超人のすがた

「私たちの真の強さは自己の明け渡しからくる」
これは敬愛するスリ・ダヤ・マタさんの言葉。

そう聞くと、誰にでも何にでも従順に言いなりなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、
もちろんそうではありません。
明け渡す相手は神しかありません。

「夜も昼も、何をしていても、心の背後で常に神のことを考えているようになるまで、あなたの心のすべて、思いのすべて、魂のすべてで、神を深く愛してください。」

究極、瞑想を何のためにするかと言えば、
そうなるため、なのだと思っています。
自己を明け渡して、内側を神で満たしておく。
そして、それを、生きる。ただそれだけ。

瞑想の習慣のない方からみるとおそらく気持ち悪い話ですよね?
私はもちろんそう志して日夜励んでいますが、
でも暮らしはいたって普通の感覚です。

例えば些細なことが心にひっかかって落ち着かなくなること、
沖縄で教えていただいた言い方だと「さーさーする」ことなんて、
いくらでもあります。

さて、そのさーさーを追っかけて分析をしたところで、

それはほとんど解決しません。
なぜだろう、どうしたらいいんだろう、なにがいけないんだろう、
あれかな、これだろうか、いやそんなはずはない。

これをやっているうちにだいたい行き着くのは
「ああもう、こんな自分でいやだな」「自分ってやっぱりだめなんだな」
「ああ世の中ってめんどくさい」などという境地です。

ヨガナンダ先生はこうおっしゃいます。
「自分の考えを見張っていなさい。どんなに多くの時間を、無駄な考えや、愚かな考え、否定的な考えに費やしているかを理解しなさい。そしてどのくらいの時間、自分が神のことを思っているのか見守りなさい。」

さーさーする自分について真剣に考えていたとしても、
それは自分と向き合うということとは違う、と
気づいている人はどれくらいいるでしょうか。
自分のことや他人のことを一生懸命思っていたとしても、
思っている自分が神から離れてしまっている、ということこそが、
気づくべきことだということなんですね。

またそこでいろんなわながあります。
じゃあ悩まないで明るくふるまっていることがいいことなんだ、
ポジティブに考えればいいんだ、という方向に向かうこともあります。

いえいえ、それもやはり、意識は外に向かっていることになります。
内面は放っておいて、外側への対処に向かっているんです。

神は内面にしかいません。この世においては。ある次元においてはすべてにいらっしゃいますが。
ですから私たちが神を思うときは内面に向かい合うしかありません。
神を体験するのも実感するのも、私たちの内側を通してしかできません。

自己と向き合う、というのは究極神と向き合うことに他なりません。
自己の本質が神だからです。

はっ、そうだった、と、さーさーから離れて神に戻ってきただけで、
さーさーは幻想となって去ります。

平安に戻れば、その原因やきっかけはもう存在しません。存在する意味がありません。
それより、戻ってきた喜びと感謝があります。
その中からさっきまでの自分を観察し、学ぶこともできます。
平安に戻ってきてこそ、初めて学びができます。

こんな、天国と幻想の間を、お皿を洗ったり床を拭いたりしながら
行ったり来たりしております。
夫と神について話し合う時、セッションの時、自己ヒーリングと瞑想の時が、
一番神を実感できる時間です。
幸いなことに、ここに時間を費やせる生活をしていることが何よりしあわせに思います。
それを選ぶことを選べた自分になれたことが、喜びです。

超人のすがた

「私たちの真の強さは自己の明け渡しからくる」
これは敬愛するスリ・ダヤ・マタさんの言葉。

そう聞くと、誰にでも何にでも従順に言いなりなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、
もちろんそうではありません。
明け渡す相手は神しかありません。

「夜も昼も、何をしていても、心の背後で常に神のことを考えているようになるまで、あなたの心のすべて、思いのすべて、魂のすべてで、神を深く愛してください。」

究極、瞑想を何のためにするかと言えば、
そうなるため、なのだと思っています。
自己を明け渡して、内側を神で満たしておく。
そして、それを、生きる。ただそれだけ。

瞑想の習慣のない方からみるとおそらく気持ち悪い話ですよね?
私はもちろんそう志して日夜励んでいますが、
でも暮らしはいたって普通の感覚です。

例えば些細なことが心にひっかかって落ち着かなくなること、
沖縄で教えていただいた言い方だと「さーさーする」ことなんて、
いくらでもあります。

さて、そのさーさーを追っかけて分析をしたところで、それはほとんど解決しません。
なぜだろう、どうしたらいいんだろう、なにがいけないんだろう、
あれかな、これだろうか、いやそんなはずはない。

