宇宙への扉

「わたしにはまだやれることがあるはず」「きっと別のところに使命があるような気がする」「なにかしたいけれど好きなことがわからない」。
そんなふうに感じるのならきっと、宇宙が、内なる自己があなたを呼んでいる。

使命を職業と同一視している人は多い。
為すべきことを対外的な行いだと信じている人は多い。

好きなことがみつからない。
なにをしたいのかわからない、と悩む方も多い。

いろいろな人のために宇宙はたくさんの扉を用意している。
「ワクワクすることをやりなさい」と、ある存在は言う。
その言葉が独り歩きして、あたかも
「人生の目的はワクワクすることをやること」だと言わんばかり。

ずうっとワクワクしっぱなしでいることが人生の勝利だと受け取られている感がある。

「ワクワクすること」は、宇宙とのチャンネル、つまり内なる神とのコネクションを開くための一つの手掛かり。
ワクワクが難しければ他にもいくらでも扉はある。

しかし扉があるからにはその向こうには目的地がなくてはならない。
「ワクワクすることをやりなさい」の前には「もしあなたが本当のあなたを生きたいなら」という前文がある。
目的は前文のほうだ。

本当のあなたは至福に満ちて、完全に豊かで、あらゆる欲求はすでに叶えられている。
そういうあなたを生きたいならまず・・・。

今はネットが普及して言葉だけの情報が満ち溢れている。
私がほんものを探していたころには手掛かりはわずかしかなかったが、その手の本はほとんど読んだと思う。
古本屋でこつこつ仕入れた書籍を紙袋何十袋に詰めてせっせと古本屋に運ぶ人生だった。
当時は高円寺に住んでいたのでそういう作業はとても簡単だった。

私はある時から、それ以上の情報を必要としなくなった。
それまでの疑問のすべてがつながってしまった。
真実は内側から聴こえてくる。気づきがいつも新しい喜びをもたらしてくれる。
取り組む題材は尽きない。
この世の細部にわたって、本質に紐づけする作業がいくらでもあるからだ。
今はそれが人の役に立つことだとわかっている。充足は循環している。

本当のあなたは、神の一部だ。
だからあなたはすべてを手に入れることができる。

じゃあ、と言って、すべてを手に入れることに人生を費やすだろうか。
思考はやってみたいというかもしれないが、本能はおなかいっぱいだと言うだろう。
魂は、だったらどう生きてみるか、とあなたに問う。

それを選ぶかどうかが意志だ。

あなたは最初から神の子、神の一部だ。
そのあなたが何をどう選ぶか、そしてどう行うか。
あなた自身を、そして同じ神の一部である他者を、どうみなし、どう扱うのか。

それをやってみると決めることが、扉を開けることだ。本当のあなたを生きるという扉。

それを選択したなら、外側から与えられる規範ではなく、内側からくる指針に従わなくてはならない。
内なる指針とのコネクションを開く方法のひとつとして、ワクワクすることを手に取っておこなってみなさい、というメッセージが役に立つ。
やってみたときに、それが導きだとわかるから。
それはひとつのデモンストレーションに過ぎない。

神はあなたにただ、魂の親を思い出してほしいだけだ。
肉体の世界の家族は、愛を思い出すためのひとつのきっかけに過ぎない。
あなたが愛そのものだったことを思い出すために過ぎない。
愛に還る道を選んでもらうための装置に過ぎない。

もしそれを選びたい気持ちがあれば、あなたは今すぐそれを始めることができる。
今すぐ光になること。
今いるそこをただ照らすこと。
今持っているそれに生かすこと。

もし今いるその場所が暗くてもっと明るい場所を求めるなら、あなたが照らす明かりとなりなさい。
どこかを探す必要が無くなる。そこが明るい場所となるから。

最初はひとりぼっちでも、あなたが明かりになれば、その明かりに引き寄せられ、仲間がやってくる。魂の仲間が。
魂の仲間(ソウルメイト)と出会いたいなら、あなたが光を放てばいい。

それが愛するということだ。

人生の目的はただ愛すること。
内側にある光を惜しみなく輝かせる。
それにはなにもいらない。
あなた自身とあなたの意志以外は。

あなたに今あるもの、それはすべて神があなたに与えたものだ。
そのすべてを使って、そのために自分をよく知って、今そこから始めればいい。

あなたに与えられた半径数メートル、あるいは数十センチから。
今までいのちを与えられ続けたそのからだから。その意識から。

私たちは意識だ。神は意識の源。
そこに戻ることさえできればそこにはすべてがある。

豊かさは、愛することから

理想や意志を持つ人ほど、自分のコントロールができるようにならない限り葛藤が大きいものだと思います。思慮ある多くの人が自分を簡単に愛せないのはそこにあるような気がします。

トラウマがあるとかないとか、インナーチャイルドの状態に関わらず。(インナーチャイルドは自分史のすべてですから、見直しをするまでの自分の多くはそこから成り立っているのはもちろんのことですが。)

理想と意志に感情とからだがついてこないイライラ、これは放っておけば一生つきまとう人間のジレンマでしょう。放っておいたなら、その人にどんなに崇高な思いがあっても、心の中が平安に満たされることはないでしょう。むしろ自己のなかの分裂は時とともに深まっていくことと思います。

崇高な意思とうらはらに心の中ではいつも不平不満が渦巻いている。いつも他者かもしくは自分を攻撃している。もしくは諦めや我慢とともに固まり閉ざされている。

この状態をチャクラで見ると、スピリチュアルに目覚めている方には往々にしてあることですが、下3つのチャクラが閉じているとか弱い、というふうに出ていることが多いです。「地に足がついていないんです」などと自覚なさっている方も多いけれど、言葉のイメージのように単にふわふわしているということだけではなく、

例えば自分の在り方を常に周りとの兼ね合いで測ってしまうというようなことや、どこにいても求められる以上にがんばってしまう、さらに求められないと居心地が悪い、つまり役割がはっきりしないと楽に居ることができない、人のことは許せるけど自分にはもっともっともっと多くを求めてしまうとか、だけど周囲からの理解は欲しい、賛美とは言わずとも少なからず認めてもらいたい、或いは許可がほしい・・・など様々な意識として現れます。まさに葛藤です。

