愛のレッスン

アダルトチャイルドは、機能不全家族に育ったため、自我が育ち切っていない人のことを指す。
以前にも書いたが、私は、早く大人になりすぎたこどものことだと思っている。

子供の未熟さを存分に謳歌せず、役割を生きることに早くから身を置いてしまう。
役割を生きるとは、自分自身を生きずに他者(多くはお母さんの分身を、お母さんの気に入る子供を、もしくはお母さんを支える理想のお父さんの役)を生きることを無意識に選んでいること。
(これは反発したところで逃がれることはできない。心はもっとも抵抗しているものに波長を合わせてしまうから。)
自分を生きないので自分の価値観が育たない。
代わりに頭脳で控えめに自己を測る。

自己の感情や感覚を二の次に扱い、無意識に抑圧、封印している。
しかし、抵抗感や無力感、焦りや罪悪感などは慢性的に感じているため、本来の感情を感じていないことにも気づいていないことが多い。

価値基準を頭脳で測るため、いくら満たしても内面が満足しない。
周囲の評価で自分を測るため、周りを満たすことに消耗し、満足できない。
いつもそれらの価値基準で測るため、自他への批判が厳しい。
結果、行いが自信につながらない。・・・など、

自己肯定感と他者との境界線が希薄になる。
言葉でまとめてしまうと薄っぺらいが、これは人生の質を根幹から左右する。
本質的には、愛に渇きながら、愛を遠ざけてしまうことになるからだ。

すべてのこどもは(と言ってしまって過言でないと思うのだが)まずは両親をこの世の神と位置づけする。

生き物として神から得たいもの、それはまず「安心と安全」だ。
しかしアダルトチャイルドは、この世で早くに安全神話の崩壊を体験する。
それによって自己の核となるものを危うくする。
その核とは「私は、これでOK」という領域だ。自己承認のちからだ。

勉強も、友達付き合いも、遊びもスポーツも、先生の評価も、すべての人から見られる目もほどほどでOK、とは決してならない。
いつも完璧でないと安心できない。
非があることに耐えられないのだ。

それは理想が高いこととは違う。
ただ、非があると、攻撃を受けてしまうからこわいのだ。
誰が攻撃するのか、それは自分の思考がする。
なんとか自力で安心と安全を勝ち取ろうとする尋常ならぬ努力の結果、自分の落ち度から目が離せないのだ。

攻撃を受けないために、チャイルドは努力する。
勉強も付き合いも遊びもスポーツもすべての人の評価にも応えようとする。
そうやって自分の周囲に鉄壁を築くのだが、壁の内側は満たされることがない。
そうしているうちに、自分がやりたいことがわからない、あるいは何もないことに気づく。

本当は愛に満たされたいだけなのに、その鉄壁が愛をも寄せ付けなくさせる。

もっともこれらは、なんとか社会の中でOKでいようとがんばっているアダルトチャイルドの話であって、核を持たないチャイルドは社会からドロップアウトしてしまうほうが自然なのかもしれない。
例えば犯罪とか、病気とか、極度の依存によって自己破壊してしまうとか。

おとなたちは言うかもしれない。
「それ、こどものころのことでしょう?大人になれば自分のことは自分で選べるんだから」

しかし実際は、人間の行動を決める心の基礎は幼少期にほとんどが形成され、通常13才以降はほとんど成長しないと言われる。
つまり、自分のことを自分で選んでいると自覚しているおとなも実際は、幼少期の刷り込みの反応からただ反射的に選択しているに過ぎないことになる。
その選択に不自由がないのは、たまたま(運命的に)幼少期の環境に恵まれていたに過ぎないとさえ言えるのだ。

しかしこの核の脆弱さにも強みがある。
核はこの世のかりそめの神ではなく、本物の神とともに自ら構築するのだ。それが本来の道理だ。
いったん決意したチャイルドは後戻りを良しとしない。
なぜなら未知の恐れを選ぶことのほうが、無知の暗黒にいるよりずっと幸せだということを知っているから。

