終戦祈念~沖縄慰霊の日によせて

「ソフィーの選択」って映画、映画だと思っても吐きそうに辛い。
もし自分に起こったら、どうなるのかまったく想像がつかない。
そんな未来が来ることは絶対に防ぎたいと思う。
人権と尊厳のない世界。
それはつい、最近まで存在していた。

戦争またやろう、やればいい、やったほうがいい、
なんて思っている人は一握りだろうし
ほとんどの人は、んなわけなんじゃん、って言いながら
騙されて巻き込まれていくんだろう。

どっちにしても、それは憑き物にやられているんだと思う。
みんなが瞑想すればそんな愚かさは消滅する。

憑き物は、人間の想念だ。

利己心、虚栄心、傲慢は誰もが心に持っていて
憑き物はそういう波動が好きだ。

私たちは自分のそういった波動と闘わなくてはならない。
そういう意味で、生きることは楽ではない。

自分の中の邪気を見て見ぬふりする楽は、本当は地獄だ。
楽ではなく、それは本当はずるだ。

ずるは自分の周りに地獄を創る。
でも逃げていると、地獄に追われ、それを自分が創っているとは気づかない。
誰かが創った、外側にある、と、本当にそう思えてしまう。

そして周囲を攻撃する。
攻撃している人こそが、自衛を必要とする。

中国が北朝鮮がイスラム国が攻めてくるぞ、抑止力だ、自衛だ、
自分を護って何が悪い、やられる前にやれ、それが生き物の本性だ、
というふうに。

でも本当はそういう人はちゃんと闘っていない。
闘っていない不甲斐なさやうっぷんを晴らしたいのだ。

平和を本気で目指す人は少なくとも、自己の欺瞞と闘っている。
私たちが平和を獲得するには
自己と向き合わなければ始まらない。

瞑想している人、霊性に目覚めている人は
そろって、戦争は間違っているという。
そして平和こそが人間が目指す波動だという。

平和を志す人にはそれが当たり前すぎて、
それ以外の目的の意味がわからない。
だからかえって自信を無くしてしまう。

戦争を支持する人のほうがあたかもおとなであるかのように、
社会の真実を知っているかのように、思わされてしまう。

しかし、知れば知るほど戦争の仕組みは愚かだ。
誰もが持つ人間の利己心、虚栄心、傲慢を
権力者が利用して利権を得ているだけのことだ。

あわれにも巻き込まれた一般人は
そこに儚い意義を見いだそうとして
戦争に価値をみつけようとするか、
もしくは自分の愚かさを黙殺しようとする。
しかし傷は、学びなしに消えはしない。

私の祖父も沖縄戦で亡くなり、
母は心の傷を無意識にパートナーと私たち子供に引き渡した。

そうやって潜在的な怒りと虚無はカルマとして引き継がれる。
私たちの子孫の誰かがそのカルマの支払いをする。
そしてまた新たなカルマが作られる。

踏みとどまり断ち切る勇気のある者だけが
世界を変える。

その種を、蒔こうと思う。

______以下引用______
沖縄慰霊の日:「泣く子だめ」…戦場で別れた弟、妹よ
毎日新聞 2014年06月23日 13時25分(最終更新 06月23日 14時22分)

 ◇浦添市の喜屋武さん、かすかな望み消えない69年間

 沖縄戦で命を奪われた家族や友人らに鎮魂の祈りをささげる「慰霊の日」。戦没者の名前が刻まれた沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の「平和の礎(いしじ)」には、23日早朝から遺族たちが訪れ、犠牲者の冥福を祈った。凄惨(せいさん)を極めた地上戦による傷は、戦後69年たった今も癒えない。【佐藤敬一】

 沖縄県浦添市の喜屋武(きゃん)幸清(こうせい)さん(75)は、「鉄の暴風」下で生き別れたきょうだいを捜そうとしている。家族の間でさえタブーにしてきたあの時のこと。「ひょっとしたら弟と妹は誰かに拾われて助かったかもしれない」。69年間、かすかな望みが消えることはなかった。

 沖縄戦の当時、6歳。父は移民先のマリアナ諸島テニアンに残り、祖父母とおなかに妹を宿していた母、弟2人と引き揚げ、那覇で暮らしていた。

 戦火に追われ南へと逃げた。途中、祖父母は死亡。母良子さんが水や食料を探す間、壕(ごう)で0歳の妹洋子(ようこ)さんを負い、4歳の幸紀(こうき)さん、2〜3歳だった幸雄(ゆきお)さんの弟2人をあやして母の帰りを待った。

