癒されるべきものはなにか

あなたがいったん自己の癒しに取り組み始めると、世界は逆転を始めます。癒しというのは修復ではなく、魂の前進です。

多くの方が、癒しはトラウマや失恋やストレス、家族問題、人間関係の不和、病気、人生が思うようにいかない、などに対して必要だと感じていることと思います。しかし本当に癒されるべきなのは、あなたの内にある『刷り込み』された誤った価値観です。

過去の体験による刷り込みは私たちに『学び』をもたらします。その学びが潜在意識に刷り込まれていきます。私たちがもっとも多くを学ぶのが0才から3歳と言われています。ですから私たちはほとんど吟味しないまま多くを身に着け、そのまま大人になっても吟味されない価値観をもとに世界を推し測るのです。

大人になってもそれを修正する機会はもちろん与えられます。しかし元々持っている価値観がすべての基準になっていますので、それを自分で修正するのはとても難しいのです。さらに潜在意識には、過去世から持ち越してきた価値観も刷り込まれていて、やはりそれが『普通』になっています。ですからそれらを問題として捉えるのは難しいことです。

一番わかりやすい修正の機会は、ものごとが破局したり文字通り地面が崩れ落ちるような、世界観そのものをくつがえすような体験をした時です。大失恋とか、破産とか、大事故とか、大病とか。ですがその時には多くの方が状況への対処に追われてしまうので、まさか必要なのは癒しだなんて、ほとんどの人は気づかないのではないでしょうか。

直観や直覚の優れた、霊的な徳(良いカルマ)を持つわずかな人が、「もしかしたら問題もそれを解く鍵も、私のなかにあるのかもしれない。必要なのは内面のエネルギー(意識)を見直すことかもしれない。」と、導きをキャッチして、探求するところへと辿り着かれるということなんだなーと昨今の私は思います。

かくして私も導きをキャッチできたことを今では自分に感謝しております。いえ、ほとんどそれは目をつむったまま手に触れた何かを掴んだ感覚に近いものでしたが。それでもあの時のあの状況からしたら上出来だったと心底思えます。

いったん癒しへの取り組みが始まっても、明確な方向性や全体像が見えたわけではありません。すべてが手探りでした。手探りだったからこそ、手に触れたものを必死でしっかり掴んだのだと思います。もしもっと何かが見えていたとすれば、手を抜くか、興味を失うことだってあり得たと思うのです。

多くの皆さんが私に寄せてくださるたくさんのご質問に私はお答えし続けてきました。いつもお答えできるのは、そんな風に私自身が通り抜けて来た道であるからに他なりません。最初から明るい道しるべなどまったくありませんでした。だからこそ私は、ひとつのしるしも見失うまいと目を凝らし全力で試したのです。試すと書きましたのはまさに、良きことと感じられるというしるしをみつけ、行うこと、自分に施すことだけが本当に重要だからなのです。

癒しに取り組む道のさなかに、多くの皆さんがお感じになるように私も「なぜ自分だけがこんなことに人生を費やさなくてはならないのだろう。みんなが自分の人生を謳歌しているというのに。」というような気持ちを感じました。

その答えが冒頭に書きましたように、「癒しは修復ではなく魂の前進である」なのです。正確には、修復されるべきものはあります。それが『誤った価値観』です。

つまり癒しに疑念を持つ間、私は癒される必要があったのです。癒されてくると『私たちにはただ前進という変化があるだけ』だという真実が理解できるようになります。

癒されないうちは、私たちの世界には前進や後退や停滞があり、被害者と加害者がいて、勝者と敗者が存在し、成功者と敗北者と、支配者と被支配者がいます。癒しが進むとそれらは単なる現象や状況や側面だということが理解できるようになり、それらは外側にいるのではなく、内側にあるのだとわかるのです。そして人生はそれらの状況を体験しながら常に気づき、前進するために存在しているのだと悟るのです。