アダルトチャイルド如何にかかわらず、すべての人が自己意識を見直すことで幸せになれる。
それは愛と真実のレッスンそのものだから。

HSP~論文なみに長いです。ご注意ください(笑)

「敏感な人には、ものよりこころです」
昨日のセッション中、私の口を突いて出た言葉です。

これは私が長い自分とのつきあいの中で見いだした、体験に基づく教訓です。もちろん当初それは、自分の個人的な尺度でしかありませんでした。

実は、クライアントさんからある日、HSPについて教えていただき、ある時からその概念を視野に入れて自身や家族、クライアントさんと向き合ってみると、驚異的に普遍化と理解と統合が進むようになりました。

実は前回の勉強会でも、この概念を含めた意識の仕組みのお話をしました。

HSPは highly sensitive person つまり、とっても敏感な人々。
まんまじゃーん、という感じがしますね(笑)。
人間全体の15~20%を占める人がこれにあたるそうです。

このことについては、これまでの探求を紐づけしたいという思いと、紐づけするときりがないほど膨大な考察になる・・・との思いで、なかなかブログデビューさせてあげられませんでした。

そもそも、生きにくいというのはどういうことなのでしょう。
私は自分のことを「生きにくさの権化」のように認識しつきあってきました。

生きにくさは苦痛を伴います。私が自分が生きることへの苦痛を認知したの中学生の時です。それは単に年頃、のことではありません。当時すでに、家庭内は私にとって火宅そのもので、そこで生きていくことに限界を感じていました。義務教育が終わったら、私は自分の人生を築くんだ、そうしなければと意気込んでいました。なんの術も持たないまま。

そして高1でファミレスのバイトを始めましたが、その時の苦しさにノックアウトされてしまいます。自分の神経が異常に緊張していて、ミスをしないことに精いっぱい、しかも回避が不可能でした。家に帰ってからも、頭の中でぐるぐると、張り詰めた記憶が廻り、目を閉じると仕事場のバタバタがよみがえり、あれ?もしかして失敗したかも、と飛び上がるほどびっくりして眠っても目が覚めてしまいます。

疲れて仕方ありませんでした。実際はその時、中学からの仲良しの友人と一緒に働いていて、私たちは多分いつも笑顔でかわいくて、しっかりしていて、優秀でした。実際に店長からはとても気に入られていて、厳しくはあっても怒られても嫌われてもいませんでした。

友人はとても健全で、リラックスして楽しんでいるように見えました。自分はピリピリして必死で張り詰めて、ぐったりの繰り返しでした。

自分はもしかしたら、不適合者なのではないか、とその時初めて思いました。普通のお仕事を普通にこなせなない、普通に時間を過ごせない、と感じた、初めての体験でした。

この時の感覚は消えることはなく、悪化していきました。鬱を通り越して絶望の淵に行くのはあっという間でした。高校生でからだもボロボロになりました。動悸、息切れは絶えず、電車に乗るのも道を歩いても視線が刺さるように怖いと感じ、眠れず、起きられず、不快さは絶えず消えず、体重は増加し、食べては吐き、ニキビだらけで、自分が自分ではないようで、誰とも触れ合いたくなく、消えてしまいたい思いでしたし、もちろん誰も助けてくれませんでした。

結局私は大学へ行かせてもらいました。受かったのは奇跡だと今も思います。あれは救いでした。しかしそれでも、自立への焦りと不安は大変なものでした。

その後も私の抑うつや過敏や恐れはどんどん増していきました。
その頃には弟が統合失調症を発症し、やがて問題を起こして一般社会からドロップアウトしました。自分もそうなるのでは、という呪いに恐れおののいていました。

