天使があなたに伝えること

まだFacebookもTwitterもない頃、ミクシィというSNSがネット上に登場して、そこに『数字は天使からのメッセージ』というコミュニティができた。当時はすごく面白くてよくよくチェックしていた。今では数字を見るとだいたいどんなメッセージだったか感覚的にわかるようになっている。さっきチェックしてみたら2006年に始まっていた。

元ネタはドリーンバーチュー氏の「エンジェルヒーリング」で、今では彼女が生み出したカードリーディングなどが定着している。インディゴ、クリスタル、レインボーチルドレンなどの情報も彼女から発していたっけ。

天使からのメッセージはほとんどが優しくポジティブで肯定的な内容だ。くじけそうなときにも優しく後押ししてくれ、すべては良きほうへと向かっていると教えてくれる。それゆえに私にとっては真摯に向き合うというよりは、勇気のお守り的な位置づけだった。

そんな中、ある時こんなメッセージを見た。

【1と0のコンビネーション(100、110など)】
神と天使からの力強い神聖な導きがあなたの思考を変えるように言っています。あなたはより幸福で健康になるように祈っていたかもしれません。もしそうならば、これはあなたの祈りへの応えです。神はあなたの求める解決が、あなたの思考の中に生まれることを知っています。神にあなたの思考の方向を導き、移行の時期に支えてくれるようお願いしてください。

このメッセージを読んだとき、それまでとは違った感触を味わった。力強い神聖な導きが、結局のところ私になにを求めているのかを咀嚼するのが難しかった。実際のところどうなのかは置いておき、私はこのメッセージをこんなふうに読んだ。

『あなたはこれまでもっと幸福に、もっと健康になりますように、と祈ってきたかもしれませんが、そういった思考そのものを変えてください。あなたが本当に望むものがあなたの思考の中に直接的に神からのメッセージとして与えられます。ですから、これまでの祈り方そのものを変えるのです。あなたが正しく祈れるよう、正しく望むことができるようにあなたは変わっていきます。今からあなたはその時期を迎えます。ですからその導きをこそ神に祈るのです。』

つまり、あなたがこれまで考えてきた幸せと本当の幸せは違っているから本物の幸せのほうに導かれるようにこれまでの古い価値観を手放しなさい、と。

健康、富、愛、美、承認されることなど、一見これらを「持っていることが幸福」なのだと私たちは無意識に信じているが、このメッセージはその無意識的な信念にぽちゃんと石を投げ、その波紋は私の心の奥にさざ波を伝えた。

後から知ったのだが、ドリーンバーチュー博士のメッセージは一元論にまで言及していてACIM(奇跡のコース)ともつながっている。私はそれから更に、このコミュで「マスター・ヨガナンダ」という言葉を目にする。知らない、どんな存在なんだろう、と、単純に興味を持って調べ始めたのがヨガナンダとの出会いだ。

「持っていることが幸せ」と言われるとそんなふうに思っていない気がするのだが、この世においての幸せは「持っている、知っている、わかる、できる」つまりgetすることだという前提に語られている。だから多くの人は「もっと」getしたいのだ。

でも本当に幸せをgetするなら私たちは感じなくてはならない。本当に微細なものを感じとるちからを取り戻さなくては。それはある意味、getとは正反対か、無関係のものだ。

私たちはgetという幻想を支えるためにあまりに暴力的に戦ってきた。その暴力と戦いを続けるために、感じとることは不利だ。感じ取ることは優しく、小さく、時に痛々しく、広く、深い。そのちからは本質的であり本流である。

私たちの幸せはこの本流と一体になることだ。望むすべての人に開かれている。

宇宙への扉

「わたしにはまだやれることがあるはず」「きっと別のところに使命があるような気がする」「なにかしたいけれど好きなことがわからない」。
そんなふうに感じるのならきっと、宇宙が、内なる自己があなたを呼んでいる。

使命を職業と同一視している人は多い。
為すべきことを対外的な行いだと信じている人は多い。

好きなことがみつからない。
なにをしたいのかわからない、と悩む方も多い。

いろいろな人のために宇宙はたくさんの扉を用意している。
「ワクワクすることをやりなさい」と、ある存在は言う。
その言葉が独り歩きして、あたかも
「人生の目的はワクワクすることをやること」だと言わんばかり。

ずうっとワクワクしっぱなしでいることが人生の勝利だと受け取られている感がある。

「ワクワクすること」は、宇宙とのチャンネル、つまり内なる神とのコネクションを開くための一つの手掛かり。
ワクワクが難しければ他にもいくらでも扉はある。

しかし扉があるからにはその向こうには目的地がなくてはならない。
「ワクワクすることをやりなさい」の前には「もしあなたが本当のあなたを生きたいなら」という前文がある。
目的は前文のほうだ。

本当のあなたは至福に満ちて、完全に豊かで、あらゆる欲求はすでに叶えられている。
そういうあなたを生きたいならまず・・・。

今はネットが普及して言葉だけの情報が満ち溢れている。
私がほんものを探していたころには手掛かりはわずかしかなかったが、その手の本はほとんど読んだと思う。
古本屋でこつこつ仕入れた書籍を紙袋何十袋に詰めてせっせと古本屋に運ぶ人生だった。
当時は高円寺に住んでいたのでそういう作業はとても簡単だった。

私はある時から、それ以上の情報を必要としなくなった。
それまでの疑問のすべてがつながってしまった。
真実は内側から聴こえてくる。気づきがいつも新しい喜びをもたらしてくれる。
取り組む題材は尽きない。
この世の細部にわたって、本質に紐づけする作業がいくらでもあるからだ。
今はそれが人の役に立つことだとわかっている。充足は循環している。

本当のあなたは、神の一部だ。
だからあなたはすべてを手に入れることができる。

じゃあ、と言って、すべてを手に入れることに人生を費やすだろうか。
思考はやってみたいというかもしれないが、本能はおなかいっぱいだと言うだろう。
魂は、だったらどう生きてみるか、とあなたに問う。

それを選ぶかどうかが意志だ。

あなたは最初から神の子、神の一部だ。
そのあなたが何をどう選ぶか、そしてどう行うか。
あなた自身を、そして同じ神の一部である他者を、どうみなし、どう扱うのか。

それをやってみると決めることが、扉を開けることだ。本当のあなたを生きるという扉。

それを選択したなら、外側から与えられる規範ではなく、内側からくる指針に従わなくてはならない。
内なる指針とのコネクションを開く方法のひとつとして、ワクワクすることを手に取っておこなってみなさい、というメッセージが役に立つ。
やってみたときに、それが導きだとわかるから。
それはひとつのデモンストレーションに過ぎない。

神はあなたにただ、魂の親を思い出してほしいだけだ。
肉体の世界の家族は、愛を思い出すためのひとつのきっかけに過ぎない。
あなたが愛そのものだったことを思い出すために過ぎない。
愛に還る道を選んでもらうための装置に過ぎない。