これをやっているうちにだいたい行き着くのは
「ああもう、こんな自分でいやだな」「自分ってやっぱりだめなんだな」
「ああ世の中ってめんどくさい」などという境地です。

ヨガナンダ先生はこうおっしゃいます。
「自分の考えを見張っていなさい。どんなに多くの時間を、無駄な考えや、愚かな考え、否定的な考えに費やしているかを理解しなさい。そしてどのくらいの時間、自分が神のことを思っているのか見守りなさい。」

さーさーする自分について真剣に考えていたとしても、
それは自分と向き合うということとは違う、と
気づいている人はどれくらいいるでしょうか。
自分のことや他人のことを一生懸命思っていたとしても、
思っている自分が神から離れてしまっている、ということこそが、
気づくべきことだということなんですね。

またそこでいろんなわながあります。
じゃあ悩まないで明るくふるまっていることがいいことなんだ、
ポジティブに考えればいいんだ、という方向に向かうこともあります。

いえいえ、それもやはり、意識は外に向かっていることになります。
内面は放っておいて、外側への対処に向かっているんです。

神は内面にしかいません。この世においては。ある次元においてはすべてにいらっしゃいますが。
ですから私たちが神を思うときは内面に向かい合うしかありません。
神を体験するのも実感するのも、私たちの内側を通してしかできません。

自己と向き合う、というのは究極神と向き合うことに他なりません。
自己の本質が神だからです。

はっ、そうだった、と、さーさーから離れて神に戻ってきただけで、
さーさーは幻想となって去ります。

平安に戻れば、その原因やきっかけはもう存在しません。存在する意味がありません。
それより、戻ってきた喜びと感謝があります。
その中からさっきまでの自分を観察し、学ぶこともできます。
平安に戻ってきてこそ、初めて学びができます。

こんな、天国と幻想の間を、お皿を洗ったり床を拭いたりしながら
行ったり来たりしております。
夫と神について話し合う時、セッションの時、自己ヒーリングと瞑想の時が、
一番神を実感できる時間です。
幸いなことに、ここに時間を費やせる生活をしていることが何よりしあわせに思います。
それを選ぶことを選べた自分になれたことが、喜びです。

アファメーション!

アファメーションは、現代スピリチュアル界の王道的概念。

肯定的自己宣言、などと言われるが、どうやらこの概念を広く教えたのも、かのわが師パラマハンサ・ヨガナンダ先生だったということを最近知った。

私はなぜかずっと、アメリカ製のスピリチュアルに惹かれて探求の旅をしていた。
そして辿り着いたのが、おおもとのヨガナンダジだった。

最初の出会いはトランス・チャネリングの王、エドガー・ケイシー。それから何人か素晴らしい人がいたが、なかでもフローレンス・スコーヴェルシンという女性はすてきだと感じた。著書のなかでの出会いだけれど。彼女はアーティストで哲学者で、現代スピリチュアルの元祖みたいな人だ。アファメーションのワークを生業にしていたようだ。

みなさんだいたい同時代に生きた方々。

イギリスにはもう少し古く、神智学という学派のようなものがあって、今のスピリチュアルはこれらが大体ミックスされて切り取られたり強調されたりして伝わっているように思う。

一部を切り取られて強調されている教え、というのは例えば、ポジティブいのち、潜在意識がすべて、成功だけに特化した法則、引き寄せで豊かになる、みたいな教えだ。

それらは確かに一理ある。でも全体性からみるとかなり偏っていて陳腐に思える。
自分がアファメーションに抵抗を感じるのは、その界隈でアファメーションが乱用されているせいだ、と自分なりに思う。

しかしヨガナンダジやフローレンスがアファメーションの祖となれば俄然やる気がでる。
その違いはなにか。

例えば上記に上げた3人の巨匠はみな、神とその分身である魂の領域、つまり宇宙意識と超意識に言及した人たちだということ。
それは、人間とはなにか、という問いそのものだと思う。

人間とはなにか、どんな存在で、この地球でそして宇宙でどんな位置にあり役割をし、そしてどの方向に進化していて、そうあるにはどう選択しどう思い生きるべきか、というような問いかけなしに、ただもっと豊かに、もっと賢く、もっと便利に、というために、人間に備わった莫大なパワーを使って恩恵に預かろうというのは、核爆弾を持ったさるに等しく危険で愚かで破滅的だ。