とにかく自立の道から落っこちたら人生がおしまいになる、と、戦っていました。
よく周囲から「生き急いでるよね」とか「戦っているよね」と言われましたが、何言ってるの?辞めたら終わりでしょ、としか思えませんでした。そして、どうしてみんなそうでなく息をしていられるか不思議でした。

社会には、心の問題を扱う概念がほとんどありませんでした。心の不具合は精神病であり、薬物と電気ショックと隔離が対処法。救いを求めるのは病院か宗教か自己啓発、というような行き先でした。唯一、芸術、というのが私にとっては希望の光でした。いびつさを魅力に変え、敏感さを才能として開花させれば生き残れるのでは、というような感じです。父がそうだったように。

私も、多分社会も、硬直しきっていました。

芸術方面で知り合った友人から、スピリチュアル、という概念が届きました。女優のシャーリー・マックレーンの本が世界でベストセラーになった頃です。でも私にとってそれは現実的ではありませんでした。見えないふわふわしたものに頼るなんて論外で、それは文学や芸術作品の一部のように感じられていたと思います。しかし、自分を再認識し、育てなおす必要性は充分に感じていました。なにしろまず、健康にならなくてはなにもできません。

心の問題を探るとき、まず手がかりになったのは「アダルトチルドレン」でした。
少なくても間違いなく自分はそこに当てはまることができ、世界で独りぼっちではないということは理解きました。

しかし、アダルトチルドレンの回復のプロセスはまた、非常にそそらないイメージでした。当時は権威の匂いがするところと関わりたくありませんでしたし、グループで体験をシェアするみたいなイメージも苦手でした。また先が見えている感じがして、希望もわきませんでした。

私は父の精神的な病気のため、子供の頃精神病院へつき添ったりしていて、父の状態や家族をほとんど理解できない病院に対して非常に不信感を持っていました。また私の体調や心の不具合を誰も見抜けませんでしたし、誤解も受けました。それ以上誤解されたり実験の対象にされたりするのはまっぴらでした。それ以前に、のほほんと自分の治癒に時間を費やすなんて論外でした。なにより、大学を中退し家出同然に家を出た私は貧困でした。自立を確保すること、また、家族の問題の嵐に圧倒され巻き込まれないこと、生きていること自体をいやにならないこと、それだけで、いっぱいいっぱいという感じです。

ただ、アダルトチルドレンの原因と、不幸のスパイラルを繰り返すという特性を持つという事実と、そのからくりは非常に納得でき、自分がまさにそこにどっぷりはまっていることは重々理解できました。当時は原因を探ってはさらに絶望、というところに居ました。

こののちに、アダルトチルドレンのトラウマ、認識の歪み、知覚の過敏、愛情の欠如による心の不安定などに有効な改善法に出会い、それがヒプノセラピーの退行療法、インナーチャイルドワークであったわけです。出会うまでには更に長い月日が経っていました。それまではひたすら意識の法則を学び、こつこつと意識的に自分と向き合うという実生活での実践が続きました。もちろん祈りもしましたが、神さまは遠いどこかにいて、多分そちらからこっちは見えていないだろう。見えたらこんなひどい状態で放っておくわけがないと感じていました。

長くなって恐縮ですが、話を戻します。最近になりHSPの概念を組み入れたところで、この敏感さというのが、ことさらにトラウマのひずみを非常に強く根深く自身の心(潜在意識)に刻み込んでしまうということに気づきました。つまりさほど強烈な体験でなくても、些細なことから大きな傷にしてしまうのと、さらに影響が薄れないで長く引くという傾向です。

この発見は納得でした。自分にはまさに当てはまりますし、長いインナーチャイルドワークの臨床から、クライアントさんの多くが「それほど過酷でない環境で育ったにもかかわらず、深い傷を受けている」という実例を数多く見てきました。というよりほとんど、幸せな家庭で育ったにもかかわらず、です。

彼らは「自分より不幸に、厳しい中で育った人はたくさんいるというのに、生きづらさを感じてしまうなんて、これは自分が怠けているからか能力が足りないか、もしくは性格に問題があるのだ」と認識しているのです。これは実は私にも充分に覚えがあります。

