愛とはなにかという気づき

今日のセッション中に私の口から出てきた言葉を記します。私にとっても新鮮で、驚きと「ほんとにそうう?」という問いかけが同時に出てくる不思議おもしろい体験でした。

愛とはなんでしょうか。愛に似たもの、あるいは愛からもたらされたものを私たちは数多く体験し知っています。けれども愛とはなんだろう、という問いに答える本当の言葉に私たちはなかなか出会うことはありません。

今日、また神について楽しい話に夢中になりながら私は、魂がまったき光である神に向かって突き進んでいくビジョンを観ていました。私たちの誰もの内に在り、そのすべての魂が向かうふるさとの光。みなもとの光。

私たちは人間という肉体を乗りこなすべく夢中で肉体と一体化するうちに、肉体こそが自分だと錯覚します。そして肉体の法則を学び肉体の世界観を身に付けます。その限界と有限性という孤独の淵に立ち、やがて本当の自分を思い出し始め、ふるさとの光を求め始めます。

なんとかこの世界、この社会で乗りこなそうと必死で握りしめていた自己意識という操縦桿を、「手放す」という選択があることを知ります。

しかしそれを手放すためには心の中に、ひとひらの信頼というものが必要になるのです。確信はなくとも、理解はできなくても、道理がわからなくても、その握りしめた指をほどき掌を広げ捧げる対象が。そうです。私たちはそのまったき光に向けてその掌を広げ捧げるのです。

その信頼という原動力によって、魂が私たちを導き始めます。光に向かってただうなりを上げながら猛然と神の懐へと還ろうとするのです。

「それが、愛なんだと思う。」

魂が神に向かって動くちから、それが愛。

言ってしまってから「それほんとう?」と何度も反芻したけれど、なるほど、それかもしれない。

分離したと見せかけて本当はひとつだった、というところへ戻っていく、その動き。その動きそのもの。

そもそも完全であるものの一部が、完全という全体へと戻っていくちから。

ひとつになるちから。

それが愛なのかもしれない。多分そうだ。

私たちを癒し修復するちからとはそれしかない。分離という幻想の傷を、他者という加害者と、被害者という自己。あるいはその逆。あなたがそうするからわたしがこうなった、というストーリー。別の誰かという存在に脅かされる自分。恐れは防御を生み、攻撃を仕掛ける。攻防する心は常に他者を断罪し続け、結果自己を苦しめる。他者に罪があるということは自分にも罪があると訴え続けることになるからだ。

それらすべての陰影を消し去るものは、まったき光、つまり相反する対極を持たないものだけだ。光の中に影は、闇は存在することができない。そして防御のないところに影を作り出すことはできない。自己意識というのは防御が作り出した陰影でしかない。その陰影を見て私たちは更に恐れている。自分が作った幻影のおばけを見て。

また愛に身を委ねるとき、肉体であろうとする自己意識は非常にそれを恐れる。恐れは愛を妨げるが、愛そのものをも恐れる。自己意識が自分を失うことを恐れるのだ。愛という光りの中に自分が溶けていくのを。

人が愛を求めるのは、孤独から逃れたいからだけかもしれない。そこに崇高な理由はいらない。しかし愛を求める心はいやおうなく私たちを光に、神に向かわせる。

神はすべてに遍在するが内側に神をみつけない限り人は神をみつけることはできない。外側というものそのもが自己の創った幻影であるから。存在しないもののなかに神は存在しない。神は真実であるがゆえに、外側という幻想から私たちを目覚めさせる。神は実際には一つしかない。その一つをみつけたときに、すべてはその一つの中にあったとわかる。

内と外という隔たりを作っていたのも自分だが、内を見ない限り外に世界があるという錯覚から自由になることができない。ゆえに自己は世界から分離し続ける。

私は自分を始め、傷ついた人びとを通して神をみた。傷が痛々しいほど、神が、愛が、真理が、それをみごとに癒すところを目の当たりにすることによって。夢の中で、これは夢なんだと叫ぶことで夢から覚めるように。傷ついて、怒って、悲しみにくれてたまま、私たちは神をみつけられる。夢の中でそれが夢だと気づくことができるように。私たちはなにひとつ否定する必要も拒絶する必要もない。ただ、今あるところに、今いるところに、今置かれているところに、今与えられているところに、神をみつけられるよう求めればいい。

そう求めることが愛なのだ。そう求めさせる引力が、愛なんだと思う。

健康と自分の取り扱い

特定検診を久しぶりに受けました。豊見城に住んでいたときは歩いて、健康管理センターという立派な施設まで行けたのですが、こちらは徒歩圏内には公園と海と畑、あと聖地しかありません(笑)。聖地があるってところが最高なのですが。

知念に来てあっという間の5年目で、本当に時間の感覚がちょっと、あれな私です(笑)。

それから驚いたことに、特定検診の結果は郵送されてくるものと思っていましたら、市役所の方が直接持ってきてくださるということも初体験でした。東京育ちの私にとっては軽いカルチャーショックです。直接持ってきてくださった上にいろいろと解説してくださって、担当の方がとても勉強されていたこともあり、好奇心旺盛な私は結局1時間半くらいお引止めしてお話うかがいました。マンツーマン、贅沢過ぎます。

健康についてのお話なので、うちの家業とも関係してきます。その時に、印象的なことがありました。

基本に立ち返ってしろうとながら鍼灸のこと申し上げますが、鍼灸師になるには専門学校に3年通い、国家試験を受けて資格を取ります。夫と出会ったとき夫は専門学校を受験する前の受験生でした。

実は専門学校を一浪中だったようです。結構難しいものなんですね。彼も多分最初は簡単に考えていたんじゃないでしょうか。

学校では解剖学、生理学など、人体についての基本的な西洋医学的な知識を学びます。学校では様々な先生が教えていて、先生方によって考え方も違います。

夫は賀偉先生という、中国国宝級の老師と言われる先生のご子息との出会いがあり師事しました。陰陽五行説など興味のある方はご存知かもしれませんが、中医学と言われる中国の伝統医学を学び、それを主軸に鍼灸の施術を行っています。

たとえば頚椎ヘルニアの症例でも、見るところは首とか骨ではなく全体を診ます。わかりやすい記事がありますのでよろしければ夫のブログをご覧ください。あなたに合った治療法―頚椎ヘルニアの症例

これは人体という生命を扱う上での捉え方(哲学をも含むといってもいいでしょうか)を楚にし、非常に多くの臨床のデータに基づいて構築され体系化された学問です。簡単に言えば、西洋医学ではからだを見る時、正常範囲がありそこからはみ出たものは病気という異常だと見ますが、中医学ではそこにある生命の働きというものを視野に入れますので、その生命力の流れ、バランス、働きなど、それを阻害するものの原因などから診ていき、未病の状態から改善を図り、体質改善などを試みることが可能です。

この作業は施術者の視点が重要になり、それによって施術の方針が違ってきますから、自ずと結果に影響してきます。しかし、この見方から行くと、すべての症状に対して有効に働く可能性を持った療法であるということができると思います。

私は夫と出会う前から、鍼灸治療が好きでした。というか、とても頼りにしていました。というのも私は幼少期からあまり丈夫ではありませんでした。まず扁桃腺が肥大で、しょっちゅう高熱を出していました。

熱を出すと母が自転車の荷台に私を乗せてえっちらおっちらと小児科医の先生の所へ連れていってくれ、そこでは最高に強い抗生物質をいつもいただいていました。母がよく、うちの子には弱い薬じゃ効かない、というようなことを言っていました。

母の母は成人するころまでとても虚弱だったようで、そのためもあり健康法に熱心でした。うちには当時話題になる健康法が次々とやってきました。また今でこそ少し有名かもしれませんが、操体法なども祖母はコツコツと実践していました。一体どうやって情報収集したんだろうな。とても知的で頭のいい、優しい人でした。

