すべての人に用意されているギフト

私自身にとって、真の救いとは、すべての人が多種多様な側面を持ちながらもまったく同じ存在であるというところだ。内なる神について話すのは、それがすべての人のものでありひとつであるからだ。

パラマハンサ・ヨガナンダに圧倒的に惹かれるところは、師がそのことを世に、ひとりひとりに伝えることに人生をかけた人だからだ。

ヨガナンダが宗教という言葉を使ったとしても、それは既存の意味とは違っている。また彼が教祖のように見えてもそれも違っている。

彼は「私は私の中に神をみつけました。あなたにもそれができます。やってごらんなさい」と常に私たちに呼びかける。私を敬いなさいとは決して言わない。「私が神を愛するように、あなたも神を愛してごらんなさい。神は私に応えてくださったようにあなたにも応えてくださいます。私は幸せです。あなたもにもなれます。」と言う。彼は人類への奉仕者であり、仕えられる存在ではない。

私は暗闇の中にいたころ、そのように言える人になりたいと心から願った。まだ自分の中に神がいることすら知らなかったときから。その願いが伝わり、私はそっと導かれ続けたのだと思う。

そっと過ぎて、長い間私はそのことに気づいていなかったが。

内なる神の話をし、それを信頼する生き方を始めても、自分がすぐにその神の真実を知ることはできない。どうにか自己の中の神を信頼しかけても、今度は、他者の中の神をみつけることへの壁が来る。

しばしば起こることだが、「私には神がいます。あの人には本当にいますか?(ちょっと信じがたい)」「私にもあの人にも神がいます。でもその神は別々の神です。」という認識が、無意識に自分の中に生きている。

もしその神が別々の神なのだとしたら、それは神ではない。それこそが悪魔と言われるものなのかもしれない。

神が分離していて対立したり、利害のために対立するものを後押ししたり、或いは罪を罰したりする存在であるなら、それはただ、人間のエゴの想念が拡大したものだと思う。(なるほど、それはやはり悪魔かもしれない)

内なる神とは、意識という本質のなかの最高次元の場のことも言える。それはすべてをひとつにする。対立するものの存在しない次元だ。

それを私たちが求めることに意味がある。

神が別々であるということはあり得ない。だから神なのだ。

だから、私たちはどのような壁からも解放されることが可能なのだ。

この世はない。神はある。

エゴは別々である。しかしそれは過ぎ去る幻想である。神は永遠に、無限にある。

それだから、私たちはすべてを超えて、わかり合うことができ、赦すことができ、ひとつになることができる。

それが、宇宙という生命を包括する。拡大し続けるという不可思議な活動を可能にする。

そしてそのことだけが、私の心に平安を与える。

分離、対立、偏った考え、利己的な思い、私欲は、私たちを刺激し駆り立てる。それを生命の営みというならこの世は地獄。天国はその対極ではなく、それを拒否するところに存在する。

どうしようもなくわかり合えないあなたと私の神はひとつである。その神は求めることにより与えられる。

私は求める。それがどうにも見えてこないゴールであっても。それに悲しみや苛立ちを感じることを私は私に許そう。

そしてその悲しみや苛立ちのすべてを神に捧げる。小さき私に神は喜んで慈悲と慰めを与えてくれるだろう。

無条件の愛とはそういった寛容のことだ。

神は寛容である。神はあなたの小さな間違いにいちいち罰を与えるどころか、その間違いをすべて赦し、余りあるほどに与える。

私たちがこの世の法則によって利益を求めるのか、神そのものを求めるのか、ただそれだけの違いだ。

多くの人が神からのご褒美を待っている。あるいは罰を恐れている。そのこと自体が神への誤解だと思う。神はただ、愛されることを待っている。あなたが愛することによって、神は応えることができる。神は愛そのものだから。

私たちの問題の答えは、愛すること、愛し始めることによって、すべて解決される、というのが私の中に与えられた答えだ。その答えをひとつひとつ実践すること、それが人生なのだとわかった。

過去に抱いた幻想から、私は愛をなにか別のものと錯覚している。その錯覚から覚め、現実に戻る道。それが神とともに生きることなのだと思っている。

ありがとう、ごめんなさい

ありがとうが言えることは大事だと言われているけれど、ごめんなさいはもっと大事だと思う。

「ごめんなさいは罪悪感の表れだから、ついごめんなさいを言ってしまう人は、ありがとうに置き換えなさい」なんて文をどこかで読んだ。どんな言葉であろうと、無意識に癖になっているのであればそれは見直すべきだと思う。ありがとうだって同じように罪悪感の表れになり得る。

