自己肯定感、あります。

からだだけが自分じゃない。そう自覚している人はきっとたくさんいるだろう。心が大事。そう思っている人もきっとたくさんいる。

思うようにならない自分と格闘して葛藤して、潜在意識≒インナーチャイルドを探求している人も、今はたくさんいる。情報もたくさんある。

そしてこんなことも起こる。自分の過去に作った傷がたくさんみつかった。原因もわかった。一生懸命修復に取り組んでいるけどなかなか変われない。やっぱり自分には無理なんだろうか。がんばってもがんばっても追いつかない。

愛にあふれた人ほど、自分の内側の傷を見て、それに圧倒されてまた傷ついてしまう。思慮深い人ほど傷を負った自分自身にさらに問題を感じてしまう。

私自身、おとなになってみて何一つ思うようにならなくて自分を振り返り始めて数年、いや10年、いやもっとそれ以上長く、そんな思いの中にいた。

掘り起こせば起こすほど、自分の未熟さ至らなさに直面して自分を責めてしまう。そんな中で情報に照らして自分を分析し評価するとしたら「自己肯定感(自己評価)が低い」んです!みなさんそうおっしゃる。そしてその低さを作った原因がわかれば、それを修復できれば、誰かを許せれば、変われるかもしれない、そんなふうに感じている。

私も本当に長い時間かけてその答えを探しさ迷ってきた。私のその体験と時間をできたらみなさんに捧げたい。もし受け取ってもらえるならば。私の経験が、あなたの時間を短縮すること、そしてあなたがさらにその先を体験すること、それが魂の仲間の共通の目的だ。

身体だけじゃない、外側じゃない、中身が大事。中身が本当の自分だというところまで真実を突き止めたみなさんは、潜在意識こそが自分の真実だと思ってるかもしれない。或いは潜在意識こそが自分の宝もの、或いは自分の真の導き手、或いは神さまのような存在だと捉えているかもしれない。でもそれは、違う。

潜在意識は体験の記録の集大成のこと。からだという特定の反応をする方程式がつまった箱に何かを放り込んで出てきたもの、それをしまっておく場所のこと。いわば肉体のデータバンクだ。

データをいじって修正する権限を持つのはそれ以上の知能を持ったものに限られる。データがデータを改善することはできない。或いはデータの箱がデータを改善することはできない。権限を持つのはあなた。それを教え導くのが魂、ハイヤーセルフ、そしてその中核である全き神である。

私たちはこのデータをまとっている。このまとったものを自分自身と勘違いしている。傷だらけでみすぼらしい、くたびれたその姿に更に傷つき、それでも立ち上がって今度は修繕を始めようとしている。これは一人ではとても無理だと悟ったから手伝ってほしいと私に申し出てくれる。

いろいろなヒーラーやセラピスト、カウンセラーがいて、あなたを手伝うと言う。すごく長い時間をかけてその修繕を一緒にやったり(やってもいい。でもそれは目的ではない)、もっといいハウツーがありまっせ、と提案したりしている。どうです、私、立派でしょ、きれいでしょ、あなたもこんなふうになれますよ。それが宣伝文句。

でも私に言えるのは「それ、ただの服なんですよ」ということ。潜在意識、インナーチャイルド、あなたが自分あるいは自分の本質だと思っているそれは、データが編み込まれた、服なんですよ。

最近のセッションでのこと。その人の魂の光、愛の炎があまりに燃え盛っていて、その愛の炎でその人のまとったぼろぼろの服は既にほとんど燃え尽きているかに見えた。魂そのものが光を放ち、自らがまとっていたかりそめの古い衣が燃え堕ちようとしているさなかにまだ、その服をなんとか修繕しなければと真摯に訴えていた。あまりにまっすぐにそこに居てくださったから、私もまっすぐに伝えることができた。

「その古い服、脱いでください」

その方はしばらく目を見開いて、というか肉体の目をぎゅっと閉じて、心の眼を見開いてじっとしておられ、それからまっすぐにこちらを見て「そうか。そう観たことはなかった。確かにそうだ。魂はきれいなんだ。きれいなものなんだ。それが自分の心なんだ。」

その方は一瞬で悟られた。自分は魂なのだと。心の核は魂で、汚れた心と感じていたのは多くの体験を吸収し、くたびれた衣服だったと。服がどんなにズタボロでも、魂はそれに影響すらされることなく美しいままなのだと。私はその方のまとった焼け堕ちる寸前のその衣がばらばらと灰になり崩れ落ちるのを見た。そんな見事な再生に出会えたことが奇跡だと感じる。

しかしだったらなぜ潜在意識の探求などするのだろう。

それは、その衣の命を全うさせるためだと認識している。学びを完了させるとも言い換えられるが語弊もある。それは理屈や知識で得るものではない。感情の燃え残しに聖なる火を点火し燃焼させることだ。

人間は、五感を通して受け取った情報を感覚として感知し、そこから化学反応で感情の波を起こす。生長の道すがら、情報は確かに受け取ったけれど湧いてきた感覚や感情は感じ切らずに置いておいた。そんな体験が器に余る莫大なエネルギーを使わずに溜めている。鮮度が落ちたそれは、やがて器にこびりつき沈殿する。ものによっては腐敗する。

「感じ切ってください。」ヒプノセラピーでのあなたのミッションはこれにつきる。あとは、魂がやってくれる。

ごびりつきや沈殿物や腐敗物を燃焼したときあなたの内なる光は増し、その光があなたの内側と行く手を照らし始める。だからあなたは歩けばいい。光りの中で光とともに生きればいい。あなたのまま。一歩一歩。光りによって周囲は良く見え、自分の内にある光が周囲を照らす。それがあなたの価値だ。それに評価なんて必要だろうか。

そうやって光の器となって再生したあなたは、過去に着ていた服のことを思う。もし生まれてこのかたきれいな服ばかりを着ていたならどうだろう。あなたは違っていただろうか。

ボロボロの服からも、肌触りのいい服からも、そこに吸収された体験から抽出され中身(魂)にしみこんでいくのが愛であり、どちらの服もその愛を抽出し終えたときその任務を全うする。あなたはやがて手放す服を、あなたが学びやすいように選んできた。あなたの父、母、家族の設定、社会と国家、時代背景。