これは30代のころの考察ですが、年を取って寛容になっていく人と偏狭になっていく人がいることに気づきました。更に掘り下げれば寛容に見えて諦めが強く閉ざしている人もいるかもしれません。本当の意味での寛容は、赦せることでしか生まれないのでしょう。

霊的成長、などというと仰々しいですが、私は単純にどっちに向かうかの二択だな、とその頃思いました。私は思春期から体調も精神状態も不調で不安定だったため、20代後半から自分を立て直し始めましたが、「次の山場は更年期だ。そこは自分の取り扱いマスターになって苦しまずに乗り切るぞ」と心に誓ったものです。そして自分との付き合いに対して本当に様々な実験を施してきました。

人間の肉体的な健康や寿命はおそらくホルモンに牛耳られていると私は今では勝手に確信しております。例えば女性ホルモンが一生の間に分泌される量って、ティースプーン1杯だと昔何かで読んで驚愕しました。総量でそれだけのものが、心身にどれだけの影響を持つか、というより女性のからだの一生をコントロールするのです。すごいと思いました。

この微細な采配は、心の在り方、自分の扱い方、つまり自分への心のエネルギーの向け方でまったく違うものになると、私は仮設を立て検証し、ほとんど納得に至っております。

また、自分が自分の思うようにならない、という体験は、子供の頃の些細にみえる兆候(例えば、宿題を後回しにしてしまう、毎日こつこつ予習復習ができない、忘れ物をしてしまう、テストでケアレスミスを必ずする、マラソン大会などが非常にプレッシャーである、ノートを最後まで使いきれない、-途中で飽きてしまって-)から始まり、思春期の体重のコントロール不能からはあっという間に不眠、便秘、摂食障害、鬱へとつながりました。

これらは自分への不信感、無価値観、自分自身との関係の溝の最初の兆候だったように思います。この後大人になるとこれらが仕事や自己表現、ひいては経済面、人間関係、恋愛、家族関係など生活と人生そのものへと大きく波紋を広げるようになりました。

これらは成長の過程で誰もが超えるハードルです。人によっては躓きもなく何気なく乗り越えていけるテーマかもしれません。ですが私の場合、どれもが気になり神経質さが増し、傷つきがひどくなり、愛を見失い、人生そのものへの絶望へとつながりました。

そこから回復する際、インナーチャイルドの状態が、すべての人生に非常に重大に関わっていることもわかりました。

世界を愛すること、他者を慈しむこと、自分を愛することは同じです。どこから始めてもいいのかもしれません。しかし、どれか一つだけ、あるいはどれかができないでいる間は、本当はどれもできていないのと同じなのだろうと私は思います。どれかが気になったときには全体を見直してみることが、人生を豊かに生きる一番の近道と言えるでしょう。

欠けていることへの気づきは、より全体性へと統合されるチャンスを与えられていること。それが魂の導きであり、自身の真実の道なのだと感じています。豊かさへの道は、得ることではなく、不全性をみつけ、思い込みを手放すことによって必ず開けます。どんなときでも。

超人のすがた

「私たちの真の強さは自己の明け渡しからくる」
これは敬愛するスリ・ダヤ・マタさんの言葉。

そう聞くと、誰にでも何にでも従順に言いなりなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、
もちろんそうではありません。
明け渡す相手は神しかありません。

「夜も昼も、何をしていても、心の背後で常に神のことを考えているようになるまで、あなたの心のすべて、思いのすべて、魂のすべてで、神を深く愛してください。」

究極、瞑想を何のためにするかと言えば、
そうなるため、なのだと思っています。
自己を明け渡して、内側を神で満たしておく。
そして、それを、生きる。ただそれだけ。

瞑想の習慣のない方からみるとおそらく気持ち悪い話ですよね?
私はもちろんそう志して日夜励んでいますが、
でも暮らしはいたって普通の感覚です。

例えば些細なことが心にひっかかって落ち着かなくなること、
沖縄で教えていただいた言い方だと「さーさーする」ことなんて、
いくらでもあります。

さて、そのさーさーを追っかけて分析をしたところで、それはほとんど解決しません。
なぜだろう、どうしたらいいんだろう、なにがいけないんだろう、
あれかな、これだろうか、いやそんなはずはない。

これをやっているうちにだいたい行き着くのは
「ああもう、こんな自分でいやだな」「自分ってやっぱりだめなんだな」
「ああ世の中ってめんどくさい」などという境地です。

ヨガナンダ先生はこうおっしゃいます。
「自分の考えを見張っていなさい。どんなに多くの時間を、無駄な考えや、愚かな考え、否定的な考えに費やしているかを理解しなさい。そしてどのくらいの時間、自分が神のことを思っているのか見守りなさい。」

さーさーする自分について真剣に考えていたとしても、
それは自分と向き合うということとは違う、と
気づいている人はどれくらいいるでしょうか。
自分のことや他人のことを一生懸命思っていたとしても、
思っている自分が神から離れてしまっている、ということこそが、
気づくべきことだということなんですね。

またそこでいろんなわながあります。
じゃあ悩まないで明るくふるまっていることがいいことなんだ、
ポジティブに考えればいいんだ、という方向に向かうこともあります。

いえいえ、それもやはり、意識は外に向かっていることになります。
内面は放っておいて、外側への対処に向かっているんです。

神は内面にしかいません。この世においては。ある次元においてはすべてにいらっしゃいますが。
ですから私たちが神を思うときは内面に向かい合うしかありません。
神を体験するのも実感するのも、私たちの内側を通してしかできません。

自己と向き合う、というのは究極神と向き合うことに他なりません。
自己の本質が神だからです。

はっ、そうだった、と、さーさーから離れて神に戻ってきただけで、
さーさーは幻想となって去ります。

平安に戻れば、その原因やきっかけはもう存在しません。存在する意味がありません。
それより、戻ってきた喜びと感謝があります。
その中からさっきまでの自分を観察し、学ぶこともできます。
平安に戻ってきてこそ、初めて学びができます。