「生命の贈り物」という祈りの本は、私の周辺でもじわじわと浸透している。多くの人がその中に在る大切なものに惹かれる。この本はゆるしについての本であり、ゆるしに必要なのは謝罪である。

なぜ謝罪が必要なのか。

私たちが作る壁は、いつも本質からそれていく「誤解」がもとだ。私たちは自分を誤解し、他者を誤解し、世界を誤解し、混乱する。誤解が起こるたびに、攻撃と防御が必要になり、より強固で複雑な壁が作られる。その壁は自らの目を塞ぐ。そしてより、本質から遠ざかる。

私たちは本質という生命からの贈り物そのもの。そこへ戻るための方法が、謝罪という強力な修正のちからだ。

私は癒される以前は、ごめんなさいというのは恥ずかしいことだと思っていたと思う。間違ってしまったことを認めることになるから。間違うくらいなら、最初からするな、という気持ちが強かった。

しかし、自分を調べ直していくうちに、「私」のほとんどは間違いで構築されていたことがわかった。申し訳ないけれど、それはほどんどすべての人に当てはまることで、私だけのことではなかった。

そのことがわかって、私は本当の世界に戻ってこられるようになったと思う。そのことがわかって、私は自分をゆるせるようになったし、人をゆるせるようになった。

つい最近になって、母との会話のなかで母がとてもきっぱりと「私は人に謝らない。だってそれは、間違いをしたということだし、傷つけたということだもん。私はそんなことはしないし、だから謝らない」と言った。

自分を見直す前の私のルーツはこれか、と見せつけられた気がした。

それはきっと、苦しい生き方だろうし、私には背負えそうにない。私がこれだけ傷ついているところを見れば、誰もがどれだけか、測らずとも人を傷つけていることは明らかだ。あなただって、どれだけか傷ついている。でもそれを誰のせいにも、自分のせいにもせずに耐えて生きてきたんだろうね。

傷ついていることはすべてが誤解から来ている。そこで大事なのは、どうせ誤解なんだからと傷ついたことを無視することではなく、傷つくという誤解を解くという取り組みが必要だと気づくことだ。

すべての生命と、私自身に謝罪することは、自分と他者と世界との間に生じた誤解を解き、攻防の壁を丁寧に取り払っていくことだ。

それを始めたとき、私たちはその向こうにある、全き光からの導きを目の当たりにするようになる。そして信頼が生まれる。

自信って必要ですか?

自信という言葉は曲者だと思う。セッションでも「自信がない」「自信を持ちたい」とおっしゃるクライアントさんは多い。

私は自分に自信があるだろうか。自己評価が高いだろうか。肯定的だろうか。・・・答えはどっちもどっち、という感じしかしない。自信、という感覚に関してはほどんど実感がない。

子どものころを振り返ると、自分には根拠のない自信があった気がする。その自信は自分を強気にさせ、前向きにさせることもあれば傲慢さや無駄な優越感のもとになることもあった。

傲慢さ、優越感は結果として自分を追い詰め貶めるものだった。根拠のない自信というのは単なる幻想であり、思い込みのちからに過ぎないと思った。

自己意識の浄化とは、幻想を断ち斬り思い込みを手放すことだ。自分を変えることへの試みはそこへの取り組みに尽きる。

思い込みが解体されていくにつれ、自分の膨れ上がった幻想は等身大に戻っていった。人生のある地点まで、成長することはあたまでっかちになることだった。あたまでわかることと自己成長の違いがなかなかつかめなかった。そのことが私を追い詰めた。それは生きづらさそのものだった。

生きづらいから余計に慎重になる。つらいこと困難なことを察知して避けること対処することにどんどん力を注ぐようになる。そうやって賢くなっているつもりがますますあたまでっかちに拍車をかけていった。

そんなふうに人生を生きることは、自分を消費することだったと思う。死というゴールに向けて一日一日塗りつぶしていくような人生。それは緩慢な自殺のようだ。そんな中でいったい、幸せや愛というものをどうやって体験できるというのだろう。幸せは気まぐれにやってきては過ぎ去るもの、愛は運よく与えられるもの。消費する人生での人生観とはそんなものだった。

