神さまから学んだこと

最近になって気づくのは、敏感な人ほど怒りを抱えている、ということです。私も自分の内面を見直すようになって、自分の中身が、というより、外界のほぼすべてに対して「怒りで防御」していたことに仰天しました。

そして自分が防御すればするほど、その攻撃は自分に向けられるというのが法則でした。攻撃を受けるからさらに防御する、この攻防のスパイラルは人間界での「普通の営み」だと思います。

私は、自分がそれでいいとは到底思えませんでした。自分の周りで明らかにそれをやっているおとなを見るにつけうんざりしていましたし、なんでわかんないんだろう、と、憤ってもいました。「よし、自分だけはそうはなるもんか。」

その決意は上々ですが、気がついてみると自分はいくら正しいことを言ったり行ったりしているつもりでも、人には伝わりませんでした。そして世界は傷つくことばかりでした。

自分を見直してみると、法則は単純でした。要は、今、この自分がどんな状態なのか、ということだけなのです。それが伝わるし返ってくる。これがまず、3次元の2元的法則です。

つまり、「自分が体験したいような自分でいればいい」が、答えです。

1,こうされたいなら、そういう人でいる。2,こうされたいなら、自分をそう扱う。3,こうされたいなら、他者にもそうする。
これが鏡の法則。

多くの人が知っている因果の法則はこの3番目だけだったりして、とにかく他人にはそうするんだけど、自分とか自分の身内、近い人にだとそうできない、という人もたくさんいます。私もまあ、そうでした。だから、そとづらがいい、とか、偽善者、などと家人から言われたり自分でもそういう罪悪感を持っている人もいます。

鏡の法則は、この意識世界、エネルギー世界を、もう少し精妙に表しています。

例えば、先の2番、こうされたいなら自分をそう扱う、というのは、外側に働きかけるのではなく、自分の中だけで完結する、思いの世界です。ものでは表現できません。私の中の再構築はこれから始まりました。

内面は嘘がつけませんので、自分が心から思ったり、そうなる、ことでしか、自分には伝わりません。いくら作り笑顔をがんばっても、心がついていけなければは微笑んでくれません。むしろ消沈してしまいます。

そうやって自分との本当の親密なおつきあいを始めてみると、自分がいかに恐がっていて、それゆえに怒ってもいて、理不尽さに発狂しそうで、叫びたくて、がっかりもしていて、消えてしまいたい気持ちでいっぱいだったかがはっきり見えました。あなたのそばにもしそんな状態の友人がいたらどうしますか?

私はその友人にするように、自分に対して接し始めました。私はそれまで、自分のそばにいる元気のない人のために一生懸命になることは大の得意でした。でも、それができる自分だからこそ、自分は元気満タンだと思っていました。そして、元気満タンでなくても、同じように正しいことをしなくてはならないと自然に思っていました。なんで自分にはそんなに厳しかったのでしょう。

自分は正しいということに、安全さや安堵感を見いだしていたのだと思います。傷つくことから逃れたかったのだと。自分が傷ついていたからこそ、傷ついている人を放っておけないし助けたかった。でも助かりたいのは自分だったのです。

危なっかしい人をかたっぱしから正して、或いは助けてまわる人はおおむね自分の状態に気づいていません。自分からなにが発せられているか。悲痛な叫びとともに痛みが発せられていても、行いはいつも正しいので、周囲はなかなか手を差し伸べられないのです。

いったんこのことに気づいた私は、とても寛容になることができました。まずはどこまでも自分に寄り添い、そして励ました。できないことではなく、できたこと、大きな目標ではなく、より小さな目標をかかげ、クリアを積み重ねました。

理想的なお母さんのように自分自身に対してふるまいました。どうしていいかわからない時は、神様に尋ねました。そして、もし神様だったらなんて言うだろう、どうするだろう、ということだけ考えました。