私ときょうだいもみなどこか弱いところがあり、それぞれいろいろと与えてもらい、今更ですが随分いろいろ試してもらったんだな、と思います。

でもほとんど芳しく効力を感じたことはありませんでした。独特な鍼灸整体をする先生とあとは演劇の世界に入ってから野口体操や演劇仲間の意識の高さに救われたというのが実感です。その後いろいろと体験し、結局私の行きついた所はすべては意識のエネルギーが作り出している、ということです。

そしてそう言った面でも鍼灸は心と感情のエネルギーとその作用を理解していてそれらを含めた全体的な治療ができてすばらしい、と私は思っています。

夫と出会う以前の私は本当に生きるのに精いっぱいで綱渡りのように人生をつないでいた感じです。HSPやエンパスにはど真ん中に当たる人間だと思いますが、自分の取り扱い方がわからないまま荒波を乗り越えるのは本当に大変でした。

感情が揺れやすく過敏で、疲れがたまると鬱っぽくなりますし、PMSもひどかったので親しい友人に言わせれば「月いちで落ち込んでるよね」という感じでした。

あの手この手でなんとか日々の荒波を乗り越えますが、度々転覆しますし、一度転覆すると復旧することに多大なエネルギーを要しますので、生きることは困難の連続、というイメージでした。

しかし家族には私よりももっと重篤な人が2人もいたので、自分のことはとにかく自分でなんとかするしかありません。その2人は精神科のお薬がないと生きていけないというような状態でしたから、自分としては薬を否定してはいないけれど、その作用についてもだいたいわかっているという感じでした。

そんな自分が困ったときに頼るのは鍼灸治療院でした。風邪で熱を出すととてもしんどいのでお薬で緩和させますが、充分養生するゆとりもなく、なんとか治る力を出したいとき鍼灸院へ、という感じでした。風邪が長引いて受けるダメージや薬代を考えると、鍼灸は一度の施術でも力を引き出してくれるので自分に希望も持てるし心にも元気が出ました。

一度は大事なイベントでのライブがあるときに熱を出してしまい、薬を飲んで数日寝ていても一向に良くならないことがありました。思い返せばこのようなことへの恐れは表現の仕事をしていて常に私を脅かすものでした。その時ちょうど、近所にすごい鍼灸の先生がいるという話を、まったく別の所で3人の人から聞かされていました。

それで私はもうろうとした中で起き上がり支度をすると、その鍼灸院の前まで歩いて行きました。予約がいっぱいで、多分電話では埒が明かないと思ったのです。ライブは明日です。今日希望が見えなければ明日ステージに立つこと自体を見直さなければなりません。準備に時間をかけていましたし、そうなれば関係者に多大な迷惑をかけざるを得ない状況に追い込まれていました。

大通りから鍼灸院のあるビルを見上げながら、祈る気持ちで電話をかけました。先生が直接出られ、事情をお話しているうちに先生が「もしかして、うちの前から電話している?」と気づかれました。はいと答えると、やっぱり。車の音が電話から聴こえるのと同じだからさ、と言われました。

先生の見解では明日に間に合うかどうかは五分五分、とのことです。もしかしたら今より悪化して完全に声が出ない可能性もあるとのことでした。しかしなぜなのかその時私に迷いはありませんでした。他に希望がなかったですし、なぜか怖くありませんでした。

先生は「上がっておいで」と言って治療を引き受けてくださいました。喉にながーい鍼をぐぐぐぐっと刺していきます。4本、5本と鍼が入りました。これでいい、という手ごたえを先生が得ているのがわかりました。

結果としては、その直後からまるで憑き物が落ちるように症状は軽くなり始め、翌朝には病み上がり感はあるものの、熱が下がり、喉がはれ上がってつぶれるような感覚や痛みは消え、むしろ普段より軽やかに開いている感じさえあります。リハーサルまでは本当に張り詰めた気持ちでしたが声が出ました。それも普段よりむしろ楽に。それはまるで奇跡のようでした。

実を言えばそのイベントこそが、主人との出会いでもありました。私の扁桃腺はそれ以降とても良くなり始めました。鍼灸学生になった主人は会うたびに(練習台でもあり愛でもあり)私への施術を熱心にしてくれました。根本的な体質の変化もあったと思います。それからは自分が実はもとから健康体だったかと思えるような変化もありました。

冒頭の市役所の方に鍼灸のお話をしたとき、「鍼灸こそ、予防医学なんですよねえ」と、ふと口にすると「え、そうなんですか?それこそ対処療法ではないんですか?」と言われました。その方が健康についてとても勉強なさっていたので逆に私がその言葉に軽く驚いてしまいました。

痛みを取るだけというような対処だったらそれこそ薬でいいや、となるでしょうし、逆に薬を使うのが嫌だから代わりにもう少し効果の薄い昔の方法を用います、というイメージが代替療法という言葉の意図なのでしょうか。

催眠療法の領域でも時々みかけるのですが、「薬を使わない」といううたい文句があります。私は改めて思いますが、薬を使わないことが良いことだとは本当に思っていません。薬がない世界のほうが今より良い世界だとは全く思いません。お薬で楽になるたびに、本当に今の時代に生まれてありがたいな、と思います。ただ、お薬にできることとできないことがあるし、お薬には弊害があるという事実があるだけだと思います。

そんな才覚はありませんが、もし私がお医者さんだとしてもきっと、できることを一生懸命やるだけだと思います。西洋医学の先生の言葉で「西洋医学の治療に限界を感じたことから」代替医療を学んだとおっしゃる方はよくいらっしゃいます。双方で補い合うことができれば、その恩恵を受けるのは地球に生きとし生けるみんなだと思います。

心のエネルギーと、からだの気の径は関係しあっています。私たちが知らずに思い続けていることは何かを創造もし、破壊もします。完全に破壊してしまう前にそれをサインとして受け取り、気づきと見直し、そしてバランスを促し調整することは、まさに自分の取り扱い、自分との付き合い、自分の生き方とつながっています。

自分の生き方をみつけるのは自分しかいません。その生き方を助けてくれる味方を地上にみつけるのは幸せなことです。なんだって敵じゃない。味方にするかどうかは自分が決めます。

そういったことを考え選ぶ権限を持てるということ自体がもう、天から与えられた贈り物だと私は思います。自由であるということの在り難さよ、と思います。自由の行使には理解がとても大事なのだと改めて思います。自分の知ったこともできれば多くの方に活用していただけたらと願っています。

夫と2人でやっているセラピーサロンでとても大事にしていることは「あるといいながある」なんです。コンビニエンスストアの宣伝とおんなじですが、自分たちにとってのあるといいなをかたちにし続けたいと願っています。

ヴォイスヒーリング

ヴォイスヒーリング・ワークアウトというセッションをしています。自分の声が自分を癒してくれることは私のからだが一番よく知っている、という気持ちからこのセッションを始めました。

声を発することはそれだけでエネルギーの発散になることは多くの人が体験済のことと思います。

たまっている感情の持って行き場がないとき、人は歌を歌います。嬉しさを歌で表します。私はどちらかというと子どものころから、辛いときに歌っていました。胸が詰まるような思いがあるとき、歌はその思いを押し流して安らかにしてくれます。

歌を生業にしていましたから、どんなコンディションの時も歌を歌いました。このコンディションで歌えるのだろうか、という状態を何度となく体験しました。その度、歌は私の思惑を超えて、私を助けてくれました。歌い始めることで、私のコンディションは整っていきます。仕事を終えるころにはすっかり元気に穏やかになっている、という奇跡的な体験を積みました。

東京で何度か、ヴォイスヒーリングのワークショップを受けました。天音さんという男性のファシリテーションを受けましたが、それは大学の演劇専攻の初期の頃の授業に似ていました。すべての表現は、イメージです。イメージを具現化するためにテクニックが存在します。