人は、自信があれば何かに立ち向うことができると思っているのかもしれない。私は今はっきりと、そうではないと思っている。私たちは、未知への信頼のもとにしか、ものごとに立ち向かうことなどできない。自信があろうがなかろうが関係がないのだ。自信というのは根拠のない思い込みか、もしくは過去のデータによる断定のどちらかな気がする。

でも、今ここにあるものに向き合うには、起こっていない未来に信頼を寄せるしかないのだ。そして信頼をもとに私たちが自分の意志で選び、体験し、その結果の如何にこだわらずにそこから学ぶことができたとき初めてそれが確信につながる。

その未知を信頼する根拠を私は、意識のエネルギーの仕組みのなかに学んだ。もし私たちが肉体だけの存在であるなら未知を信頼することなど永遠に不可能だ。一寸先はまさに闇でしかないからだ。けれど意識の世界には時間を超えた領域がある。それが神(宇宙意識・超意識)の法則の世界だ。

その法に身を委ねるとき私たちは、過去には不可能だった世界を超えて、奇跡的な進歩を遂げる。右の頬を打たれ左の頬を差し出したとき、求めた以上のものが与えられるという奇跡を体験する。

もしあなたが今、苦しみの中にいるのであれば、それは神があなたに奇跡を差し出したがっている証だ。神はとても近いところにいる。神はあなたに苦しんでいてもらいたいのではない。ただ、求めてもらいたいだけだ。その解決を、この世界にではなく、神に対して。未知に対する信頼とともに。その時神と人との関係が生まれる。

そこに私たちの成長がある。

ひさびさ、映画のはなし

映画鑑賞は沖縄へ来てから特に、夫婦共通の娯楽というか趣味。
DVDを車で往復1時間以上かけて借りに行き、家の壁にプロジェクターで映して観ます。

週に2本観るのはわりと普通。結構な数を観ています。前にも書きましたが、探し方はオラクル。自分の内面を感じて、心が求めているのに合った内容を探します。ヒットするととても満足できます。

「THE GOOD LIE」という映画があまりに良くて、翌日もう一度観ました。良かったら予告編ご覧ください。

ロストボーイズってみなさんご存知でしょうか?83年からのスーダン内戦で孤児となった子供たちのことだそうです。この映画はその子たちの人生の話です。

ほとんど冒頭から涙が溢れて止まらなくなり、終始泣きながら観ました。翌日も朝から思い出し泣き。もちろん悲しいのですが、悲惨だからというのではなくて、あまりに美しくて、という感じです。

なんとこの映画、主演にハリウッドスター(リース・ウィザースプーン)を起用しているというのに日本のWikipediaページがありません。珍しい。それで詳しくは調べられなかったのですが、(私、映画一本観ると徹底的に背景や関係者について調べるのです)主役の4人はスーダン出身で、うち二人は元少年兵です。あとは元スーダン難民の女の子と、父親がスーダン難民だったという子。

彼らの笑顔や感情表現がもうほんとにかわいくて美しくてたまりません。彼らの一挙一動に、子供時代に見た風景や遊んだ背景、仲間とのやり取りなど、彼らのインナーチャイルドがにじみ出ているとしか見えません。

サバンナを踏みしめながら、牛とともに歩いたその歩き方がからだから溢れて見えます。これは、アメリカでマックを食べコークを飲んで幼少期を過ごした俳優からは絶対に見えないオーラだと思いました。

心が洗われるなんて言葉、ありふれていて使ったことがなかったけれど、こういうことか、と思ってしまいました。おススメします。

どんな自分を生きたいか

ヒプノセラピー(催眠療法)をやっていると、いろいろな方のお腹の中の記憶に触れることができます。こんな体験が日常だなんて貴重すぎる、という気持ちです。物言わぬ胎児の心の声ですからね。

私が見てきた多くの胎児は、お母さんとの関係、お父さんとの関係、という意識をすでに持っています。もちろん言葉では認識していませんが、「喜んでほしい」「がんばらなきゃ」「楽しみ」「もっと気持ちを向けて」などの感覚を、お母さんの声や心音、またお父さんとのやり取りの中で、テレパシー的に捉えています。

また、過去世の感覚的記憶が残っている場合も多く、「なんとなく(生きるのは)しんどいな」「出たくないな」「また(あんな思いをするの)か」などと感じている赤ちゃんもいます。