幼少の時から私の母はなにかにつけて、「もっと不幸な人はいくらでもいる。文句を言うな」という論調でした。私の弟は生まれつき顔と全身を濃いあざで覆われていて、見た目にぎょっとするくらい目立つのですが、母はよく、「知恵遅れよりうんとまし」というようなことを言いました。そうやって自分を鼓舞していたのだとはとても理解はできますが、子供の私はそういう対比そのものを残酷で差別的だと感じました。

また弟以外の私や妹に対しては、弟以上の問題を持つことは決して許されませんでした。妹はこれも生まれつきひどいアトピーであったり、おできやトビヒや喘息、ひどい車酔いで大変でしたが、私の知る限り弟以上の扱いは決して受けませんでした。ですから私など論外です。ちゃんと立派に産んだのに問題を持つなんて、という婉曲の圧力をよく受けました。

母の名誉のため申し上げておけば、母は戦争で父親を亡くし、戦後満州から引き揚げるまでに1年以上も、母親と幼いきょうだい3人で逃げ歩きながら暮らしていたという体験を持ちます。追われて高い塀を乗り越えて逃げまわったり、ソ連兵が来て母親は屋根裏に隠れて子供たちだけホールドアップしたり、日本へ戻ると家屋敷を取り上げられたらいまわしにされ、弟のために進学をあきらめ就職し、就職では父親がいないと差別されたりと、さんざんな成長期を送っています。

ちょっと傷ついたくらい、それがなんなの?という価値観を持つ理由は山のようにあります。彼女こそが非常に感受性の強い、無意識のトラウマを持つアダルトチャイルドでしたが信じられないほど強い信念の持ち主です。

それに引き替え私は、過酷な環境であるとは認識しながらも、ちゃんと食べられ、ものも与えられ、教育も受けさせてもらえ、父親は精神不安定ではあっても仕事である程度成功し有名人のはしくれでもありました。なのに私は根性なしで忍耐力、持続性に欠け、傷つきやすく虚弱でした。

父への恨みを母からさんざん聞かされた上に、私の苦しみはいつもいとも簡単に抹殺されました。お聞き苦しいと思いますのでこれ以上は控えます、というくらいそれはひどいことがたくさんありました。そして私は苦しみながらも、「自分には苦しむ資格さえない」というその考えを受け入れてもいました。自分より苦しい人はたくさんいるのに、と。

それがどれほど自分への愛と信頼を失うことになるのか。自己評価を失い、尊厳を侵され、生きる意欲すら削いでしまうことになるのか。あたりまえのことですが、問題なのは出来事や条件ではなく、「それをどう感じ、認識し、受け止め、そして何を学ぶか」です。

HSPへの認識によって、個々の自由がさらに尊重されると同時に本当の自分を取り戻し生きることが社会の中で重要視され普遍化されるようになることを願います。

またこの敏感さと別に、共感力、というのも非常に重要な概念です。これについてはたびたびブログでも触れましたが、共感力だけでその普遍性を説明できないことも多々ありました。

共感力は、たとえば、他人の感情や痛みを自分のもののように察知し、時にはそれを実際に自己に起こったように感知してしまうという能力ですが、知覚が敏感な人でも共感力は比較的、或いは極度に鈍感という人もいます。

共感力の強い人から見ると、自分の心情を説明なしにわかってくれない人は鈍感なのですが、そういう人も例えば音や光には非常に敏感で、絶えずそれに反応していて疲れている人もいます。そういう人は無意識であることが多くトラウマ自体を発見しにくいものです。ですが、実際は得体の知れない無力感を抱えています。自分の知らない自分が勝手に反応しているわけですから、自分を愛しにくいとも言えるでしょう。