天音さんのクラスで「天から自分の脳天を通り地面を貫くような声」という課題がありました。稲妻が一気にバリンと落ちてくるようなイメージです。十数人の参加者が各々イメージを声にしていきます。私の番になり、私はイメージを声にしました。私の声はまさに天地を切り裂く稲妻のようで、一瞬空気が凍ったようになりました。

その時の天音さんのリアクションが忘れられません。「おお、あなた、その声は、なにか武道をやっていますね。なにをやっていますか?」

天音さんは古神道武道をされていて、発声の基本に取り入れておられたようでした。私は「いいえ、武道はやっていません」と答えました。すると

「いや、そんなはずはない。絶対に武道をやっているはずだ。なにをやっていますか?」あまりに真剣にお尋ねになるので「武道はやっていませんが、演劇をやっていました」とお答えすると

「ああ!演劇ですか。なるほどそれでか。演劇やっている人は強い。なにやっている人よりも強いです!」とご納得されていました。そのご納得のされ方がまた印象的でした。

演劇が強い、という言葉がおもしろかったのですが、確かに演劇は、心と身体とイメージ、そして魂の三位一体のための訓練を積みますので本気で取り組んだ人は生半可な専門家よりも人間の探求に長けているであろうとは思いますし、実際の鍛錬を積んでいますので体現者でもあります。

ちなみにジャズを歌っていたころ、NYでヴォイストレーニングを受けたときも、内容は演劇の基礎訓練の一部ととても似ていました。その時にも初めてのレッスンで先生から「あなた、すでにプロで仕事しているわよね?」と言われました。演劇にはダンスも歌も、からだと言葉とイメージを使ったあらゆる表現が含まれます。私は演劇の現場を離れて久しくはありますが、この研究と訓練を積めたことに感謝が絶えません。

さて、私のセッションでのヴォイスヒーリング・ワークアウトは実際どんなことをするのかお話します。まず、とても簡単な課題を用意しています。どんな方にも対応できるような、できる限りシンプルなテキストです。この枠組みの中で、その方が望まれるような形を探りながら進めます。

とても声を出したい、表現したい、歌のため、セリフのため、というようなご希望があればその方向へ広げます。もっとシンプルに、声で癒すってどうすればできるんだろう、というような、癒しへのご興味が強い方にはそのように対応します。癒されたい部分がはっきりとある場合には自然そういう流れとなります。

この辺りはご本人にもなにが希望かがよくわからないという場合も多いのですが、実際に声を出し始めてみるとその方向性が見えてきます。簡単に言うなら、その方のエネルギーを読み取らせていただきながらそちらへと誘導させていただくようなかたちです。

そのこと自体も自分でそうしようと思って始めたわけではないのです。しかしセッションというのはどの場合もそういうものなのですね。エネルギーが、導いてくれるのです。

自分の歴史を振り返ってみると、演劇の訓練や芝居作りの中に、即興というものがあります。設定だけを決めて、よーいドンでお芝居が始まります。セリフもストーリーも決まっていないので、そこでなにが起こっているか、それに自分や他の参加者がどう反応しアクションするか、イメージの積み重ねで内容が動きます。これは本当に様々な面で試されまた鍛えられる訓練です。私はこれがとても好きでした。

更にさかのぼれば小学生の時、即興でお楽しみ会の出し物の作品を作ったこともあります。これは幼稚園のころのおままごとに通じるものがありますね。おおいにやっていました。その時のメンバーや内容を覚えているものもあります。

子どものころはこういう自由な創作を夢中で作ったりしています。年がいって頭で考えるようになるとうまくできなくなるのですが、その仕組みも今ではよくわかります。

ジャズにもセッションがあります。私は音楽の基礎が足りなかったので、ジャズの自由度がいまひとつで残念でした。そうなのです。自由であるためには基礎を熟知し、全体の仕組みを把握し、それらを体で覚えるべくして訓練し、そのうえで理屈は忘れて夢中で遊ぶ必要があるのです。これはすべての創造に関して言えることですが、人間の人生という最大の創造にも言えることです。

そしてその人生の創造の基礎知識といえるのがスピリチュアルの学びではないかと思います。偉大な覚者クリシュナムルティは、瞑想は最高の芸術であると言いましたが本当だと思います。瞑想は創造の源につながりそれを知ることです。

声はその人の霊性を示すと言われたりします。その人のエネルギーやその状態が声という波動になって宇宙に響き渡ります。その声から受け取ったメッセージに今度はこちらからもリクエストを伝えます。こんなところに、こんなふうに、響かせて、というふうに。そうすると声はそのリクエストを含んだ響きとなって、その人のフィールドにエネルギーを与えてくれます。

このヒーリングはまったくがんばることなく、力みなく、あるがままでできるというところがすばらしい魅力です。大きな声を出す必要もありません。

大きな感情の解放を体験なさる方もいらっしゃいますし、深い静寂を体験される方もいらっしゃいます。未知の自分との出会いにワクワクを味わわれる方もいらっしゃいますし、内なる神とのつながりの中に過ごされる方もいらっしゃいます。

エネルギーワークに共通するのは、本来誰もの中に宿るパワーを再発見する喜びです。こんなことに日々取り組んでいます。

心のセラピーで体験する真実について

セッションへのお問い合わせで多いのが「どんなことをするんですか」というご質問です。HPにはたくさんのうんちくが述べられていますが、初めての方にとっては「で、そこへ行って何をするの?」というお気持ちは当然のことと思います。

私のセッションは基本的に対話形式です。使うのは言葉とエネルギーです。ヒーリングのセッションは対話よりもエネルギーが主体ですが、マッサージやその他の体への手技や道具などは用いません。リラックスしていただくためにリクライニングの椅子にもたれて足はオットマンの上にあげていただくのが通常ですが、手を触れるのは足の甲と、ごくまれに両肩だけです。

こうやって改めて書いてみるとますます不可思議な感じがしてきました。しかしカウンセリングというのは通常対話だけです。そして催眠療法も言葉だけです。それだけで内的な変化「気づき」を促進することができるのですが、そこにエネルギーヒーリングを取り入れてパワーアップしているようなイメージです。

私自身は芸術的な部分、感受性や感覚が強い部分と、非常に論理的で偏屈なところが混在した人間です。不思議は大好きだけど、すべての奥にある秩序や法則を知ることがもっと好きです。ですのでセッションも当然ながらみなさんが「不思議と思うことが不思議でなくなること」は一つの目的でもあります。スピリチュアルというとなんだか不思議そうなことをさも不思議そうに扱うことのようなイメージが持たれがちですが、本来まったく違います。不思議に見えるのは、奥に流れている原則がわからずに表面化している現象だけ見るからなのです。

どこまでいってもどうしても原則だけで割り切れないものだけが本物の神秘です。読んで字のごとく、神の秘法です。もちろん神の秘法にもその原則があるのですが、それを知るには時間と距離に縛られた私たちの頭には解釈ができません。しかし私たちはすでに時間と距離を超えた原則に影響を受け、支配されています。そうです。私たちは3次元世界だけに所属する生き物ではないのです。そもそもそうであるのにそれを理解せず、理解できる3次元の理論だけでものごとを解決しようとすることに無理があるのです。ですから私たちの世界はいつも「問題だらけ」なのです。

私たちが自分という存在の真実を思い出し、その次元に意識の波長を合わせると、私たちの本来のエネルギーが正常に作動し始めます。心も視野も広がり、心身が楽になり始めます。魂と肉体の関係の歪みが戻り、本来の生命力やパワーがあるがままに流れるのです。

そして、本来持っていて使うべくして与えられてきた方法での生き方が可能になります。人間が人間以外の動物の生き方をまねてもお手本にしてもどうしてもうまくいくはずがありません。彼らは本能を最大限に活用して生きますが、私たちは本能のままにいくら進もうとしても理性が邪魔をします。