もしそれを選びたい気持ちがあれば、あなたは今すぐそれを始めることができる。
今すぐ光になること。
今いるそこをただ照らすこと。
今持っているそれに生かすこと。

もし今いるその場所が暗くてもっと明るい場所を求めるなら、あなたが照らす明かりとなりなさい。
どこかを探す必要が無くなる。そこが明るい場所となるから。

最初はひとりぼっちでも、あなたが明かりになれば、その明かりに引き寄せられ、仲間がやってくる。魂の仲間が。
魂の仲間(ソウルメイト)と出会いたいなら、あなたが光を放てばいい。

それが愛するということだ。

人生の目的はただ愛すること。
内側にある光を惜しみなく輝かせる。
それにはなにもいらない。
あなた自身とあなたの意志以外は。

あなたに今あるもの、それはすべて神があなたに与えたものだ。
そのすべてを使って、そのために自分をよく知って、今そこから始めればいい。

あなたに与えられた半径数メートル、あるいは数十センチから。
今までいのちを与えられ続けたそのからだから。その意識から。

私たちは意識だ。神は意識の源。
そこに戻ることさえできればそこにはすべてがある。

陳情

母校の狛江第6小学校は、公立の普通校にしては相当特別な学校だったように今更ながら思う。その大きな要因として、音楽の飯島先生の存在が心に浮かぶ。小学校では担任の先生がほぼすべての教化を担当していたが、私は中学年を除き、音楽の授業を飯島先生から教わることができた。

飯島先生は、芸術家を絵に描いたような風貌のかっこいい先生で、礼儀や所作に厳しくて有名だった。先生の風貌は、まず俳優の杉浦直樹さんのような威厳のある顔立ちをしていて、頭頂には髪がなくつるっつるに光っていて、側頭にはくせっけのようなくりくりした髪があった。パイプをくわえてこげ茶の毛糸のベストにベレー帽がとても似合っていた。音楽室に隣接する音楽準備室は先生のアトリエであり、重厚そうなステレオと、落ち着いたソファーと、観葉植物がおいてあった。

授業で音楽室に向かう時は、まず自分の教室の前で整列して、私語を謹んで整然と歩き、その静寂を保ったまま音楽室に入室する決まり。私は小学生の頃はだいたいなにかの代表をしていたので、この整列を率いて歩くことが多かった。

私はこの飯島先生が大好きだった。大好きなどというレベルではなく、心から尊敬し絶対的に信頼していた。個人的にお話をしたのは卒業の間際の、学校中の先生とクラスメイト全員にサイン帳にサインとコメントを書いてもらった時にお願いしたのが最初で最後だったかもしれない。今思い返してそうかもしれないと考えた時に驚いてしまうほど、私は先生との意志の疎通と絆を感じていた。

先生は音楽準備室で私たちを待っている。私たちが整然と精神統一して入室することができると先生はその気配を受け取り、笑顔で私たちを迎えてくれる。私はその笑顔が見たくて、クラスみんなの心が集中することを祈る。私たちが気を乱して入室すると先生は無表情、無言で現れ「もう一回」と静かに促し私たちは教室を出て心を仕切り直し、改めて整列してノックをし、引き戸を開け、整然と歩いて席に着く。

そうやって私たちは集中することをからだで学ぶことができた。授業を受けさせていただく、という姿勢をどのように示したら目上の方に伝わるのかということを身をもって教わった。先生は決して大きな声を出したりはしない。音楽家である先生は静寂と調和を何より重んじた。私たちがそうであると心から喜んでくれているのがわかったし、そうでない時には心から失望しているのがわかった。その先生の思いを先生はテレパシーと表情でよく伝えてくれた。私は先生から一瞬たりとも目を離したくなかった。先生からの無言のメッセージをひとつも見逃したくなかったからだ。

現代では、飯島先生のような教育は批判されるのかもしれない。実際に子供たちからは恐れられていたし、授業が苦痛と感じる子供も少なからずいただろうと思う。でも私はそこに愛しか感じられなかった。あんなにも心を使って私たちを見てくれるおとなは人生で数少ない。その偉大さと恩恵はますます強く奇跡的に感じられるばかりだ。

飯島先生は一曲の歌唱を教えるとよく、ワンフレーズを全員順番に独唱させた。私がもっとも嬉しい瞬間だった。その歌が先生の心に響くと先生は目を大きく見開いて驚きの表情を見せ、とても美しい言葉で心から褒めてくれた。私が心を込めて歌うとそれが先生に伝わり先生からの心からのねぎらいが返ってきた。私は自分がとてもとてもすてきな女の子になったような気持ちになった。歌がうまいのだ、と思うのではなく、すばらしい女の子なのだと感じることができたのだ。なぜなら先生は私たちの歌う心、歌う姿勢に全力を込めることを私たちに求め、全員に対して心から期待して待っていてくれたから。

私はサイン帳のトップページは飯島先生に書いてもらおうと決めていた。3月に入って、サイン帳を買ってもらってすぐに飯島先生の部屋へ行った。先生にサインをお願いすると先生は「今年は随分早くに来たねえ」と笑いながら応じてくれた。

トップバッターだったおかげで先生は時間をかけて丁寧に書いてくれた。それはこんな感じで始まる。
「3月初旬の美しい昼下がり、部屋のソファーでいい気持ちで○○中学校の合唱曲のレコードを聴いていると
―――トントン、今お時間よろしいでしょうか。
入ってきたのは、まあるい顔に大きな目、明るい笑顔の、すばらしい女の子。・・・」

人生にはこんなすてきなめぐり合わせがある。努力しても努力しても追いつかないかに見えるたくさんのことのほかに、予期も期待もせずしてあらかじめ与えられてしまう幸運もある。

今日思い出していたのは実は飯島先生のことではなく、この学校で朝礼のあと、校庭から下駄箱までの行進曲として使われていた曲のことだ。最近になってよく思い出すのだけど、「風」「戦争を知らない子供たち」などが行進曲としてよくかかっていた。

今ググってみるとこの2曲は同じ北山修という人がが作詞している。経歴を見るとフォークソングのミュージシャンでありながら精神分析家、臨床心理士などとなっていて驚く。

「戦争を知らない子供たち」

北山修作詞・杉田二郎作曲

戦争が終わって 僕等は生れた
戦争を知らずに 僕等は育った
おとなになって 歩き始める
平和の歌を くちずさみながら
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ

若すぎるからと 許されないなら
髪の毛が長いと 許されないなら
今の私に 残っているのは
涙をこらえて 歌うことだけさ
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ

青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも一緒に 歩いてゆこうよ
きれいな夕日が 輝く小道を
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
戦争を知らない 子供たちさ

―――世はベトナム戦争の真っ最中であり(武力衝突開始1960年、終結は1975年。なお不正規戦争で宣戦も講和もない)、憲法の制約のある日本政府もアメリカ合衆国の戦争遂行に基地の提供といった形で協力していた。日本国内でも、一部の文化人や学生を中心に、反戦平和運動は盛り上がりを見せていた。そのような中で発表されたこの曲は、日本における代表的な反戦歌となった。