 6月、たどりついた摩文仁の海岸で4人を連れた良子さんがガマ(壕)に入ろうとした時、避難民と一緒に潜んでいた日本兵が銃を突きつけて言った。「泣く子は入れない」

 良子さんは「究極の決断」を迫られた。「上の2人は泣きませんので助けてください」。喜屋武さんと幸紀さんを壕に入れ、幸雄さんと洋子さんを連れて出て行った。

 良子さんはしばらくして一人で戻り、再び出て行ってはまた一人で戻ってきた。置き去りにされて泣きながら追いかけてきた幸雄さんを、良子さんが言い聞かせるために出たのだった。

 終戦後、父幸一さんとともに親子の暮らしが戻ったが、弟と妹のことを誰も口にはしなかった。良子さんは敗戦から9年後、心臓病で亡くなった。38歳だった。「母は長男の自分だけでも何としても生かそうと考えたのだと思うが、ずっと自分を責めていたのでしょう。病気も戦争の苦しみが原因と思う」

 弟、妹の顔を今では思い出せないが、思いは巡る。「母は泣きながら追いかけてきた弟に、何と言い聞かせたのでしょう。考えただけで胸が張り裂けそうになる」

 今年、遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(60)に「万が一だが、弟と妹をDNA型鑑定で捜せるかもしれない」と教えられた。「戦場で肉親と生き別れた人は多い。その人たちのためにも声を上げよう」。具志堅さんとともに、希望する家族と戦争孤児のDNA型照合を国に求めることにした。

 喜屋武さんは言う。「当時の話を母に聞いておけば良かったという後悔と、聞けば更に母を苦しめたという思いが今も交錯します。こんな複雑な思いを抱いている人が沖縄にはたくさんいるのです」

 安倍晋三首相は、他国を守るための戦争を可能にする集団的自衛権の行使容認に動く。「沖縄戦であれだけの犠牲を被ったのに、政府は『これからも日本のために我慢しろ』と言っているように聞こえる。戦争に加担して真っ先に狙われるのは基地のある沖縄です。一体何なのでしょう」

弟と妹と生き別れた摩文仁の海岸を見つめ、「ここに来ると当時を思い出して辛い」と語る喜屋武さん=沖縄県糸満市の平和祈念公園で2014年6月21日午前11時9分、佐藤敬一撮影
____引用ここまで____

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UFO?

昨日、犬のお散歩の時、すごいものを見てしまった。

具志堅のビーチで、西の雲から太陽光線が上向きに放射していて
それだけでもすごいなーと思って見ていた。

一瞬目を離してから再度見たら
その放射状の光の上に、どーん、と
でっかい円盤型の雲が乗っかるように浮いていて

その円盤型の雲に七色の模様が入っていた。
水に油が浮いたような模様で、蛍光色が乗っている。

虹が雲に映るのは時々見るけれど
あんな模様は初めて。
彩雲

そしてその円盤型の雲、空飛ぶ円盤そのもの(笑)
私、UFOってあまり実感して見たことがないんですが
あれは・・・乗り物でしょ!

動く黒い点とかではなく
あれーもしかしてあの動き・・・とかではなく

誰が見てもおかしいでしょ、ってレベルの雲、ですけど
物質としてのではなくてエーテルが雲に波動を伝えて
ああなってるとしか思えない。

ビーチの端っこに珍しくカップルがいて
気づいて、って呼びかけたけど
見てもらえなかった。

昨日に限ってケータイも持ってなくて写メなし。残念。

ゆだねるってこういうこと

がんばらないで、楽になる方法です。

例えばプレッシャーがあるとき、ストレスがあるとき、疲れているとき、
困っているとき、苦しいとき、がんばらなくてはならないとき、

もしあなたが最大のパワーあるものに願うとしたら
なんて祈るでしょう。

「私にちからをください」
「なになにがうまくいきますように」
「こうこうしてください」
「これが手に入りますように」

言葉は様々ですが、
これらの言葉を抽象化するなら
どれも手を貸してもらう感じでしょうか。

そしてこれらを頭の中で唱えると
からだやこころはどんな反応をしますか?

私はなんとなく、縮こまる感じがします。
頭によけい、圧力がかかるような
苦しいような感じがちょっとします。
微細ですが、よく感じてみるとそうです。

だから祈るってなんとなく
窮屈なもの、と感じてしまう。

そんなことありませんか?

もしそんな感じがしているとしたら
その祈りとか願いは
なかなか通らない気がしませんか?