それまでの自分は理想が高くて困っていました。自分も許せないし、世界に対して批判的でした。しかし神様を理想と考えると、この問題は消えてしまいました。それまでの高い理想は、自分や周囲の人間に求めてしまっていたから窮屈だったのです。理想の神様はあまりに完璧なので、人間のほど遠さがはっきりとわかりました。神様から比べてみると、人間の個々の差なんてほんと~~~~~うにちっぽけでした。みんな、ほんと~~~~うに未熟なんだし、そんなのと比べていきがっても自分を責めても仕方ないんだ、とつくづく思いました。

その個々の違い、というのは、潜在意識の体験の記憶の差です。神様は超意識の中にいます。問題なのは、みんなと大差ない、ちっぽけな自分のほうであり、自分が気を配らなくてはならないのは、そのちっぽけな自分と、なによりあまりに大きな神様のこと、だというふうに。

そしてさらに、自分と神様との関係に意識を向けていくと、なにしろ自分の変化は早まりました。当たりまえです。目標設定が高いばかりでなく、その神様ご自身こそが、私たちを成長させてくれる源だからです。そしてさらにさらに、周囲との関係はどんどん改善されました。これが究極の鏡の法則。自分をこうしたい、こうしてほしいというのはごく些末な欲望かもしれませんが、理想を神様と設定してしまえば、周囲に反映されるのは神様、ということになります。そしてそこに紛れ込んでいる自己意識の破片をみつけるのはとてもたやすいのです。

私は私を取り囲む人々の、その外側ではなく内側、つまり神様に近いほう=ハイヤーセルフを観ることが得意になりました。そうすると、とてもじゃないけど解決できそうにない、と思うような出来事も、一瞬でこんがらがった糸がほどけることが起こります。

私は誤解されることをそれほど恐れなくなりました。だって、それは、自分が(神様とつながって)わかっていれば、そのうちほどけてしまうことだし、なにより自分が神様にしがみついて離れなければいいのだとわかったからです。

怒っている人を見て、「恐い」「いやだな」と感じるのは、生き物として当たり前の反応です。でも自分の怒りがどんななだったか、そしてその解消の道をたどった人には、それがもはや脅威だとは感じません。その奥にある共通の痛みや苦しみへの共感、そしてさらにその奥にある絶対的な意識である「愛」を同時に感じることさえできます。

そうなるためには、自分を分析して批判的であるよりは、私が神様だったらどうする?という優しい目線で自分に接することをお勧めします。

私なりに神様の特徴をあげさせていただくなら、

神様は、とても謙虚に私たちに寄り添います。
出すぎたり上からだったり裁いたり罰を与えたり怒ったりはしません。

そして求めれば求めるほど応え、迎えるほど喜び、ほとんどは隠れていて私たちの好きにさせてくれます。

でも本当は、私たちがいつでも、神の道に沿って選ぶことを望んでおられ、
どんなに裏切られても知らん顔されても背かれても、
ただいま、ごめんなさい、と言われれば即座にすべてゆるし、
優しさだけで包んでくれる。

私たちが少しでも心に感じる意志を持てば、
どこまでも広がる自由さを思い出させてくれ、
愛そのものを示してくれる。

私たちの不義なんで一瞬で忘れてしまう。

なかったことのように消し去ってしまう。

あたかも永遠に、神の家族であったように、
一瞬たりとも神から離れたことなんてなかったかのように、
どうやって迷子になったかも、どうやって帰ってきたのかも、なにも問題にせず、
ただ、ひとつであった、という永遠の安らぎの中に迎え入れてくれる。

人間との大きな違いはそのあたりだと私は思います。

人間はディテールにこだわり、どのように、なぜ、にこだわるから。
それは一つの知恵なのだけれど、
それにこだわっていると、神のやり方には沿えない。

神は良いも悪いも帳消しにして、ただ愛のところへ戻してくれる。
正しいことを良いとがんばりすぎた人には到底納得いかない。
そして、自分が怒り、すり減ってしまい、迷子になる。

良きも悪しきも、神への帰り道を探している。
本当は、すべての人のおうちは同じだし、目的も一緒です。

神様は私にそう教えます。