その服にありがとう、愛しているよ、さようなら、全うしたねと心から言える。それが自己肯定だ。そう言えるようあなたの気づきを促すのが潜在意識への取り組みでありそれはそのままあなたの魂、そして内なる神への回帰への道だ。

単にきれいな服を着ている他人を見て、あの人には自己肯定感があるとか幸せそうだと人は言う。でもその人の中身は本当に寄り添い向き合ってみないとわからないものだ。ボロボロであれきれいであれ、その服に執着している間の肯定や評価などまったくもって価値がないと今の私は思う。それは誤解であり錯覚なのだから。

ひさびさ、映画のはなし

映画鑑賞は沖縄へ来てから特に、夫婦共通の娯楽というか趣味。
DVDを車で往復1時間以上かけて借りに行き、家の壁にプロジェクターで映して観ます。

週に2本観るのはわりと普通。結構な数を観ています。前にも書きましたが、探し方はオラクル。自分の内面を感じて、心が求めているのに合った内容を探します。ヒットするととても満足できます。

「THE GOOD LIE」という映画があまりに良くて、翌日もう一度観ました。良かったら予告編ご覧ください。

ロストボーイズってみなさんご存知でしょうか?83年からのスーダン内戦で孤児となった子供たちのことだそうです。この映画はその子たちの人生の話です。

ほとんど冒頭から涙が溢れて止まらなくなり、終始泣きながら観ました。翌日も朝から思い出し泣き。もちろん悲しいのですが、悲惨だからというのではなくて、あまりに美しくて、という感じです。

なんとこの映画、主演にハリウッドスター(リース・ウィザースプーン)を起用しているというのに日本のWikipediaページがありません。珍しい。それで詳しくは調べられなかったのですが、(私、映画一本観ると徹底的に背景や関係者について調べるのです)主役の4人はスーダン出身で、うち二人は元少年兵です。あとは元スーダン難民の女の子と、父親がスーダン難民だったという子。

彼らの笑顔や感情表現がもうほんとにかわいくて美しくてたまりません。彼らの一挙一動に、子供時代に見た風景や遊んだ背景、仲間とのやり取りなど、彼らのインナーチャイルドがにじみ出ているとしか見えません。

サバンナを踏みしめながら、牛とともに歩いたその歩き方がからだから溢れて見えます。これは、アメリカでマックを食べコークを飲んで幼少期を過ごした俳優からは絶対に見えないオーラだと思いました。

心が洗われるなんて言葉、ありふれていて使ったことがなかったけれど、こういうことか、と思ってしまいました。おススメします。

どんな自分を生きたいか

ヒプノセラピー(催眠療法)をやっていると、いろいろな方のお腹の中の記憶に触れることができます。こんな体験が日常だなんて貴重すぎる、という気持ちです。物言わぬ胎児の心の声ですからね。

私が見てきた多くの胎児は、お母さんとの関係、お父さんとの関係、という意識をすでに持っています。もちろん言葉では認識していませんが、「喜んでほしい」「がんばらなきゃ」「楽しみ」「もっと気持ちを向けて」などの感覚を、お母さんの声や心音、またお父さんとのやり取りの中で、テレパシー的に捉えています。

また、過去世の感覚的記憶が残っている場合も多く、「なんとなく(生きるのは)しんどいな」「出たくないな」「また(あんな思いをするの)か」などと感じている赤ちゃんもいます。

私が総じて重要だと感じるのは、その最初の関係性、つまり両親との関係の中で、すでに心の中に求めているものがあるということです。

生まれてきてからは呼吸を始め、おっぱいを飲み、苦しいとか暑い寒いおなかすいた、気持ちいい、もっと、など、からだの欲求を学ばなければなりませんが、それよりも前に、お母さんという存在に対して「愛してほしい」さらに「愛したい」という思いの片鱗を多くの人が持っているのです。

人間は最初のアイデアとして、そういう青写真を持っています。言ってみれば、人間は愛するために生まれてきている、ということの証なのだと思います。

さて、この世に生まれてからというもの、先程述べたように赤ちゃんは、肉体を生きることを懸命に学びます。そして最初のアイデアの優先順位は次第に下がっていきます。数年するかしないかで、集団という社会に飛び込み、外界から世界を学ぶことが日常になっていきます。

おとなになるにつれ、今度は自立という課題がやってきます。就職、経済、そして結婚、などと、愛で結ばれる関係すら対外的なリストに並んできます。それから人によっては子育てという重責がかかります。その頃には人は、社会からの評価というものと自分がすっかりひとつになっています。社会から、集団から見た自分が自分の価値だというふうに身に染みています。

そうなるとその自分がうまくいっている限りは、本当の自分に触れるチャンスはなかなかみつかりません。チャンスがきたところでそれはなるだけ迅速に「処理すべき問題」としか目に映らないでしょう。たいていのことは排除するか、スルーするか、何かしらの機関に依頼するかして対処します。

すると今度はいよいよ、既存のやり方ではどうしようもないようなかたちで、チャンスがやってきます。パートナーシップか子育てか、という愛のやり取りに面と向かって初めて我に返る方も多いかもしれません。それが、あなたを本当の目的、最初のアイデアに注目させてくれるはずです。

本当の自分とはなんだったのか。そもそも、なにがしたかったのか。なんのために生まれてきたのか。

内なる真の自己はいつもあなたにそう問いかけます。「あなたはだれ?」と。そして、その人生において、何を、誰を、真に愛しますか?と。

本当の自分を取り戻すことは恐らく、どんな人にも、誰にも必要なことです。私たちは自分が愛という意識だということをいったん忘れ、肉体としての自分を乗りこなすことに集中せざるを得ません。そしてそれが軌道に乗った頃にはすっかり最初の目的を忘れています。乗りこなせる自分に夢中なのです。

愛するものを今生で与えられながらも、それに深くは気づかずに人生を送っている人も大勢いると思います。人は愛についてこそ体験しなければ(実感しなければ)ならないのに、他の多くにあまりに気をとられます。

どのような人もすべて、最初は同じところからやってきました。種が違う?魂の故郷が違う?いいえ、そのもっともっとおおもとは、ただ一つの神だったのです。ただ一つの愛という意識です。