私が総じて重要だと感じるのは、その最初の関係性、つまり両親との関係の中で、すでに心の中に求めているものがあるということです。

生まれてきてからは呼吸を始め、おっぱいを飲み、苦しいとか暑い寒いおなかすいた、気持ちいい、もっと、など、からだの欲求を学ばなければなりませんが、それよりも前に、お母さんという存在に対して「愛してほしい」さらに「愛したい」という思いの片鱗を多くの人が持っているのです。

人間は最初のアイデアとして、そういう青写真を持っています。言ってみれば、人間は愛するために生まれてきている、ということの証なのだと思います。

さて、この世に生まれてからというもの、先程述べたように赤ちゃんは、肉体を生きることを懸命に学びます。そして最初のアイデアの優先順位は次第に下がっていきます。数年するかしないかで、集団という社会に飛び込み、外界から世界を学ぶことが日常になっていきます。

おとなになるにつれ、今度は自立という課題がやってきます。就職、経済、そして結婚、などと、愛で結ばれる関係すら対外的なリストに並んできます。それから人によっては子育てという重責がかかります。その頃には人は、社会からの評価というものと自分がすっかりひとつになっています。社会から、集団から見た自分が自分の価値だというふうに身に染みています。

そうなるとその自分がうまくいっている限りは、本当の自分に触れるチャンスはなかなかみつかりません。チャンスがきたところでそれはなるだけ迅速に「処理すべき問題」としか目に映らないでしょう。たいていのことは排除するか、スルーするか、何かしらの機関に依頼するかして対処します。

すると今度はいよいよ、既存のやり方ではどうしようもないようなかたちで、チャンスがやってきます。パートナーシップか子育てか、という愛のやり取りに面と向かって初めて我に返る方も多いかもしれません。それが、あなたを本当の目的、最初のアイデアに注目させてくれるはずです。

本当の自分とはなんだったのか。そもそも、なにがしたかったのか。なんのために生まれてきたのか。

内なる真の自己はいつもあなたにそう問いかけます。「あなたはだれ?」と。そして、その人生において、何を、誰を、真に愛しますか?と。

本当の自分を取り戻すことは恐らく、どんな人にも、誰にも必要なことです。私たちは自分が愛という意識だということをいったん忘れ、肉体としての自分を乗りこなすことに集中せざるを得ません。そしてそれが軌道に乗った頃にはすっかり最初の目的を忘れています。乗りこなせる自分に夢中なのです。

愛するものを今生で与えられながらも、それに深くは気づかずに人生を送っている人も大勢いると思います。人は愛についてこそ体験しなければ(実感しなければ)ならないのに、他の多くにあまりに気をとられます。

どのような人もすべて、最初は同じところからやってきました。種が違う?魂の故郷が違う?いいえ、そのもっともっとおおもとは、ただ一つの神だったのです。ただ一つの愛という意識です。

私たちが思い出すべき最も重要なことはその点にあると私は思っています。

あなたが選ぶ現実

この世の法則と高次元の法則。
この違いってわかりますか?

似たものは似たものを引き寄せる。(類は友)
与えたものが返ってくる。(ブーメラン)
カルマの法則。(因果)

これらはざっくりこの世の法則。物理宇宙の法則。
昔の人は「いいことをすれば自分に還ってくる」と教えました。

しかしもう少し内面を観ていくと
実は、自分が自分に与えた「想い」
つまり意識のエネルギー法則が働いているとわかります。

自分が自分を攻撃すると、外から攻撃される。
自分を敬うと周囲から敬われる。
自分が自分を愛すれば、愛される。

この法則は、例えば周囲に一生懸命なにかをしてあげたり、
良かれと思ってがんばったりしていても
自分の心が「嫌われたくないから」とか
「そうしないと良くないことが起こるから」とか
「相手にわからせたいから」
など消極的であったりコントロールしたい想いのエネルギーが潜んでいれば
愛よりも恐れとしてそれが発せられ
結果恐れをもとにした現実が返ってくる、という結果が来ます。