こんな、天国と幻想の間を、お皿を洗ったり床を拭いたりしながら
行ったり来たりしております。
夫と神について話し合う時、セッションの時、自己ヒーリングと瞑想の時が、
一番神を実感できる時間です。
幸いなことに、ここに時間を費やせる生活をしていることが何よりしあわせに思います。
それを選ぶことを選べた自分になれたことが、喜びです。

美しく咲く

昨日のおやすみは久しぶりに庭仕事が少しできました。
ブーゲンビリアと玄関脇のローズマリーを剪定し、裏庭の石垣のくぼみに昨年植えたキダチアロエを収穫しました。

こういう作業って、自分の心にどれくらいゆとりがあるか測れます。
スペースが足りていない時は意欲がないばかりではなく、ちらかっていても目に入らない、スルーされることが多いです。
自分のエリアを小さくして、自己を温存しているんでしょうね。

今年に入って、まだ間もないですが、普段手つかずの「あとちょっと」のところにおそうじ意欲が出てきています。
明らかに昨年とは違う。私だけのバイオリズムなのか、みなさんはいかがでしょう^^

ローズマリーはパンやお肉料理にもべらぼうに合うのですが、今回はお風呂場と寝室に活けました。
アロマとしては緩めるよりはシャキッとする効果が強いのですが、この香りのすばらしさには代えられません。
夫もとても喜ぶので我が家には合っています。

先代のマリーさんは、公園で一枝手折らせていただいたものを挿し木して、道にはみ出すほど育ったというのに、はみ出ちゃうな、どうしよう、と思っている間に一気に枯れてしまいました。調べるとマリーさんには突然天寿を全うされる傾向があるそうです。当代はメイクマンで小さな苗を購入して植えましたが、順調です。

キダチアロエはなんとなく、初挑戦ですが、お茶にしてみようかと思い立ち、スライスして干しました。お日様が今日は陰っていますが晴れたらい1日でできてしまいそうです。棘を取るイメージがあったのですがシュウ酸カルシウムが多いため、と後で知りました。取ったり取らなかったり、で、ついでに葉肉をちょっとつまみ食いしながら、いい加減な仕事です。

植物って、人に観てもらうと圧倒的に元気に、美しく育つと私は常々思っています。東京へ行くと、街路樹やお庭の木がものすごくきれいだな、と感じます。20代のころ善福寺川公園のそばに住んでいてなにより川沿いのおさんぽが好きでした。ここの公園は本当に美しく、その頃です、そう思い始めたのは。東京の公園はいつでも人がいて、求められている感じがするところが多く、その思いを受けて樹も応えるのでしょう。

沖縄では、ここすごいな、と感じるところにはだいたい拝所があります。神との交流の場なんですね。そういう場所の植物も人信仰に応えて荘厳となり神聖な場を創り護ってくれていると感じます。

人間の視線にも想いにも、それだけのちからがあるのだと思います。いいほうへ使いたいものですね。
そのためには何しろ、自分育てと内面のおそうじに尽きます。注いだ分、必ず良い花になります。

初心表明

みなさま 新年おめでとうございます。

昨年もたくさんの方とお会いすることができ、また勉強会という新しい切り口で交流させていただけて大切な一年となりました。
おひとりおひとりに感謝の気持ちです。本当にありがとうございました。

今年もまた、ひと時ひと時を愛おしく感じられるよう、精いっぱいに歩んでいきたいと思います。
関わってくださるすべての方、どうぞよろしくお願いいたします。

ブログを書き始めてなんと15年にもなろうとしています。
何の気負いもなく、ただ言葉を紡ぎたい、言葉で伝えたいという思いだけで始めたものですが、こうして今も書けることが嬉しいです。
最初は自己治癒的な意味合いで、書くことによって自分を保っていたという感じです。
今はここまで自分を地に養っていただけたご恩返しを宇宙にできるといいなという気持ちも大きいです。
もちろんメッセージによって私を知っていただき、道のご提案ができるのは喜びです。

書けること、というのは、受け取ってくれる人がいる、というのと同義です。
どんな仕事でもそうですが、行いということは受け手あって存在できることなのだと思います。
この世に影響がない行いは存在しないのだということをしみじみ思います。

大切に受け取り、そしてしるしたいものだと思います。

初心に返って、レイキについて少し書きたいと思います。繰り返しになるかもしれませんが、繰り返す必要を感じています。

私自身、レイキの伝授を受け入て以来、レイキを忘れた日はありません。仕事として世に出してからも、自分自身から切り離された商品のように感じたことはありません。よくクライアントさんから「レイキなしの生活なんてもう考えられない!」と、お言葉をいただきますが、まったくもって同感です。そんな仲間が増えることこそ喜びです。

遠隔アチューメントの場合、ご質問をあまりされない方もいらして、その場合こちらからご指示することはないのですが、だいぶ後になってからきっかけがありお話するにつけ、ああもう少し補足できたらな、と思うことも多々あります。また、公式のマニュアル以外に、独自のマニュアルもぜひ作ってくださいというご要望もいただきました。取り組んでいきたいと考えています。

レイキにはおおもとのオリジナルのマニュアルがあります。基本的にはそれさえ熟読し理解すればレイキを大いに活用できます。レイキと名のつくものに限らず、ヒーリング哲学の楚は臼井レイキにあると思います。臼井レイキの精神に沿って深く洞察された著書は「癒しの現代霊気法」に尽きると私は感じています。アチューメント前に読まれてもあまりピンとこないかもしれませんが、使い始めてから読んでみると、あらゆる疑問に答えてくれるのではと思います。クライアントさんがくださる数々の質問に向きあっての実感です。

それ以外にレイキの本でお勧めはありますか、とご質問いただきますが、正直書店にびっくりするほど並ぶレイキやヒーリング関係の本にあまり関心するためしはありません。これに効く、こんなふうに使う、というのは本質ではなくて取ってつけたものが多い気がします。原理と質がわかると使い方は自ずとわかってきます。それには、意識やエネルギー、また心の働きや瞑想についての学びがむしろ役に立ちます。