これって、潜在意識がノーって言ってる、
という現象です。

では大いなるものに、こんなふうに祈ったことありますか?
「私のちからを全部あなたにさしあげます」

神におねだりするのは
自分が何を求めているのか明確になるので
自分をよく知るにはとてもいいことです。

実際それをねだっていいのです。
そこから多くを学べます。

でも、本当に助けがほしいときにこそ
「ください」と願うよりは
「すべてあなたに差し上げます」のほうが
よほど楽になります。

それは、一番大きくて安全な船に乗って
一番頼れる存在に運んでもらうのに似ています。
「あなたのいいようにしてください、いいようにつかってください」
という姿勢です。

「ちょうだい」と願うのは
「うまく操縦できますように」と
実は自分が主導していることになります。

ゆだねる。
そうすると、何が起こるでしょう。
よかったらご自身で確かめてみてくださいね。

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(犬の)おかあさんから学ぶ人間育て

SDIM7919犬と付き合っていると
人間を考えるうえで
勉強になることばかり。

おかあさん(野犬を引き取った我が家の保護犬の名前)の
子供2匹とも対比できるからなお興味深い。

子どもたちは屈託がなくて誰にでもなつっこいけど
おかあさんはものすごく人を選ぶ。

犬好きで絶対犬に好かれる、という
やさしーい人でも怖がって逃げる。
おかあさんを見てみなさん決まって
「いじわるされたはずねー」とおっしゃる。

うちで家族といる分には甘えん坊で
さわってさわってー、
かわいがってー、
でもがまんもします、と
聞き分けのいい良い子です。
でも定期的に性格が変わる、というか
ムラがあって
体調などを見分けにくいという問題がひとつと

圧倒的に社会性がなく
一番困るのは
ちょっとした変化やアクシデントで
すぐにパニックになってしまうこと。
そうなると自分の身の安全を守れない。
人間と同じで判断力が著しくなくなってしまう。

例えば狭い道で車が近づくと、怖がって
なぜか車のほうにふらふら近づいて行ってしまう、とか。
こういうのは見ているとなんとなく
子供のころの自分に身に覚えがある。

それで、やっぱりうちでは
しつけをこつこつとしている。

どんなにびっくりしたり興奮していても
オスワリ、フセ、できること。

「見て」というとぱっと注意を向けることができること、とか

散歩でものすごく
リードを引っ張ってしまうのが悩みの種だったが
これも、緊張と、怖がってパニックで
慌てているんだとだんだんわかってきた。

普通は、自分をリーダーだと勘違いしている、
などと説明されている現象で、
それもあったかもしれないけれど。

それで、観察していると、外界に反応して夢中で前に進もうとしていて
私の足音のリズムにあおられている感じもある。

夫のほうが歩幅が大きくゆっくりなので
そのほうが若干落ち着いているように見える。

そこで私は自分の足音よりも1.5倍くらいゆっくりのテンポで
いーちに、いーちに、と掛け声をかけるようにした。
足音がかき消されるくらいはっきりと声を出して。

もちろん最初は引っ張るたびに方向転換させて注意をひいて。

すると、なんと見事にゆっくり歩けるようになった。
焦って引っ張ったときでも、
掛け声でぱっと我に返ってゆっくり歩ける。

リードが理想的なカーブでたるんだまま
一緒に歩けるようになった。
すごい感動。

そうなってからは散歩中も何度も立ち止まって
私の目を見るようになった。
国道を渡るときは立ち止まって「クルマ、見て」というと
座って右、左、と見ている。

実際なにを見ているにしても、
突っ走ってしまわずいったん呼吸を置くことができることが
とても大事に思える。

こういう意思疎通はそれだけですごく嬉しいし
おかあさんも笑顔がすごく増えた。

多分犬側から見れば、
いろいろなことに気をとられて散漫になったり
警戒したりびくびくしなくてはならないタイミングが
すごく減ったのだと思う。

怖れに夢中になっているときは
何を言っても耳に入らない感じだったけれど、
ぱっと意識を呼び戻してあげることができると
平常心に戻るのがとても早くなり、穏やかが増す。

このあたりは人間にもすごく応用できるなと
散歩中によく考えている。

例えば小さい子供さんなど、
警戒モードや散漫モード、小さなパニックモードから
お母さんの合図でぱっと平常心に戻ってこられるようなら
すごくいいように思う。
なにより本人が生きやすいだろうと思う。

おそらく多くの人が、そういうモードからの戻って来方が
よくわかっていない。
というか、無意識なのだ。
自然に忘れる、というような習慣になっているのだ。
で、おとなになってもテレビをだらだら見たり
別の何かおいしいことで気をひいたりしなければ戻れない。