それは現代の競争社会のサバイバルのためのハウツーの、別バージョンに過ぎないように思う。

アファメーションのちからは、神から来る。
創造の最高次元の根源の意識から。

たとえ最初は無意識だったとしても、その言葉と意志のちからによる恩恵を受け、その恩恵が来るみなもとの存在を意識するとき、私たちはみなもととつながることができる。

贈り物より贈り主の存在を愛するのが、神の分身である私たちの本性。
アファメーションは贈り主への信頼と約束を言葉にしたもの。

そんなふうに理解するにつれ、何をどう祈ったら贈り主のハートにダイレクトに届くのかがだんだんとわかってくる。

私もどんどんやります。みなさんもどうぞ。

参考書:『科学的な癒しのアファメーション』パラマハンサ・ヨガナンダ著 『人生を開く心の法則』フローレンス・S・シン 他

ブログランキングへのクリック、
ツイートとシェアで応援、
いつもありがとうございます

ずばり言います

自己探求という言葉における自己は、
本性ではなくて本質、だと思っています。

本性というのは動物的な性質の部分であり、意識で言えば潜在意識。

そこを探求する意味は、ある程度把握しておくべき景色のようなものであり、
あまりにも偏っていて執着となっている部分はほぐすべき対象となります。
それは言わば、より本質に近づきやすくするための下準備です。

ですが、その部分というのは探検してみると面白くて、
知らなかった自分を知ったような喜びがあり、
うっかりすると、もっと、もっと、となってしまう領域でもあります。

ヨガナンダ先生はそのことを指して
「瞑想して潜在意識のところをうろうろしていてはいけません。
とっとと通過してできるだけまっすぐに内なる神のところへ行きなさい」
と教えています。

そうです。この内なる神が、本質であり、
自己探求において本当に探求されるべき目的なのです。

そして
「人生でなるだけ多くの時間を、この神とともに過ごしなさい」
つまり
「本質として人生を生きなさい」
と教えています。

潜在意識というのは、インナーチャイルドであり過去世の体験的な記憶のことです。

それらのことはとっとと思い出して
なるだけ神に手伝ってもらって癒し浄化し愛で満たしてもらい、
自分の意志を最大限に発動させることができるように準備しなさい、
それはなるだけ若いうちに済ませなさい。

さもないと、意識の習慣を変えて生きるのはとても大変です、
幼少期に体験的に刷り込まれた記憶というのは
放っておけば一生その価値基準の基礎となって生き続けます。

そのまま生きれば生きるほどそれは繰り返し強化され、
外したくても外せない習慣となります。
だから、その矯正、修正は早くに気づいて取り組むほどいい。
体力も気力もあるし、
本質として生きる体験も多く積むことができます、と。

いったん神のもとへ戻ることができたら、
人生を生きることはあらゆる意味で、楽になります。
いろいろなことはそれから体験すればいい。
そうすれば体験そのものの質が圧倒的に良くなり、
生み出すものの価値が増します。

天職を探したい、と願っている人が多いのすが、
職を探し回るのではなくて、先に探すべきものは内なる神です。
そして神とともに行うお仕事はなんであれ天職です。
それは神をみつければわかることです。

ですから瞑想も、そういう目的、意志をしっかりと持って行いましょう。
そうすれば最速で、わたしは、あなたをそこへ導きます
、と
ヨガナンダ先生は、言われます。

ヨガナンダ先生の直球の言葉は、私にとっては最高に心に響きました。
しかしそれというのも、私の潜在意識の癒しという取り組みとチャレンジが功を奏して
そういう真実の言葉を、痛みなく受け入れる心の準備ができていたからだと
今では思います。

潜在意識の世界をぐるぐる回ってそれが目的にすり替わってしまうことは
よくよく起こります。
私自身が潜在意識の道案内をするとき、
本当の目的から目を一瞬たりとも逸らさないよう
とても集中しています。

そうやって、気合を入れて、
「神よ、私はあなたから離れません。
あなたも一瞬たりとも私から離れないでください」と
強く強く願うことは、とても大切なことです。
そうやっているうちに、その他のいろんなことが押し寄せてきても
神から目を逸らさず、神と一緒に対処できるようになっていきます。

潜在意識の探求をやっているうちに、
どこまでそれをやればいいかわからなくなってしまう人もいます。
そうなってしまうと、人は
「自分を全部矯正して完璧に自分を気に入るようにしなくては」
「すべての欲求をがまんしてない状態にならなくては完成じゃない」
などというふうに思い込んだりします。