そう言うと、理性よりも本能を信頼しようと考える人も出てきます。確かに本能が優位な人は、生存する能力に長けています。スピリチュアルな人と「この世での生きづらさ」は現代ではほぼイコールとさえ見られます。

理性というのは単に理論的なのとは違います。私たちの内にある魂の質は、理性の愛です。本能は「奪え」と言っても、理性の愛は「与えよ」と私たちに命ずるのです。私たちを葛藤させるのは元を辿ればこういった本質的な乖離でしょう。

この挑戦は人間の本質的な存在意義とテーマを表していると私は思います。

私たちの魂は人間の肉体に宿ってからこのかた、肉体に従うことを強いられています。肉体の制限に慣れ、肉体の法則を知り、肉体の特性を学ばなくてはなりません。その最初のトレーナーはお母さんです。自分の面倒のみかたはなるだけ手っ取り早くお母さんから盗まなくてはなりません。

ですから潜在意識という「習慣の領域」は人生の最初の3年でおおかたを吸収し基盤を完成させます。これがインナーチャイルドの正体です。

そして身に着けた習慣を生かしてこの世界、社会に適合することを一義として生長します。成人するころにはすっかり「肉体としての自分」こそが自己であると信じ切っています。そしてその自己をゆるぎないものとして確立し、それを生かして生き抜くこと、それがこの世での勝利であるとの価値観を疑いません。一般的には。

しかし、その生きざまと理性の愛はことごとくぶつかることでしょう。無視しても無視しても、その火種が消えることはありません。私たちは愛によってしか本当の関わりはできませんし、つながること、コミュニケーションができません。

いかに自分を愛からそらしてごまかしたところで、それが突き付ける人間の存在としての学びから逃れることはできないのです。

私は今では思います。奪うというゲームはなんとお気楽なものか、と。与えるという本質を生きないで、本当に生きたと言えるのか、と。

多くの人がまだまだ本能をこそ本質だと勘違いしているのだと思います。皮肉なことに、ゲームが洗練されるにつれて、それは顕著になっていくようです。みんなが本能を満たすことに必死です。もっと、本能を刺激してくれ、でないと生きている感じがしないんだ。

しかし、それがあなたの渇きを満たすことは永遠にないでしょう。本当に渇いているのはあなたの中に在る、神だからです。神は、あなたの愛がその本分を発揮することを渇望しています。神の分身であるあなたの魂がその本質に目覚め、神とひとつになるべく始動することを。

あなたがそのことに目覚め、それ以外のことをまずは脇にどけていいという選択をしたとき、あなたの渇きは真の満足を知るでしょう。それは言葉にすれば本当に些細なことかもしれません。かたちにすれば見えないほど小さな事かもしれません。結果として。けれどもあなたの内側の世界は宇宙の前進のらせんが逆転し始めたほどの衝撃なはずです。これはやってみた人だけがわかることです。

私たちは条件やかたちを何一つ変えずとも、絶望から希望の状態に移行することができます。自分で作った牢獄から自分で出るように、自分で作ったルールを自分で変更するように。しかしどの場合も、まず自分がどんな牢獄に閉じ込められれ、どんなルールに縛られているのかを見る必要があるのです。それがどれだけ無意味で滑稽で不要なものかを思い知ればそれを手放すことは本当に容易です。

しかし暗黙のルールの多くは自分の世界に慣れ親しんであたかも自然にそこにあるかのように見えるものです。

私たちが自分を縛っている本能や感覚的な習慣という眠りから、本質である理性の愛に目覚めると、波動が上がります。次元が上昇するのです。理性の愛は、私たちの頭が知っている正しいことなどとは全く違っています。そこは能動的で発展的で喜びに満ちた創造性が支配する世界です。

その時、私たちを縛っていた鎖はもはやその重たい次元での姿を保っていることはできません。それが、問題が問題でなくなる時です。その時心は解き放たれます。一度放たれた心は狭い檻にもはや戻ることができなくなります。果てしない本質への無限の旅が、喜びとともに始まるのです。

「親をゆるさなくても幸せになれる」が生む誤解

「親をゆるさなくても幸せになれる」っていう、セラピーの宣伝文句を見かけてせっかくの機会なので連投します。

このひとことの中にどれだけの誤解がつまっていることでしょう。インナーチャイルドの捉え方すら世間では誤解だらけだというのに・・・。

ではゆるしとは、幸せとは、なんなのでしょうか。ゆるさないとはどんな状況なのでしょうか。

「怒りを手放すことではなく、怒りがあることを認めることが大事」とそこに書いてありました。しかし怒りを手放すことは、怒りがあることを認めなくてはできないのではないでしょうか。ないものを手放すことはできません。手放すことと認めることはひとつです。

また、そこで言う手放すとは、「無くすこと、止めること」となっているイメージです。

「親をゆるさなくても幸せになれる」という文のメッセージは「あなたを不幸にしている原因は親に怒っているから」そして「その怒りを止めれば幸せになれると一般的に言われている」「しかしその怒りを無理やり無くす必要はない」「怒りがあることをむしろ認めればいいのだ」・・・それでは「ゆるし」と「手放す」という言葉がかわいそうです。あまりに誤解を与え過ぎなのではないでしょうか。

「ゆるさないこと」は私たちに不調和をもたらす根底的な要因です。ゆるさないことは私たちの世界に敵を作り、防御を必要とさせます。そこには恐れが存在します。恐れに防御されているところで私たちは愛を感じることができません。

そしてそのことを具体的に見つめ解体していく過程で心は、ゆるさない思いを作り出した体験を遡って見直すプロセスを通ります。その体験は多くの場合、最初の対人関係つまり親との関わりの中でなされ、原型つまりパターンを作ります。

その仕組みを紐解き理解することは親との関係を理解させ、多くの人を親との心理的和解に導いてくれます。そのことによって私たちは、もうそれ以上ゆるさずにいなくてはならないという苦しみから解放されるのです。

繰り返しますが、ゆるさないことこそが心の苦しみなのです。なぜなら愛している状態、愛の中にいる状態が、人間にとっての「自然な」「幸せな」状態だからです。(この点についての考察は前回の記事『愛をつかむ』をご参照ください)

そもそも「不幸の原因は親をゆるさないこと」だという命題そのものが誤解です。私たちを苦しめているのは関係性において自分の中に作られて確立されてしまった心の反応のパターンなのです。

ですから私たちは幸せになるために他者をどうこう思ったり思わないようにしたり好きになったりする必要などありません。私たちはただ、自分を理解することを必要とします。そしてさらに言うなら、関係性の中で傷ついている自分に気づいてあげて、さらに傷ついている自分を長年誤解し切り捨ててきた自分をこそ、ゆるす必要があるのです。

解放までの間に、たまっている感情、こじれてしまうほど膠着している感情と安全に向き合い、感じ切ってあげることはとても重要です。感情はエネルギーです。一度作り出されたものはしっかりとそこに寄り添って燃焼してあげる必要があります。それが「認め」「寄り添い」「感じ切る」作業です。

(ヒプノセラピーでのインナーチャイルドワークは、理解と感情の解放を同時的に行うことができ、その点でとてもパワフルで、癒しのプロセスを非常に早めてくれるものであると言えます。しかしそのメカニズムと役割にも誤解が多いのが現実です。)

「ゆるし」は人間の思考にできることではありません。理論的に整理し結論付けて「許した」ことにしている方にもたくさん出会います。でもゆるしはハートにしかできません。ハートに住んでいる神と、世界に遍在している神がゆるしという愛の世界へとあなたを運んでくれるのです。

あなたにゆるす準備ができたら・・・―それは、もう一人で戦う人生はいやだな、と心底思ったときです―あなたは「ゆるさせてください、どうか」と、宇宙に向けて決意を表明すればいいのです。