どちらにしてもそれは他者との相互理解の溝となり、不快さや傷つくことを避けて、コミュニケーション不全へとつながっていく可能性が大です。

例えば今では発達障害など、様々な症例がありそれには名前がついています。器質的な損傷があるものもありますが、はっきりしないものも多数でしょう。それらを無理に個性なのよ、と思おうとしても、実際の不具合の不快さには勝てません。それは自己不信、他者への不信、誤解、愛と信頼の欠如、おそれ、無気力、生への放棄をはらみます。

実際には、全体的な理解と、具体的な自分取り扱いをマスターすることで、本来の自尊心と信頼の気持ちが回復します。人が健全に、尊厳を持って生きるのに絶対的に必要なのはそれです。それこそが、愛を持って生きる生き方なのだと私は理解しています。

私たち人間は、愛によって満たされるまでは常に欠如を抱え、また愛の欠乏によって傷と心の限界の壁、すなわち分離を作ります。傷と分離は、注意を向けられ手当されるまでは外側、他者から愛を補います。傷が深いと愛はダダ漏れになって、周囲から知らずに奪い続けるカルマを作ります。善意であれ悪意であれ関係なくそれは起こります。

私たちが自分の中の傷や分離に向き合い、他者から愛を奪うのをやめるとき、その源へつながることが必然になります。それが、私の言う、内なる神です。人には愛が必要というのは、誰にもうっすらと理解できると思いますが、神が必要と言うととたんに怪しまれます(笑)。

しかし神という無限の源泉とつながらない限り、その愛は制限付きの愛でもあります。癒しは神によってしかもたらされないというのが、この世の真実だと、やはり私は思います。

冒頭の命題とちゃんとつながったでしょうか。長文とおつきあい、まことにありがとうございました。

AZU拝

ゆめものがたりとしてお読みいただければ幸いです。


1日1クリックのみなさんの応援、身にしみております。ありがとうございます。

私には、内因性の二大精神病と言われる統合失調症と躁鬱病の家族がおります。内因性というのは、身体の中、外、器質、機能などの原因を調べていっても結局原因がわからないというようなことでそう呼ばれているそうです。

鬱病は昨今では心の風邪程度の扱いを受けるようになってきていますが、我が家の躁鬱病体験は壮絶です。この強大な病気に関して振り返ったり総括できるようになったのは最近のことです。総括と言っても病気は継続していますし、家族の闘病は続いています。

躁鬱病のほうは父のものです。統合失調症は弟のものです。二人とも病気は重度です。

父はこれだけではなく時には統合失調症や妄想性人格障害のような症状を併発し、その症状が頂点に達すると癲癇の発作のようなものを起こして倒れ数ヶ月にわたって意識をなくし、戻って来た時にはピーク時の記憶自体を失っている、というようなことを周期的に繰り返しています。

私はこのたった三行に満たない内容を理解し言語化するのに五十年近くの人生を要したように感じます。

この三行に整理できたのは、ごく最近のことです。父の病気の周期は神業のように私の人生に課題を与え続けています。この父の病気と、弟の病気は見事に関わりあっています。

私が今のような意識の探求をし続けてこられたのも、この二人の存在と病気なしにはあり得なかったことです。特に、弟の存在は大きいものでした。弟とは二歳違いで、とても仲がよく互いに信頼で結ばれた関係です。弟は顔と全身に青と赤のあざを持って生まれて来たこともあり、家族にとっては特別な存在でもあります。

私自身といえばこれは典型的なアダルトチャイルドです。アダルトチルドレンというのは、親が通常の役割を果たせずにその役割が持ち回りになって補った結果として来る、人格の成長のしわ寄せのようなものです。

私の場合は三人きょうだいの一番上であることもあり、父の代わりにいつもまっとうで正常で理論的で情緒が落ち着いている必要がありました。しかし特に情緒が落ち着いていなくてはならないという課題は非常に厳しいものです。私はアダルトチャイルドだからこその不可能に常に挑まなくてはならないというジレンマの中に成長しました。

