他者から理解されるためには

「人生は難しい」と思いながらずっと生きてきましたが、その割に気がつくと、「心底納得したこと」や「確信したこと」は、時間や体験を経ながらいつか「やっぱり思った通りになった!」という結末を迎えることが多くなりました。

それらは達成されるとか、認められる、というようにではなく、「やがてみんな本当のことに気づくようになる」というように自然に訪れます。

私の信念は「誤解はいつか必ず解ける」であり、「あらゆる不和は誤解」です。

人間は誰もが多かれ少なかれ周囲との比較によって自分を理解しようとします。人間が社会的な生き物である所以です。しかしその対比の基準となる価値観はほぼ、その人の感覚的な慣習によって形作られています。

私たちは自分の色眼鏡で周囲を測った上に、その測った周囲との比較で自分を測ろうとするわけです。こんなおかしなことをしています。それが誤解でなく真実だと思うこと自体、ちょっとクレイジーですよね。

もし誰かがそのことに気づいて、まずその色眼鏡に着いた色を落とすことに専念し、透明になったところで周囲ではなく自分を見つめ、内部を理解し、そして改めて周囲を見回してみたらどうでしょう。いかに以前の自分がおかしな目線で物事を理解したつもりになっていたかわかります。

問い直され精査されない価値観は刷り込みにすぎません。その眼鏡に適わないものを裁き続けることを多くの人は正しいこと、と考えています。

すべて、誤解です。

また、自分は周囲から誤解を受けている、と感じている人も多いかもしれません。自分は理解されない、と。

いったん誤解を受けたと感じてしまうと、人間関係がうまくいかなくなりこじれます。誤解を解くために頭の中で、「あなたが思っているのは誤解です。私は本当はこうなんです」と説明を繰り返します。あなたは誤解しています!と。

しかしこの説明もなかなか理解してもらえません。

だってそうですよね。その説明って、「あなたは間違っています。私は正しいです。あなたが改めなさい」と相手にメッセージを送っているようなものです。そう言われて喜んで受け入れる人なんてそういないでしょう。

「誤解を解くためにできること」。それは、自分がもっと理解することなんです。相手にわからせよう、わかってもらおう、とがんばる暇があったら、自分にくっついている目隠しに気づくことから始めます。

「でもどうやって?!」その通り。目隠しが付いたままその目隠しを見ることはできませんよね。・・・ただし、自我・思考のちからには、です。

私たちにはすべての人に、より高次元の意識、つまり魂、そして内なる神の意識が備わっています。だから、そこに依頼して気づかせてもらうのです。

心を静め、そちらに寄り添い、「自分にくっついている目隠しを緩めて真実を悟らせてください」と願うこと。それが瞑想です。

誤解を解くために相手を変える必要はありません。私自身がより真実の自己に近づくことで、より全体性を理解することができれば、相手をも理解することになり、真の相互理解へと道は通じるのです。

これが今とこれからの、真のコミュニケーションの時代のやり方になるだろうと、心から確信しています。

持ち場を満たす

 

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この状態をおみみぺったんさんと呼んでいます

「ねえさん、『ピッチャー振りかぶって第一球のモーション、投げました!』
見ていてくれるのはシンゴさんだけでいい?」

これ、おとうとからの質問です。

唐突に来るので一瞬戸惑いますが、意図は読めます。
・・・これ、セーフですよね?(笑)

私「そう、そうだね、ねえさんはそれでいいと思うな」

弟「そうか、おれはね、いろんな人に見ていてもらいたいと思うんだ」

一瞬考えて
私「うん、それは必要だね、やっぱり、障がい者だから、自分たちだけでは難しいね」

おとうとの彼女のMK子ちゃんは、私と同じ年で半世紀近く生きてる女性なんですが(笑)
とても乙女です。
なので、時々、弟の行動にやきもちを焼いたりするようで
弟はもう少し、理解がほしいな、と思っているみたい。
意訳するとですね。

ちょっと話の軸は(時空は)ずれているのですが
でも、大事なことほど自分だけで決めて生きてきた自分としては
そういうことすら自由でないおとうとの人生にはっとまた気づきをもらったりします。

でもそれが彼の持ち場。
みんなに持ち場があります。

別の持ち場にいるのに、横割りに比較することは何事にも無意味です。

小学校の学級会や道徳の授業なんかで確か
「相手の立場になって考える」という思いやりを勉強しました。

それは共感の第一歩なのですが、
ただ立場になるだけ、ですと、
私というエゴがその人の側に移動するだけになるんですよね。

そうすると、時に「自分だったらこうするのに」とか
「なんであの人はあんなことするんだろう」となって
結局ジャッジメントに拍車をかけるだけになるんです。

大事なのは、もう一歩進んで
「相手の身になって感じてみる」だと思います。
それはハートを介した共感ですので
超越的な理解につながります。

単純なことのようですが、次世代のコミュニケーションは
この段階に進まないと、人類の希望は薄いです。

相手の身になって感じてみると
自分という辞書にないことでも
人類にはあり得るんだ、そして

生まれも環境も文化も価値観も違う誰かが
そう反応し、そう選択し、そう言動するということの
真意がわかる、ようになります。

それは相手のためにするのではありません。
なにより、そう理解することで
自分のうちにある恐れの炎を
鎮火させることができるのです。

理解しがたいものを私たちは恐れるからです。

そうして愛という中心に戻ることができます。

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優しさのひとつのかたち 達成。その1

夫と一緒に自己ヒーリングしながら
夜変な時間に寝落ちて、深夜に目覚める、
というパターンが立て続けに2度ありました。

こんなことは数年来ありませんでした。

そして目が覚めると
マサルさんからレポートが上がっている、という(笑)。

前回はピンチ!でしたが
今回は達成!でした。

足湯、できたそうです。
同時に自衛隊からお風呂の供給も。

普通に考えれば、
お風呂あるなら足湯いらないじゃん、ですよね。
でもレポート見ていたら、
はっきりわかりました。

別のこと、だということが。

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フェイスブック 杉山優・29日
広安西小学校避難所8日目。