がんばっているのにいい結果、つまり幸せに結びつかないのです。
がんばるほどに、もっとがんばらなくてはならない結果がついてきます。

これもいわば物理法則です。

高次元の法則とは、それを凌駕したうえで超越しています。

愛とは与えるもの、などと言います。
愛とは無限、愛に優る法則はない。

物理次元の法則に生きている人が
もし無限に与えていたら、枯渇し失ます。

しかし高次元の法則、
つまり神と愛、無限の創造の法則に生き始めるとどうでしょう。

私たちは神という無限の源泉から湧き溢れる愛という光の
通り道になることができます。

愛は無限に増殖します。
私たちの源は、愛です。
しかし私たちがその源とつながるという選択をしなければ
私たちはさしあたりこの世界の物理法則に生きています。

レイキヒーリングでは「私たちはエネルギーのパイプになる」と言います。
それをからだでしっかりと体験すると
私たちは自分が無限の源泉、つまり神の愛とつながっていると
心身でわかり始めます。
最初から最後まで、癒しの極意はそれです。

私たちにはただ、体験が足りないのです。
物理法則ではなく、愛の法則の中で生きるという体験が。

無限とつながるということがどういう生活をすることなのか。
頭ではなく、心から、からだの底から、体験することが。

肉体がある限り、人間は無限でいることはできません。
無条件の愛だけでいることはできません。
無条件の愛は神の特権です。
しかしそれを、からだをもって体験し実感すること、
今この瞬間それを知ることは、人間だけの特権です。
そこには必ず、圧倒的な夜明けのような感動があります。

私は無限の源泉の愛のパイプになる、という選択をしたその時だけ、
神の恩恵に与ることができます。

そして毎瞬のようにそれを選択することでしか
それを招き入れることはできません。

本当に毎瞬のように気づき、選択し、招き入れることがおそらく
完全な目覚めであり悟りです。
その時、本当に過去や未来、時間が無くなるのです。

そのようになるまでの間、
私たちは時間の中で生きます。
時間という訓練者が教えてくれます。
その限られた時間の中で
尊い選択ができるようになるように。

私と神はひとつであり、私は愛そのものです、という
真実へ還るまで。

心から惹かれるものが教えてくれる

『風の谷のナウシカ』みなさんご存知ですよね。

傷ついてボロボロの虫の子どもが風の谷に迷い込んできて谷が大騒ぎになっているとき(虫はすべてを腐敗させてしまう菌が生きる森で生きているからその菌を持ち込んでしまう)、ナウシカはその虫に

「だいじょうぶ、飛べるわ」と声をかけ、虫笛を鳴らし、メーヴェ(一人乗りの翼)で一緒に飛んで森まで誘導してあげるんです。

何度も繰り返し見ていますが、そこで自分の身体感覚としてあまりにボロボロの虫に声をかけようとするなら「かわいそうに、どうしてあげようもない」という気持ちが出てきそうになるんです。

でもナウシカには迷いがありません。
その子(虫)は飛んで森に帰るしか、幸せになる道がないからです。
その幸せが、風の谷にもそこに住む人間たちにも虫の世界の生き物にとっても、平和だからです。

私はナウシカのそういう意志に心を打たれます。がーーーーーん、というくらい。

そして、私はそういう人でありたいと心底から望んでいるんだな、と、とても思います。

自分の潜在意識(肉体感覚)は無理だと感じても、私の魂(ハイヤーセルフ)は、飛べるよ、それが幸せだよ、と私に告げるのです。
(ナウシカは多分、身体感覚で「だいじょうぶ」と感じているのだと思いますが…)

高次元て、具体的に言うと例えば、そういうことなんです。
そして、その意志に自分が従おうと決断するとき、神はその意志にちからを与えます。

大事なのは、自分の内側にある本当の意志に気づき、それを選ぶということです。

すべてが贈り物

先日のことですが、無事に結婚10周年を迎えました。特に派手なことはなにもせずささやかに過ごしましたが、しみじみ幸せだと感じました。

たまたま当日が休日と重なりましたので、主人に誘われあしびなーに必要な服を買いにいきまた。お目当てのものはみつからず、代わりにお互いにちょっとした普段着を買い、なぜか普段なら食べないエンダーでサンドイッチやバーガーのランチをしてあとは犬の散歩と家でのささやかなごはん。

今の生活は感謝ばかりです。ほとんどすべて、夫あっての生活です。

歩きながらふと「なにが贅沢って、○○(夫の呼び名)との時間をすごくたくさん与えられてるってことかなー」
と言うと、
「そんなふうに言ってもらえるなんてありがたいねぇ」と言われました。