繰り返しますが、あなたが修復される必要はありません。あなたが損なわれることはないのですから。あなたが誤って身に着けている価値観だけが修復されるよう、内なる神とあなたの心の白日の光のもとにあなた自身を差し出すことが必要です。

あなたが被害者や加害者であるという、勝者や敗者であるという、眼前を覆う闇をはらう決意をすることです。しかし闇が完全にはらわれるまで何かを待つ必要はありません。あなたがあなたらしくあるというその人生を毎日踏みしめて歩けばいいのです。その行い(体験)こそがあなたを芯から強くし、美しく花咲かせるパワーになるからです。

毎日、毎瞬、精いっぱいのあなたらしく咲いてください。その今の連続が人生であり、その今が次の今にパワーを呼び込むのです。


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ずばり言います

自己探求という言葉における自己は、
本性ではなくて本質、だと思っています。

本性というのは動物的な性質の部分であり、意識で言えば潜在意識。

そこを探求する意味は、ある程度把握しておくべき景色のようなものであり、
あまりにも偏っていて執着となっている部分はほぐすべき対象となります。
それは言わば、より本質に近づきやすくするための下準備です。

ですが、その部分というのは探検してみると面白くて、
知らなかった自分を知ったような喜びがあり、
うっかりすると、もっと、もっと、となってしまう領域でもあります。

ヨガナンダ先生はそのことを指して
「瞑想して潜在意識のところをうろうろしていてはいけません。
とっとと通過してできるだけまっすぐに内なる神のところへ行きなさい」
と教えています。

そうです。この内なる神が、本質であり、
自己探求において本当に探求されるべき目的なのです。

そして
「人生でなるだけ多くの時間を、この神とともに過ごしなさい」
つまり
「本質として人生を生きなさい」
と教えています。

潜在意識というのは、インナーチャイルドであり過去世の体験的な記憶のことです。

それらのことはとっとと思い出して
なるだけ神に手伝ってもらって癒し浄化し愛で満たしてもらい、
自分の意志を最大限に発動させることができるように準備しなさい、
それはなるだけ若いうちに済ませなさい。

さもないと、意識の習慣を変えて生きるのはとても大変です、
幼少期に体験的に刷り込まれた記憶というのは
放っておけば一生その価値基準の基礎となって生き続けます。

そのまま生きれば生きるほどそれは繰り返し強化され、
外したくても外せない習慣となります。
だから、その矯正、修正は早くに気づいて取り組むほどいい。
体力も気力もあるし、
本質として生きる体験も多く積むことができます、と。

いったん神のもとへ戻ることができたら、
人生を生きることはあらゆる意味で、楽になります。
いろいろなことはそれから体験すればいい。
そうすれば体験そのものの質が圧倒的に良くなり、
生み出すものの価値が増します。

天職を探したい、と願っている人が多いのすが、
職を探し回るのではなくて、先に探すべきものは内なる神です。
そして神とともに行うお仕事はなんであれ天職です。
それは神をみつければわかることです。

ですから瞑想も、そういう目的、意志をしっかりと持って行いましょう。
そうすれば最速で、わたしは、あなたをそこへ導きます
、と
ヨガナンダ先生は、言われます。

ヨガナンダ先生の直球の言葉は、私にとっては最高に心に響きました。
しかしそれというのも、私の潜在意識の癒しという取り組みとチャレンジが功を奏して
そういう真実の言葉を、痛みなく受け入れる心の準備ができていたからだと
今では思います。

潜在意識の世界をぐるぐる回ってそれが目的にすり替わってしまうことは
よくよく起こります。
私自身が潜在意識の道案内をするとき、
本当の目的から目を一瞬たりとも逸らさないよう
とても集中しています。

そうやって、気合を入れて、
「神よ、私はあなたから離れません。
あなたも一瞬たりとも私から離れないでください」と
強く強く願うことは、とても大切なことです。
そうやっているうちに、その他のいろんなことが押し寄せてきても
神から目を逸らさず、神と一緒に対処できるようになっていきます。