冒頭の文の真意はわからないではありません。親をゆるそうとしてあなたはひとりで奮闘する必要はないし、その奮闘こそがますますゆるすことを難しくしています、というのが真実でしょう。あるものをあると認めて向きあいましょうよ、ということなのでしょう。でもそのことが本当は「手放すこと」であり「ゆるし」のプロセスの一部なんです。確かに世の中はキャッチ-であることでしか人目を引けないのかもしれません。

でもそれでも、心を扱う者として私はなるべく本当のことを言いたいし、その想いが言葉に乗ってすべての人のハートに届くものだと私は確信しています。

愛をつかむ

愛って、実感したことも体験したこともない気がします。まったく雲をつかむような感じがして・・・

セッションでいただいた言葉なんですが、「愛」という言葉に対する感じ方は本当に多様で多くの方からいただく疑問でもあります。

私事ですが、だいぶ近年になってから母に「私って結局なにも愛してこなかったのかもしれない」と告白されて衝撃を受けたことがあります。子供にとってはびっくりですよね。え、愛されてなかったのか!(笑)

以前はなるべく神と愛というワードを使わないで説明できるように努めていたこともありましたが、今ではむしろ多用しています。それなしに始まらないという世界の仕組みがよくわかったらです。

愛はすべてです。ゆえに神もすべてです。人間の愛には情や考えが入り込み、そういうつもりはなくてもいつも制限を加えます。でも純粋な愛には制限がありません。

私たちがいくら無垢で愛そのものでいようとしても、そこには必ず恐れという曇りがかぶさっています。私たちはおひさまを直接凝視できません。神とは何か、愛とは何かを考えるというのはおひさまを凝視して正体を確かめようとするのに似ています。ただそれだけを見ても眩しくて目が痛いだけです。

でも、おひさまが照ったときの空気や風や緑や海や街並み、そしてそれらに触れたときの自分の気分や感覚は味わうことができます。優しい、きれい、柔らかい、力強い、新鮮さ、細やかさ、満ちている感じ・・・感じ方はさまざまでも、それらが私たちに与えてくれるエネルギーがあります。

また、実際にもっと全体の仕組みを知れば、おひさまなしにわたしたち生命が生きられないということもわかります。おひさまが生きとし生けるものをどのようにして生かしているかというのはただ生まれて生きているだけでは実感しにくいものですが、理解や洞察が深まるほど、世界が奇跡的なつながりのなかで保たれていることがわかります。

しかし宇宙は生物の王国ではありません。無生物と言われるもの、石や土、火が星を作りその星々は一定の秩序の中に暮らしています。無生物のものにもまるで意志があるかのように、始まりと終わりという寿命のなかに生きています。おひさまが源ではなく、さらにすべてを生かしているなにかがそこにあります。わたしたちはそんな世界で暮らしています。

そんな大宇宙があり、私たちのからだのような小宇宙があります。生物無生物に関わらずそこに秩序と法則を生み出し統制している力があります。

それは私たちの思惑が生み出すストーリーや欲求が生み出す必然とは違ったリズムです。自然界に心を合わせると私たちは少し自由になれるかもしれません。しかし私たちは自然界からもらうばかりの生き物ではありません。自然界をリードできるように与えられた知性を持ちます。

知性によって私たちは本能やサバイバルの能力を補ってきたかもしれませんが、それはただ得るために授かった能力ではないのです。それは、全体の仕組みと自分の内側にある仕組みを理解するほどに実感できるようになります。

私たちは自分を知るほどにその能力のパワーと、使い道についてさらに知るようになります。

多くの人が自然という言葉を人間以外の動植物や景色にあてがって使います。しかし、私たちこそが自然です。私たちはすべてとつながっています。そのことを思い出ししっかりとつながり直すことが必要です。

全体を理解するというのはそういうことです。そしてそれとどのようにつきあっていけばいいのか、生きていけばいいのかは、自分を理解することでわかります。

すべての背後にあるもの、それが神でありその息吹である愛です。

ですから私たちが頭で作り出した、経験による推測に過ぎない因果関係よりも圧倒的に、愛の法が大きく強いのです。私がこうすればあの人はこうするだろう、あの人がこうしたから私はこうなってしまった、それが潜在意識の世界、つまり習慣の世界です。

しかし目を開けば、そんな因果律を超越した本物の法則があります。それは本物の自然であり今ここに、そして永遠にそこにあります。

心の傷は脳の傷だそうです

昨日のおやすみは、遅ればせながら大渡海岸で初泳ぎしてきました。夏休みだし、観光の方が増えているので混みあっているかなと思ったのですが、相変わらずのんびりして地元のつり少年のほかにちらほらと泳いでいる人がいる程度でした。近年の水温の上昇でサンゴが随分死んでしまったと聞いていてとても悲しいのですが、大渡は相変わらず美しかったです。

うみんちゅさんのお話を伺うと、たとえば水中に橋を一本立てるだけで海中の環境は激変するそうです。急に魚がいなくなったり、赤土が流入して汚染されてしまったり、私たちが想像する以上に地上って微妙なバランスの上に立っているんですよね。

さて、昨日ネットで拾った情報なのですが、「子どもの脳を傷つける親たち」という著書が話題のようです。

著者の「友田氏は脳科学の専門家で、親による不適切なかかわりで子どもの脳がどう変形するか長い間調べてきた」とのこと。

結果「言葉による虐待はどんな痕跡が残るのだろう。『心が傷つく』というが、身体のどの部位が傷つくのだろう。友田氏たちが見つけたのは、脳に痕跡が残るということである。」

読んでいなくて恐縮なのですが、脳の仕組みの部分について私は非常に納得です。対処については、対象が子供であるなら、書評にあるようにおとなや社会が手助けをすべきだと思います。でも(例えば私のように)その時期に救われずにおとなになった人にも、もっと本質的な救済があることがもっと広まるといいと思います。簡単な書評がありますのでよろしければそちらを。

潜在意識やヒプノセラピー、また瞑想についてもレイキヒーリングも、それがなぜ功を奏するかを研究すれば当然、脳の仕組みを考えざるを得ません。トラウマと言われるものを始め、「過去の記憶全般」が私たちにどのように影響を与えるのか、それを理解することは脳との関係を理解することとも言えます。

私は傷、というよりも「溝」というイメージを持っています。傷はそれだけで痛々しいのですが、意識や脳に刻まれているものに痛々しいというイメージはいらないのです。ただそれをあるがままに知って、理解すること。それができれば、神という無限の生命力の源を受け入れる準備ができます。

みなさんが「これが私の性格」だとか、「そのように育ってしまったから仕方ない」(でも本当はなんとかしたい)と思っている自分の特定の、心の反応やそこから来る態度が、脳に刻まれた溝のためなのだとしたら、或いは圧迫をうけ変形してしまった脳の領域のためだとしたなら、それはあなたの宿命ではなくて一つの傾向であり習慣でもあります。私たちはそれに取り組むことが可能だということです。

書評のなかに「脳は再生しないと考えられてきたが、近年、再生回復の可能性が見出されてきた。」とありますが、脳のことなんて人間はまだほとんど知らないのだと私は思います。それよりも、脳が実際になした人間の数多くの奇跡にも見える変化や進化こそが事実でしょう。実際に使われていない部分が多くを占めると言われている脳ですから。

私たちは、古い溝を使うことをやめて、新しい溝を掘りたいのです。たとえば信頼という溝を。たとえば平安という溝を。たとえば勇気という溝を。つながれていなかった神経細胞同士に手をつないでもらいたいのです。その新しい道を電気が流れ、信号を送り、そこで発した火花が世界というスクリーンに陰影を映し出します。その映画が、私たちの新しい世界です。これは脳の話です。そして、意識の、そしてそれが創る現実のお話です。