大阪万博でのコンサートで初めて歌われた。(Wikipediaより)

6年間の小学校生活の中で、この曲で何度行進しただろう。インストゥルメンタルだったので最初は歌詞も知らず、ある時興味を持って知り、頭の中でいつも歌うようになった。

こんなふうに育った。私はその頃確か、こう思った。私は一生、戦争を知らない子供として生きるんだ。この曲で行進する時、私は見守られているような大切にされているような、そんな感覚を覚えていたと記憶している。

さっき、夫と話していて図らずも涙が出た。まさか私が生きている間に、戦争の心配をするような時代が、言論と想うことへの自由を奪われる恐怖が来るとは思ってもみなかった。私の目の黒いうちに。

きっと、私たちの意識や生き方にそうさせる何かがあったのだと思う。本当に次の世代に対して申し訳ないし、情けないと思う。あきらめはしないが、政治と社会には時々本当に暗澹としてしまう。また学び直しか、と。

私は子どものころから黙っていられない子どもだった。嘘や矛盾やごまかしを見逃せない。本当のことを言いたい。誰かが沈んでいるのも困っているのも苦しんでいるのも見過ごせない。その杭は叩かれ折られ、紆余曲折しながら今の生き方を創った。とても小さな場所で小さなものを大事に生きている。そしてその尊さも意味深さも悟り、今に満足している。でもそれは、言論と表現と思想の自由あってのものだ。この地上において私を自由にするのは想いと言葉だ。それしかない。他に私の大切なものを示す術を知らない。生きる術を持たない。

その自由を奪われたらそれはもしかしたら人生で過去最大の試練となるかもしれないと思う。怖いとかいうよりも、そうなったら神は私になにをお望みになるだろうと不思議にさえなる。今あるすべてを学びたいと思う。今ここにあるすべてを。そして伝えたいと思う。生きている限り。

自己肯定感、あります。

からだだけが自分じゃない。そう自覚している人はきっとたくさんいるだろう。心が大事。そう思っている人もきっとたくさんいる。

思うようにならない自分と格闘して葛藤して、潜在意識≒インナーチャイルドを探求している人も、今はたくさんいる。情報もたくさんある。

そしてこんなことも起こる。自分の過去に作った傷がたくさんみつかった。原因もわかった。一生懸命修復に取り組んでいるけどなかなか変われない。やっぱり自分には無理なんだろうか。がんばってもがんばっても追いつかない。

愛にあふれた人ほど、自分の内側の傷を見て、それに圧倒されてまた傷ついてしまう。思慮深い人ほど傷を負った自分自身にさらに問題を感じてしまう。

私自身、おとなになってみて何一つ思うようにならなくて自分を振り返り始めて数年、いや10年、いやもっとそれ以上長く、そんな思いの中にいた。

掘り起こせば起こすほど、自分の未熟さ至らなさに直面して自分を責めてしまう。そんな中で情報に照らして自分を分析し評価するとしたら「自己肯定感(自己評価)が低い」んです!みなさんそうおっしゃる。そしてその低さを作った原因がわかれば、それを修復できれば、誰かを許せれば、変われるかもしれない、そんなふうに感じている。

私も本当に長い時間かけてその答えを探しさ迷ってきた。私のその体験と時間をできたらみなさんに捧げたい。もし受け取ってもらえるならば。私の経験が、あなたの時間を短縮すること、そしてあなたがさらにその先を体験すること、それが魂の仲間の共通の目的だ。

身体だけじゃない、外側じゃない、中身が大事。中身が本当の自分だというところまで真実を突き止めたみなさんは、潜在意識こそが自分の真実だと思ってるかもしれない。或いは潜在意識こそが自分の宝もの、或いは自分の真の導き手、或いは神さまのような存在だと捉えているかもしれない。でもそれは、違う。

潜在意識は体験の記録の集大成のこと。からだという特定の反応をする方程式がつまった箱に何かを放り込んで出てきたもの、それをしまっておく場所のこと。いわば肉体のデータバンクだ。

データをいじって修正する権限を持つのはそれ以上の知能を持ったものに限られる。データがデータを改善することはできない。或いはデータの箱がデータを改善することはできない。権限を持つのはあなた。それを教え導くのが魂、ハイヤーセルフ、そしてその中核である全き神である。

私たちはこのデータをまとっている。このまとったものを自分自身と勘違いしている。傷だらけでみすぼらしい、くたびれたその姿に更に傷つき、それでも立ち上がって今度は修繕を始めようとしている。これは一人ではとても無理だと悟ったから手伝ってほしいと私に申し出てくれる。

いろいろなヒーラーやセラピスト、カウンセラーがいて、あなたを手伝うと言う。すごく長い時間をかけてその修繕を一緒にやったり(やってもいい。でもそれは目的ではない)、もっといいハウツーがありまっせ、と提案したりしている。どうです、私、立派でしょ、きれいでしょ、あなたもこんなふうになれますよ。それが宣伝文句。

でも私に言えるのは「それ、ただの服なんですよ」ということ。潜在意識、インナーチャイルド、あなたが自分あるいは自分の本質だと思っているそれは、データが編み込まれた、服なんですよ。

最近のセッションでのこと。その人の魂の光、愛の炎があまりに燃え盛っていて、その愛の炎でその人のまとったぼろぼろの服は既にほとんど燃え尽きているかに見えた。魂そのものが光を放ち、自らがまとっていたかりそめの古い衣が燃え堕ちようとしているさなかにまだ、その服をなんとか修繕しなければと真摯に訴えていた。あまりにまっすぐにそこに居てくださったから、私もまっすぐに伝えることができた。

「その古い服、脱いでください」

その方はしばらく目を見開いて、というか肉体の目をぎゅっと閉じて、心の眼を見開いてじっとしておられ、それからまっすぐにこちらを見て「そうか。そう観たことはなかった。確かにそうだ。魂はきれいなんだ。きれいなものなんだ。それが自分の心なんだ。」

その方は一瞬で悟られた。自分は魂なのだと。心の核は魂で、汚れた心と感じていたのは多くの体験を吸収し、くたびれた衣服だったと。服がどんなにズタボロでも、魂はそれに影響すらされることなく美しいままなのだと。私はその方のまとった焼け堕ちる寸前のその衣がばらばらと灰になり崩れ落ちるのを見た。そんな見事な再生に出会えたことが奇跡だと感じる。

しかしだったらなぜ潜在意識の探求などするのだろう。

それは、その衣の命を全うさせるためだと認識している。学びを完了させるとも言い換えられるが語弊もある。それは理屈や知識で得るものではない。感情の燃え残しに聖なる火を点火し燃焼させることだ。

人間は、五感を通して受け取った情報を感覚として感知し、そこから化学反応で感情の波を起こす。生長の道すがら、情報は確かに受け取ったけれど湧いてきた感覚や感情は感じ切らずに置いておいた。そんな体験が器に余る莫大なエネルギーを使わずに溜めている。鮮度が落ちたそれは、やがて器にこびりつき沈殿する。ものによっては腐敗する。