足湯。実現しました!
いちばんの喜びは被災者の笑顔。
漫才しだすおじいちゃん。
合いの手いれるおばあちゃん。
避難所に笑顔がふえました。
気持ちよさそうだもん。
おれもやってほしかった(笑)


高校生ボランティア
健康運動指導士会の中○さん!
たらいをご寄付下さった
お仲間のみなさん!
長引くであろう
避難所生活者のために
杉山が帰京したあとも
今後ともよろしくお願い致します!

足湯のタオル。お気付きの方も いらっしゃると思いますが ほしい物リストのタオルです(笑) 送ってくださったみなさま! 活かしています! ありがとうございます!
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熊本大学の教授が来てくださいました。 医学博士監修の足湯。すごくない?(笑)
熊大の先生が着圧ソックス?を ご提供下さって、履き方や 効能を一人一人丁寧にご指導くださいました。 足湯をきっかけに 着用率も上がると思います。
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マリアさま。(笑)
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いい写真が撮れなかったけど JKに、血流を促すマッサージを してもらって 凹むお年寄りはゼロでした。 笑顔と笑いに溢れた画を きりとれなくてすみません m(._.)m 仕事変えなきゃだめかな。。。(^^)
心強い味方。健康運動指導士会の中○さん。20年前?のJKです。 ごめんなさい(^^)
心強い味方。健康運動指導士会の中○さん。20年前?のJKです。
ごめんなさい(^^)
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歩くのが困難なお年寄りのところには 出前の足湯。 至れり尽くせり(笑) でも、残念なことに ここでもちょっと問題が 浮き彫りになりました。 ここにはあげませんが あす、きちんと申し送ります。

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ひとまずここまで^^

進化の種はあなたの胸に。


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こんにちは。

父が亡くなって今日で丸一ヶ月。初めての祥月命日です。

つい先日、週刊誌からの取材を受けました。朝、ピンポンとベルが鳴り、あれ、ご予約のお客さんと違う・・・と思うと、という感じ。
取材にいらしたのは、若くてかわいくて賢そうで奥ゆかしい感じの女の子で、この炎天下の沖縄にしっかりと正装なさっていました。

父の死について、まだかたづいていない問題がありますので一瞬緊張もしましたが、人間として向きあおうと覚悟を決め、取材に応じさせていただきました。

電車の中吊りにも見出しが出ましたので、変なふうに盛り上がるのかなとも思っていましたが、訃報のときとは違ってとても静かでした。私たちにひとときの静けさと安堵を与えてくださる神と人々のはからいに感謝しております。

記事には私のブログの、父の病気への描写の部分が引用されていました。客観的にそれを読むと、やはり悲劇的な感じがしました。しかし私の中に起こる不安というのはおもしろいもので、家族が嫌な思いをするのでは、という気持ちだけです。同胞を裏切りたくないというような感じでしょうか。父の名誉のためというのなら、病気は役者の(天才の)勲章だ、というような気持ちで胸を張れます。

私がブログに父の病気のことを晒すのは目的があります。以前にも書きましたが、統合失調症や躁鬱病は100人に1人ほどの人がかかる病気だそうです。その家族はと考えると同じような問題を抱えているご家族は全体の1割か2割、となるかもしれない。それほど社会に大きく関わっているはずの問題が共有出来ればもっと理解や解決へと道が開かれると思うからです。

どのような問題もそうなのですが、当事者が自分たちだけで抱え込んでいる間はものごとは好転して行きません。問題というのはたとえ世界で自分だけの問題だと思ったとしても、それは地上に、人類の課題として与えられたものと同等です。

私のところへいらしてくださるお客さまもよく「この問題だけはどうにもならないと思っていました」「墓場までこの思いを持って行かなくてはならないと思っていました」「自分のような悩みを持っている人がいるなんて想像もできませんでした」とおっしゃいます。そうでないと気づくことは、同時に神の光の下に差し出すことになります。

分かち合うために話し合い助けを求めること、という人間のコミュニケーションの原型、愛の顕現を人生の中でみんなで体験していけたらと思います。そのためにもまずはあまりに傷付いた自己は癒してあげる必要がありますし、まず、助かるのだということ、変われるのだということ、なにより、そのような問題に直面すること自体が霊的に進化する種を天から与えられているのだと気づいていただきたいと思います。

昨今のスピリチュアルが、人生そのものの価値や現実から分離した逃避的な快楽につながらずに、本当に人間を本質的全体的に救うための具体的な道標となることを切に願っています。

末筆ですが、私と父との関係の中には本当にゆるぎない愛と信頼があるということを日々感じています。それは生前にも会話の中で確認済みでしたが、実際そうだったと実感しています。今生でそうなれたことが一番の奇跡のようでもあります。父の溺愛のような愛情がいつも降り注ぎ、それを感じると泣けてきます。何度も何度も、それを味わっているところです。