それは、自己探求の自己の部分が、本性のほうにすり替わっている状態です。
この物質世界で自己を完璧に実現しようなどと思うとそうなってしまいます。

自己というのは物質世界などという限定された世界ではなく
心の内側という無限の世界に存在しています。

その心の内側の、その中でも最も崇高な部分、
それが、あなたでありわたしです。
ですからそれ以外のものを赦すことができるのです。
それ以外は大目に見て、こだわらないでいいのです。
一番大事なこと以外には。

内なる神とつながってくると、言い換えれば波動が高くなってくると、
自然とそういう姿勢になっていきます。

だからOSHOなどは、それを目指すな、と教えます。
自然とでなければ嘘になるから。
ですが一方で、本当にそれ(本質)を理解できるのは
ブッダに帰依したほんのひとにぎりの人だけだ、と言います。
最初から目指さないのなら、ブッダに帰依はしません。
目指している人への教えであることが大前提なのです。

スピリチュアルの教えにはこう言ったパラドックスが多く存在します。
なぜなのかと言えば、導きというのは、ゴールを教えるものではなく
あなたの気を引き、目覚めるようショックを与えることだからです。
目的はゴールにあるのではなく、
あなたが毎瞬毎瞬、神に目覚めては、あなたの人生を歩くことだからです。

今あるもののなかに、まず、愛をみつけてみてください。
そしてそれをどんな時でもどんな場所でもできるよう
自分を訓練してください。

それがどうしてもできないときは
まず自分を癒すところへ戻ってみてください。
そしたらまた、最初のステップに進んでみましょう。

本気でやってみたら、それが最高の前進であるとわかるでしょう。
それ以上の素晴らしいものはどこへ行っても存在しません。


いつも応援ありがとうございます。

瞑想の成果


心理療法 ブログランキングへ
一日一クリックの応援、毎日ありがとうございます。
おかげさまで、少しづつ、新しい出会いがあります。

アズさんは、瞑想や自己浄化をしてきて、今どんなですか?

そうですよね。結果どんなふうになったらOKなの?どうなることが目標なの?と思わないわけがありません。
私は自分との長旅をしているので、道すがら本当にいろいろな局面も体験してきました。

多くの人が期待するであろうような状態を目指していたことももちろんあります。
でも今は、その目的と、おおむねの目標は見えるようになりました。
そして多分、そこからそう大きくぶれることはもうないだろうと思います。
違う何かを求めることはなくなりました。

結果がすべてだ、というのは今も変わっていないところです。
ただし結果、というのは、今のありのままという意味です。

人生の探求は仮説とそれに基づく実証です。
パラマハンサ・ヨガナンダジは「この世は神の実験劇場だ」とおっしゃいましたが、本当にそうだな、と思います。
被実験者でもある私たちは時にその実験の目指すところや意味がわかりません。
しかし私たちの本質は実験者とひとつです。
ですからどれだけ巻き込まれていようと、混乱していようと、まず動きを止めて抵抗をやめ、それから内面を意識すれば、私たちとひとつである実験者の側へ寄り添うことができます。
これが瞑想です。

瞑想は一度に成果を期待するものではありません。
もちろん一回での成果でさえも驚くべきものではありますが。
本質に寄り添う時間と体験を重ね、ついに感情レベルでも思考レベルでも肉体レベルでも、その本質こそが真実なのだと感服するまで、やめないことです。
そうすると、人生の目的というものが見えてきて、もうそれ以上はいらない、ということがわかります。
これは言葉にすると簡単ですが、実際は体験してみないとなかなか納得いかないか、すぐにぶれます。

アズさんは完全なの?と言われると決してそうではないですし、感情や肉体の苦痛も普通にあります。
ありますが、それがなんなのか、今起こっていることがどんなレベルの何であり、何が重要で目指すところはどこか、というようなことを微細に認識し、そしてそれを癒す道は知っています。
また自分ですぐにはできないことも、どのように願い、どのように努力すればいいのかもだいたいわかります。

瞑想は、意識の波長を高めます。
そうすると、単純に言えばものごとの優先順位などが自然にわかるようになります。
ヒーリングを始めると、理解できなかったことが急に理解できたり、頭で理解したことがすとんと腑に落ちたりということがよくあります。
(いつも言いますが、ヒーリングもヒプノも瞑想と同じです。)
人生の質を高めるとは、時間の価値を変えていくことでもあります。