意識的に戻ってくる方法が瞑想なのだが
無意識なのであまり必要性もわかっていないことが多い気がする。

子供のしつけ、という問題を仕事がら常に意識している。

しつけという言葉からの連想は過去に置いておいて、
本人の平安、平常心のため、ということを中心に置いての
コミュニケーションと考えると、
人間が成長する上でものすごく大切で
幸せのために重要なことのように思えてならない。

しつけとは何か、という命題はネット上でもよく語られているが
人間には本能と霊性があるという大局から見れば
霊性を妨げないで発揮するために
いかに本能を軽やかに訓練してあげるかどうかが

この世を幸せに生きるカギになるようにも思える。

おとなになって、自分を育てなおした自分をかえりみても
ものすごく実感する。

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結婚のすばらしさ~恋愛との明確な違いについて

少し前に、結婚のすばらしさについて、お話会してください、と
リクエストをいただきました。
まだ実現していませんが、今日は少しここに書いてみようかなと思います。

私は気がつけば来年4月で結婚10年となります。
まる10年。と言えばまあベテランというか、中堅ですね。

早かったな~、まだ新婚気分が抜けません。それはないか。(笑)
子どもがいないのもあって、歳月が目に見えないんですよね。

目の前にいっぱしに口をきく生意気な小僧がいたらきっと、
年月を実感せざるを得ないでしょうね。

お友達や知り合いのお子さんの成長をネットで見るにつけ
成長ぶりに唖然とするばかりです(笑)

私は満を持して結婚しました。

両親が反面教師で、母親からは、結婚のつまらなさや悲惨さや
愚痴を聞いて育っていますので
もう中学生くらいから、自分は結婚などすまい、と心に誓っていました。
なぜか高校の自己紹介で「私は結婚しない女になります」なんて
宣言してしまっています。
なんでわざわざ、高校の自己紹介で言うんでしょう。
痛々しいな。必死のSOSだったのでしょう。

その割には大学を辞めてから一年後には家出同然で同棲し
30歳まで暮らしました。
そのころは生きていて心が休まったことがまったくありませんでしたので
本当にただお互いに相手にすがって
どんどん消耗していくという暮らしでした。

20代後半から、意識の世界に目覚めはじめ
それまでの概念がぼろぼろと剥がれ落ちていき
相手と一緒にいることがもうできない、
なんにも通じない、というところで別れました。
よく、波長が変わってしまうと一緒に居られないくなると言いますが
実体験したかたちです。

それからはもう探求一筋(笑)です。
一筋と言っても、私の中に詰まっている
あらゆる概念、感覚的記憶、こびりついた観念は強力で
実際の道のりは紆余曲折しまくりでした。

よく周りからは「生き急いでいるよね」と言われましたが
確かに常に全力でしたし、
そうでないとやっぱり今ここには来られなかった気がします。
もうちょっとスマートなやり方はあったかもしれませんが
まずまずなんとか、帳尻が合ったような気がしています。

私は30歳すぎて、つまり1人になってみてから、
結婚したい、と思うようになりました。
いざ本気で目指してみると、わからないことだらけでした。
例えば同棲と結婚の違いはなにか?
結婚したいと思ったのですから、
なにか違いがある、ということを直感的にわかったのでしょうね。

恋愛はある種の愛への入り口ですが
強烈なエネルギーで良くも悪くも私たちを揺さぶります。
人を好きになるほど、愛ではないことを求めたりしてしまう。
たとえば相手を疑ったり、遠ざけたり、閉ざしたり、
コントロールしたくなったり、独占したくなったり、
いじわるになったり、困らせたり、怖れに見舞われたり・・・

つまり私たちは相手との距離を本気で縮めてみないと
自分の中に眠っているいろいろな感情にすら
なかなか気づけないし向きあえないのです。

そんな自分に出会うのが嫌で、
人を好きになることを避けている人も
実はたくさんいるのではないでしょうか。

恋愛の強烈なあれこれを通らずに、
すんなりと結婚する人もいるかもしれません。
そうすると、結婚してから今度は、あれ?こんなはずじゃなかったけど?
となることもあるでしょう。

結局のところ、相手は強力で間近な鏡で、
自己の中身を子細に映し出します。
良いところや良くないところを見せるということではありません。

(例えば、私の内側に在る恐れを形にして見せてくれたり
自分を押し殺していれば相手も自分を見せてくれなかったり。
でも形だけを見たらきっと自分も同じことをしているとは
なかなかわかりにくいと思います。
エネルギーを見るというのはこういうことなのです。)