私はアダルトチルドレンの症状に苦しみました。更に精神の病と常に隣り合わせである恐怖にさらされていました。自分がいつ、あちら側にまわるのか、その恐怖は強大でした。私は中学生の頃から精神病院に付き添いでついて行ったりしていましたので、お医者さんの言い分や理解についても目の当たりにしていました。そこでわかったのは、父については何も理解されていないということでした。父はしばしばお医者さんを騙しました。そして、取り乱している母や私のほうを異常者に仕立てることは簡単でした。父は能弁で頭がよく知識豊富でしかも、演技がとてもうまかったのです(笑)。私はその父に負けるわけにはいきませんでした。負けたら何もかも終わりだと思わざるを得ませんでした。まだ子供でしたし。

父は弟が生まれて以降、病気の症状に切れ目はほとんどありませんでした。子供の目から見て、父は過剰に興奮しているか、死人のように天井を見て物言わないかどちらかでした。興奮時には、過剰に情緒的になったかと思うと過剰に怒り出し過剰に暴れ暴言を吐き、それから突拍子のない奇行をしました。それから死人のように物言わないかと思うと自殺未遂をしたりもしました。学校から帰ると家中がガスの臭いで充満していてその中で父が寝ていたことが何度もありました。危険なので父の日記を母とこっそりチェックしました。運転中にどこかへ突っ込もうとしたなどということが、向精神薬のせいでへろへろになった文字でよく書かれていました。

とても厄介だったのは、この病状は本当のピークに達するまでは傍からは病気だとわからないことと、家族も周囲には隠さなければならないと思っていたことです。さらには、私が子供だった当時、父は結構売れている声優で、声優ブームのスターでもありました。そして父は、かなり悪化した病状のさなかでも、台本を持ってマイクの前に立ちさえすればかなりいい仕事をしました。倒れて意識を失うことさえなければスタジオへ通い仕事ができました。ピーク近くにはスタジオで倒れたことは何度かあったと思います。また宇宙戦艦ヤマトの映画のシリーズで一話、どうしてもできなくて代役ということがありました。スタジオでも暴言の影響は少なからずあり、一時は親密にお付き合いしていた方も必ずのちには仲違いをして、縁を切る、ということになりました。(父は縁を切るという言葉を多様し、それは私にも何度も向けられました。)それは極度に偏屈な芸術家のように(例えば絵に描こうとして自分の耳を切り落としたゴッホのように)も見えました。

何度か父について周囲に説明しようと試みましたがほとんどは私が笑われたり怒られたりして終わりました。父の周囲には似たような病気を持つ役者さんもいて、不幸中の幸いというのか、天才とキチガイの紙一重のようなところで父は社会的には一応成立していました。父は近年病状が落ち着いた時には「お父さんは紙一重だな」などといい声でニンマリしながら語るユーモアも持ち合わせた人です。

しかし躁病という病気は、いったん気が大きくなると散財を招きます。途方も無い、無理な計画を立てて実行に移し、また目的達成のためなら手段を選びません。(この点は妄想性人格障害の症状に近いかもしれません。)私は声優の仕事をしていた時、先輩の役者さんから「秀生さんは飛ぶ鳥を落とす勢いで仕事をしていたからもう稼ぐ必要ないでしょう」と言われて驚いたことがあります。我が家の実情は火の車で、とうとう家まで手放すことになっていたからです。振り返れば躁になる度に散財して手元には借金しか残っていなかったのでした。

最初のうち、私たちはそれはお酒のせいだと思っていました。私が十歳の時父はお酒をやめました。それで悪夢は終わるのだと家族は信じていましたがそうはなりませんでした。それは家族が離散するまで加速し続けました。