潜在意識の探求をやっているうちに、
どこまでそれをやればいいかわからなくなってしまう人もいます。
そうなってしまうと、人は
「自分を全部矯正して完璧に自分を気に入るようにしなくては」
「すべての欲求をがまんしてない状態にならなくては完成じゃない」
などというふうに思い込んだりします。

それは、自己探求の自己の部分が、本性のほうにすり替わっている状態です。
この物質世界で自己を完璧に実現しようなどと思うとそうなってしまいます。

自己というのは物質世界などという限定された世界ではなく
心の内側という無限の世界に存在しています。

その心の内側の、その中でも最も崇高な部分、
それが、あなたでありわたしです。
ですからそれ以外のものを赦すことができるのです。
それ以外は大目に見て、こだわらないでいいのです。
一番大事なこと以外には。

内なる神とつながってくると、言い換えれば波動が高くなってくると、
自然とそういう姿勢になっていきます。

だからOSHOなどは、それを目指すな、と教えます。
自然とでなければ嘘になるから。
ですが一方で、本当にそれ(本質)を理解できるのは
ブッダに帰依したほんのひとにぎりの人だけだ、と言います。
最初から目指さないのなら、ブッダに帰依はしません。
目指している人への教えであることが大前提なのです。

スピリチュアルの教えにはこう言ったパラドックスが多く存在します。
なぜなのかと言えば、導きというのは、ゴールを教えるものではなく
あなたの気を引き、目覚めるようショックを与えることだからです。
目的はゴールにあるのではなく、
あなたが毎瞬毎瞬、神に目覚めては、あなたの人生を歩くことだからです。

今あるもののなかに、まず、愛をみつけてみてください。
そしてそれをどんな時でもどんな場所でもできるよう
自分を訓練してください。

それがどうしてもできないときは
まず自分を癒すところへ戻ってみてください。
そしたらまた、最初のステップに進んでみましょう。

本気でやってみたら、それが最高の前進であるとわかるでしょう。
それ以上の素晴らしいものはどこへ行っても存在しません。


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意識の次元をあげると世界は

この世にあるものはいいものばかりに決まってる。

そう言うと、いつもすべてのものを嫌ったりしてはいけない、と思う人もいる。なぜ?
たかが私が嫌いなくらいでそれが悪いものになるわけではないのに。
好き嫌いなんて、本当に本当にちっぽけなこと。

この世に今あって、改善すべきことはたくさんある。
それらのすべては、人間が取り扱いを間違えた結果、誤解した結果、思い込んだ結果、
そうなっているだけ。
本当にそれが悪いなんて、誰に言えるんだろう。
(すると、悪くないならなぜ取り組まなくてはいけないのか、と、思う人もいる。)

だから、それを解く、解き明かすことにみんなが目を向けられさえすれば、
それは自然、明るいほうへと向かう。

私たちは知っていようがいまいが好むと好まざるとにかかわらず、
私の意思、意識によって世界を創っている。
(あなたがいることで、世界はこうなっている。)

間違え、誤解し、思い込んだ結果、混乱し、間違った選択をする。
これが人間の犯す過ちの正体だと思う。
でもその過ちのなかに、やってはいけないことは確かにあるのです。
(みんな混乱している。)

それは誰かのものではなく、人間みんながそれぞれに持ち、日々行っていること。
だから、気づいた人から自らを正し、
そして身近な人のそれに気づいたらそっと手伝えばいい。

時にはその混乱は、お手上げしたくなるほど入り組んで、
投げ出したいほどひどいこともある。
投げ出したまま、生きることもできる。
しかしそれでも、あなたが世界を構成していることに変わりはない。
混乱は巡り、そして自分に還ってくる。
たいていの場合、一回り大きくなって。

そうしていったん投げ出したとしても、またある時、向きあって、
自分と一緒に、生き始めることもできる。
意識して、意志を持って。
(その意志が世界を創る。)