「感じ切ってください。」ヒプノセラピーでのあなたのミッションはこれにつきる。あとは、魂がやってくれる。

ごびりつきや沈殿物や腐敗物を燃焼したときあなたの内なる光は増し、その光があなたの内側と行く手を照らし始める。だからあなたは歩けばいい。光りの中で光とともに生きればいい。あなたのまま。一歩一歩。光りによって周囲は良く見え、自分の内にある光が周囲を照らす。それがあなたの価値だ。それに評価なんて必要だろうか。

そうやって光の器となって再生したあなたは、過去に着ていた服のことを思う。もし生まれてこのかたきれいな服ばかりを着ていたならどうだろう。あなたは違っていただろうか。

ボロボロの服からも、肌触りのいい服からも、そこに吸収された体験から抽出され中身(魂)にしみこんでいくのが愛であり、どちらの服もその愛を抽出し終えたときその任務を全うする。あなたはやがて手放す服を、あなたが学びやすいように選んできた。あなたの父、母、家族の設定、社会と国家、時代背景。

その服にありがとう、愛しているよ、さようなら、全うしたねと心から言える。それが自己肯定だ。そう言えるようあなたの気づきを促すのが潜在意識への取り組みでありそれはそのままあなたの魂、そして内なる神への回帰への道だ。

単にきれいな服を着ている他人を見て、あの人には自己肯定感があるとか幸せそうだと人は言う。でもその人の中身は本当に寄り添い向き合ってみないとわからないものだ。ボロボロであれきれいであれ、その服に執着している間の肯定や評価などまったくもって価値がないと今の私は思う。それは誤解であり錯覚なのだから。

ひとりじゃない

「わたし、ずっとひとりぼっちだと思っていました。でも、ひとりじゃなかったんですね」

こんな言葉をヒプノセラピーやカウンセリングのセッション後にいただくことがよくある。それは、例えば両親との和解や対人での気づきがあったときに限られるのではなく、むしろ自分自身、深い自己意識、インナーチャイルドや自分の過去世の人生、またハイヤーセルフに触れたことによってもたらされる感慨であることが多い。

ひとりじゃなかった。

人生を生きていてそう感じる前と後では明らかに世界は違っている。どんなに他者と親密になったとしても、どんなに大勢とつながったとしても、そのことで「ひとりじゃないんだ」という平安を恒久的に持つことは不可能だ。私たちは出会っては別れ、得ては失う。得たものが大きければ喪失も大きい。これが地上世界の真実。

ひとりじゃなかった。

私にもかつてこの気づきがあった。それは黒から白へと切り替わるように起こるのではなく、巨大な歯車があるときから逆回転を始めるように訪れる。巨大な歯車とは、地球が私の世界を乗せて回っているのと似ている。逆転のために一瞬世界は静止しなくてはならない。それから慣習のちからに馴染んでいたあらゆる創造物は軋み、あるものはなぎ倒される。例えばエスカレーターがいきなり止まり逆走するようなおかしな感覚。それが地球レベルで起こるのだ。

ひとりじゃなかった。

その時、すべては変わる。たとえば光り。たとえば言葉。たとえば形。たとえば愛。
(ひとつひとつ想像してみてほしい。)

孤独の中に見える光と、ともにある者に見える光は。
孤独の中に語る言葉と、ともにある者が語る言葉は。
孤独の中に知る形と、ともにある者が知る形は。
孤独の中の愛と、ともにある者の愛は。

まったく別のもののように変わる。共有する範囲も、ベクトルもその意味も。
二つの世界はつながりを失い、さらなる孤独へと堕ちたかに見える。それが世界の静止と逆転だ。

ひとりじゃなかった。

これは瞑想における重要な通過点であり目的地でもある。内なる神は私たちを創造し導き育む。私たちの意識の根幹に座して私たちの生命に寄り添い続けている。私たちが今世のこの肉体を与えられるよりも遠く古からずっと。その存在を内に確かに感じることが、私たちを孤独という分離の幻想から目覚めさせる唯一の道だ。孤独である限り、私たちは戦わなくてはならない。自分を守れるのは自分自身。もしくはこの世で味方と言える少数の他者しかいない。私たちは安全を得るために戦い続ける。そしてその戦いに終わりはない。生とは死と死の合間のつかの間の、物語に過ぎない。

ひとりじゃなかった。

ひとたび孤独という幻想から覚めたとき、私たちの生は変わる。生は永遠のもの。生は真実そのもの。その時ようやく、私に私という存在が見え始める。それまでの私という幻想が軋みなぎ倒され、本当の私が見えてくる。私は永遠なるものの一部であり、真実の一部であり、愛であり、私は授かったものであり、私は生かされている者だとわかる。

ひとりじゃなかった。

その気づきは私を変える。私という過去の誤った枠組みを打ち砕き、私は尊さの顕現であるとわかる。私は愛されし者であると。

その時そこに自分への感謝が生まれ、自分を愛するということの真意が、すべての尊き者への賛美だということがわかる。私はすべての尊きものとともにある者。

自分への感謝は即ち尊きすべての者へのそれであり、すべての尊き者への賛美は私への愛だとわかる。その時、私というものは消滅し、ただ、神とともにすべてがあるとわかる。

世界に私はいない。
世界には私というすべてと、神だけがある。

使命

セッションで数名の方からほぼ同時にあるキーワードをちょうだいしました。そういう時はそのエネルギーが動きたがっている時です。ここからどこかへ、或いは同時多発的に、意識の大海の中でそれは震え輝こうとしています。そして言葉というメッセージとなり、人の気づきとなって流れを作ろうと発動しているのです。

キーワードは「自分自身への誤解」です。あまり耳ざわりのいい言葉ではないかもしれません。

私は長年、潜在意識の療法、つまりインナーチャイルドや前世療法、ハイヤーセルフのワークに取り組み実際の現場からたくさんの学びをいただいてきました。結局のところ、なにが問題の根っこなのか。意識の真実は薄皮を剥ぐように日々新しい姿となって私の前に現れてくれます。取組む姿勢は同じでも、根っこへ迫る道は日々シンプルに、可能な限りスマートに、みなさんをご案内できるようになってきていると思います。その道に従事する者へのそれがギフトであり、この世界に私を生かしてくださる神とみなさんへのご恩返しなのだと最近つくづく思うようになりました。

「愛」という、形に示すことのできないある大きな事象に込められた地上での意味は、私たちの気づきと体験と学びによって今も毎瞬上書きされています。この世のすべての事柄がそうです。世界のあらゆる出来事の意味は、私たちの実感によって書き換えられます。つまり、そこに込められたエネルギーは私たちの生命の営みと同時進行で変化し続けているのです。