つまるところレイキを理解するということは、この宇宙の原理や生命、意識のエネルギーのシステム、自然界の理というものに踏み込まざるを得ないからです。しかしながら電気の仕組みを即座に明快に説明できるという人は少数でしょうが、多数の人に利用はできます。この世のおおかたのシステムとはそんなものです。

レイキは、動かすちから、または動きそのものというちからで、そのなかでもより微細な振動数を持つもの、というのでしょうか。でもその前に、私たちやこの宇宙に存在しているもののすべてが実は振動であり振動数を持つものだと認識しないと、この説明は不十分です。レイキはそもそも止まって固まっているものを動かすわけではなく、そもそも揺れて震えているものに干渉し、変化を促します。共振を誘い、引き寄せて引き上げます。

この世の存在には生物と無生物がある、と小学校で習いました。なるほど、とその時深く感心したのを覚えています。しかしその双方が実は振動し活動するものによって構成されています。まったくもって命とそうでないものの区別は不思議です。本当はすべてが命なのでしょう。

では一体、あらゆるもの、万物を構成するものの振動とはどこから来るのでしょう。そして命とそうでないもの、有機と無機をどう振り分けているのでしょう。その根源を有らしめているちからを、私は神、と呼びます。別の呼び名がふさわしければそれでいいのですが。

ですから、私は、レイキは神から来るちからだと説明します。すべてのものがそうあるように。

「レイキはそもそも誰にでも備わっている力である」と言われるのはそういった意味での真実だと理解します。すべての人が本来愛である、というのと同義です。

しかしこの肉体をもってこの世を生きる浮世にあって、レイキがあるとなしとでは世界が変わります。人生に愛があるかないか、神がいるかいないか、くらいの違いがあります。

レイキが使えるというのはどんな生活でしょうか。

マニュアルによれば、他者への治療的なイメージがあります。治療までは無理でも、手軽な健康法、民間手当療法というイメージが最初の間口かもしれません。一番よく聞くのが「こどもが病気のときなんかに使っています」という声です。専門機関以外に自分でもできる対処法があるというのは素晴らしいことだと思います。

しかしレイキのパワーはここまでお読みいただければご想像に難くないことでしょうが、それにとどまりません。

私は、レイキの基本は自己ヒーリングであると心得ています。マニュアルにも当然その方法は列挙されていますが、それこそが極意だという記述はありません。これは自分の体得したことですが、この点真実だと確信しています。

レイキは、わたしという生命を活性化します。意識を浄化し、不純物を癒し、不和を調和させ、存在を磨き成長させてくれるものです。この点がレイキエネルギーの根っこの働きです。

「他者を変えるにはまず自分から」ですし、「より良いエネルギーのパイプとなること」のために日々できることもこれに尽きます。

ここでも立ち戻るべきは「私たちはエネルギー、つまり常に動き変化し続ける存在である」という観点です。何もしなくてもどんどん流れ、干渉しあい、変化していくのが自己なのであれば、そこに「より良く」という条件を付けたいのが人間という生き物なのではないでしょうか。人間が神の子たる所以でしょう。

もし自己がいったん確立され、例えば大人になって身長が伸びどまったところであらかた固定され、一定の必要不可欠な物質やスキルや評価を手に入れたところで安定してしまうような存在が人ならば、レイキは単なるオプション、飾り、または無用のものでしょう。

しかし自己意識(潜在意識と呼ばれる領域)にレイキヒーリングを施し続ければ、私たちは存在そのものの進化を促進することができます。無限に神に歩み寄ろうとする道を歩み出すことになります。

どういうことか具体的に言えば、自身に高い波動を流し続けることで、干渉を受け、引き上げられた結果、心の領域の不純物が除かれ、想いによる限界の枠組みが解体され(エゴの解体)防衛本能という狭くて低い波動の支配から自由になり、防衛反応である攻撃性(怒りと恐れ)の武器を脱ぎ捨てることを可能にし、愛という魂の本源の実在性への帰還に導く、というものです。

かみ砕くと、ありがたいエネルギーをいっつも流しているおかげで自分が穏やかになり、そのせいか周りも優しくなるので幸せだし、困ったときにもなぜか守られてる感じがしてうまくいく。おかげでからだも楽になり、余計な心配が減ったなー。この世はいいところだ。みんなそうなるといいねー、といったところでしょうか。結果、おかげでより高度なチャレンジに手が届くようになるわけです。

さて、そんなたいそうなものを今まで持ってるのに使ってなかった、どうしよう、と思われた方はぜひたった今から使い始めてみてください。レイキは一度伝授されれば恒久的にあなたの経路に刻まれます。以前使ってはいたけどどうも実感がない、というか方も、いったん再活性化が始まるとまた前とは違った変化を感じられるかもしれません。

どう初めてよいやら、という方はその旨ご連絡ください。遠方の方はお電話セッションでもレイキの勉強や活性について承ります。また遠隔・対面のヒーリングによって再活性化を促すことも可能です。学びを深めたい方にはレイキ・ワークアウトをご用意しています。他所でアチューメントを受けられた方にも対応していますのでご相談ください。

末筆ながら本年もおひとりおひとりにとって実り多き一年となりますようお祈り申し上げます。この記事にレイキを込めますのでお受け取りいただけたら幸いです。

AZU拝

世界の逆転

先日の勉強会、いらしてくださったみなさん、本当にありがとうございました。私がご提供できることなんて本当に限られていますが、みなさんがお集まりくださることで、意識を向けるべき点や方向性が示唆されます。本当に充実したお時間でした。何しろ、人の優しさや思いやり、神聖さを感じさせていただき共有できることは、それそのものが人を幸せにするものだとしみじみ思います。