過去にショックを受けた溝を電気信号が走るとき、心は葛藤し、緊張と対立は私たちを疲弊させます。瞑想やヒーリングはこの電気信号の周波数に変化を与えます。変動した電気はその古い溝をなぞらずに別のルートを通るか、またはその溝への影響自体を変えていくのではないかと私は考察しています。おそらく未来のいつかには、そういったことが明確に語られるようになっていくことでしょう。

しかし本当に意味があるのは、語られることよりも体験することです。

生まれつき不幸でずっと不幸でいるために生まれてきた人はいません。人は言わば幸せになることを通して進化しています。意識は今すぐ変化できます。脳がすぐに再生されなくても、不思議ですが私たちの意識の領域にはそれ以上の意志が働くことがあります。肉体はゆっくりとついて来てくれればいいのです。

最大限に生きるとは

久しぶりの投稿です。

今月私はお誕生日を迎え、51年目の時間を迎えました。ここまで生かしてくださったすべてに感謝すると同時に、これからの時間を何に捧げて生きるのかを思い、そのために今を最大限に生きたいと願っています。

今を最大限に生きるって例えばどんなふうに?そう思いませんか。以前の私だったら、今やりたいことをやる?今できることを目一杯やる?というようなイメージを漠然と感じていたかな。いや、思いっきり輝く、とかだったかな。

もしあなたが、それができていないと感じるならやってみるといいんじゃないかな。本当にやってみよう、と思ってそのために動き始めると、本当の問題はなにかということが初めてわかるものです。

頭の中で考えたり想定したりしているうちは、本当の問題点というのはだいたい見当外れなもの。なのにそれはあたかも確固たる「できない理由」として存在しているように見える。そしてやってみる前にやめてしまっていることが少しずつ人生の中に積もっていく。

その積もったものは、自分への不信感、周囲の人間関係や社会への不満という副作用をもって自分を縛ります。

それはそもそも、想像の中で自分が創ったものだったのに、いつの間にか自分への呪いのようにパワーを持つようになります。

本当にやってみたとき、本当に壁となるのは実は自分が想像もしなかったようなことだし、生長というのはその、本当の壁と向き合うことでしか成し得ないものだと思う。その時みつけた本当の壁と向き合うということはそれ自体が創造的で前向きなことなんだと思う。それが、人生を創るということだと。

私は自分への不信感も周囲への不満も、恐れも怒りも、およそネガティブと言われているものを大概持っていてそれを実感もしてきたけれど、そんな中で自分が持っているほんの一点の希望のために一生懸命に生きてきて、その結果少しずつ自分との信頼を築けて、結果たいていのものを肯定的に、前向きに、受け入れたり認めたりすることができるようになった。

この世のひどいものも、無理に見ないようにする必要もなくなり、そうなんだ、でも、そのうらっかわの素晴らしいところもあるよね、と、見聞きするおおよそすべてのことに対して言えるようになった。それは自分の中にあるあらゆるいいものとよくないものにYesと言うことから始まった。

Yesは光りと同じで、うらっかわの暗いところに当ててみればそれが表になる。人はみんなそのうらっかわを恐れている。うらっかわの暗いところから逃げようとがんばってもそれはもれなく人生についてくるものだ。だから逃げようとしている限り、人生は恐れから逃れられない。

人生の希望はたったひとつでいい。バランスなんてあとからついてくる。人間には所詮ひとつしか見えないし、見たいものしか見えないのだ。(これは精神論ではなくて、客観的な事実だ。)

希望から目をそらさず足を前に出せば恐れは薄れる。それが私たちに与えられた、人類の弱点の裏をかいた突破口だ。

人生に必要なものをあらかじめ揃えたら冒険の旅に出よう、などと思っていると恐れに追いつかれて飲み込まれてしまう。人生で一番大事なもののために今日を生きると、人生に必要なものはだんだんと整えられていくものだ。

本当に大事なものがみつかった人にはそのほかのすべては足りているし、大事なものがみつからない人にはいくら手に入れてもいつも足りない。

旅は終わる。旅は地から与えてもらうものであり、旅を終えた人は地の塩となる。地の塩となり世の光りとなる。世の光りとなることに本当は準備はいらない。ただ、真実と現実を覚悟するだけなのだ。

心のセラピーは、探す旅を完了させることを手伝うものだ。人生に与えてもらうことではなくて、与えることを選ぶという意識の進化を促す。

多くを持っていても、また多くを体験していても、得ようとするとき人は貧しい。またどんなに微細なものごとであろうが、与えようとするとき人は豊かだ。たった、それだけの違いなのに。

負の体験がもたらすもの

セッションをしていて「私は幼少期にそんな(良い)体験がないから」或いは「良い記憶が全然ない」ということをよく伺います。インナーチャイルドのワークを独学で学ばれた方はこの点に行き当たったとき壁を感じてしまうのではないでしょうか。

確かに幼少期に満たされる体験、成功体験、つまり肯定的な体験が多ければそれは人生を進むとき大いに助けてくれるでしょう。自分が愛されていると実感できる人は、誰かに愛されることに抵抗がありません。しかし、子どものころになんでも受け入れてもらえたからと言ってそれを愛だと受け取っているとも限りません。

また、ヒプノセラピーのセッションで驚かされることのひとつに、事前に伺っていたご本人の見解とはまったく違った事実が発覚するのはよくあることです。「あれ?いい思い出なんて何もないと思っていたのに」「愛されたことなんてないと思っていたのに」という結果になるのはとても自然なことです。

ですからいつもつい書いてしまうのですが、自分でワークすると自分の観念(思い込み)を覆すのは難しいものだと思うのです。逆にそれを強化してしまってそこから抜け出せなくなっている方も多いと感じています。

稀にですが、本当に救いの少ない幼少期を送られてきた方もいらっしゃいます。またいくつかの不幸な出来事によって本当に深い傷を負っている方ももちろんいます。あまりに傷が深いとき、自分で治ろうとするちからが弱まってしまうことがあります。ダメージのほうに意識が飲み込まれてしまっていて、その場合は回復にとても丁寧なプロセスを踏むことが重要になります。それは一進一退に見える根気と忍耐力と寛容さを求められる作業です。そんな時に絶対に必要なのは、無限の愛のちからです。つまりハイヤーセルフ、魂、内なる神の存在なしには癒せません。

さて、本当に愛情やそれに似た安心や解放、自由という感覚の幼少体験が極度に少ない人、潜在意識の基礎を築く13才以前に非常に偏っていると言わざるを得ない環境に身を置いた人には将来にわたって人生に困難が付きまとい、満足のいく生き方を選ぶことができないのでしょうか。

映画などにはよく、劣悪な環境から精神のちからで立ち直り美しい人生を創造した人の物語があります。それくらい、幼少期の環境によって受けた影響から自由になり新たな世界で生きることは難しいということなのでしょう。

しかし、私たちが今世の肉体の体験以上に多大に受け取る影響力があります。ひとつは自分の魂が過去に肉体を持った時の体験の記憶の数々であり、更にそれよりも深く私たちの意識の中心的な座に位置する、魂の記憶です。

前世の記憶って魂と違うんですか?と訊かれることは多いのですが、人間の肉体の記憶は潜在意識に、そしてその中でもエッセンスとも言える愛の記憶は魂に記憶されると考えられ、魂は超意識と言われる領域を指します。もちろん今世でも、魂はあらゆる体験のなかから愛のエッセンスを記録し続けています。たとえ今生で愛を知らないと表層では思っていても、実際はその記憶を内側に持っています。

私たちが感覚や思考で知っていることはわずかです。無意識の領域には私たちを罠にはめるような理不尽な自我はもちろんのこと、生きるために必要なあらゆる叡智が込められています。その両者があることを知れば後者を選ぶことはうんと容易になります。

自我は肉体の感覚器官に結びついており(潜在意識の領域)、私たちは感覚を鎮めないことには内側の叡智(魂や内なる神の領域)とのつながりを感じることはできません。瞑想はそのための手段です。