え~、そんなふうに言ってもらえることこそありがたいよ。正直、もうちょっと返して、って言われたらどうしようと思ってたところだけど。と、思いました。

今の住まいは自力では外出不可能な環境で、坂に囲まれているので、犬の散歩すら徒歩だと厳しいくらいですが、おかげでなんでも夫婦一緒。私はそれが最高の贅沢と思っています。こっそり神さまに感謝していましたが、10年の記念にちょっと打ち明けてみました。

筋肉と意識

みなさんこんにちは。

最近ネットでたまたま、正しいスクワットのやり方というのを目にしたのですが、それがこれまでそうやったことなかった、というかたちだったのです。おしりを反らせて骨盤を前傾させて、足は肩幅、つま先は45度開く。そう、これはウェイトリフティングで見たことのあるかたち。

ためしにやってみたら、なーんだ、これまでで最高じゃん、という効果を感じました。劇団員だったころは、部屋にマドンナの腹筋写真を貼って筋トレしていた私です。筋肉は付きやすく、芝居の稽古に入るとおもしろいように変身していく体験があります。しかし、イメージ(目的、ビジョン)なしにやると、いびつに無駄についてしまって、決して美しくはなりません。ですから目的がないときは筋トレはしないようになりました。

仕事で歌っていたときは、歌に効く筋トレばかりしていました。歌っている人共通の体形の特徴も、使う意識、神経、それによって使われる筋肉で形作られるのだと思います。

メンタル面でも、筋肉があるほうが自信や前向きさを感じやすいというのを実証実験したりしていました。体を筋肉が正しく支えてくれていると、安心感が出ます。

内面の状態と姿勢というのも直結していて、例えば役を演じるときにその姿勢をとればそういう気持ちがわいてくるというように、人の意識はイメージとともに神経を通してからだにメッセージを与え、それが習慣となり形作られるのだと理解しています。

ここ数年は、「外面を忘れる」がテーマだったので、犬の散歩で坂を歩くのと、最低限のアーサナくらいしかしていませんでしたが、いつもと違う筋肉を刺激したことで脳の違う記憶や興味の部分が刺激されているわけね、と実感しています。

筋肉は年齢にかかわりなく使えば進化してくれるそうです。脳細胞も、最近の研究では死ぬまで新しく生まれることがわかっているそうですが、活性している部分とつながらないとそれは使われることがないそうです。

人生は蓄積ではなく、今というエネルギーなんですよね。

「感じる」ことをしないと人間は蓄積する人生をいつのまにか生きているものです。「思考」は足し算引き算という価値観を基準に働くからだと思います。思考から離れ、感じることにギアをシフトするとトンネルから、今というステージに戻って来ます。

そこでさらに、外にあるものを感じることから内側を感じることへ、もう一段階ギアを入れ直してみてください。そうすると、外側を作って見せている自分のフィルターがわかるようになっていきます。ステージの中心に立つ自分と、立っている自分を客席から見ることが同時にできるようになっていきます。

本当の自分の姿がそこに在ります。

人間ってほんとにすごいのよ

「RUACH AZUによるヒプノセラピストのための講座」を開催中です。

ベーシック講座なれど、これまでの経験からの発見、学び、気づきをなるべくお伝えしたいがゆえに、膨大な情報量となっています。全身全霊を傾けて受け取ってくださる受講者さんに、またこのような導きを成就させてくださった大いなるものに感謝ばかりです。

究極、煮詰めれば煮詰めるほど言いたくなるのは「人間ってほんとにすごいのよ」ということです。
私がどうしても伝えたいと思う動機はそこに在るのかもしれないなと思います。

まだまだみんなきっと、自分の中の壮大なエネルギーにびっくりできますよ。
人生の中で、生きてるうちに体験してほしい、みつけてほしい。
みつける旅を始めてほしい。内面の世界の旅を。
潜在意識の探索はもちろん自己を知るための宝庫だけど、それは神をみつけるための作業に他ならない。
その奥の本質、(超意識、宇宙意識)ってところまで、みんなが目を向けるようになったら、世界はあっという間に変わるだろう。

それでなくても、私が出会う人はすばらしい人ばかり。
だから、世界はよくなるに決まってる、としか思えない。
いろいろと良くないニュースが目に付くけれど、本当に世界を動かしているのは、意識のエネルギーのほうだから。

今日も自分を磨きます。
壮大なすべてを内包するエネルギーの一部として、「それ」とひとつであるものとして。

感謝とともに
AZU拝

完璧な今を生きる

みなさんこんにちは。
今日も、長年のおつきあいをいただいている方からいただいたご質問への返信を掲載させてください。

正直、上手に書けているとは思えませんし、もっと簡潔にわかりやすい書き方がたくさんあると思っていますが、今の自分なりに精いっぱい、ある意味必死(笑)に書かせていただきました。

いただいたご質問は、「どんな状態でも完璧」と言われる概念についてです。難しいですよね!