誰もが自身の持つ優しさ、愛、神性を意識しながら人や社会とかかわることのできる、優しい世の中であってほしいと切に願います。ただそれだけで、世界は一瞬で変わります。いつも言いますが、ライトワークはいつでもどこでもできます。一人でも他者といても。人知れず、内なる神とともに作業をすることは、称賛とも報酬とも無縁かもしれませんが、誰よりもそれをしている自分自身にはその手ごたえがわかります。人を照らすのは、なにより自分が満たされることですし、自分が満たされることでさらに世を照らすことができます。それを一番喜んでくれるのは神ご自身です。

昨日はキッチンに立ちながらふと、自分が困窮に喘いでいたころのことがよぎりました。選択の余地のないことだらけでしたが、それだけに、物事の優先順位はいたってシンプルで明快でした。まず食べる、家賃を払う、着る、そして自己表現する。そして、目的は幸せになること。それらをタイトな条件でこななさければならないとき一番大事なのが心の管理でした。

健康、と言いたいところですが、からだは、心に着いてきます。まずは心です。

私は心に非常なトラウマを持っていました(当時はそれすらわかっていませんでした)ので、普通のこと(生活)を普通にこなしたり維持することがまず困難でした。スピリチュアルの学びなしには意識を保つことはできませんでした。

お金も精神力も体力もいつも足りていませんでしたが、この苦からいつか抜け出そうという思いだけはありました。まあ、苦しいからなんとかしよう、というだけの発想ですが。

当時は「げんき?」とあいさつされると「はい」と答えるのがしんどい状態で、ついまじめに「いいえ」と答え、相手をびっくりさせたり、「なにかあったの?」ときかれると「なにも。ただ人生に疲れてます」などと答えていました。

心がそれ以上ダウンしてしまうと動けなくなってしまいます。

今ではセッションをしていると「動けなくなる」とおっしゃっている方によくお会いします。その感じがとてもわかります。心が重たくふさいで行先を見失うと、文字通り動けなくなります。これは、物理次元しか見えなくなっている状態なのだと今ではわかります。魂が向かうべき光を見失うのです。

しかし「動けなくなる」は、社会では通用しない理由でしたから、動けなくなる前に自分で手を打たなくてはならない。こういう自己統制が、自分の人生では大きな障壁でありテーマでした。

やりくりして小銭が手元に残るとそれを押入れに放り込んでおいて、それが貯まるとそれで、スピリチュアルのセッションを受けていました。いつも阿佐ヶ谷の古本屋さんで本を真剣に選び、これという一冊を探し、読んで実践しました。どうしても自分を変えなくては(いやさなくては)ならなかったし、一刻の猶予もありませんでした。じっとしていたら恐れや悲しみや孤独に自分が呑み込まれてしまいそうでした。

自分はボロボロでした。そのボロボロは自分にしか理解できないところです。家族や社会や世間はわかってくれません。病院や宗教や学校は直してくれるところではありません。また学びと言っても知識を得て理解するだけでは自分を変えるちからはありません。むしろ苦しみは増すばかりです。ですから、自分の中に、直すちから(気づきと、神)があるのだ、という考えこそが私にとって救いでしたし、それしか他に方法はみつかりませんでした。

なにがボロボロだったといえば、私は心が傷つき果てていました。最初は環境から、次にはそれと戦っている自分のありさまに。

私は本当は、人が真実に気づき、それを求めるのに、ボロボロから立ち直るというきっかけはいらないと思っています。しかしなににしろこの世のありように絶望しない限り、人は既成の「観かた」を手放しません。

既成の観かたは、それまでに与えられたもの(体で感知した体験)を真実だと受け入れて、それを基準にします。どれだけ自身の深くまで潜ってそれを問い直すか、そして、ーここからが重要ですー本当の価値、本当の基準とは何かに気づくことです。この部分なしに、やたらと掘り起こしてみても、掘り起こしの作業にはまってしまうだけで、光りは見えません。

希望も光も神聖さも、恐れも暴力も不平も、すべては私たち個々の内側に備わっています。しかし一見混沌と散らばっているこれらの意識の特性をみつけ、何が「普遍・不変・不偏」のもので、なにがかりそめの思い込みによってつくられたおばけなのかを見分けるのです。本当はおばけなんかいないんだ、という真実を受け入れ、本物の世界を観るのです。この作業は、瞑想かそれに類するワークを通してしか不可能です。

おばけの世界では、おばけを現実と呼び、真実をおまけのように扱います。この世界の逆転をもとに戻すことが、内なる神とつながって生きることであり、平安と自由を同時に手に入れることです。

完全無欠

『絶対に不可能なものを求めて生きていこう。例えば完全無欠、オールマイティー・・・』

というような書き出しで始まる文章は私のものではなく、狛江2中で同級生だった、私の人生に間違いなく多大な影響を与えてくれた友人の、卒業文集の作文。

このフレーズを私は忘れたことがない。最近になってますます頻繁に脳裏をよぎるようになった。

それは私が神を求め、内なる神と頻繁に問答するようになってから加速している。神への問いかけへの答えはいつも私にそう言わしめる。そうだ、つまりは不可能なものを求めて生きることなのだ、と。

私たちは神に多くを望むかまたはまったく期待しないかのどちらかだが、神は私たちにたったひとつを望む。
それは、私たちが、神へと近づくことだ。

しかしどうすれば近づいたことになるのかはほどんどの人にとって未知である。

かの作文の主とはある時を境に交流がなくなり、私は行方を知らない。けれどことあるごとに私は彼女に感謝をつぶやく。大概はそうだが、その最中にある時、私たちはそれにどれほどの価値や意味があるのかを知らない。どんなにか貴重な出会いや体験なのか、ほとんどわかっていない。

自分や人生というものに注意深く向き合い続けて止まない人だけが、その恩恵にある時気づく。
「ああ、あれは分岐点だったな」とか「よくあんなことできたよな」とか、「そのときは当たり前にしか思っていなかったけど、あれは恵まれていたな」とか。感謝なんて本当に感じるのは渦中を過ぎて静まったずっと後のことばかりだ。

自分の人生を振り返ってみて良かったと思えることはほどんどこんなことばかりで綴られている気がする。ほとんどなんにもわかちゃいなかったし、自分でわかってて選べてなんかいない。ではいったい、どうやって生きることが最善だというのだろう。まさに渦中にある時、なにを基準にものごとと向き合い選べばいいというのだろう。