そのことに気づかない間は、
「相手がおかしい」「この人、本当はこんな人だったんだ」と
相手への不満に終始してしまう。

でも結婚は、そういうすべてを
時間を思い切り充分かけて、一緒に学んで乗り越えていける
最大のチャンスをくれるのです。

私たちの人間としての、愛に対しての未熟さを、
生涯かけて互いに満たすための最大のチャンスを。

結婚と恋愛の一番の違いを私はこう考えます。
恋愛関係は、どちらか一方がやめたくなったら終わる。
結婚は双方がやめると決めないと終わらない。

人の成長とは多くの壁を乗り越え、
過去の概念を手放してより真実であるものを受け入れていくことです。

人間は弱い存在ですから多くの誘惑や恐れにいつも惑わされる。
パートナーは支え合って、互いが戻ってこられる愛という原点、
その巣を守り合います。
どちらか一方が迷子になっても、萎えても、ぶれても、折れそうになっても、
もう一方が支えているかぎり、巣に戻ってこられるチャンスがあります。

時に待つ、時に手を貸す、時に議論する、時に感情的にもなる。
そのすべてが、互いを育てていきます。

恋愛関係ならそこまで本気でぶつかる前に終わってしまうかもしれない。
嫌なフィーリングに恋愛は弱いものです。

でも結婚は、それを乗り越えた喜びもまた、一緒に分かち合うことができます。
かけがえのない存在とは、
そうして育っていく関係性のことだと私は思います。

好きで好きで失うのが怖い、というのは恋に落ちたときの感覚です。
でも、かけがえのない関係性には信頼があります。
そしていつかどちらかがこの世を去ったとしても
永遠に残される素晴らしいものがそこにあります。

恋を失う時、多くは悲しみと痛みや若干の悔いを残し
それが思い出や感謝に変わるには別の学びを要します。

でも、ともに愛を育てることができたパートナーは違います。
一緒に生きたすべてが人生の価値になり得ます。

それから、恋愛と結婚の違いの第二は
社会的責任を一緒に負う、共同責任者になるという点です。

例えばどちらかが何かしらの事故に遭いました。
最愛のパートナーが病院に駆けつけます。
でも、病院側は「まずご家族の方から」と言います。
結婚していないと、当事者として扱ってもらえません。
重大なことほどそうなりますよね。

私はそれはいやだなと思いました。

私たち人間は社会性の生き物ですし
普段無意識だとしても多くの関係性に支えられ助け合って成り立っています。
本来形式はそれをスムーズにするためのものです。

第三に、結婚は多くの人の後押しや祝福を
正々堂々と最大限に受け取れます。
それは物理的な助けのみならず、
エネルギーとしても後押しし、守ってくれる大きなちからです。

ちなみに私は神社で家族だけの結婚式を挙げました。
母も不調で弟も具合が安定しないので
みんなそろって迎えられることすら奇跡的でした。

そんな中、
神職、巫女、新郎新婦、両家の家族が神殿へと向かう「参進の儀」がありました。(写真は神社のSiteからです)

それほど大きくないお庭を列をなして歩きながら
私と主人はそのときまったく同じような不思議な感覚を体験しました。
雅楽の笙が鳴り響いた瞬間、次元の入口が開き
一周する間に、完全に別の次元に移動してしまったような感じなのです。

それから式の間、二人は全く同じ、別次元の世界にいました。
主人の表情が歓喜にあふれ、涙ぐんでいて、
言葉なしにそれがなんなのかわかりました。

結婚が神聖で純粋なものであると直に教わったのです。

結婚だけが、とは勿論思いません。
でもこれから結婚を選ぼうとする方、迷っている方、
また現在の結婚を見直しされる方に
ご参考になれば幸いに存じます。

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一家に一台、無限の浄化装置があったなら

レイキって今、どれくらい普及しているんでしょう。
みんながやるようになっちゃったらどうなるだろう。
みんなって例えば、家族に一人はする人がいるとしたら。
いやいやいや、そんなことになったらとんでもなく世界は変わるだろう。
違い過ぎて簡単に想像できない。