私たちが思い出すべき最も重要なことはその点にあると私は思っています。

人間ってほんとにすごいのよ

「RUACH AZUによるヒプノセラピストのための講座」を開催中です。

ベーシック講座なれど、これまでの経験からの発見、学び、気づきをなるべくお伝えしたいがゆえに、膨大な情報量となっています。全身全霊を傾けて受け取ってくださる受講者さんに、またこのような導きを成就させてくださった大いなるものに感謝ばかりです。

究極、煮詰めれば煮詰めるほど言いたくなるのは「人間ってほんとにすごいのよ」ということです。
私がどうしても伝えたいと思う動機はそこに在るのかもしれないなと思います。

まだまだみんなきっと、自分の中の壮大なエネルギーにびっくりできますよ。
人生の中で、生きてるうちに体験してほしい、みつけてほしい。
みつける旅を始めてほしい。内面の世界の旅を。
潜在意識の探索はもちろん自己を知るための宝庫だけど、それは神をみつけるための作業に他ならない。
その奥の本質、(超意識、宇宙意識)ってところまで、みんなが目を向けるようになったら、世界はあっという間に変わるだろう。

それでなくても、私が出会う人はすばらしい人ばかり。
だから、世界はよくなるに決まってる、としか思えない。
いろいろと良くないニュースが目に付くけれど、本当に世界を動かしているのは、意識のエネルギーのほうだから。

今日も自分を磨きます。
壮大なすべてを内包するエネルギーの一部として、「それ」とひとつであるものとして。

感謝とともに
AZU拝

愛のレッスン

アダルトチャイルドは、機能不全家族に育ったため、自我が育ち切っていない人のことを指す。
以前にも書いたが、私は、早く大人になりすぎたこどものことだと思っている。

子供の未熟さを存分に謳歌せず、役割を生きることに早くから身を置いてしまう。
役割を生きるとは、自分自身を生きずに他者(多くはお母さんの分身を、お母さんの気に入る子供を、もしくはお母さんを支える理想のお父さんの役)を生きることを無意識に選んでいること。
(これは反発したところで逃がれることはできない。心はもっとも抵抗しているものに波長を合わせてしまうから。)
自分を生きないので自分の価値観が育たない。
代わりに頭脳で控えめに自己を測る。

自己の感情や感覚を二の次に扱い、無意識に抑圧、封印している。
しかし、抵抗感や無力感、焦りや罪悪感などは慢性的に感じているため、本来の感情を感じていないことにも気づいていないことが多い。

価値基準を頭脳で測るため、いくら満たしても内面が満足しない。
周囲の評価で自分を測るため、周りを満たすことに消耗し、満足できない。
いつもそれらの価値基準で測るため、自他への批判が厳しい。
結果、行いが自信につながらない。・・・など、

自己肯定感と他者との境界線が希薄になる。
言葉でまとめてしまうと薄っぺらいが、これは人生の質を根幹から左右する。
本質的には、愛に渇きながら、愛を遠ざけてしまうことになるからだ。

すべてのこどもは(と言ってしまって過言でないと思うのだが)まずは両親をこの世の神と位置づけする。

生き物として神から得たいもの、それはまず「安心と安全」だ。
しかしアダルトチャイルドは、この世で早くに安全神話の崩壊を体験する。
それによって自己の核となるものを危うくする。
その核とは「私は、これでOK」という領域だ。自己承認のちからだ。

勉強も、友達付き合いも、遊びもスポーツも、先生の評価も、すべての人から見られる目もほどほどでOK、とは決してならない。
いつも完璧でないと安心できない。
非があることに耐えられないのだ。

それは理想が高いこととは違う。
ただ、非があると、攻撃を受けてしまうからこわいのだ。
誰が攻撃するのか、それは自分の思考がする。
なんとか自力で安心と安全を勝ち取ろうとする尋常ならぬ努力の結果、自分の落ち度から目が離せないのだ。

攻撃を受けないために、チャイルドは努力する。
勉強も付き合いも遊びもスポーツもすべての人の評価にも応えようとする。
そうやって自分の周囲に鉄壁を築くのだが、壁の内側は満たされることがない。
そうしているうちに、自分がやりたいことがわからない、あるいは何もないことに気づく。

本当は愛に満たされたいだけなのに、その鉄壁が愛をも寄せ付けなくさせる。

もっともこれらは、なんとか社会の中でOKでいようとがんばっているアダルトチャイルドの話であって、核を持たないチャイルドは社会からドロップアウトしてしまうほうが自然なのかもしれない。
例えば犯罪とか、病気とか、極度の依存によって自己破壊してしまうとか。

おとなたちは言うかもしれない。
「それ、こどものころのことでしょう?大人になれば自分のことは自分で選べるんだから」

しかし実際は、人間の行動を決める心の基礎は幼少期にほとんどが形成され、通常13才以降はほとんど成長しないと言われる。
つまり、自分のことを自分で選んでいると自覚しているおとなも実際は、幼少期の刷り込みの反応からただ反射的に選択しているに過ぎないことになる。
その選択に不自由がないのは、たまたま(運命的に)幼少期の環境に恵まれていたに過ぎないとさえ言えるのだ。

しかしこの核の脆弱さにも強みがある。
核はこの世のかりそめの神ではなく、本物の神とともに自ら構築するのだ。それが本来の道理だ。
いったん決意したチャイルドは後戻りを良しとしない。
なぜなら未知の恐れを選ぶことのほうが、無知の暗黒にいるよりずっと幸せだということを知っているから。

アダルトチャイルド如何にかかわらず、すべての人が自己意識を見直すことで幸せになれる。
それは愛と真実のレッスンそのものだから。

心から思います。

こんにちは。ご訪問いただきありがとうございます。

私はヒプノセラピストのための講座を始めてから、まったくもって深い学びの日々。今は時間があると資料を作っています。とは言っても文字数の多いものではありません。主に意識の掘り起こし。受講してくださっている方々にも、同じように意識の掘り起こし作業をお願いしています。

そうしているとおもしろいもので、掘り起こしているテーマを持ってお客さまがいらしてくださる。この世が意識という大海でつながっている、ということをいつもいつも見せつけてくださいます。