世界が愛中心の世界になるって、例えばこんなこと。

私は缶コーヒーを手にしている。
(私は缶コーヒーは嫌いです。飲みたくありません。)

その缶コーヒーは、ある時ある人が
『こんなものあったら、誰かが喜んで、心があったかくなれるかも。』という
愛から発する思いで創りました。

私は手にした缶コーヒーから、その愛を受け取り、幸せを感じることができる。
たとえ缶コーヒーが嫌いでも。

誰かがエスカレーターを創った。
疲れた人に優しくしたいと思って。
足の悪い人が、少しでも優しい気持ちで外出できるように。

エスカレーターに乗ると、私はその優しさ、愛を受け取ることができる。
エスカレーターを見ると
エスカレーターを思い浮かべるだけで
そんな優しさに心が満たされて
幸せになれる。

世界はそんな優しさにあふれている。

椅子に腰かけると、
家々の屋根を眺めると、
道路を歩くと、
橋を渡ると、
電灯が灯ると、
クッションにもたれると、
掃除機をかけると、
洗濯機が服を洗うと、
階段を一歩あがると、
歯ブラシを握ると、
石鹸が泡立つと、
雑巾が汚れをきれいにしてくれると、
湯船にお湯がたまると、
紙に絵が描けると、
文字が私の心を伝えると、
その優しさが私のなかにあふれかえる。

愛中心の世界は1人の人の、そんな心から創られる。

すべてのもの、すべての現象の背後に神をみること、
それが人間を本当の意味で聡明に賢くする。
すべてのもの、すべての現象の背後に愛をみること、
それが人間を本当の意味で幸せに崇高にする。

私たちはすぐに忘れてしまう。
缶コーヒーがなぜ作られたか、エスカレーターがなぜあるのか。

時間短縮し、生産性をあげるため、
そんな風に自分を扱って自分をそんな存在だと定めてしまっているのは
自分自身だということを。

短縮された時間で、自分と大切な人、見知らぬ人、この世界を愛でることもできる。
何かを思いやる時間に充てることもできるのに。


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私を目覚めさせた言葉

おはようございます。今日はもう、セミ、セミが朝から鳴いています。沖縄県南城市知念は晴れています。心のセラピストAZUです。

人間というのは本当に不思議な生き物です。よくここまでなんとか、絶えることなくやってきました。でも地球の歴史から見れば人類の歴史なんて豆粒を占めるくらいです。そしてその豆粒のなかのことすら、私たちはほとんどなにも知りません。さらに宇宙から見たらどんなでしょう。

知らなくても生きられるって、なんてありがたいことなのでしょう。だからこそ私たちは生きる目的を探すのではないでしょうか。つまり、ただ生きることが人生の目的ではないわけですね。

このところよく思うのは、探求の民である私たちの仲間は、情報を得ることはたやすくなっているのに、それを生かすことが難しくなっているような気がします。

自分に欠けているものを見つけたとき、多くの人が、何かおかしいとネットや本で調べます。私も調べることが好きなので調べます。そして、これかもしれない、と思い当たるものをみつけたとします。そして理論的に納得すると、多分少しすっきりします。

そうすると今度は、そのやり方をいろいろなことに当てはめてすっきりしたくなります。

いろいろあてはめているうちに、すっきり効果が薄く感じられるようになります。そうすると、別のすっきりツールを探して試す、という風になっていきます。

気がつくと、自己探求は自分の欠点探し、周囲との違い探し、自分の嫌いなところ探しのようになっています。そしていつか、そういうところが全部なくなってすっきりするのがゴールであるかのような設定がつくられていきます。