家族に1人いるならもうそれは、家族みんなができるというレベルになってしまう。
1人がみんなに伝授すればいいわけだから。

そのころには「レイキ?なにそれあやしい」とか言っている人は
もういないだろうから・・・
世界は相当違っているはず。

でももう少し手前のところでイメージしてみようか。

いきなりですけど、世界は多分、もっと優しくなっています。
なぜなら人の心の奥に、安心感と信頼があるからです。

それからみんな、落ち着いていて穏やかになるでしょう。
なにかがあっても何をすべきか、優先順位がわかるからあわてません。

お薬とか食べ物とか、健康グッズとか、
外側にあるものへの依存は減るでしょう。
そして多分、今あるものを大事にするようになるでしょう。
活かすことが上手になります。

自分以外のなにかではなくて、
自分にある、もっと良くなろうというちからのほうを信じられるようになる。
それは心にも、体にもある、ということがわかる。

食べ物には特に、あれが良いこれがいけない、という見方より
感謝が増えるかもしれない。

もっと先へ行きたいというより
基本的なものを大事にするようになるでしょう。
断捨離が、物ではなくて
心やエネルギーの側からもできると実感できます。

こわがるよりも、選ぶという姿勢が身につくでしょう。
良くないものをこわいから避けるのではなくて
私にとって、誰々にとって、みんなにとって、より良いものは?と
冷静に選ぶことができるようになる。

人間てすごいな、すばらしいな、と感じることが増えるでしょう。

うち中のものを浄化したくなるでしょう。
そして浄化することが気持ちいいと感じます。

なにより、心の中が浄化されることが。

心というものがぼんやりした単なる想像の産物ではなくて
科学のように作用するエネルギーなのだとわかります。

そうすると、世界がくっきりと見えるようになります。
世界全体がもやっと薄汚く見えている人にとって
くっきり見えるのはこわいこかもしれませんが
内側の汚れがなくなっていくと
外側の汚れはあまり気にならなくなるものです。

内側のレンズが汚れていたのが
世界に映り込んでいたんだ、ということがわかるでしょう。

そのうえで、気になることに取り組んでいけばいいのです。
でもいつも必ず、自分の内側のレンズを
おそうじすることから始めるのが正しいとわかります。

そして、世界をきれいにするには
各々が自分のレンズを磨いていけばいいだけだ、
そして協力すればいいんだ、というやり方が
どんどん身につきます。
そうすれば効果の速さを楽しめます。

そのころにはそれが常識になっているので
古いやり方のことはみんな少し笑える、と思っています。

また、今レイキを使える方で
私はそうなっていないけど?という方は
レイキを少し限定的なものとして捉えていらっしゃるか
もしくは難しく考えていらっしゃるかもしません。

レイキは人間に備わる無限のエネルギーであり
それは「意識のエネルギー」です。

ですから意識の中で、これはこういうもの、と限定してしまうと
それが初期設定となって働くようになります。

それから私はみなさんにレイキをご説明するとき
それは遠いお空の彼方から来るのではなくて
あなたの内側の中心から来ますよ、とお話します。

神さま、というとき、
やっぱり同じように遠い天にいるとイメージされる方が
多いのではないでしょうか。

レイキは宇宙の生命エネルギーと言われていますが
お空とかお星さまではなくて
宇宙意識を指していると私は理解しました。

宇宙意識は意識の最も奥、
顕在意識、潜在意識、超意識(魂)を超えたもっと奥深くにある
無限の領域で、すなわちそれが内なる神です。

遠隔ヒーリングは、このすべての人と同一の領域である内なる神に
癒しを依頼するもの、と私は認識しています。

依頼を受けた内なる神は、受け手の内なる神と同一だから、
即座にその人を癒すことができます。

たとえその人が地球の裏側に居ても関係ないのはそういう理由です。

遠く彼方から実体のよくわからないものを受け取って、
受け取れているのか確信のないままにまた遠くに送るなんて、
考えただけでちょっとしんどいですよね。

でも自分のハートのほうに向かって意志を伝えお願いをするなら
なんだかできそう、という気がしませんか?

私たちが神に愛されている、神と一つだ、と言われるのは
すべての人の奥にはこの場があるからです。
すべての人がもともとレイキを持っている、なんて言われるのも同じ意味です。

私たちは心の一番奥に、
無限の愛、無限の癒し手、無限の浄化装置を持っています。
ただ、それを働かせることを忘れているだけです。

内なる神さまへの直通電話を渡されというのが
レイキのアチューメントを受けることです。
シンボルとかマントラは電話番号ですね。

いつも電話ばっかりしているといつか電話番号を覚えてしまいます。
そのうち、かけよう、と思うだけで電話がつながるようになり
さらに、あれ、じゃあ電話いらないじゃん、いつも思っていれば、
というふうに進化します。