本当に心の底から思うのは、自分と向き合い癒すというのは、世界を愛し癒すのとまったく同等な行為なのだということ。
世界を変えるためには、行いである前に、在ることなのだということ。
真に自己の統治者になるということは、真の統治者に自己を明け渡すのと同じことなのだということ。
私たちには、それを選ぶことが重要なのだということ。
選ぶためには自己を知らなくてはならないということ。

先日、勉強会での気づきをブログに書いてくださった竹美さん。

今度は個人のカウンセリングセッションを体験してくださり、さらにさらに細やかに率直に、気づきを書いてくださっています。

私への感謝をくださること以上に、細やかな気づきと、惜しみなくシェアしてくださっていることに心打たれ、また向き合ってくださる姿勢に勇気づけられ、思わずうるっとしてしまいました。

この場で改めて、感謝いたします。

きっとここにいらしてくださるみなさんに共感していただけるのではないでしょうか。また内なる探求の手がかりにもご参考にしていただけると思います。

竹美さんのブログ 『内側を感じる』
竹美さんありがとう!

みなさんにも真の自己を生きるための内なる導きがありますように。

HSP~論文なみに長いです。ご注意ください(笑)

「敏感な人には、ものよりこころです」
昨日のセッション中、私の口を突いて出た言葉です。

これは私が長い自分とのつきあいの中で見いだした、体験に基づく教訓です。もちろん当初それは、自分の個人的な尺度でしかありませんでした。

実は、クライアントさんからある日、HSPについて教えていただき、ある時からその概念を視野に入れて自身や家族、クライアントさんと向き合ってみると、驚異的に普遍化と理解と統合が進むようになりました。

実は前回の勉強会でも、この概念を含めた意識の仕組みのお話をしました。

HSPは highly sensitive person つまり、とっても敏感な人々。
まんまじゃーん、という感じがしますね(笑)。
人間全体の15~20%を占める人がこれにあたるそうです。

このことについては、これまでの探求を紐づけしたいという思いと、紐づけするときりがないほど膨大な考察になる・・・との思いで、なかなかブログデビューさせてあげられませんでした。

そもそも、生きにくいというのはどういうことなのでしょう。
私は自分のことを「生きにくさの権化」のように認識しつきあってきました。

生きにくさは苦痛を伴います。私が自分が生きることへの苦痛を認知したの中学生の時です。それは単に年頃、のことではありません。当時すでに、家庭内は私にとって火宅そのもので、そこで生きていくことに限界を感じていました。義務教育が終わったら、私は自分の人生を築くんだ、そうしなければと意気込んでいました。なんの術も持たないまま。

そして高1でファミレスのバイトを始めましたが、その時の苦しさにノックアウトされてしまいます。自分の神経が異常に緊張していて、ミスをしないことに精いっぱい、しかも回避が不可能でした。家に帰ってからも、頭の中でぐるぐると、張り詰めた記憶が廻り、目を閉じると仕事場のバタバタがよみがえり、あれ?もしかして失敗したかも、と飛び上がるほどびっくりして眠っても目が覚めてしまいます。

疲れて仕方ありませんでした。実際はその時、中学からの仲良しの友人と一緒に働いていて、私たちは多分いつも笑顔でかわいくて、しっかりしていて、優秀でした。実際に店長からはとても気に入られていて、厳しくはあっても怒られても嫌われてもいませんでした。

友人はとても健全で、リラックスして楽しんでいるように見えました。自分はピリピリして必死で張り詰めて、ぐったりの繰り返しでした。

自分はもしかしたら、不適合者なのではないか、とその時初めて思いました。普通のお仕事を普通にこなせなない、普通に時間を過ごせない、と感じた、初めての体験でした。

この時の感覚は消えることはなく、悪化していきました。鬱を通り越して絶望の淵に行くのはあっという間でした。高校生でからだもボロボロになりました。動悸、息切れは絶えず、電車に乗るのも道を歩いても視線が刺さるように怖いと感じ、眠れず、起きられず、不快さは絶えず消えず、体重は増加し、食べては吐き、ニキビだらけで、自分が自分ではないようで、誰とも触れ合いたくなく、消えてしまいたい思いでしたし、もちろん誰も助けてくれませんでした。

結局私は大学へ行かせてもらいました。受かったのは奇跡だと今も思います。あれは救いでした。しかしそれでも、自立への焦りと不安は大変なものでした。

その後も私の抑うつや過敏や恐れはどんどん増していきました。
その頃には弟が統合失調症を発症し、やがて問題を起こして一般社会からドロップアウトしました。自分もそうなるのでは、という呪いに恐れおののいていました。

とにかく自立の道から落っこちたら人生がおしまいになる、と、戦っていました。
よく周囲から「生き急いでるよね」とか「戦っているよね」と言われましたが、何言ってるの?辞めたら終わりでしょ、としか思えませんでした。そして、どうしてみんなそうでなく息をしていられるか不思議でした。

社会には、心の問題を扱う概念がほとんどありませんでした。心の不具合は精神病であり、薬物と電気ショックと隔離が対処法。救いを求めるのは病院か宗教か自己啓発、というような行き先でした。唯一、芸術、というのが私にとっては希望の光でした。いびつさを魅力に変え、敏感さを才能として開花させれば生き残れるのでは、というような感じです。父がそうだったように。

私も、多分社会も、硬直しきっていました。

芸術方面で知り合った友人から、スピリチュアル、という概念が届きました。女優のシャーリー・マックレーンの本が世界でベストセラーになった頃です。でも私にとってそれは現実的ではありませんでした。見えないふわふわしたものに頼るなんて論外で、それは文学や芸術作品の一部のように感じられていたと思います。しかし、自分を再認識し、育てなおす必要性は充分に感じていました。なにしろまず、健康にならなくてはなにもできません。

心の問題を探るとき、まず手がかりになったのは「アダルトチルドレン」でした。
少なくても間違いなく自分はそこに当てはまることができ、世界で独りぼっちではないということは理解きました。