多くの人が自分を高めなければ内なる神とつながれないと信じているかもしれませんが、どちらかと言えば内なる神とつながれば自分が高まる、というほうが真実に近い気がします。善きものとつながるために、自我を黙らせる練習を積むのです。

とてもきついトラウマと救いの少ない環境で育った過去を持たれてる方と心から共感できた言葉をここに記しておきます。

「痛めつけられた過去を持つ人の特効薬は真理しかないのよ」

深くつけられた傷はどんなに補おうとしても痕跡を残す。その痕跡は私たちをより恐れやすく感じやすくより傷つきやすい在り方へ押しやる。その悪夢から私たちを目覚めさせるのは真理という真の現実だけだ。傷ついた人たちは愛の不在の傷の執念深さをよく知っている。それは愛以外のものによって補われることは決してない。

完全なる愛だけがその傷を完全なものに変える。

インナーチャイルドの真実

この世に生まれた赤ちゃんの最初の世界。
父と母という神の原型が、家庭という世界を築いていて、まずは自分の居場所と安全を確認する。

赤ちゃんによっては先にもう少し大きい住人がいることもある。
もっとたくさんいることもある。
沖縄へ来て驚いたのは、何人ものおとな(たとえば親戚のおじさんおばさん)が同じ王国に暮らしていたケースなどが意外と多いこと。

でも、大国の創造者であり自分のいのちを直接養う神はお母さん、そしてお父さんだ。

自分の居場所、それは「神々に歓迎されているかどうか」そして安全は「神々が友好的に平和を保っているかどうか」だ。
「歓迎されているかどうか」は「自分は愛されているかどうか」そして「友好的に平和かどうか」は「お父さんとお母さんは愛し合っているかどうか」と言い換えることができる。

赤ちゃんにとっての愛情確認は死活問題だ。

潜在意識(インナーチャイルド)の成り立ちと仕組み、作用の説明をこれまで何度繰り返してきただろう。何度も何度も繰り返し理解を求めているうちに自分の内側から真実がぽつぽつと浮かび上がってくるようになった。こういうのを降りてくるというのだろうけれど、降りてくるというような突発的で不安定な感覚ではない。

たとえばやかんのなかでいったんお湯が沸いたらそのあとは定期的にぼこぼこと水蒸気の泡が上がってくる。この泡を捉えるのだ。水である時の水蒸気は目に見えない。たとえ見えなくても空気中にそれは気体として上がってはいる。この水蒸気を見ようとするのがよくあるスピリチュアル風なやつで、見える人には見えるし見えない人にとってそれはオカルト的だ。

しかし瞑想を継続的に行って自己意識の浄化(既成概念の見直し)をして自分の波動を上げていくと水温が上がり、沸点がくる。そこから水蒸気を捉えるのは普通のことになる。見えるし聞こえるし、普通に実態があるのだ。

話を戻す。
前回の記事にも人間は弱いとかサバイバルに不利だと書いた。確かに知性はずば抜けているが、愛が伴わないと自滅すると。思いやりという裏打ちがない文明は、いづれ他者を倒すとか勝つとか、そんなことのために用いられるだろう。それが生き物の第一の本能だからだ。オオカミやライオンは自分の足と牙で適う相手を探すけれど、人間の知性はもっと多くに優る。知性の発達と愛の深化は、生き物としての人間にとっても不可分なのだろうと思う。

人間の潜在意識が3才くらいまでに最大の発達期を迎え、その後の変化はとても緩やか。13才ほどでその発達は収束してしまうとされる。私が面白いと思うのは、その発達期に人間という生き物が、肉体的には文字通りお母さんにおんぶにだっこだということだ。知性、意識ばかりが発達して肉体のほうは自立しない。そのアンバランスは人間という生体にとってそれが必要で重要だからなのだろうと思った。

人間の特質は圧倒的に知性だ。それと不可分なのが、情緒と言われるもの、感情、共感、そして愛なのだと思う。それなしに人間は生き残れない。知性は自立できない。破壊力はいつか自己を含む同種に向かい自滅するはずだ。賢者が長いこと警告し続けてきたのは寓話的な発想ではなく、人間の仕組み、原理そのものから解析した真実なのだと強く思う。 

人間は3才までに、お母さんにつきっきりの愛情を求める。目を離さないで、ずっと見ていてほしい。これはすべてのインナーチャイルドの根源的な欲求だと思う。そこには身の安全を図る「本能」と、愛情を求める「情緒」が入り混じっている。これが人間という生き物の原点なのだ。

心の問題と言われているものは、すべて愛情の不足だなどと言われる。その言葉を聞いて憤慨する人もいる。愛情不足をお母さんの努力不足、能力不足と混同すべきではない。愛というのは数字のように過不足を測れないものだ。だから私たちはそれについて一生かけて、いや、数千の輪廻を超えて学んでいるのだ。

愛はそもそも誰にも不足している。それがインナーチャイルドを探求してきた私の感想だ。完全な愛を知るまでそれは続く。完全な愛を神と呼ぶことができる。私たちの魂はそのための旅をしている。しかし新しく生まれてきた肉体のほうは知る由もない。そこでボタンの掛け違いが起こる。魂の求める愛を、肉体のほうはお母さんに求めるのだ。完全な愛を。

魂を主体に世界を観ると、インナーチャイルドの抱える欠損こそが、人間が魂の任務を遂行するための仕掛けなのではと思う。お母さんの愛が至上であったらその人はそれを超えることを求めるだろうか。自分が渇望するものを、人にも与えようと努力するだろうか。

いづれにしても、インナーチャイルドの問題を扱うとき、魂つまり超意識以上の観点を持たない限り、必ず限界の壁に当たる。それが私の得た真実だ。潜在意識を補修すれば「人並み(か、それ以上)の生活できる」という世界観から抜け出せない。前回書いた通り、暗雲が晴れる快感のために不幸を体験するというループ以上の喜びが見えない。

そうなると、欠損を作り出したのはお母さんの過失であり、それを赦すには我慢するしかない。欠損を抱えながらこの世を生きるのは不利であり、自分が過失を起こさないためには「子供にしてはいけないことリスト」を遂行することが子育てに必須になる。自分への愛などあとまわしだ。

この分野はまだまだ発展中だ。暗雲を一度すり抜けたことでセラピーばんざい、という気分になりセラピストを目指し実際行っている人も多いと思う。その中にもちろん真実はある。ただ、それで全部だと思わないでほしい。

自分の人生には多くの体験が与えられた。そこから得たものを伝えることは一つの使命だと思う。しかし体験から本当に大事なことを言葉やかたちで伝えるという作業は本当に骨が折れるものだ。私は伝えきれない多くを意識の海に記録していく。誰かが瞑想によってそれをすくいだして活用してくれるだろう。私が与えてもらったように。

セラピーのゴール

みなさんはなぜ、自分の内面と向き合おうとなさいますか?