以下、私からのご返信です。気がついたところを少し加筆させていただいています。

「どんな状態でも完璧」という概念は、何を、どの視点(次元)から観るかによって全く意味が違います。

まずどこからみても完璧なのは神だけです。

「状態」というのは移り変わるものなので、そもそも完璧ではありません。例えば「正しさ」というものも、状況によって変わるのであれば本当の正しさではありません。つまり本当に正しいものというのは真理だけですよね。

生きるということは変化するということです。この世界での真実は変化するということだけだと思います。

変化とは今の状態から次の状態へ移るだけなので、本質的な変化というものは確かに、本当は無いとも言えます。

そういう意味では、私たちは神という永遠無限の真理の中で、ただ移り変わるかに見えるものを体験しているに過ぎません。

それはある言い方で言えば、そのままで完璧です。でもそのことを、どんな状態であろうとそのままでいい、というふうには言えませんよね。

「どのような状態も完璧」の意味の一つは、今その状態であることが今のあるがままであって、それ以上も以下もない、ということではないでしょうか。完璧にそれでしかないのです。そして変化というのは、今の完璧な状態から次の完璧へと移り変わるだけ、という意味です。

私が(以前にお話した)他者(セッションであればクライアントさん)の内に対して観る完全、というのは状態ではなく本質で、魂と内なる神のことです。この場合の完璧は、それ自体が本当の意味での全き愛です。全き愛とその人の「状態」との間の壁がどこにあって、その人が今どういう状態に「陥って」いるのかな、という観方をします。

魂と神に対して開いていない状態はすべて陥っている状態です。そしてすべての人は、みな等しくどこか陥っています。陥っていなければそれはすでに完全に神と一体ですよね。

私が相手の方に見る魂や神は、自分の中に観るのと同じ程度にしか見えません。ですから私は、自分の中に日々神を観ることを求めます。

ご質問に対しての端的な答えとしては、自分の中の神をみつけることがすなわち、世界の完全さと出会うことになります。神をみつけるには、深い瞑想が必然となります。それ自体が答えです。

セッションでは私は自分の分と、相手の方の分を両方、神にお願いします。

まずはその壁を互いがはっきりと観ることができますように、そしてそれが本当に必要なのか、必要がないものなのか、明らかに気づけるようお導きください、そして、不要なものであれば、それを手放せますように、さらにその壁や鎧の代わりにあなたが護ってくださいますように、というふうに。

陥ったところには必ず影である闇と無知があり、それを維持するための恐れがあります。私たちはそれらから、自由になる努力が必要です。それが、内に神を宿す私たちの必然であり使命だと思うからです。そうしなければ、愛を生きたことにはならないと思うからです。

その努力にあたって人が変化する時、今の状態を受け入れることができないままに次に移行しようとしても、その人の世界では、不完全さから次の不完全さへ移行するだけになってしまいます。物理次元を主体に観ているとみなそれをやっています。

意識(スピリット)が主体の世界での法則はこうです。

今があるがままの100%であることを認めると、次の、別の100%へ移行できるようになります。つまり、変化の中にいて、常に新しい完全な自己へと移行できるようになります。

その時に人は初めてあるがままに、今にいる、ということがわかるようになります。完璧な今にあって初めてこれまでのすべてが完全であったと悟るのです。

つまり、「どんな状態でも完璧」というのは、今という完全さに目覚めた瞬間の中にだけ存在することなのであり、この世、幻想世界での現象を示してはいない言葉だと思います。つまり、神をみつけたときにだけ在り得るのだと。

自己に取り組むワークというのは、今を完全に認めることに他なりません。その作業があって、私たちは次への変化を進むことができます。それらの工程は自分の枠の中にある自己意識だけでは不可能なのです。必ず、それ以上の意識、つまり超意識以上の、魂、神という意識が伴ってこそ可能になります。それで初めて、不完全から不完全への移行という幻想を退け、完全から完全への移行が可能になるのです。

魂の連帯に、今日も感謝いたします。
AZU拝