しかし、アダルトチルドレンの回復のプロセスはまた、非常にそそらないイメージでした。当時は権威の匂いがするところと関わりたくありませんでしたし、グループで体験をシェアするみたいなイメージも苦手でした。また先が見えている感じがして、希望もわきませんでした。

私は父の精神的な病気のため、子供の頃精神病院へつき添ったりしていて、父の状態や家族をほとんど理解できない病院に対して非常に不信感を持っていました。また私の体調や心の不具合を誰も見抜けませんでしたし、誤解も受けました。それ以上誤解されたり実験の対象にされたりするのはまっぴらでした。それ以前に、のほほんと自分の治癒に時間を費やすなんて論外でした。なにより、大学を中退し家出同然に家を出た私は貧困でした。自立を確保すること、また、家族の問題の嵐に圧倒され巻き込まれないこと、生きていること自体をいやにならないこと、それだけで、いっぱいいっぱいという感じです。

ただ、アダルトチルドレンの原因と、不幸のスパイラルを繰り返すという特性を持つという事実と、そのからくりは非常に納得でき、自分がまさにそこにどっぷりはまっていることは重々理解できました。当時は原因を探ってはさらに絶望、というところに居ました。

こののちに、アダルトチルドレンのトラウマ、認識の歪み、知覚の過敏、愛情の欠如による心の不安定などに有効な改善法に出会い、それがヒプノセラピーの退行療法、インナーチャイルドワークであったわけです。出会うまでには更に長い月日が経っていました。それまではひたすら意識の法則を学び、こつこつと意識的に自分と向き合うという実生活での実践が続きました。もちろん祈りもしましたが、神さまは遠いどこかにいて、多分そちらからこっちは見えていないだろう。見えたらこんなひどい状態で放っておくわけがないと感じていました。

長くなって恐縮ですが、話を戻します。最近になりHSPの概念を組み入れたところで、この敏感さというのが、ことさらにトラウマのひずみを非常に強く根深く自身の心(潜在意識)に刻み込んでしまうということに気づきました。つまりさほど強烈な体験でなくても、些細なことから大きな傷にしてしまうのと、さらに影響が薄れないで長く引くという傾向です。

この発見は納得でした。自分にはまさに当てはまりますし、長いインナーチャイルドワークの臨床から、クライアントさんの多くが「それほど過酷でない環境で育ったにもかかわらず、深い傷を受けている」という実例を数多く見てきました。というよりほとんど、幸せな家庭で育ったにもかかわらず、です。

彼らは「自分より不幸に、厳しい中で育った人はたくさんいるというのに、生きづらさを感じてしまうなんて、これは自分が怠けているからか能力が足りないか、もしくは性格に問題があるのだ」と認識しているのです。これは実は私にも充分に覚えがあります。

幼少の時から私の母はなにかにつけて、「もっと不幸な人はいくらでもいる。文句を言うな」という論調でした。私の弟は生まれつき顔と全身を濃いあざで覆われていて、見た目にぎょっとするくらい目立つのですが、母はよく、「知恵遅れよりうんとまし」というようなことを言いました。そうやって自分を鼓舞していたのだとはとても理解はできますが、子供の私はそういう対比そのものを残酷で差別的だと感じました。

また弟以外の私や妹に対しては、弟以上の問題を持つことは決して許されませんでした。妹はこれも生まれつきひどいアトピーであったり、おできやトビヒや喘息、ひどい車酔いで大変でしたが、私の知る限り弟以上の扱いは決して受けませんでした。ですから私など論外です。ちゃんと立派に産んだのに問題を持つなんて、という婉曲の圧力をよく受けました。

母の名誉のため申し上げておけば、母は戦争で父親を亡くし、戦後満州から引き揚げるまでに1年以上も、母親と幼いきょうだい3人で逃げ歩きながら暮らしていたという体験を持ちます。追われて高い塀を乗り越えて逃げまわったり、ソ連兵が来て母親は屋根裏に隠れて子供たちだけホールドアップしたり、日本へ戻ると家屋敷を取り上げられたらいまわしにされ、弟のために進学をあきらめ就職し、就職では父親がいないと差別されたりと、さんざんな成長期を送っています。

ちょっと傷ついたくらい、それがなんなの?という価値観を持つ理由は山のようにあります。彼女こそが非常に感受性の強い、無意識のトラウマを持つアダルトチャイルドでしたが信じられないほど強い信念の持ち主です。

それに引き替え私は、過酷な環境であるとは認識しながらも、ちゃんと食べられ、ものも与えられ、教育も受けさせてもらえ、父親は精神不安定ではあっても仕事である程度成功し有名人のはしくれでもありました。なのに私は根性なしで忍耐力、持続性に欠け、傷つきやすく虚弱でした。

父への恨みを母からさんざん聞かされた上に、私の苦しみはいつもいとも簡単に抹殺されました。お聞き苦しいと思いますのでこれ以上は控えます、というくらいそれはひどいことがたくさんありました。そして私は苦しみながらも、「自分には苦しむ資格さえない」というその考えを受け入れてもいました。自分より苦しい人はたくさんいるのに、と。

それがどれほど自分への愛と信頼を失うことになるのか。自己評価を失い、尊厳を侵され、生きる意欲すら削いでしまうことになるのか。あたりまえのことですが、問題なのは出来事や条件ではなく、「それをどう感じ、認識し、受け止め、そして何を学ぶか」です。

HSPへの認識によって、個々の自由がさらに尊重されると同時に本当の自分を取り戻し生きることが社会の中で重要視され普遍化されるようになることを願います。

またこの敏感さと別に、共感力、というのも非常に重要な概念です。これについてはたびたびブログでも触れましたが、共感力だけでその普遍性を説明できないことも多々ありました。

共感力は、たとえば、他人の感情や痛みを自分のもののように察知し、時にはそれを実際に自己に起こったように感知してしまうという能力ですが、知覚が敏感な人でも共感力は比較的、或いは極度に鈍感という人もいます。

共感力の強い人から見ると、自分の心情を説明なしにわかってくれない人は鈍感なのですが、そういう人も例えば音や光には非常に敏感で、絶えずそれに反応していて疲れている人もいます。そういう人は無意識であることが多くトラウマ自体を発見しにくいものです。ですが、実際は得体の知れない無力感を抱えています。自分の知らない自分が勝手に反応しているわけですから、自分を愛しにくいとも言えるでしょう。