そこでかのフレーズが浮かぶのだ。そうだ、私は、絶対に不可能なものを、精いっぱいに求めて生きているのだ。例えば完全、例えば神、例えばオールマイティー。中学3年生だった彼女が私の知らないなにを見据えて書いたのかわからない。でも私は今それこそが自分が求めていたものだったのだとわかる。

私はこんなふうに恵まれて、導かれて生きてきた。神の使者はあらゆるところの配備されていた。でも渦中には、ただがむしゃらに藁をもつかむ思いで無様にばたばたと暴れ散らかして生きてきただけだ。

渦中にありながら楽しむことができる、苦難の時を感謝のなかで過ごす、苦痛を平静に受け入れる、良き事悪しき事すべての体験から学ぶ。そんなことを可能にしてくれるのは恐らく神だけだ。だから私は神を求める。神からの贈り物を、ではなく、神そのものを。神に少しでもにじり寄ることを。

どんな状態のなかにも神をみつけることを望む。どのような状態の中にも神をみつけることができるのなら、それ以外になにを望めばいいのだろう。

楽しむために神が必要なのでも、笑顔でいるために神が必要なのでもない。楽しくない時も、笑顔でない時も、神を忘れないことが必要なのだ。神の不在が消えたとき、苦は存在できなくなる。苦から逃げも隠れもしないことが苦の消滅への一番の近道なのだと思う。

私は絶対に神のようにはなれない。だから私はそれを永遠に望む。しかしその不条理のなかにも、神が存在し私たちを導く。その一瞬一瞬の中におそらく私たちは真理をみつける。

ハイヤーセルフからの学び

みなさんこんばんは。沖縄は急に冷え込みました。つい先日まで夏とさほど変わらない服装でいけていた気がするのですが、今日は冬仕様でも寒いと感じました。とは言え、10月に東京に行った時ほどの仕様ですが・・今日は暖房を入れながら書いております。

先日お伝えしました勉強会ですが、ありがたいことにご応募いただきただいま残席1名様となっております。引き続きあと数日募集させていただきます。締め切りの際にまたご連絡いたします。いつもながら、いらしてくださる方がたのエネルギーが内容を導いてくださいます。とても楽しみに、準備させていただいております。ありがとうございます。

ヒプノセラピストとして東京で仕事を始めてから15年以上の月日が経ちました。沖縄へ来て、ヒーラー、カウンセラーとしての自分を育ててくださったのは、いらしてくださった皆さんのお力と、内なる神の導きに尽きます。自分のため、本当の自分として生きるために始めた人間と心の探求は、真理の探究へと私を導いてくれました。

ヒプノセラピーでは、ハイヤーセルフという概念をワークに組み入れていますが、それが本当はなんなのか、始めた当初ははっきりと見えていませんでした。ただ、ワークするとそれは起こる、という感覚でした。

ハイヤーセルフとはより高次元の自己意識と言い、私たちの通常の視野よりもより広く高い見地として存在すると考えられます。瞑想によって波動が高まり魂と同調したときの意識状態と見ていいのでしょう。チャネラーと言われる方々は「私のハイヤーセルフはこう言ってる」とか「あなたのハイヤーセルフはこう言ってる」などと表現されます。

当初は私自身もいつかそんな風になるのかしらという思いで、いつもハイヤーセルフにどうすればもっとあなたの声や言葉が聴きとれるようになるのか問いかけました。

ある日、「あなたは自分の言葉でそれを語りなさい」と言われた気がしました。それがどういうことなのか瞑想しますと、それはどうやら、メッセージを自分のものとして伝え、責任をとるように促されているようでした。

それまでハイヤーセルフは自分の人格とは別のなにか、というふうに捉えていましたが、当時チャネリングセッションを受けていて度々その言葉に疑問や違和感、もっと言えば傷つきを感じることもありました。「私が言ってるんじゃないの、ハイヤーセルフ(あるいはガイド)が言ってるの。私意味わからないし」という言葉とともにメッセージやアドバイスが伝えられることがよくありましたが、言葉の表面通りに受け取ると非常に無理があることもしばしばでした。

私は違和感を感じると、そのメッセージをどう解釈すべきで何を選択すべきなのか、非常に考えました。例えば、結婚したばかりの頃、私は結婚にとても幸せを感じていましたが「ハイヤーセルフは離婚を勧めている」と言われたことがあります。私は耳を疑いましたし、それはきっと何か別のことを意味する比喩か何かだろうと最初は思いました。

また、もう子供の魂がそこまで来ていて、間もなく身ごもると言われたことも複数回ありました。

前者は自分で考え選ぶことができることで、後者は努力はできても決められないことでした。

前者に関して私は、きっと私自身が自分でも気づいていない重要な何かが隠れているのではないかと考えました。それでいろいろと内観をしたりして意識を変えてみました。それでそのメッセージが取り下げられればきっと、そのカルマは変えられたことになるのではと考えたのです。しかしそのメッセージは執拗に私に届きました。何度その人に会っても同じことを言われました。そもそも私は結婚に関しては不安も疑問も感じておらず、質問すらもしていませんでした。でも繰り返しそう勧められました。私は困惑したあげく、とうとう主人に打ち明け相談したのです。

主人は当時、スピリチュアルに関してはまったくなにも知らず、私の仕事もヴォーカリストがメインだと思っていました。しかし彼は静かにその話を聞いてから、「それは、大変な思いをしたね。よくそれをうのみにしなかったね」というふうに私に言いました。うのみにしないことには慣れていましたが、私がここでしなくてはならないのは、もっと深く、互いの認識と理解を深め、共有し、二人の目標を持ってそれに向かって共に努力をすることのように思うと話しました。主人は同意してくれました。私はそれまでにしてきたスピリチュアルの学びを全面的に主人と分かち合うことにし、成就しました。