極端ですが、でもこういう傾向って、誰にでもあると思うのです。

私が長年、自己=スピリチュアルを探求してきて決定的に自分を変えた概念があります。
それは神はこの世を創らなかったです。

私が時々、一元論、と言う言葉を使いますが、一元論をかみ砕くとそういうことになると思います。

神はこの世を創っていない。この世は私たちの想念が投影されている鏡です。想念は神ではないのです。

想念は潜在意識という肉体の体験の記憶の貯蔵領域です。

記憶に神の光が放射されるとその影が周辺に映ります。私たちが世界に見ているのはその影です。私たちは普通それを現実と呼びます。

私たちは幻影を現実と呼び、すべてを映し出す根源を遠いお空にいるかもしれない架空の存在として位置づけています。逆転しているのです。

私たちの苦は、鏡に映った世界に手を伸ばし、鏡をいじくって鏡に映った映像を変えようと努力することから生まれます。それがどれだけ間違ったやり方であるか、こう言われればすぐにお分かりになると思います。そのやり方はほとんど無効です。

私たちが鏡に映った映像に夢中になっている間、神はだまって光を放ち続けます。そもそも大事なのは、その映像すら、神の光がなければ見えない、ということに私たちが気づくことです。映った映像について神に不満を持つ以前に、それを照らしている、つまりすべての背後にある神に私たちが気づくことが大事なのです。

そして、そこに映った映像をより良いと思えるものに変えたいとき、神に照らしてもらって、フィルム自体を点検し、さらにそこに映ったもの自体を変えることができるということです。

それが、内面に取り組むワークです。原因から変える、というのはそういうことです。


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おつきあいをかみくだく

前回の怒、とのおつきあい
実のところ、怒りを本当に解消させることができるちからは
愛だけしかありません。

そして、愛によって、対立を和解させれば
その怒りは克服され、乗り越えたことになります。

と書きました。

あえて解消、克服、乗り越える、という言葉を使いましたが
実際にはこれらはヒーリング、つまり癒しと同じ意味です。

またここで起こる癒しは単に壁を超えるイメージではなく
この壁そのものを溶解し、内なるスペースを広げる意味があります。

私が言葉を非常に大切にするのは
言葉の意味ではなく、そこに込められたイメージのちからが
私たちの意識の作用を決定づける青写真となるからです。

私たちが自己意識の浄化をするのは
このように内面のスペースを拡大し
新たな視野から世界を見つめなおすことが可能になるという目的があります。

そのスペースが愛という光で満たされていくことが
私たちの霊的な成長であり人生の目的でもあります。

つまりそれが言葉を変えるなら
内なる神とひとつになることです。

人間が愛を体現するなかの一つの要素として、寛容があります。
怒りに罪悪感を持たれる方というのは
ご自分の状態がこの寛容という愛から逸れてしまっていることに
気づかれているのでしょう。

しかし前回も書きましたが、そんな時こそ、
そんな今の状態に対して寛容になってあげてください。

寛容という愛によって
逸れてしまった状態から即座に中心に戻ってくることが容易になるのです。

中心から観ますと、
逸れてしまった状態というのは
片方に振れた振り子だということがわかります。
片方へ振れた状態があなたではありません。
それはただの状態です。

そして無理に押し戻すよりも
リラックスして重力に任せて見守りつつ待つことが
もっともスムーズで優しい方法だということがイメージできますでしょうか。

この対処になじんでくると
それをそのまま他者へ応用できるようになります。

その人の状態をその人そのものだと思ってしまうと
その人を変えたいと思うことは非常に苦痛を伴います。
固定化されたものを別の形態に変身させなくてはならないからです。

しかしその人の内にもちゃんと内なる神が座していて
その人は偏った状態から徐々に神の引力によって
中心に戻ってきます。

前回にも書きましたが
傷ついて後へ引けなくなったり
なかなか戻りにくいこともあるかもしれませんが
神の引力にまさるものはありませんから
いづれは戻ります。

もしあなたにできることがあるすれば
それは自分が戻りやすいようご自身をケアするのと同じように
相手に対しても優しく見守るか
余分なちからを抜けるよう
そっと、こっそり手助けの手を差し伸べることかもしれません。

そういう意味では
けんか、というのも助け合いの一種かもしれませんね。
もう少し目的とルールさえはっきりさせておけば
とても急激に互いを中心に戻すことができると思いませんか。