潜在意識は、体験によって作られます。体験からくる実感が記憶された領域がそれです。

私たちは大海のうねりのような意識のエネルギーとともに、この肉体という船で波を体験しています。私たちは過去世から持ってくる見えざる記憶を初期設定とし、両親の創った王国に誕生し航海をゆるされます。細かなシナリオを持たないまま、地図のない航海を始めるのです。

しかしこのゲームの最大のカギは最初から手渡されています。魂は愛という至高の法則を記憶しており私たちはアクセスすることを思い出しさえすれば、どんな小道具や航海術を持つより遙かに安全で有意義な旅を進められます。

けれども私たちは荒波にあたふたするうち、すっかりそんなゲームの奥義は忘れ去ってしまいます。波を蹴散らし船の補修に補修を重ねるうち、この旅の目的どころか本当の自分の姿さえ忘れてしまいます。そしてイメージの中で、戦いのうちに受けた傷や怪我の後遺症や苦難の時に培った心の抵抗や痛み、孤独や悲しみのほうの記憶が鮮烈に大きく膨らんでしまうのです。

そんな自分が生きてきた人生、取り巻く人々、それらとのかかわりの中での自分像は、すっかり疲れ果ててボロボロでみじめでみすぼらしいかもしれません。逆にガッチガチに鎧を着こんで意気揚々としているかもしれません。どれにしてもその姿の奥にある本当の心、本当の気持ち、本当に感じていること、すなわち真のエネルギーの姿はよくわかっていないのです。そして周囲に対してはいつも「そんな自分がすべき行動」を無意識のうちに選択するようになっています。

これが自分自身への誤解、言い換えれば誤った自己イメージです。

私は、ヒプノセラピーの使命は誤解を解くことであると認識しています。誤解を解き、真実への橋渡しをすること。インナーチャイルドの癒しとは世間で言われているような、心の傷の原因探しなどでは決してなく、私の私に対する誤解を解くことであり、真の私自身との和解への道なのです。この和解なしに自分への愛は成就しません

実はこのプロセスこそが、無条件の愛、高次元の愛への最も重要なゲートのひとつであると私は思っています。多くの崇高な意思を持った人が首から上と下で分断されねじれた世界観の中でさ迷うのは、この領域に飛び込むことがある意味とても勇気を要する段階だからだと思います。おそらくどれだけのことを知っていようが、理解していようが、直感していようが無意味です。それは、自分が自分で進んで体験し突破するしかないゲートなのです。

魂はそのためにたくさんの仕掛けをしています。苦難や混乱という、あなたを撹乱させる思考や理性や既存の知識では対処不能な地雷を各所に埋め込みます。そうやってあなたに、魂自体に頼ることを思い出させるよう仕向けるのです。あなたの内の愛の体験の記憶の貯蔵庫である魂は、長い転生の履歴から愛を蓄え、あなたが肉体に宿りながらそこにアクセスし、その叡智を使ってあなたがさらにその体験を深めることを押し進めます。

その段階であなたはようやく、自分が自分にくっつけている歪んだ自己像に気づきつつあります。目覚めがそこまで来ているしるしです。

周囲からたくさんの攻撃を受けたと信じているあなたは、その攻撃によってずたずたに裂けた衣装をまとっています。でもそれは本当のあなたですか?答えはNOです。あなたはたくさんの人たちともみ合いながらコミュニケーションを繰り返し、古い衣装を脱ぎ捨てては生まれ変わっていきます。古い概念を捨て去りより大きな世界へと広がり続けています。脱ぎ捨てるほどに内側の光をよりストレートに放ちます。これが真実です。

あなたはそのプロセスの中にいて、それを体現しています。

決してひとりではありません。あなたは無限の霊(スピリット)とともに互いに作用し影響しあいながらその任務を全うしているのです。

スピリチュアルとお金の、新しい発見

たまーに、スピリチュアルのサイトやブログをのぞいてみると、お金のことが書かれているのが目につきます。
私はアバンダンティア・アバンダンス・レイのアチューメントをしていますので、セッションでクライアントさんとこのテーマでお話することがあります。
また、セッションの料金についてなど、クライアントさんからご質問を賜ることもあります。
「セラピストのための講座」では重要なテーマにもなります。

私の人生、まあさまざまなことで格闘しましたが、今でも思い出すとひやっとすることのひとつに、お金との付き合いがあります。
多くの人があまりオープンにすることなく密かに抱えている問題のひとつかもしれません。

「お金とはエネルギーである」とは、スピリチュアルの世界でも、もしかしたら一般的にも言われるようになっているのかもしれません。
お金が不足するときは、実際にエネルギーの収支がマイナスになっているというのは真実だと私は思っています。

お金との付き合い方を学ぶために、1円単位で毎日、収支をメモしていた時代もあります。
まったくどう生きていいかわからず真っ暗闇の時代でしたがこれは今でもいい経験だったと思っています。
エネルギーの出入りを体感的に覚えるのにとても役に立ちます。
また「エネルギー漏れ」のしっぽを掴むこともできます。

天使貯金というのもやっていました。
今でも人から尋ねられお伝えすることがあります。
これは、どんな形であっても手に入ったお金のうちの10%を必ずより分けてプールし、自分が心から使いたいことのために使うというものです。
一見なんということはないからくりですが、自分に与え受け取る訓練になり、手元に残ったお金の10倍、自分は稼ぐことができているという実感を重ねる訓練にもなります。
豊かさを体験しデモンストレーションします。そうやって豊かさを生み出すのです。

それからさらに、お金の滞りがあるときは意識エネルギー、つまり心の領域に無意識的な詰まりがあり、それを解消することでお金の流れを整えるという見方は今も常に点検の項目にしています。

こうやって、お金の流れを頭ではなく心とからだで捉える訓練を積みました。
とても現実的なやり方ですが、どれもスピリチュアルの本から学びました。
私にとってスピリチュアルの教えとは生活そのものです。在り方、生き方の実践なのです。
頭の中で考えて答えをみつけることでなにかを解決したり乗り越えたりするのではありません。
気づきによって変わり、新しい自分となって「喜びとともに」生きることが学びです。

さて、ここからが本題で、最近になって気づいたことです。
セッションでもお金についての話題が重なり、私生活では身内の間で感覚のずれのようなものが気になることが数回重なりました。
これは内なる自己からのお知らせだろうな、と思っていたところ、それが心の痛みとして出てきたのです。

まさかここへ来て、お金のことで感情の解放があるとは思いませんでしたが、同時に自分の中にある課題としてはきっと最後までお付き合いするだろうとも感じていました。
お金とは肉体を生かすもとになるエネルギーだからです。

そして出てきた気づきはこんなことでした。
「お金についての本当の問題とは、個々の体験によってその価値が異なることである」。

思い起こせば結婚した当初は家庭内でちょいちょいその壁に当たりましたが、手探りと話し合いで乗り超え、今では夫婦で摺り合わせがうまくいっていると感じています。
しかし今度は互いの実家やきょうだいが築いた各々の家庭同士で別々の価値基準が作られてきて、なーんとなくその間に壁ができてきます。