弟は高校生になってから、朝起きられなくなりました。起きてもいつもテーブルに頭を突っ伏して泣いたりうめいたりしていました。傍から見ていてなぜそうなのか理解できませんでした。眠たくてぐずっているのかな、というふうにも見えました。母は弟を学校へ送り出さなくてはという一心でいつも怒鳴っていました。弟は苦しみの中からこれに応戦し、怒鳴り合いが毎朝の日課になっていました。当初はわからなかったのですが、これが統合失調症の初期の症状だったのではと思います。私はと言えばこの毎朝の日課に苦しんでいました。なぜ毎日こんなことを繰り返すのかと心底うんざりしていながらも、どうすればいいのかわかりませんでした。私自身、高校の後半は鬱状態と今で言う過食症で体調も非常に悪く、大学に行けたのも奇跡的で、その後の自分の人生を生き抜けるかどうかに必死でした。演劇というものだけが自分の人生における希望でした。生きてもいいという許可に見えるしるしはそこにしか見えませんでした。

私は大学を三年で中退し、その一年後、父がまた倒れて入院した間に逃げ出すように家を出ました。中退後の一年は、自分が狂わないこととの戦いでした。一度は高熱を出して、母の言葉にキレて、テーブルの上にあったカルピスの瓶を鷲掴みにし、テーブルにぶつけて割ったことがありました。なぜそんなことをしたかというとその時母から「あんたたちはどいつもこいつもキチガイだ。あの父親の子供だから」というようなことを言われたことが引き金です。生まれてこのかたずっと、母の味方をし、この頃には父を憎んでいましたから、突然父の仲間に入れられたのは屈辱でした。しかしこの頃は度々母の口からこのような言葉が出ていて、私も我慢の限界だったのです。私は叫びながら割れた瓶を握りしめていたので、母から救急車に乗せられました。パトカーでなくて救急車だったのが母の気持ちだったと思います。病院ではもちろんすることはなくすぐに帰されました。

父の病状に切れ目があったとしても、それを見分けることは私たちには不可能でした。うっかり心を許したりすれば何倍にも酷い仕打ちをされます。さらに母の右腕である私にしてみれば、母を苦しめている原因を許すことなどもってのほかでした。私が高校生の頃には父はキチガイなばかりか人でなしの悪魔だという位置づけになっていました。ですからその悪魔に気を許して傷つけられるようなことがあればそれは自分の落ち度だというふうにも感じていました。ですから正気の父をみつけようなどという発想そのものもありませんでした。ひたすらに敵を憎むことを心に命じていたわけです。

家を出たからといって家族の問題から逃れることはできませんでした。家族の問題というのはほぼイコール心の問題でもあるからです。私の自己不信の症状は悪化しました。貧困も酷いものでした。自分には生きていっていい要素がなにもないと心底思っていましたし、心の苦しみから逃れられる瞬間というのはほぼ全くなかったと思います。おもしろいことにこのような時期には安らぎとか平安というものを求めることにすら興味がありませんでした。そんななまやさしいもので自分の人生がどうにかなるとはまったくもって思えませんでした。なにか衝撃的な出来事をもってしかこの歴史にとどめを刺すことはできないとしか感じることができませんでした。例えば私が社会的絶対的地位を得るだとか、家族の誰かが事件を起こして死ぬとか、そういったことです。電話のベルがなると、誰かが死んだのではないか、と、いつもドキドキしました。二十代の終わりの頃までがそんな感じでした。

精神病者が家族にいるということはものすごい威力を持ちます。からだの病気や他にもいろいろな苦しみというものがこの世にありますが、精神病というのは人格というこの世における暫定的な安全の領域を破壊し、その周囲の人の価値観や世界観をも破壊します。精神病者の家族(子供)はそれを意識的に再構築する必要を迫られます。子供の頃に自然に築かれた領域があまりに偏ってしまうためです。しかしそのことに気づきまた体系的にそのケアをするというシステムはまったくもって確立されていません。病気の症状が人格的な特質とかぶるため、近親者はその症状と人格の区別がつかず、彼らとコミュニケーションをとることが非常に難しく、そこから信頼関係を築くことが困難です。