そのころには内なる神は
自分の生活にとってなくてはならない存在になっているのです。
神さまの意志がそこいらじゅうに感じられるようになり、
神さまの愛がいつも導いているのがわかるようになります。

願い、祈ることで、私たちがそれを受け取れるのだということがわかります。
なにをどんなふうに願うべきなのか、祈るべきなのかが
次第に理解できるようになります。

余談ですが、先日、友人にアチューメントをさせていただきました。
数日後、私と夫は休日で用を済ませるため車で移動していたのです。
いつもの道、いつもの交差点でふと、ハートがきゅーーーと開いて
突然幸せを感じました。

「あれ、何の理由もなく、私ただ幸せだ」と夫に言いました。
それから、買い物をして店を出てくるとまたハートに
今度はすごい安らぎが来ました。

「あれ、なんか懐かしい。震災(311)前の感じかな。
すごい平和な感じがする。」・・・わけもなく微笑んでいました。

その晩、友人から連絡が来て謎が解けました。
今日一日ずっと座ってた。ずっとヒーリングしてた、美緒に送ってたよ、と。

レイキすごいなー。こんなふうに届くなら本当に価値がある。って、
わかっていたのですが、改めて実感する機会になりました。

レイキのマニュアルをよく読むと
何度読んでも新しい発見があるのです。
自分の波長が上がると、実にそんなことが起こります。

「あれっ、自分で発見したと思っていたけど
はじめっから書いてあったわ」と
何度びっくりしたかわかりません。

レイキ、正しい理解と認識とともに、大いに普及してほしいものです。
神さまありがとう。

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洗脳と奴隷と瞑想

沖縄に来てから特に、私はものすごく恵まれてきたんだということを
ここのところ再認識させられています。

ヒーリングスペースを開いて、魂で共感できる人たちとたくさん出会って
私の世界は愛に満ちています。

しかし来てくださる方々はと言えば
こんなお話が通じるのはここだけ、とおっしゃる方が大半です。

私は常々思っています。
自分のセラピーは確かにスピリットの原理、
真理に基づいたスピリチュアルなワークなのですが
いわゆるスピリチュアルが好き、な人だけのものではありません。

なにも知識がない方、
そもそもなんとなくそういうジャンルが好きでない方、
にも適しています。

私自身が、スピリチュアルが好き、な人ではなく
ただ、本当のことが知りたい、そして
なんとか本当の幸せというものをみつけたい、という
探求者から出発しているからだと思います。

本当の幸せ、というと多くの人は
「幸せのかたちは人それぞれ」とか
「それは個々の感じ方の問題」と言います。
それはしかし表層的な満足、
つまり欲求を満たすレベルの話のことです。

私の言う、本当の幸せというのは
「自分の幸せは他の全部のきょうだいしまいの幸せ」です。
そうでない幸せには絶対に裏側があり、終わりがあります。
それは無限で拡大し続けます。
宇宙と神と愛と同じように。

それをかたちにするのは簡単なことではありません。
気づいた人がたった今から取り組まなくては
それを味わい共有するところまでたどり着けないかもしれません。

神をみつける探求は何より先に、早くに始めなさいと
多くの覚者たちが助言しているのは
きっとそういうわけだと私は思うのです。

そもそも真理というものは普遍的であるものです。

普遍的、ということは、
俯瞰する、抽象化してみるということにも似ています。

ひとつの事柄にズームして寄っていくと
その事柄はその人特有の問題であり、
その物語はその人特有のものになります。

そしてそれをぐーっと俯瞰していくと
その事柄は人であるすべてが共有し
その物語はすべての人のものになり得ます。

そのカメラをグーッと高いところに、
例えば
天とか宇宙とか神の意識とか呼ばれるところに置いて
どうなるか観じてみようと試みるなら
それが瞑想になります。

それは、頭で考えてみるだけでは到底届かない視線です。
考える、ではなく感じる、
また与え受け取るという在り方で臨む必要があります。

与え受け取る、ということは、自分の中だけではなく
主体と客体、観察者と非観察者、神と私、など
対話しやりとりする相手を自己の中に想定すること、です。

そうしないと、人間の頭は私という限定された思考から
抜け出すことが難しいのです。

自分、とか、経験値、そこから来る感情や価値観などを
いったんわきにどけておいて
なるだけまっさらになって、
まっさらなスクリーンに浮かび上がってくる何かに
そっと寄り添い耳を澄ますような
そんな行為が瞑想かと思います。