どちらにしてもそれは他者との相互理解の溝となり、不快さや傷つくことを避けて、コミュニケーション不全へとつながっていく可能性が大です。

例えば今では発達障害など、様々な症例がありそれには名前がついています。器質的な損傷があるものもありますが、はっきりしないものも多数でしょう。それらを無理に個性なのよ、と思おうとしても、実際の不具合の不快さには勝てません。それは自己不信、他者への不信、誤解、愛と信頼の欠如、おそれ、無気力、生への放棄をはらみます。

実際には、全体的な理解と、具体的な自分取り扱いをマスターすることで、本来の自尊心と信頼の気持ちが回復します。人が健全に、尊厳を持って生きるのに絶対的に必要なのはそれです。それこそが、愛を持って生きる生き方なのだと私は理解しています。

私たち人間は、愛によって満たされるまでは常に欠如を抱え、また愛の欠乏によって傷と心の限界の壁、すなわち分離を作ります。傷と分離は、注意を向けられ手当されるまでは外側、他者から愛を補います。傷が深いと愛はダダ漏れになって、周囲から知らずに奪い続けるカルマを作ります。善意であれ悪意であれ関係なくそれは起こります。

私たちが自分の中の傷や分離に向き合い、他者から愛を奪うのをやめるとき、その源へつながることが必然になります。それが、私の言う、内なる神です。人には愛が必要というのは、誰にもうっすらと理解できると思いますが、神が必要と言うととたんに怪しまれます(笑)。

しかし神という無限の源泉とつながらない限り、その愛は制限付きの愛でもあります。癒しは神によってしかもたらされないというのが、この世の真実だと、やはり私は思います。

冒頭の命題とちゃんとつながったでしょうか。長文とおつきあい、まことにありがとうございました。

AZU拝

豊かさは、愛することから

理想や意志を持つ人ほど、自分のコントロールができるようにならない限り葛藤が大きいものだと思います。思慮ある多くの人が自分を簡単に愛せないのはそこにあるような気がします。

トラウマがあるとかないとか、インナーチャイルドの状態に関わらず。(インナーチャイルドは自分史のすべてですから、見直しをするまでの自分の多くはそこから成り立っているのはもちろんのことですが。)

理想と意志に感情とからだがついてこないイライラ、これは放っておけば一生つきまとう人間のジレンマでしょう。放っておいたなら、その人にどんなに崇高な思いがあっても、心の中が平安に満たされることはないでしょう。むしろ自己のなかの分裂は時とともに深まっていくことと思います。

崇高な意思とうらはらに心の中ではいつも不平不満が渦巻いている。いつも他者かもしくは自分を攻撃している。もしくは諦めや我慢とともに固まり閉ざされている。

この状態をチャクラで見ると、スピリチュアルに目覚めている方には往々にしてあることですが、下3つのチャクラが閉じているとか弱い、というふうに出ていることが多いです。「地に足がついていないんです」などと自覚なさっている方も多いけれど、言葉のイメージのように単にふわふわしているということだけではなく、

例えば自分の在り方を常に周りとの兼ね合いで測ってしまうというようなことや、どこにいても求められる以上にがんばってしまう、さらに求められないと居心地が悪い、つまり役割がはっきりしないと楽に居ることができない、人のことは許せるけど自分にはもっともっともっと多くを求めてしまうとか、だけど周囲からの理解は欲しい、賛美とは言わずとも少なからず認めてもらいたい、或いは許可がほしい・・・など様々な意識として現れます。まさに葛藤です。

これは30代のころの考察ですが、年を取って寛容になっていく人と偏狭になっていく人がいることに気づきました。更に掘り下げれば寛容に見えて諦めが強く閉ざしている人もいるかもしれません。本当の意味での寛容は、赦せることでしか生まれないのでしょう。

霊的成長、などというと仰々しいですが、私は単純にどっちに向かうかの二択だな、とその頃思いました。私は思春期から体調も精神状態も不調で不安定だったため、20代後半から自分を立て直し始めましたが、「次の山場は更年期だ。そこは自分の取り扱いマスターになって苦しまずに乗り切るぞ」と心に誓ったものです。そして自分との付き合いに対して本当に様々な実験を施してきました。

人間の肉体的な健康や寿命はおそらくホルモンに牛耳られていると私は今では勝手に確信しております。例えば女性ホルモンが一生の間に分泌される量って、ティースプーン1杯だと昔何かで読んで驚愕しました。総量でそれだけのものが、心身にどれだけの影響を持つか、というより女性のからだの一生をコントロールするのです。すごいと思いました。

この微細な采配は、心の在り方、自分の扱い方、つまり自分への心のエネルギーの向け方でまったく違うものになると、私は仮設を立て検証し、ほとんど納得に至っております。

また、自分が自分の思うようにならない、という体験は、子供の頃の些細にみえる兆候(例えば、宿題を後回しにしてしまう、毎日こつこつ予習復習ができない、忘れ物をしてしまう、テストでケアレスミスを必ずする、マラソン大会などが非常にプレッシャーである、ノートを最後まで使いきれない、-途中で飽きてしまって-)から始まり、思春期の体重のコントロール不能からはあっという間に不眠、便秘、摂食障害、鬱へとつながりました。

これらは自分への不信感、無価値観、自分自身との関係の溝の最初の兆候だったように思います。この後大人になるとこれらが仕事や自己表現、ひいては経済面、人間関係、恋愛、家族関係など生活と人生そのものへと大きく波紋を広げるようになりました。

これらは成長の過程で誰もが超えるハードルです。人によっては躓きもなく何気なく乗り越えていけるテーマかもしれません。ですが私の場合、どれもが気になり神経質さが増し、傷つきがひどくなり、愛を見失い、人生そのものへの絶望へとつながりました。

そこから回復する際、インナーチャイルドの状態が、すべての人生に非常に重大に関わっていることもわかりました。

世界を愛すること、他者を慈しむこと、自分を愛することは同じです。どこから始めてもいいのかもしれません。しかし、どれか一つだけ、あるいはどれかができないでいる間は、本当はどれもできていないのと同じなのだろうと私は思います。どれかが気になったときには全体を見直してみることが、人生を豊かに生きる一番の近道と言えるでしょう。