卑近な喩えで恐縮ですが
うちではけんかしなくてはならないとき
目的はさらなる相互理解、ということを共通認識にし
そして、不要に傷つける言葉をなるべく排除し
どうしてもはずみで出てしまった時は
相手が売り言葉を買わないで見過ごすという努力をするようにしています。

(このルールが守られるようになるとこれは
もはやけんかですらない、
純粋なディスカッションへと進化します。
実際そうなりつつあり
むしろ冷静になってしまう傾向もあります。
なにごとも訓練と慣れです。)

すると結構短時間にいろいろな発見や気づきができて
ついでに感情も発散できて
互いが無意識におなかにためていた感情もセラピーできたりして
更に一緒に乗り越えた達成感まで共有できたりさえすることがあります。

じょうだんみたいですが、本当なんです。


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怒、とのおつきあい

みなさんこんにちは。
沖縄は夏!です。

みなさんは怒りについてどう認識をされていますか。

単純で深い、
そして最も日常的で身近な人間のテーマの一つであるかもしれませんね。
スピリチュアルの教えで言及されることも多いテーマです。

私はよくこのブログでも怒りは悪いものではありません、と言います。
でもそう言うと「では怒ってもいいんですね」とか
「じゃあこれを相手にぶつけてもいいんですか、
それはだめですよね、じゃあどうすればいいですか」
とおっしゃる方も多いです。

もしくは怒りは悪いものだからなきものにする、
という方策に出る方もいます。

大事なのは怒りがある、ということと、それをどう扱うかは別の問題ということだと思います。

それは火みたいなものです。
絶対に必要だし、万一必要でない、という方がいたとしても
この世に在るものには違いありません。

他人や周囲を巻き込むし
下手をしたら飛び火もするし
自分もやけどするし
いろんなものを破壊する可能性があります。

それで、そんな恐ろしいものはなきものにしよう、という発想をする人もいます。
でもそうしていると火の恩恵からも遠ざかってしまうことになります。

怒りとの付き合いで困るのはまず、
コントロールが難しいということ。

それから良し悪しの判断が狂うこと。

そしてさらに、その判断のもとに持論が展開していくので

そのストーリーからなかなか戻ってこれなくなること。

そして怒りそのものが悪い、という罪悪感がありますので

それ自体の正体と向き合うのが難しこと、などがあげられます。

人間が本当に怒るときというのは
自分の中に正当性があるという信念があることが多いです。

またプライドを傷つけられるとあとにひけなくなり
怒りで突っぱねるようなこともあるかもしれません。

別の感情が奥に潜んでいて、それをわかってほしい時、
またわかってもらえないときに怒りによって心が訴えることもあります。

いずれにしても、不快という感覚は、自分から自分に「お知らせ」をしています。
お知らせはなんのために来るかというと、
「対処してよ」という目的があるのです。

遡れば、赤ちゃんが最初に覚えるのは「不快を訴えること」。
それでお母さんは気づくことができて、対処してあげられます。

自分との付き合いもこんなふうにできるといいですね。
お母さんが赤ちゃんに対処してあげるのは愛情ですから
自分にもおんなじように愛情を与えてあげればいいのです。

実のところ、怒りを本当に解消させることができるちからは
愛だけ
しかありません。

そして、愛によって、対立を和解させれば
その怒りは克服され、乗り越えた
ことになります。

逆に言えば、克服され乗り越えられていない感情は
その時は鎮火しても
同じシチュエーション、同じストレスが来たら
その刺激に同じ反応を繰り返します。
解体されていない証拠です。

対立は一見自己と他者であるように見えても実際は
自己と自己、過去と今、自己と社会通念、自己と世界観など
要は自己と自己の観念というところに集約されます。
世界は自己の内面を映す鏡ですからね。

次回チャンスがあったらぜひそれを、愛する者からのお知らせ、と受け取って
しっかりと対処を検討してあげてみてください。
きっと世界が変わります。


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