それで今があります。

結果として、その時のハイヤーセルフのメッセージは私にとってとても役に立ちました。しかし周囲では言葉を額面通りに受け取り選ぶ人もとても多くいました。それも間違いではないのかもしれません。しかし、自分がそれを「恐れから」、そうしなければ良くないことがあるとか、またそうしたほうが人生が優位に運ぶとか、そういった発想から選んでいたのならそれは成長ではなく破壊をもたらしたと思っています。

もう一つ、子供が授かるかどうかというようなメッセージは、結果として二者択一、どちらに賭けてもフィフティーフィフティーで当たるか外れるかです。不思議なことに、「子供はできないよ」というメッセージを伝えてきた人は一人もいませんでした。自分自身で瞑想しないわけではありませんでしたが、正直望みが強すぎて真実はよくわかりませんでした。後から思ったのですが、子供が来てるよ、と私に教えてくださった方々は、私のその強い希望の想念のエネルギーを現実のものとして感知なさったのではないかと思います。

実際私は毎月のように想像妊娠と思しき症状を見せ、主人からも「今度こそいる」と思われていました。私自身が間違いなく自分のからだを昨日までとは違うと感じていました。私がそれだけ明晰に知覚しているのですからそれはエネルギーとして存在したのでしょう。しかしこの世の事実として私には子供はありません。

話を少し戻します。もし私が私のハイヤーセルフから命じられた通り、「自分の言葉」としてメッセージを伝えるとすればどうでしょう。私には自分が社会人として発言した言葉に責任がありますし、少なくても自分にまったく意味不明なことをそのまま、或いはうのみにした誤解をそのまま伝えることはできません。少なくても自分が内容をある程度理解し、良識と良心、相手の身になってどう感じるかなどの人として当然の配慮の上で言葉を発しなくてはなりません。

私はそれに従いました。結果としてその選択は私を人として成長させてくれたと感じています。

ハイヤーセルフ・ワークのセッションでは、クライアントさんがハイヤーセルフのメッセージをチャネル(リーディング)されますが、私自身がそれを理解し噛み砕くには私は真理を学ばなければなりません。

これは過去世やインナーチャイルドワークにしても言えることですが、その内容や仕組みを真に理解し、より高い見地からそのメッセージを観るには、真理、つまり神と愛を中心に置かなくては間違いが起きます。神不在の探求は時にオカルトになり、時には心の傷の上塗りをし、時に愛ではなく恐れに、光りではなく闇に、人を追いやってしまうからです。

癒しとは、必ず人を全き光に導くものです。癒しとは、分離ではなく統合に、恐れではなく平安に、真のしあわせに導くものです。それは容易で平坦な道ではありません。時に厳しさや、変化とそれに伴う恐れに人の心を晒します。癒す人とは、自らの体験に基づき、その道の伴走をさせていただく者だと私は思います。癒す人は、何度も何度もその厳しい道のりを繰り返し往復することで、自らの足場を築かせてもらいます。癒す人はそのように癒されます。

癒しは神の領域であり、真の癒し手は神と愛しかありません。私たちは伴走を繰り返しながら、神の愛を目の当たりにし、その光にあやかります。いつしかその光がゆるぎないほんものとして宿ってくれることを夢見て。

導きへの信頼についてと、沖縄勉強会のお知らせ

「信頼」を体感する体験ってとっても貴重だなと、今更ながら思います。

なにげなく生きていると、ありそうで意外とチャンスが少ないかもしれません。

子どもの頃、例えばだっこや肩車なんて、全託と言える体験です。私はお母さんの自転車の荷台に乗ったまま商店の前に置き去りにされて自転車ごと倒れた体験から、お母さんへの全託をやめたという記憶があります(笑)。

大きくなってからの体験では、演劇の訓練が一番強力でした。実際に「信頼の練習」と称して、まっすぐに立って真後ろに倒れるというような訓練がありました。後ろにほう助者が立って、倒れてくる人を受け止めます。

信頼の欠如=恐れがあると、倒れる途中でついぐにゃっとからだを曲げたり、頭をすくめたりして防御してしまうのです。するとほう助者もうまく受け止めることができません。まっすぐ棒のようになって倒れるのが、信頼のあかしです。

それができるようになると今度はひとりの周囲を数人で囲み、ほう助者が別のほう助者へ、倒れた人をパスします。真ん中の人は足の位置を動かさず、360度どこにでも倒れることができるようになります。慣れると笑顔でできるようになります。

ほう助者のほうに恐れがあると、緊張して受け止めるのに苦労します。でも万一受け止められなければ大変な事故になりますし、一度でも受け止めてもらえない経験をすると恐れが刷り込まれてしまって、乗り越えるのに努力を要します。ほう助者はなにがあっても最後には自分の身を呈してでも相手を受け止めるとコミットメントしなければなりません。

全員が笑顔でできるまでには力学的な仕組みの理解と、練習と、圧倒的なコミットメントと、そして信頼が必須です。

信頼、と聞くと、私の場合このイメージをからだが思い出します。倒れ込んで誰かが両手で受け止めてくれるまでのふわっとしたコンマ数秒の間に様々な思惑がよぎります。でも、この成功体験に慣れてくると、自然と喜びが湧きます。それは「自由」という感覚です。

意識やエネルギーや内なる神、愛の法則を信頼するのもこのプロセスと似ています。見えざる神の御手を信頼して新しい領域に飛び込むことは、まさに手放しで真後ろに倒れ込む感覚です。

私はこのような訓練という体験があるため、意識を変えることで世界が変わることを知っていました。おかげで、スピリチュアルに関する本が精神論ではなく実践本に見えたのです。

聖なる存在、エネルギー、スピリットと付き合うには信頼が必須です。信頼というのは、信じているかのようにふるまうことで築かれるのではないでしょうか。信じているかどうかではなくて。

そのふるまいの積み重ねこそが、実践なのです。


勉強会を、沖縄でも開きたいと思います。
ご要望いただいた方々、後押しいただきありがとうございます。


日時 12月22日 14時~16時30分

場所 RUACH

定員 5名様 (最少催行人数 3名様とさせてください。満たない場合延期させていただくことがございますがご容赦ください。)

