促すために存在する必然的な矯正器のようなものであると感じるようになりました。そうは言っても不調はないにこしたことはないでしょう、と多くの方はおっしゃるかもしれませんが、私はよもや、そうとは言えないとまで感じています。

なぜなら人間が本当に意識を使って意識的に生きるようになるまで人間は本質とともに生きているとは言えませんし、本質とともに生きないなら、人間は欲望と本能に生かされていると言えるからです。欲望と本能というエンジンは言ってみればとてもパワフルです。このエンジンをふかしている人は本人は調子がいいですし、周囲からみてもなんとなく気持ちのいいものです。人間は誰もがそんな絶好調を一度は夢見るものです。

しかしこのエンジンの絶好調は長続きはしません。また、必ずしも人間を幸せへは導いてくれません。当人はよくても周囲をも巻き込みます。巻き込んだり巻き込まれたりしている限り、なかなかパワーゲームのシーソーから降りることができません。

不調というのは本当は幻想です。ただ、周囲で誰もがそんなエンジンをふかしてパワーゲームに興じていると、自分はどうなんだろう、これはきっと自分がなにか間違っているか劣っているのに違いない、或いは逆に周囲が、世の中全体が間違っているという気がしてきます。そして、イライラしたり、攻撃的になったり、悲観的になったり、塞ぎこんだり、情緒が不安定になったりという状態になります。これが巻き込まれた状態です。

これらと、感情を感じることはしっかりと区別される必要があります。然るべきときに怒ることや悲しむことは、人間としての自然な姿で美しくすらあります。しかし上記の不安定さというのは、真実を感じていないときに起こります。本当は悲しむべき(悲しみたい)なのに、それを感じないように塞いでおく。なぜなら悲しんでいたら自分が弱くなってしまう気がする。弱くなったら自分は世の中(の幻想のゲーム)に負けてしまうだろう。だから悲しむのはよそう・・・。そして、その抑圧された悲しみは自己への嘘の代償としてイライラや焦りややりどころのない怒りなどに姿を変えていきます。

こういった不安定さから来る不安はこの世で多くの人が潜在的に抱えています。集団的な幻想への正常な反応として。

しかしながら私たちの本質は、そこから常に自由になろうと私たちを内から導くのです。その導きはそれに相反する働きを、自浄効果のように排毒しようと試みます。そこで、その自浄現象を効果的に意識的に通過する手助けとなるのがセラピーなりなんなりということになります。

不調という不安定は、実は私たちを偽りの安全から真の安全、平安へと導く内なる導きに他なりません。あるがままへの道です。