もちろんそれは当たり前のことであって、それ自体何の問題でもありません。

でもそのせいで、やはり現実的ないろいろな話はだんだんとしなくなるし、しても通じにくくなります。
いえ、そのせいで、と気づいたのは後のことで、まずはそのわずかな「通じにくさ」が違和感として私の中に積もっていたのだと思います。

私は多分少しずつ傷ついていたのだと思います。
まさかそれが、金銭感覚に通じているなんて夢にも思っていません。
特に深刻な金銭問題が勃発したわけでもなく、あるとすればそれはずっと長い間、潜在的に存在する人間関係の課題です。

感情として悲しみが出てきたあと、私はなるほどこれかと深く納得しました。
多くの人が、親族や親戚の間でお金の問題でいやな思いをすることが絶えないわけを。
何かを争ったりするわけでもないのになんとなくいやな雰囲気になってしまうのを傍から何度となく目にしてきた、そのわけを。

例えば一万円というお金について、多くの人がそのエネルギーにまつわる体験と実感を持っています。
同じ世帯に育ったきょうだいなど、幼少期に共有することは山ほどあります。
お年玉やお誕生日とクリスマスのプレゼント、進学の費用やお祝い、買ってもらう服や嗜好品。いつもきょうだいで互いに見比べたりして育ちます。
でも暮らす世帯が違えば同じ一万円が全然違うものを意味するようになります。

余談ですが「北の国から」というテレビドラマで主人公の純くん(吉岡秀隆)が北海道から東京へ巣立つとき、お父さん(田中邦衛)が少ない収入からピン札の一万円2枚を、純くんを乗せてくれた長距離トラックの運転手(確か古尾谷雅人)に渡すというシーンがあります。
純くんは反抗期まっただなかでお父さんを疎んじていて感謝なんてありません。自分のことで精いっぱいなのです。
その時トラックの古尾谷さんが純くんにお金を見せてこんなことを言います。

「俺はこの金受け取れねえ。見てみろ、ピン札の端っこに、泥の付いた指で数えた指紋の跡がある。お前のおやじがどうやって用意した金か俺にはわかる。だから俺には受け取れねえ。この金はお前が記念に持ってろ。一生大事に持ってろ。」(すごく昔に見た記憶なので正確ではありません。あしからず)

純くんはそのピン札に付いた泥の指紋を見て、それまで堰き止めていた思いが噴出します。純くんは、あまりにいろいろな思いを抱え、それを感じないようにしていたのです。
その一万円は、ただの一万円ではないですし、その一万円の重みは多分ずっと、良くも悪くも純くんの心に刻み込まれるのです。
「北の国から’87初恋」

(さらに余談です。純くんである吉岡秀隆さんの演技は大好きなのですが、私はこのシーンでの純くんの感情の噴出は本物じゃないなと感じてました。当時は実際に吉岡くんの反抗期であり、それがドラマのクライマックスと同時に昇華されるに至らなかったのだと思っています。昇華しないならしないなりの噴出でよかったのに、どうも昇華を目指してしまったところに嘘ができてしまったのではないでしょうか。)

そんなような一万円の悲しみの記憶が私にもあります。

人によっては一万円を見て、楽しい使い道や自分のためのものとしか思い浮かばない人もいます。
人によっては一万円を見て、これがあればこんな思いをしなくても済むのに、あの人が助かるのに、何日間生き延びられるのに(これ私です)、と切実に思い浮べる人もいます。
直結した感情もイメージもまちまちです。
なのに私たちはどの一万円も同じ価値のふりをしてやり取りしなければならないのです。

そして、多く持っている人をなんとなく尊敬しなければならないような思いにとらわれたり、多く持たないことをなんとなく恥じたりしています。
持たないことに非があるような、能力が足りないような、努力や忍耐が欠けているような、不全的な意識です。

また多くを持っていない人に限ってもっと持っていない人を助けなくてはならないと感じています。
持たないことの心細さを身をもって知っているからです。

結局のところ、それほどたいした貧富の差でもないのに、この感覚のちょっとした温度差でなんだか心がすり減るようなことが起こるのだということを私は発見しました。

自分にとって切実に必要なものを一方で軽く、あるいはちょっと乱暴に扱われたりしたら、それは間接的には傷つけられるのと同じです。

同じようなことを仕事に置き換えて感じることもあります。
本当にいろいろなものをなげうってひとつのことに取組む人もいれば、同じ領域に遊び半分で片手間に踏み込む人もいる。
人生をかけて仕事をする人も、軽いのりでこなす人もいる。
養うために稼ぐ人も、遊ぶために稼ぐ人もいます。
お金が必要な人も、それに伴う権威や自己肯定感が必要な人もいます。
同じ仕事をしていても。

本当のことを言えば、お金によって本当の満足を得ることは決してありません。
お金は道具でしかなく、いくら稼げたり稼げるだけの社会的認知を得ても、自分を満たすのは結局自分の意識だけです。

なにを求めて行動するかはそれぞれの自由ですが、でもそこには意識下のエネルギーのやり取りが本当はあるのです。
そして個々のやり取りの温度差を埋め、摩擦を調停するものが、想像力と思いやりという愛なのです。

ですから私が感じたすり減り感は、お金に対する認識の温度差と摩擦によるものが表層にありますが、深層では愛の不足感による傷つきだったというわけです。
かみ砕けば、お金の扱いに愛の欠如感が結びついていたということに無意識だったということです。

お金が持っている本当の問題に気づいた私の、痛みや貯まっていた感情はほぼすっかり解放されたようです。
明晰な理解とともに光がもたらされた思いです。

どんな問題も、私たちがネガティブな感覚に引け目を感じ踏み込めない状態というものが解決を遅らせます。
踏み込めないことが問題です。
自分の思い込みを手放し感情を解放し痛みを癒せば、私たちは問題から目を背けずに済みます。
踏み込めばそこに光りがもたらされます。光は闇をも明らかに照らします。

お金はエネルギーであると同時にコミュニケーションのツールである、と、今回私は気づきました。
しかし人類がこのツールを健全に愛とともに使いこなすようになるのはまったくもってこれからだな、と感じました。

自分への信頼、自分が感じることへの信頼があって初めて、別の価値観を肯定的に捉えることができます。
これは差別問題などにも通じます。
本来ばらばらである価値観を受け入れることができてこそ使いこなせるツールなのでしょう。

愛と平和への気づきの道は至る所にあります。

眠れぬ夜のメッセージ

もしあなたが望まないあなたの心と出会い、それを変えたいと願ったのなら、
あなたはその心と対等に戦わないでください。
押しやったり無視したり叩きのめそうとしたりせず。
攻撃された心は、
傷つかないためにますます防御を強め、あなたを攻撃してきます。
結果あなたの敵は強くなる。

もしあなたが想像し得る最高次元の神さまならどうするだろうと想像してみて。

私はこんなふうに想像する。
神さまは無限に赦す。無限に受け入れる。無限に助ける。無限に与える。

「無限に」は真似できないけれど、その特性を真似てみる。

望まないあなたの心、例えば嫉妬とか頑ななプライドとかひねくれちゃった心とか。
それを自分から追い出したいとき、手放したいとき、
赦す、受け入れる、助ける、与える、を自分に対してやってみる。