ご参加費 3500円 当日お支払いください。

テーマ シェアリング可能なテーマやご質問、ご希望をせください。骨組みはAZUがご準備いたします。

また東京では場所がカフェだったため、瞑想やヒーリングなどのワークができませんでしたが、こちらでは可能ですのでご希望に応じて行わせていただきます。

※ワークショップの際は、ヨガマットをご用意いたしましたが今回は勉強会ですので椅子席をご用意いたします。

※駐車はRUACHと近隣に可能です。

※お申込み、お問い合わせは ruach@live.jp またはお電話098-948-3925まで。

※初めての方は、お名前、生年月日、お電話番号、ご住所をお知らせください。RUACHでのセッション体験者の方は、お名前とご連絡先のみで結構です。


東京勉強会では勉強会の重要性と、私自身への意義を非常に実感させていただきました。

「こんなお話できる場所が他にない」
「自分だけではなく他にも同じような興味や意識を持った人がいるという実感をしてみたい」
「取り組むテーマなしにも、ここに来る機会がほしい」などの声を多数いただいてきました。

楽しんで準備させていただきます。お気軽にご参加ください。
どうぞよろしくお願いいたします。

AZU拝

愛の大きさ

小さなことの中に愛をみつけることができる、という言葉はよく聞くけど
だったらどうなるの?と、以前なら思っていた。
より大きな愛が掴めたり、与えることができるようになるのかしら、というふうに。

より小さなものの中に愛をみつけることは、
たとえべ私のなかに愛をみつけることと同じ。

そして私の中に実在する愛を、すべての者の中に見るのと同じ。

愛には大きさってないんだ。
それは人が見た目に思うこと。

愛は計り知れない。
私の目には、まだまだ掴みきれない。

あるがままの無限をみつけて
それを見失わず
何度も何度も見つけ直す。
そのうちに、すべてがそれとひとつになること、
それだけが目的だった。

ストーリーか、愛か、

波動が高い、波動が低い、

高いのは愛、神、高次元。では低いのは?それは3次元のすべて。

3次元は、時間と空間、そしてストーリーでできている。

ストーリーには始まりと中と終わりがあり、
原因と結果がある。

つまり、地上の物語のすべて。

それは悪いわけではない。
ただ、そこには平安がないだけ。真実がないだけ。
だから幸せもない。

そしてそこには
勝ち負けがあり、優劣があり、価値と無価値があり、順番があり、

過去があり、理由があって、今がある。
今は過去の集大成であり、未来はその延長上のいずれかにある。

今がこうである理由を過去の出来事にみつけ、
過去を裁き、未来に備える。

そこでの最善とは、今を分析し、過去の誤りを挙げ、
過去の反省とともに過ごすことに専念すること。
しかし誤りはまた起こる。
努力ほど報われず、恐れは膨らみ、時間はすり減っていく。

そこに愛や平安が存在できるのか?あると考えるには矛盾がありすぎる。
なのにヒトはその延長上に愛を求める。

ストーリーに愛を組み込み、それを証明したがる。
ストーリーは自分を縛り、他者をそこへ当てはめる。

ちっぽけな枠に愛を、神を、はめ込み、カテゴライズする。
神を矮小化することでヒトは守られず、恐れ苦しむ。

波動を上げるとは、

この、ストーリーのすべてを離脱することだ。
時間と空間を離脱することだ。

すると、ヒトは魂を思い出す。
存在する意識を。ふるさとを、根源を。中心を。

高次元であるヒトは、3次元にはいない。
そのとき、ヒトは、今ここにある。

今ここを3次元内で理解しようとしても不可能。
それは、ヒトの内側にしか存在しない。
外側に今ここなどない。

今にいない限りはあるがままでいられるわけがない。
ストーリー上にいるヒトは、役を演じなくてはならない。
そこにあるがままはない。

内側にいるには、自分の中身をみつける必要がある。
中身とは意識だ。

意識をみつける必要がある。
意識を外から眺めるのはなく
意識の底へ、降りなくてはならない。
降りて、降りて、中心をみつけなくてはならない。

中心をみつけない限り、ヒトは外から中を眺める。
外にいる限り、ヒトはストーリーの流れにいる。

その中心を、宇宙意識と言う。神とも言う。最高次元とも、根源とも言う。

神から私はまる見えだが、私から神は見えない。
だから私は見えないものに祈る。

私のなかにあなたがいることを私に示してください。
私にあなたを感じさせてください。
あなたのご意志を私にわからせてください。
そしてそのように導いてください。
どうぞ私をお使いください。
あなたから逸れないように、
私のなかにあるストーリーをどうぞ手放させてください。
外側に対して自動的に反射してしまうあらゆる本能の選択を
過去のストーリーに基づく予測から
あなたのご意志による選択へと置き換えてください。
私の内側に刷り込まれているあらゆる思い込みによって築かれた価値観を
どうぞ解体し、あなたのものへと置き換えてください。
私は私の小さな枠を解体してくださるよう祈ります。
小さな枠の中にある、古い、学びを終えてしまったエネルギーを手放し
あなたへ明け渡します。
どうぞ、ここへ、住まわれてください。

すると、中心が、私の中へ広がってくれる。

その時、私は、自己の中心を感じることができ
中心から外を眺めることを知る。
外にはストーリーがあり、
自分はそこにはいない。

ストーリーを眺めることができ、
時間に縛られない自己を観じる。

ただ、今の連続が在るのだということがわかる。

未来は来ない。

来ないものを恐れる必要がなくなり、予測は消える。

過去が消え、原因が消え、今のあるがままが自己となる。
消えたものを認識することがなくなり、
それらは、今に目覚めさせるための幻想という仕掛けだったとわかる。

どのような悲惨なストーリーを見たとしても、
今に目覚めないという悪夢よりはずっと幸運だったと認識する。
ストーリーを感謝とともに、赦し忘れることができる。

あの頃に比べたら、今はずっといい、というのがストーリーだ。
今が至福だということは、ずっと至福だった。

だから、感謝がある。