運命。


1日1クリックでご協力お願いします❤

『自分自身を変えると決意しなさい。そうすれば、あなたは運命を自分の意志に従わせることが出来るようになります。』 ―パラマハンサ・ヨガナンダ

私は人生の前半、常に運命から逃げまわり、運命に追いつかれないように連続でダッシュし続けていたように思います。ゆっくりしていると次から次へと困難と苦しみが押し寄せてきて、人生が問題の対処に追われて終わってしまうように感じられました。逃げまわるほど悪いことをした覚えはないのにやってくるのは考えるのも恐ろしいようなことばかりでした。そしてそんな状態から想定する未来はろくでもないものばかりです。そんな未来と出会わないために必死で別の未来を探していました。そして「これさえ手に入れば」「これを変えることができたら」といつももがいていました。

そんなみじめな状態であると同時に頭の中では「自分は本当はこんな人生を送るはずではなかった」「自分はもっとできるはずなのにやれることをやっていない」という焦りでいっぱいでした。

常に全力でダッシュしているのですから、それ以上がんばろうとすると心の糸は張り詰めすぎていてすぐにぷっつりと切れてダウンしてしまい、またそんな自分を責めていました。なんてがんばりが効かないんだ、なんて弱いんだ、なんて怠け者なんだ、というふうに。また、家族に精神病を患う人がいたために、自分もいつそちら側へ行ってしまうのだろうかと内心いつも恐れていました。そして、そんな自分になってしまった原因を探し回りました。スピリチュアルについて少しずつ学び始めてみても「今の良くない状態を作った理由」ばかり探しては見つけるだけで、長いこと解決にも繋がりませんでした。

そんな私を知っているのは目の前で見ているのはほんのわずかな友人と、やや遠巻きに感じていた家族だけです。とても危うい不安定な自分のことは社会や仕事場では極力隠さなくてはなりません。時には自分にさえも隠していたかもしれません。ところが恋愛となると内側にいる自分の素顔が否応なく出てきます。いつも恐れ、ビクビクし、未来を思うだけで疲れ、自分の欠点が気になり、愛されるのは表向きのいい顔をしている自分だけだと信じていた自分。相手を必要だと思うほどにこの内側の自分の気持ちが出てきて、どうしても愛され続けることは不可能だと自分に信じさせます。ですからどんなに楽しい華やかな日を過ごしても1日の終わりには孤独な気持ちに襲われ、きっと人生の結末はこんな気持で終わるのだろうと思えるのでした。

真理を表す言葉の中に「自分が与えたものが自分に返ってくる」という教えがあります。私は幼い頃から心に理想を持ち、人生を意識的に生きようと努力していました。10歳になったときはっきりと意識してそう思いました。そして「優しい人でありたい。そのためには強くならなくては」とも思っていました。ところがおとなになる頃にはすでに人生との格闘に疲れていて「元気?」と聞かれて「元気」と心から答えられたことはありませんでした。そしてとてもじゃないけれど自分が与えたものが自分に返ってきているとは思えませんでした。ですからこの世でなにを信じていいかも見失っていました。

この言葉の意味がわかったのは30歳少し前です。言葉もこの通りではありません。本当は「自分が【自分に】与えたものが自分に返ってくる」です。こう考えてみると、これは確かにそうなっていると納得がいきます。私は自分に対してダメ出しばかりしていて、自分の中にいて居心地がいいと感じたことがありません。芝居を始めてからは唯一芝居の稽古をしているときと舞台に立っているときにそれを感じましたがそれもごく限られた条件の下においてのみだとだんだんわかりました。同じような思いで芝居を創る人たちと一体になったときだけです。それはプロとして演技をする上においてなかなか簡単に巡り会える条件ではありませんでした。

当時は自己愛が強いように見られましたが、その愛はとても未熟で幼い愛でした。気に入っているところは愛せるけれど殆どの部分は早く切り捨ててしまいたいと思っていました。つまり自分の殆どの部分は気に入りませんでした。そしてこういう思いこそが「私が自分自身に与えていたもの」です。

そのように自分の内面を見なおしてみると、私は自分にろくなものを与えていませんでした。他人に褒められて初めて自分を認めることができ、その褒められる部分というのはなにか格別に他者より秀でた部分だけです。ですから私は自分の中の殆どの部分を認めていない上にその認める基準も自分ではなく、他人の賞賛によるものでした。

