直観と直感、ハートと本能

父が亡くなって1年が経ちました。震災前と後で世界が変わったように、父の他界の前と後では微妙にその世界が変わったと感じています。

この肉体はかりそめのものであり物理次元は幻想とはいえ、意識と肉体の別れというのは、いえだからこそ、地殻変動なみの大きな衝撃をもたらすものなのだと実体験いたしました。たかが肉だけのことなのならこれほどのことはなかったはずです。

ヨガナンダ先生も『あるヨギの自叙伝』で、まことにそのように語っておられることは、救いと確信を与えてくれます。

改めて、魂の乗り物であるこの肉体がある意味というものを実感しています。

生きているだけで尊い、ということの意味は、深遠すぎて一言で語れません。しかし私はそれを思います。

みなさんがどう考えようとなにをしていようと、それ以前にみなさんは存在しています。意識として。

その意識がどうあるのかで世界は彩られています。

潜在意識である肉体の記憶が洗い流され解体されていくと、その奥に肉体と時間を超越して記憶されている魂の体験である「愛」が目覚めます。私たちが肉体を持つ理由はただひとつ、これを実体験し、表現し、育て、成長することだけです。

父と私は関係のなかでこれに成功しました。その体験は奇跡そのものでしたしその経験があってこそ、今の喪失感があります。愛する者がこの世を去るのは、生きているものにとってはかけがえのないものを手放すことになるのです。

もちろん、魂の次元では失うことはないのですよ。でも「だから、平気、感情は動かない」ということと高次元であることは違います。

スピリチュアルを学ぶ人の中に、この、感情を無視してしまう人が多いことによく驚かされます。感情でいやな思いをしているので、感情にはなるべく触れないようにしている、という感じです。これは、トラウマによる体験の回避と言えます。

この状態が長く続くとどうなるかというと、ハートが無感覚になり、一番感じたいもの~高次元の愛~が感じられなくなります。すべては思考に判断させるようになるのですが、結果的には潜在意識の浄化もストップしてしまうので(癒すのは心でありハートとその奥にある内なる神とその愛だからです。)結局は肉体意識と思考が戦い、それに振り回されることになるのです。

私たちが癒されるということは、体験を回避しなくて済むようになることでもあります。あるがままというのはハートが開いていることですが、ハートは逃げたり隠れたりすることなく、堂々と向き合って、選択し、体験し、感じて、対処します。

ついでに、なんでもかんでも拒まないということと回避しないことの違いも感じてみてください。拒絶と選択の違い、流されると受け入れるの違い、従うと委ねるの違いと言えばわかりやすいでしょうか。後者には直観と内なる信頼が不可欠なのです。

私たちが自由であったり幸せであったりあるがままであったり今にいたりするには、たくさんの罠があります。自分の意識で仕掛けた潜在意識の罠です。それを解除しないうちは、その罠をよけるために本能や思考を一生懸命使わなくてはなりません。多くの人が本質的導きである直観と、本能の働きである直感を混同していますが、両者は似て非なる、というか、次元の違うものです。罠を解除していけば直感ではなく直観が取り戻され、自由、幸せ、あるがまま、今にいることが自然なことになっていくのです。

ややこしいと感じる方、すみません。その場合はぜひセッションを受けにいらしてください。じかにお会いすると、理解していただくのがとても容易になります。


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