もしこれらの精神病というものが百万や一千万人に一人のような病であれば、私の体験は一般的にあまり役立つものではないでしょう。しかし実際の発病率は統合失調症で百人に一人、躁鬱病で百人に三~四人と言われています。これは、私の感触からはほど遠い数字に感じますがきっと根拠のある数字なのでしょう。だとすれば、私のように患者さんの家族であったり、または影響を受ける親類であったりする人は人口の二割くらいに達する可能性があるのではないでしょうか。私は最近この考えに至った時驚愕しました。私が体験してきたことは実は私が感じてきたほどマイノリティの世界ではないのかもしれないと気づきました。そして自分がもっと積極的に明らかにすべきことを抱えていることを感じました。

こういった病気を持つ人の家族は、一度ならずきっと、この人さえいなければ、と考えるのではないでしょうか。或いは自分が縁を切ってここから離れようと試みるか。私も両方体験しました。そしてそのことを真剣にやってみるとわかるのですが、それは不可能なことなのです。精神的にも社会的にも、私たちは絶対に逃げ切ることはできません。最終的には生命を断つことでそこから永遠に逃げ切ろうという考えにも至ります。それを実行なさる人も多いでしょう。これは病気の本人にも多く見られるやり方です。しかしこの方法も、魂という考えに至れば成功はしないということがわかります。

にも関わらず、社会の中にその救済のシステムは存在(機能)していません。原因不明の病気とされており、家族を精神的に追い詰め、生活は困窮し、実際母と私は重度な鬱病を経験し、妹は身体のあちこちに不調を持っています。それ以前に、人格を破壊されてしまうほどの脅威なのです。私たち家族はその脅威の中を奇跡的に前進して来たと感じています。これは、私たちの家族の愛と、愛に対してあきらめない姿勢なしにはありえなかったことだと思います。

この病気を持つ人とその家族が癒やされることと、この世界が大きく変わることは直結しているのでは、と、私はその驚愕の中で気づいたのです。発病とされていない中にも、人間同士の相容れない障壁の原因の大きな一つにこの病は在るのではないかという考えが浮かびました。

つまりは人間の意識の働きというのは電気信号です。この電気信号はとても微細な何かに反応し、何かに影響を受け、そして結果として作動します。完全な正常もなければ完全な異常もありません。ただ、現象としてそれは起こります。

私の中で最近ではこの病理の仕組みのようなものがおぼろげながら掴めてきています。意識の仕組みの中でもなかなか手をつけるのが難しかったこの領域に、私なりの感触が掴めてきました。これについては証明しようとかいうつもりはありません。でも、私自身が理解することができれば、対処の仕方や受け入れ方、またコミュニケーションの仕方、家族としての自分自身へのケアの仕方はわかります。癒しという点で言えば、どう癒やせばいいかわかります。この病気のカルマの仕組みが見えれば、浄化は易しくなるはずです。

実際ここのところの家族二人の病状は以前の暗闇の状態からは非常に良くなっています。あらゆる面でそれは明るみにあります。そして受け止める家族も進化し続けています。私の実感としてはこれは家族の愛と祈り、神の愛と癒しによる結果です。愛だけが癒やすことができるという何よりの証です。何よりも、私が父を愛しているということ、何があってもそれは変わらないということがわかっているということが奇跡です。

私は常日頃、この世で苦しむ人は幸いだと思っています。苦しむ人は幸福を求め、求める人にはもたらされます。本気で幸せを求める人は必ずそれをみつけることができます。なぜなら神という根源なる無限の意識が私たちに最も与えたいと指し示しているものがそれだからです。私は照らしてもらったように照らしたいと願います。受け取ってくださる方に少しでも丁寧に届けたいと願い、これからも顕していきたいと思います。できることならもっと積極的に、明確に。そのために神が私を使ってくださることを祈っています。