このことに気づいてから私は自分の中身を徹底的に洗いなおす作業を始めました。自分が自分の内面でなにを与えているのか。常にチェックをし始めました。生活のためにしていたアルバイトの最中は格好のチェック機構でした。自分が自分に与えた思いが即座に周囲の反応として返ってくるのを実感しました。私はまず、日常をつつがなく送るために全力で自分に対する思いを変えていきました。そうしてみると、実際周囲が自分に対してとる姿勢というのは、自分が周囲になにをしたかではなく、自分が自分をどう扱ったかに同調していました。つまり「自分を尊重すれば周囲からは尊重され、自分を可愛がれば周囲から可愛がられ」ました。

この法則は真実です。なぜそんなにも真実なのか、それはこの法則が更に深い真理に基づいているからだということが後になってはっきりとわかりました。それが「世界は外側にはない」という真理です。内面(意識界)が真実で、外側(物質界)はそれを映し出す鏡であり、スクリーンに映し出された映像に過ぎないということです。ここまでは概念として理解していましたが、当時は外側を整えたいがために内面を変えていく、というのが私のやり方でした。ですから当時の私は仕組みはわかっているつもりでもまだ外側は在ると認識していたのだと今ではわかります。

本当に世界が完全にひっくり返ったのを体験したのは沖縄へ来てからです。その間にももちろん進化はしてきていましたし、一歩ずつ内面を変えることで世界は変わりつつありました。そうでなければどんでん返しを体験することはなかったと思います。36歳くらいまでに私は古いカルマの片付けをコツコツとやっていたのだと思います。意識の仕組みを知り真剣に実践し始めたのが27歳の誕生日からでしたからまる9年経ってのことでした。取り組みの中で最も重要で大きく浄化を進めてくれたのは瞑想です。そして36歳の誕生日に朝から何度も、私は内なる声が「ああ間に合った、間に合った」と言うのを聞きました。それがなんのことを言っているのかは当時なんとなくしかわかりませんでした。古いカルマを手放す準備ができて、なんとか今世の目的を果たすための下準備が間に合ったのだと今では言うことができます。

世界がひっくり返ったのは、おぼろげにも目的だと思っていたものが無かったこと、そしてこれまで原因だと思っていたものも幻想だったこと、そして世界は自分の中にだけあるということが当たり前になったこと、その世界には神と私だけが存在していることがわかったことによってです。ここまできて、私はクリアになりました。同時に世界がクリアになりました。

みなさんがもし、このクリアというものに惹かれるのであれば、瞑想以外に近道はないと思います。瞑想が自然に出来る状態になるためにはヒプノ、レイキなどの潜在意識への働きかけが役立つと思います。そして自分で出来るワークの手立てとしてはACIM『奇跡のコース』が、その前段階として『神の使者』が役立つと思います。

私の個人的な体験としてこのクリアな世界へのガイドでありティーチャーとなってくださったのが、マスター、パラマハンサ・ヨガナンダでした。私はアメリカ発のスピリチュアリティーの著作を数えきれないほど読み実践してきましたが、その源泉を東洋のインドからアメリカへ実際に伝えたのがヨガナンダジです。実際あらゆるスピリチュアルの叡智の本質と全体がヨガナンダジの教えの中で見つかりました。ヨガナンダジの教えが真理だとすればその他の多くのスピリチュアルの教えは、長い鼻はゾウである、太い足はゾウである、と言っているようなものでした。ゾウそのものを見たことがない人の言葉のようです。ヨガナンダジはゾウをゾウだと、あるがままに教えてくれます。

私は彼の言葉に出会ったとき、これまで自分がして来た旅の答えはここにあると感じました。そして彼に心から「帰依します」と、初めてこの言葉を人生で使いました。すると私の瞑想の質が激変しました。そして光として高次元のエネルギーや存在を目で見るようになりました。彼の導きや愛を実在感とともに感じることができます。ヨガナンダジは私がこの人生で見つけた最初で最後の完全な師です。彼の肉体は今この世にありませんが、私の内側で私は師の声をとても近く聴くことができます。ひとたび本を開くとその言葉が声となって響くのです。

今となっては私の人生がどのような運命であったか、というのは全く問題ではありません。運命というのは、カルマに縛られている間だけ、重みを持ち存在しました。しかし苦しみの中にいるときこそ、私たちは自分を変えるという選択肢を差し出されます。その差し出された選択肢をその手で掴むことさえできたら、本当の自分に還る道を歩むことができます。