そうだね、そういう気持ちってあるよね。
そういう状況ならきっとそうなるよ、あなただけじゃない。
ひとりで苦しむ必要はないよ。
でもそうやって、良くない思いと闘うことは大切。
でも闘いすぎると疲れてしまうよ。
疲れると人間はどんどん攻撃的になって、
周囲かあるいは自分を追い詰めてしまう。
そばにいてあげるから、少しおやすみ。
大丈夫、休息すれば本来のあなたに戻れるよ。

どんな自分になりたいか、理想を持っている人ほど
自分の中の低次元な思いを許せずにいます。
でも許さなければなお低次元に陥るのがこの世界の法則。

人間の意識は固定されたものではなく、
気分と同じで上がったり下りたりする波そのもの。
その波が周波数を作り、エネルギーを生み出す。

波に逆らうのではなく、
波を読む視野を持つことが自分をよく知るということです。

神はあなたのすべてをよく知っています。
しかし神はあなたのどのような部分にもとらわれず、
本当のあなただけをよく見ています。
本当のあなたというのは、神と同じ質をしたあなたの魂です。

波を追いかけたりしがみついたり捕まえて変えようとがんばったり。
人間がやっている努力はそんなやり方。

でも本当のあなたは波の中にはいません。
追いかけたりしがみついたり捕まえて変えようとがんばることを退いて
すーっと神さまのいるほうへ近づいて
そこから波を心の眼で捉えると波が理解できます。
そしてその瞬間、あなたは波ではない。
波の中にはいない。
波を捉えているのがあなたになります。

とっても大事なこと言わせて。

非二元性のことをノンデュアリティというらしい。少し前にクライアントさんから教えられた。

私が実践している奇跡のコースや敬愛するパラマハンサヨガナンダはその世界を教えています。ゆるしの祈りで知られる、「生命の贈り物」も、その世界に根差しています。

私がそれと出会ったのは遡りますがやはり「神の使者」という本からでした。それらにはノンデュアリティという言葉はなく、非二元性、一元論という言葉が遣われます。

私が心の底から探していたのはそれだと今でははっきりと言えます。幼少のころからずっと気になっていた、人間とは何か、宇宙とは、愛とは、神とは、生きるとは、人はどこから来てどこへ行くのか、という問いの答えはそこに在ったと言っていいと思っています。

つまり、それは真実だと私は確信していて、その真実によって私の魂は深く安堵し救われたのです。もうそれ以上さ迷う必要がなくなり、今ここで生きるということが可能になりました。

非二元性、一元性を端的に表す言葉に「この世はない」という表現があります。これは自分史的に遡ればほとんど初期のスピリットとの出会いである「マインドトレーニング」(byシャクティ・ガ―ウェイン)の根底にある概念と同じです。

「この世は本質である内なる神からくる光源が、私の記憶によって作られたフィルム(意識のフィルター)を通して3次元に映し出されている投影(幻想)である」。

ゆえに、私たちが現実だと認識しているほとんどすべてのものは単なる幻影であり、実在ではない。

では、実在とはなんなのか。

重要なのはその部分ですよね。

ノンデュアリティというのは、いったんこの世のリアルな現実(だと誤解しているもの)を否定し手放す過程なのだと思います。よくある「否定的を否定する」ことや「価値判断」を手放す、とか言われているもの、それらはまずこの世を白黒で認識するのをやめてみようということなのだと思います。

しかし真剣にやめてみた人はわかると思いますが、ただ「やめる」だけで人は幸せになることはできません。

好きなお酒がからだに毒、また酔っ払って周囲に迷惑をかける。だからお酒やめました。・・・それで?・・・やめてみたら時間ができました。酔っぱらって楽しくなってそのあとグダグダになってそっからまた通常に戻す、というプロセスがなくなり、平坦な日常が来ました。・・・それで?・・・幸せになったのならその人は後戻りしたいと思わないし選ばない。でも、幸せを感じなければ多分、その人はそのアップダウンに酔いしれることが必ず恋しくなる。

私が心に重たい苦しみを持っていたころ、平安というイメージに一片の魅力も感じられませんでした。人間はなにを目的にこんな苦しい人生を生きるのだろうと問うたとき、あるチャネリングセッションで「それは平坦にするためです」と言われてまったくイメージできませんでした。これだけ落ちているんだからと、次に期待するのは盛り返し、盛り上がることなのです。それがまさに、二元性の世界の醍醐味なのです。

二元性の醍醐味に酔いしれている間は、平坦のそのすべてを支えている、そこにある実在を感じることはできません。しかしもしあなたが自分だけではなく、また自分側の人だけではなく、もっと、多くと深く関わりたい、世界を広げたい、愛したい、と願ったとき、二元という対立を超えて、そこに横たわる全てと関わることができます。

それが実在です。

実在というのは目先にあるものではなく、圧倒的に絶対的に存在しているものです。あまりにすべて過ぎて私たちの目や手や耳や鼻や舌でとらえきれないのです。心の眼を通し、ハートを思い切り開くことでしかそれを知ることはできません。しかしそれは私たち人間に可能なことであり、そこへ向かうことこそが、これらの機能と可能性を持ち合わせた人間の使命でもあります。

実在を体験すること。それが一元論です。おおもととひとつであるという自覚を持って生きることです。

愛を生きるというのがそれです。人は愛することが天命であり自然なのです。幼い愛から大きい愛へ移行することが波動を上げることであり、小さき神から大いなる神を知ることが悟りです。

ノンデュアリティを信奉するということは小さく無感覚に、無感動に生きることではありません。目の前にあるものを「これは本当は幻想なんだから」などと思いこむことでもありません。頭の中に入りこんで生きるのをやめ、からだ(五感や本能、過去のデータという古い価値観)に任せて生きるのもやめて、一番確かな「実在」につかまって生きることです。

手放すということはかりそめの幸せを捨て、本当の幸せを取るということです。別にそれほど難しく考える必要はないのです。やるかやらないか。やればおっきな神さまが来てくれます。おっきな神さまを迎えるために場所を作るかどうかなのです。来てくれたらあとはすべてを教えてもらいながら一歩一歩生きるだけです。

そうすると、幻想が去っていくのです。そして存在するすべての奥に、実在を観るようになります。それ以外のものにいちいちとらわれずに、ああそうか、と思うようになります。だって実在を観てしまったら幻想なんていちいち相手にしないじゃないですか。本当にすっきりしますし、楽しいですよ。

神に触れる

みなさんこんにちは。投稿久しぶりになりました。先週末は定休日にプラス2日のおやすみをいただき、夫婦と夫の母と3人で長野へ行ってまいりました。長野は私の父の故郷でもあり、夫の風間家の古いルーツでもあり、ご縁を感じています。