欠けていることへの気づきは、より全体性へと統合されるチャンスを与えられていること。それが魂の導きであり、自身の真実の道なのだと感じています。豊かさへの道は、得ることではなく、不全性をみつけ、思い込みを手放すことによって必ず開けます。どんなときでも。

豊かさは、愛することから

理想や意志を持つ人ほど、自分のコントロールができるようにならない限り葛藤が大きいものだと思います。思慮ある多くの人が自分を簡単に愛せないのはそこにあるような気がします。

トラウマがあるとかないとか、インナーチャイルドの状態に関わらず。(インナーチャイルドは自分史のすべてですから、見直しをするまでの自分の多くはそこから成り立っているのはもちろんのことですが。)

理想と意志に感情とからだがついてこないイライラ、これは放っておけば一生つきまとう人間のジレンマでしょう。放っておいたなら、その人にどんなに崇高な思いがあっても、心の中が平安に満たされることはないでしょう。むしろ自己のなかの分裂は時とともに深まっていくことと思います。

崇高な意思とうらはらに心の中ではいつも不平不満が渦巻いている。いつも他者かもしくは自分を攻撃している。もしくは諦めや我慢とともに固まり閉ざされている。

この状態をチャクラで見ると、スピリチュアルに目覚めている方には往々にしてあることですが、下3つのチャクラが閉じているとか弱い、というふうに出ていることが多いです。「地に足がついていないんです」などと自覚なさっている方も多いけれど、言葉のイメージのように単にふわふわしているということだけではなく、

例えば自分の在り方を常に周りとの兼ね合いで測ってしまうというようなことや、どこにいても求められる以上にがんばってしまう、さらに求められないと居心地が悪い、つまり役割がはっきりしないと楽に居ることができない、人のことは許せるけど自分にはもっともっともっと多くを求めてしまうとか、だけど周囲からの理解は欲しい、賛美とは言わずとも少なからず認めてもらいたい、或いは許可がほしい・・・など様々な意識として現れます。まさに葛藤です。

これは30代のころの考察ですが、年を取って寛容になっていく人と偏狭になっていく人がいることに気づきました。更に掘り下げれば寛容に見えて諦めが強く閉ざしている人もいるかもしれません。本当の意味での寛容は、赦せることでしか生まれないのでしょう。

霊的成長、などというと仰々しいですが、私は単純にどっちに向かうかの二択だな、とその頃思いました。私は思春期から体調も精神状態も不調で不安定だったため、20代後半から自分を立て直し始めましたが、「次の山場は更年期だ。そこは自分の取り扱いマスターになって苦しまずに乗り切るぞ」と心に誓ったものです。そして自分との付き合いに対して本当に様々な実験を施してきました。

人間の肉体的な健康や寿命はおそらくホルモンに牛耳られていると私は今では勝手に確信しております。例えば女性ホルモンが一生の間に分泌される量って、ティースプーン1杯だと昔何かで読んで驚愕しました。総量でそれだけのものが、心身にどれだけの影響を持つか、というより女性のからだの一生をコントロールするのです。すごいと思いました。

この微細な采配は、心の在り方、自分の扱い方、つまり自分への心のエネルギーの向け方でまったく違うものになると、私は仮設を立て検証し、ほとんど納得に至っております。

また、自分が自分の思うようにならない、という体験は、子供の頃の些細にみえる兆候(例えば、宿題を後回しにしてしまう、毎日こつこつ予習復習ができない、忘れ物をしてしまう、テストでケアレスミスを必ずする、マラソン大会などが非常にプレッシャーである、ノートを最後まで使いきれない、-途中で飽きてしまって-)から始まり、思春期の体重のコントロール不能からはあっという間に不眠、便秘、摂食障害、鬱へとつながりました。

これらは自分への不信感、無価値観、自分自身との関係の溝の最初の兆候だったように思います。この後大人になるとこれらが仕事や自己表現、ひいては経済面、人間関係、恋愛、家族関係など生活と人生そのものへと大きく波紋を広げるようになりました。

これらは成長の過程で誰もが超えるハードルです。人によっては躓きもなく何気なく乗り越えていけるテーマかもしれません。ですが私の場合、どれもが気になり神経質さが増し、傷つきがひどくなり、愛を見失い、人生そのものへの絶望へとつながりました。

そこから回復する際、インナーチャイルドの状態が、すべての人生に非常に重大に関わっていることもわかりました。

世界を愛すること、他者を慈しむこと、自分を愛することは同じです。どこから始めてもいいのかもしれません。しかし、どれか一つだけ、あるいはどれかができないでいる間は、本当はどれもできていないのと同じなのだろうと私は思います。どれかが気になったときには全体を見直してみることが、人生を豊かに生きる一番の近道と言えるでしょう。

欠けていることへの気づきは、より全体性へと統合されるチャンスを与えられていること。それが魂の導きであり、自身の真実の道なのだと感じています。豊かさへの道は、得ることではなく、不全性をみつけ、思い込みを手放すことによって必ず開けます。どんなときでも。

恋愛と神さま

「ようは神の探求なんですよね、人間の探求っていうのは」
「それでどうしてこんなことやっているのかっていうと、それはパートナーと出会うためだと思ってます」

20代男子とこんな会話しながら、ライタリアンレイキのアチューメントをしています。
とても気が合います。

世界中を巡礼しても、自分の中に見つけなければ何も知ったことにならないのが神ですし、その神はただ、愛という姿で私たちの中にあるものだと私は思います。

神を探求する、と、愛を探求する、は同じです。

命の前に、まず愛があります。

愛が命に宿ると人間になるのです。

愛はこれまで様々な命に宿ってはその肉体的活動を通して体験を積んできました。

その時点で最も波長の合う、次に愛を学ぶ条件的にふさわしいカップルのもとへ飛び火するようにして宿ります。

そしていったんこれまでのことはおいといて、この両親における愛という基準を、体験とともにどんどん自分にインストールしていきます。これがインナーチャイルドです。

心地のいい愛もあれば、一見愛なんか皆無だ、と感じられる愛もあるでしょう。いづれにしても、自分が発信源となって愛の拠点となる準備を続けます。

その準備の中で、自分が深いところ、魂で知っている愛と、この肉体に宿ってから体験した愛にギャップが出てきます。当然ですが、これが成長です。そこでそのギャップによってなにかに躓いたり、壁にぶつかったり、痛みや悲しみを知ったり、またなにかしらの不充分さを感じたとき、人は自分を見直す、ということを始めるのだと思います。