きっかけは多分、外面の世界との関係(対家族、対社会、恋愛その他の人間関係)、自分自身との関係(自己認識、自己コントロール)に問題が生じたことだと思います。私が辿り着いた自分を幸せにする原則は、他者を変えたければ自分が変わる(生長する)こと。そして幸せになりたかったら、愛を実行することです。

いろいろ考えているとごちゃごちゃしてきますが、混乱したらいつも原則に戻ることにしています。自分がすっきりすれば世界はすっきりします。いろいろな社会現象が目に見えて変わるわけではありませんが、社会を組成している一部である私の意識は紛れもなく全体の一部であり全体に影響を与えます。この原則に慣れると、自分の進化が見えれば周囲がすぐに変わらなくても必要以上に気にならないものです。ですから逆に、周囲が気になって落ち着かない時は自分の前進が滞っているか自分を見失っている時だとわかります。

すべての関係性の問題は愛の法則によって解決できます。もしすぐに解決しないものがあるのであれば、愛のほかに必要なのは時間と経験です。しかし愛なしに時間と経験を重ねても解決に向かうとは限りません。

すべての関係性を愛の法則によって解決することは、私たちを本質的に生長させます。霊的成長と言われるものはこのことを指しています。

私たちは幸せの実態をよく知らないまま人間として生きていますが、幸せとは何だろうと探求しそれを生きようとすることは、私たちを本質的に生長させ、ひいては人間はなんのために生きるのかという問いに自ら応えることになります。それ以外の目標はいつも危険と隣り合わせです。得れば失い、また失うかもしれないという恐れと抱き合わせです。幸せから逸れないことだけが私たちを奪うことも失うこともなく共生させてくれます。

幸せは感じるものであるし、愛もそうです。そしてそれ以外の領域では人間はとても弱い生き物です。賢さは愛なくしてはすぐに自滅してしまいます。それ以外の能力で人間はこの世に生き残ることすらできないでしょう。

私はインナーチャイルドの問題に長年取り組み、多くの方の問題に寄り添わせていただいてきました。

愛に関する問題の根っこはインナーチャイルドにあります。昔はその事実すらみつけるのにおおごとでした。今はネットという情報網があるので、その辺に見当をつけることがわりと容易です。

しかし、情報をもとに自分でワークするには結構なコツと原理の理解を要するのが事実だと思います。ひとつ間違うとワークは間違い探し、他者との違い探しとなり、それではなにかを理解したつもりでも実際は孤立し、癒したつもりでも実際は傷に目印をつけて目立たせたところにとどまります。

ワークの目的とはなんでしょう。癒しとは何でしょう。肉体であれば、傷や病理が治ればある程度元通りになります。しかし心というエネルギーは、本来正解というかたちがありません。雲のように常に変化するものです。雲自体が悪者なのではなく、ただ時と場合によってはひかりを遮って世界を暗闇に見せます。

私たちの心の正しい在り方とはなんでしょう。雲一つない晴天を維持し続けることでしょうか。雨が永遠に降らないように自分を作り変えることでしょうか。

ワークで暗雲が晴れ渡ったときのその喜びはすばらしいものです。人によっては、その喜びのために私たちはまた暗雲を作り出すのだ、などと言う人もいます。それが人生なのだと。

それは本当の目的地を見失った人が、なんとか生きることをやめないでいるための暇つぶしのようです。そんなことのために人間は生きるのでしょうか。人生には雨降りも必要だ。なぜなら…と自分を納得させてすべてを無理やりいいことだと信じ込むことが幸せでしょうか。

私はごめんです。

私は、私の人生の創造者です。私が生きることで、世界は気づきという輝きを常に放ちながら生長しています。すべての私という存在がその一員です。つまりあなたです。

意識は創造し続けます。あなたが思うことはすべて宇宙という鏡に映し出されます。その連続が変化です。私たちは被造物であると同時に創造主でもあるのです。それを体験し続けています。個としてそしてすべてとして。

私たちは取り引きなしの純粋な喜びを生きることが可能です。私たちのすべてに備わった愛という質のゆえに。

以下はあるお客様からいただいたご質問に対して私がお答えしたものを少し手直ししています。(Mさん、ご質問ありがとうございました。)みなさんにとてもお伝えしたい内容となりましたのでこちらへ掲載させていただきます。(プライバシーには配慮しておりますがお気づきのことがあればご連絡ください。対処いたします。)

✶      ✶      ✶

書くという作業は頭を使いますよね。

言葉はものごとを整理するにはとても役に立ちますし、言葉にして顕在化することで無意識に光りを当てる作用もあります。ただ「理由をみつけようとすること」は感情への癒しには直接つながりにくいものかと思います。

たとえば怒りは正当化されるととたんに増長します。世の中では正しい人ほど怒っています。そして怒りは正しいという考えから自己を抜け出せなくさせます。

許さない気持ちというのはどこからくるのでしょう。
それは忘れてはいけない、という気持ちです。
忘れてはいけない気持ちはどこからかと言えば、覚えておかなければまた繰り返してしまう、という防御からきます。
それが役割です。

インナーチャイルドとはなんでしょうか。
それは、過去の体験データです。
すでに終わったことのリストです。

インナーチャイルドがなにか問題を起こすとしたら、理由は一つしかありません。それは、すでに終わったことを終わっていないと勘違いしてしまうことです。つまり脳と肉体が、今問題が起こっていると感知し作用してしまうことです。これはチャイルドと見立てて例えれば情緒的な反応に見えますが、実際は肉体がロボットのように機械的に反応しているだけと言えます。実際、脳と肉体のシステムがそうなっています。

癒しとは、現実に戻ってくることです。今のありのままの真実に戻ることです。今起こっていることと、起こっていないことを明らかにに認識することです。しかしそれは時にとても厳しいことです。ですから癒しは神に寄り添ってもらう必要があります。愛が必要なのです。

失敗という言葉で表現するのであれば、過去に失敗があったことになんの問題もありません。問題は、今も失敗し続けている、と、脳と肉体が判断してしまうことです。「問題が起こり続けていまーす」と、警報が鳴り続けているのです。

もし本当に今現在問題が発生しているのであれば、現実に対処することができます。でも実際にはそれは起こっていないので対処できないのです。

そうすると心の中にはいつもなにかしらの落ち着かなさや不安感、もやっとしたしこりの感覚があり、いつも対処すべき問題を抱えているような状態になり、それゆえその仮想問題以外の、今すべきことの優先度は意識の中で低くなってしまいます。当然そこにエネルギーが注がれることはありません。大事な人生の創造にちからがいかないのです。警戒警報中にバカンスなどその気になれないのと同じです。

さてそこで、実際は起こっていない問題を解消するには、意識の中で問題を終わらせてあげるだけでいいということなのです。それがインナーチャイルドワークであり過去世ワークです。

人間の脳とからだは、実際に起こっていることと鮮明にイメージしたことの区別がつきません。それゆえに起こっている不具合は同じ原理によって解消してあげよう、というやり方です。

それには思考をお休みさせ、五感を駆使し、リラックスして、心をオープンにバーチャル体験したいのです。それがヒプノセラピーです。

私は自身の体験から、このやり方が人間の仕組み上最も優しく適切と感じました。終わったことを終わったと理解するには、そのようにか「感じる」ことが重要なのです。それが心身ともに納得し、腑に落ちた状態です。

そうなったとき、私たちは安心して前に進むことができます。不安や恐れや緊張や、自己の欠陥や間違いがなくなるのではなく、自然な生長という変化の軌道に戻ることができるのです。

変化の中の今に生きるとき、私たちは自然に過去を忘れます。手放すというのはそういう感じです。

過ちも成果もともに経験し、今がある、ただ、今があれば良し、となっていきます。

みなさんに申し上げるのですが、もしご自身の大事な友人が傷ついて動けずにいたらどうしますか?その精いっぱいの思いを友人に向けてほしいということです。そして友人のために神に祈ってください。その友人は過去の自分自身です。

なにかを訴えているのならその訴えを聞いてあげてください。しかしその言い分が真実ではなく、傷を負った状態で、痛みを抱えながらの過剰な訴えだということをいつも心に留めて、全部本気にはしないでほしいのです。ただ気の済むまで寄り添う姿勢が大事です。解決してあげるのでもなく、助言するのでもなく、見守って、気持ちに共感してほしいのです。あまりに傷ついた人が死にたいとか殺してやると言ったからといって全部本気にして手伝ったりしないのと同じです。それくらいの思いなのだと受け止めてあげることです。

その友人は自分であり、未来の愛する相手です。この世ではすべて、自分が自分に行ったことが自分に還ってきます。

過去もそうでしたがそのすべてを理解することはできませんし必要ありません。ある程度理解したら、今、(愛を)行い始めればいいのです。それが未来のあなたへ還ってきます。あなたがされたいように自分にしてあげてください。創造するのは常に今だけです。