そんな姿勢で私たちが内面と向き合うとき
高次元の自己意識≒魂は
私たちにその姿の片鱗を垣間見せてくれます。

魂は神の愛に満ち溢れ
私たちをそこへ向かえるよう
そっと招いてくれます。

望む人すべてに、
またはっきりそれを望んでいることにすら気づかない人にさえ
その導きはもたらされます。

私たちが少しでも心でそのサインを発したとき
魂と神はそれを見逃しません。

そんな方々が日々、
私のところへ何かを分かち合いに来てくださってきました。

そのことをここしばらく、じっくりと味わうことができ
そこからまたたくさんの気づきがありました。

俯瞰した世界観を、今度は丁寧に地に降ろすのが
愛を行うことです。

日常の一コマ一コマが
単なるかたちだけの、過ぎ去る場面になるのか
その背後にある光に照らされた、永遠の場面として輝くのか
それは私たちの意識にかかっています。

一概に言えないことですが、
スピリチュアルが好き、という人に多く見られるのが
この作業が嫌い、好きになれない、またはどうやっていいかわからない
という傾向です。

愛について私は知っている、でも、世界には愛がなさすぎる、と感じていて
人間が好きでないのです。

もしすべての人の内側に在る、神を
誰か1人の中に観ることさえできれば
きっと人間全体に対する印象も変わるはずです。

人間みんながだめだからと言って
愛する人もろとも葬ってしまうなんてことは
私たちにはできません。
もし誰かを愛したことさえあるのであれば。

私がこの人を素晴らしい、愛しいと思うのと同じように
誰かが誰かをそう感じるから世界は続いています。

誰かの問題は、私の問題。
誰かの愛は、私の愛。

私のところにいらしてくださる方の中に
社会問題に目覚めておられる方が多いことは
うすうす気づいていました。

みんなが敏感で優しいからだろう、という風に理解していたのですが
それだけではないことに最近思い当たりました。

おそらく皆さんが普遍性、俯瞰するという視線、
つまり瞑想に目覚めていらっしゃるからだろう、と。

すると逆に、
社会問題の通じなさの壁があまりに厚いことに対して感じてきた
困惑や悲しさの謎も最近になって解けました。

敏感で優しいから、が理由なら、もっともっと多くの人に
自然に通じるはずなのです。
私の悲しさの原因はそこにありました。
優しいのに通じ合えないのです。
これが私にとって昨今一番大きな壁でした。

それから、沖縄へ来てみて
沖縄と本土(あえて本土と言いますが)の認識の温度差の理由もわかりました。

あえてこの言葉で言いますが
本土はあまりに洗脳されています。

ネット上ではよく、沖縄の新聞は極左という風に言われます。
私から見ると、それは個に寄り添った人道的な視点です。

この、左とか右という観念も、洗脳の一部だと最近気づきました。

あたかも、それはバランスよく真ん中から別れ
そしてあなたはあっちに偏っている、というような観念です。

あたかも「あなたもわたしもどっちを選ぶのも自由よ」というような
見せかけられ方でそれは示されています。

私は左を選んだ覚えはありません。
もし右が国家主義だというなら
私は皇室にも反対ではないし
今の天皇陛下とそのご発言など大好きだし
日本という国にも親しみと愛を感じます。
世界の中で愛され尊敬される国でありたいと
心底願って努力しているし
なにより、仲間が一番たくさん暮らしている国は日本です。
でも、勝手になにものかにコントロールされて
私は反国家主義者のほうに、追いやられているようです。
それはなぜなのか。

この社会には権力と被権力という構造しかありません。
その構造は、私たちの精神をも支配と被支配に分かちます。
それらは不可分です。
精神の支配なしに、権力は支配できません。

そしてその対比はものすごく偏った比率です。

前回の記事に書いたような
「対立の根底にある平等さや
議論の基盤にある誠実さ」は
そこにはありません。

瞑想は私たちから、そういった目隠しを外してくれます。
そもそも、魂だった、という視点まで
私たちを連れて帰ってくれます。

そこへ帰ってみると
この世でいつの間にか着せられた衣の滑稽さに気づきます。

それは、親や周囲から浴びせられた否定的な感情や言葉であり
また社会から与えられた役割を演じるための装束です。

それらの欺瞞や嘘から離れ、真実であることの喜びが思い出されます。

瞑想すると、そこに帰ることができます。
百万の議論より明確に素早く
いろいろな問題を解決し
最も優しい方法で
あらゆる対立を和解に導いてくれます。

あなたも洗脳による奴隷をやめてみませんか。
311で目覚めた人は多いと思います。
でも災害と多大な犠牲からではなく
友愛から、それを始めることもできます。

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