この体験の幅はそれぞれのカルマによって自然と決まってきます。ソフトで亀裂の少ない道を歩む人もいるでしょう。傍から見ると破たんのない人生に見えるかもしれませんが、本人の心の感触だけは外観からはわかりません。

さて、両親からもらったものや社会で用意された回答だけでどうにもならないものに直面したとき、私たちは形而上のものから真実を探す旅を始めるのかもしれません。

すべてに優る法則は愛です。
つまり、この領域を名付けて神と呼びます。

神には領域など本来はありませんが、私たちは、神を再体験することで成長するという特性を与えられた生き物です。すべては光ですが、あえて闇という幻想を設定します。そこから垣間見ることで光のすばらしさを再認識し、光を知る体験を重ねます。

体験を重ねることが、私たちのうちに光を深く刻みつけることになります。そうしてやがては幻想から目覚めるのでしょう。

愛(神)は壮大で一つの定義に収まることがありません。体験することによってしか知りえないものなのです。

人間として神を体験することの中でもっとも大きな仕事は「愛すること」です。

生まれながらに人はまずお母さんを愛するところから始めます。それはもちろん、幼い、未熟な愛です。相手に喜んでもらいたいとかこうしてほしい(例えば「認めてほしい」など)という、欲求と本能との抱き合わせになっています。

ゆえにその愛には限界があります。誰かを何かを愛してみてその限界に達したとき、私たちはもっと自由な可能性を探します。最高のお手本を探すのです。それが神の探求です。

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思春期を考える


いつも応援ありがとうございます。ご縁のある方に届きますように。

「私」という存在にさしあたり強い影響をもたらすパワーである潜在意識(≒インナーチャイルド)。その形成期は14歳未満と言われます。しかし多くの人にとって印象的なのはちょうどその頃から始まる思春期ではないでしょうか。

先日のセッションでの気づきから、あらためて思春期のもたらす影響について思いました。肉体的に男女の違いがあからさまになり、恋愛感情に目覚め、実際に恋愛をしたり、恋愛へのあこがれを誰もが多かれ少なかれ抱いている時期。その頃に培われ、その後も影響を持ち続ける観念とはどういったものなのか。

もっとも顕著なのが「まわりとおんなじでありたい」であり、「みにくいアヒルの子現象」ではないか、と私は思います。

様々な個性を持ち、ユニークである意味ありのままであった幼少期から次第に私たちは、モテるかどうか、とか、嫌われたくない、というような思いがとても強くなり、流行にのっかり、周りの目に敏感になり、浮きたくない、という恐れが強くなります。それはまさに、自らのオスとメスとしての価値に重きを置くことへの結果のように思います。

この時期に多くの人が集団からの洗礼を受けているのではないでしょうか。そして、その洗礼を個々がどのように受け止め、そして自分をどのように扱いまたあるときは取り戻していくか、ということは、後の人生のテーマに大きく影響していくように感じます。

先日、母から30年ぶりのダンボール箱が届きました。私は22歳で家を出て戻っていないので、小中高大学時代の産物のあれやこれやが箱詰めされていました。父が亡くなったのを期に、母が少しずつ過去を整理し手放している余波として、こんなことになりました。

その箱詰めの中身の多くは、言葉でした。可愛らしい封筒と便箋に書かれた手紙はもちろん、レポート用紙やノートの切れ端に書かれ、丁寧に折りたたまれた友人からの手紙の数々。また驚くほど多くの、私が友達に宛てて書かれて投函されていない手紙の数々。私が書いた手紙の返信にあたる内容の手紙。それからなぜかとても書く機会の多かった各年代の作文の数々。

子どもの頃の流行りへの敏感さ、ミーハーさに驚かされ、思春期の人生に対する驚くほどおとなびた態度と、恋の悩みの幼さのアンバランスさに驚きます。

総じてその関心は、「他者からの評価」に終始しています。そんな意識のなか、私たちはおとなになっていき、社会からの評価というものに対象を変えそういったことに夢中になって時を過ごします。

内面の問題が顔を出すのは、そんななかで結局のところ日々の自分に関わってくるのは身近に取り巻く人間との関係であると気づくころです。

自己の人生を振り返って、その原因を探したり、打開する方法をみつけようとします。本から学び、セミナーへ行き、ネットでググって自分が「なにに当てはまるか」と考えます。

それらの行為の目的とはなんでしょうか。

「問題を解決して、まわりとおんなじでいられる」ようになることでしょうか。問題がない自分というのは、周囲と差異がないこと、という思春期的刷り込みの価値基準に自分を当てはめることへ回帰することでしょうか。・・・

退行催眠をすると、自己のなかの、本当の気持ち、本当の望み、本来の在り方に気づくことができます。催眠という名の、これが瞑想であるからです。私たちが、与えられた存在として存分に生きることを選ぶとき、持ち物に気をつけ、使い方をしっかり学び、目的地と方向性を次第にはっきりと定めて行く必要があります。何度も何度も修正を重ねながら。

他者から受けた影響、無意識に刷り込まれて習慣化したり観念化している想念のエネルギーは、それに気づき返上する必要があります。

私たちの精神活動とともに心は磨かれます。しかし磨くと必ず副産物として削りカスが出るものです。その削りカスは垢のように私たちの魂の輝きを曇らせ、自分自身にもそれを見せなくしてしまうことがあります。それを感謝とともに手放す行為が瞑想です。

しかしながら思春期に得た多くのものがあります。それは、後先なく自分をさらけ出すことができた時に起こる化学変化です。本気で、結果を恐れず、表現したり伝えたりなりきったりしたとき、それは地球というキャンバスに刻まれる美しい陰影となります。そのころ体で覚えたものは一生の宝になり得ます。