旅のテーマは諏訪大社と風間氏発祥である風間神社の巡礼でした。夫の往診先のおばあにおやすみをいただくときに理由をお話すると、おばあは「先生はえらいさー」と言って褒めてくださり「どここどでこういう仕事をしています、と、神さまにちゃんと言ったらいいさー」と教えてくださったそうです。

旅はのっけからおもしろいことだらけでしたが、話が長くなってしまいますのでまた今度ということにして、帰ってきて感じたことですが、やっぱり瞑想とこういった巡礼は別ものでした。どういうことかというと、旅の刺激で頭の中がわんわんしてしまい、落ち着くためにはどうしても瞑想が必要でした。神さまに触れ合いに聖地へ赴いたのですが、神さまを感じるには圧倒的に静けさが必要だということでしょう。数回瞑想するうちに内面は静まり、肉体の疲れもそれとともに癒えていきました。

巡礼というのはそれそのものが自分へのご褒美ですね。神とのつながりというのは普段の生活の中にあるものだとしみじみ思いました。

さて、人間にとっての神さまってなんなのでしょう。神さまが人間に望むことってなんでしょう。

いろいろな側面があり表現があると思いますが、どんな場合にも私は一番に「人間のしあわせ」だと思います。神さまは人間のしあわせだけを望んでいると思います。

人間とはとても複雑で高度な仕組みを持ちながら生きています(神に似せて創られたと言われるほど)ので、しあわせになることは一筋縄ではいきません。だから、神は私たち世界の背後に遍在し、私たちを常に内面(意識)から導きます。

私たちは人生ゲームの最中、どんなに必死になってもはっと我に返って「神さま、私のこのゲームはあなたのご意志にかなっていますか」と問いかけることが許されています。そしてそのルールを採用したとき神さまは必ず応えてくれることになっています。

私たちはついつい、ゲームをプレイしているのはわたしであって、その全責任は自分だしその成果も自分だけのもの、と勘違いしてしまいます。しかし、人生のゲームは常に神さまとのチームプレイです。そしてこの物質界に出現してくる以前の水面下で、ほとんどすべての段取りや設定を、私たちの自由意志が非常に尊重されるかたちで整えてもらっています。

私たちが自分という存在をよく見てよく感じてよく知り、そしてその本質に沿った選択ができたとき、神のちからは最大限に私たちと一体化できます。なぜなら私たちの本質と神の特性がひとつだからです。

「自分のしあわせってなんだろう」
このことをどうぞ追い求めてください。その問いとその追及こそが、神が私たちに歩んでほしい道です。そして何度も本質から逸れながらもあきらめずに求めれば、おのずとその答えに出会うことができます。

「しあわせ」についての様々な誤解がこの世にはあります。インナーチャイルドを探求することの目的もここにあります。過去世を探求することの目的もここにあります。ハイヤーセルフを探求することも、チャネリングをすることも、宇宙と真理の探究をすることも、すべてここにあります。

人ひとりの想念にも、社会的な通念にも、そして世界の在り方のの中にも、しあわせについての誤解が満ちています。私たちはその誤解の存在に気づき、そしてその誤解に慣らされてしまった自己の洗脳を解き、そして本質という光りであり愛であるものに出会い感じること。魂は私たちにそれを求めています。神とその愛は私たちにそれを求めています。

私が人生を通して体験した神はそれです。

無いものねだり

だいぶ以前に、ネット上で「ありがとうの反対はなんでしょう?」というのが話題になっていました。
憎しみ?とか怒り、とか、無関心?という返答もありましたが、その設問の答えは「あたりまえ」でした。

なるほどうまいこと言うね、と思っていましたが、言葉の通りだなとつくづく思います。
反対語がどうのというより、ありがとうは「在り難き」ことが与えられたことへの感謝なのですね。

もらって当たり前、持っていて当たり前と思っていたら、在り難き幸せは湧いてきません。

また他者への感謝は意識していても、自分自身に対して、例えば自分が無意識にできていること、となるとほとんどの人は敬意を払いません。
無意識だからそうなるのは当然ですが。

今の世の中、やろうと思えば多くのことが体験できます。
学校へ行って習ったり資格を取ったりもやればできる。
やらないからできない。
そうなってくると、まるでそういうことをしないことが怠けているような気までしてくる。

やってます!という派手なエネルギーにみんながあおられているような気がしてきます。
自分への付加価値をたくさんのっけていかないと満足がいかない。
そうでないと生きていけない、とまで思い込む。
たくさんのっかっている肩書が自分の価値だ。
はっきりそう思わなくても、なんとなく空気の中にそういうものがあって、知らず知らずに同意している。

私も過去はそういう性質でした。
スケジュール表が埋まってないと落ち着かない。
とりあえずやった、という手ごたえがほしい、という感覚に追われていました。
常に焦って人生を生きていたし、やってもやっても満足というものもありませんでした。

そして、自分ができていることはみんなできてあたりまえ。
だからそれ以上のことをしなければ、と感じていました。
当然、できている自分への敬意も、天から与えられた資質への感謝も足りていませんでした。

思い起こせば母はそういう観念を強く持っていた人だと思います。
客観的に見れば彼女はとてもユニークで突出したところをたくさん持った人なのに
「容姿は十人並み、才能がない、結婚なんてだれでもできる」が口癖でした。
娘の私はなんとなくそれを刷り込まれて、十人並みにはるかに劣る自分の容姿を始めいろいろなものに劣等感ばかり。
あげく誰にでもできると教えられたはずの結婚が、望んでも望んでもできないということを母に証明するかのように苦労しました。

結婚は確かに籍を入れればできるのです。
問題なのは、結婚を通して幸せになるかどうか。
結婚しようがしまいが、自分を幸せにする努力こそが大事です。
それを置き去りにして社会や誰かから認められるための努力ばかりに気をとられていました。

認めてもらうための付加価値と、幸せになるためにみつける自分の本当の価値とでは、天と地のように違います。

どっちもほしい、と思う人も多いかもしれませんが、両方いっぺんに追いかけるのは実際にはほとんど不可能かもしれません。
付加価値がいっぱい乗っていれば自分の中身をみつけるのにそれだけ目くらましが多く、また本当の自分の価値を優先しようとしても付加価値を手放すのがこわいのです。
人間は失うことをとても恐れる生き物だから。

幸せになること。
それを求めること。
真剣にですよ。
そうすると、人は大切なことに自然目が向くようになります。
それは心です。

幸せになるのにはたくさんのものをバランスよく持っていなければならないと多くの人が思っているようです。
それで、あれこれ手に入れるために、幸せになることを真剣に求めることを後回しにしてしまいます。

でも本当に足りないものも、本当にみつけなければならないものも、人生にはわずかです。
それ以上に莫大なたくさんを、私たちはすでに、持っています。

ちょっと足りないわずかなもののために努力し、すでに持っている莫大なものにたくさん感謝できたら、人生はとても豊かです。

気づきはそういう豊かさを与えてくれます。
瞑想はだから、人を幸せにするのです。