自己肯定感、あります。

からだだけが自分じゃない。そう自覚している人はきっとたくさんいるだろう。心が大事。そう思っている人もきっとたくさんいる。

思うようにならない自分と格闘して葛藤して、潜在意識≒インナーチャイルドを探求している人も、今はたくさんいる。情報もたくさんある。

そしてこんなことも起こる。自分の過去に作った傷がたくさんみつかった。原因もわかった。一生懸命修復に取り組んでいるけどなかなか変われない。やっぱり自分には無理なんだろうか。がんばってもがんばっても追いつかない。

愛にあふれた人ほど、自分の内側の傷を見て、それに圧倒されてまた傷ついてしまう。思慮深い人ほど傷を負った自分自身にさらに問題を感じてしまう。

私自身、おとなになってみて何一つ思うようにならなくて自分を振り返り始めて数年、いや10年、いやもっとそれ以上長く、そんな思いの中にいた。

掘り起こせば起こすほど、自分の未熟さ至らなさに直面して自分を責めてしまう。そんな中で情報に照らして自分を分析し評価するとしたら「自己肯定感(自己評価)が低い」んです!みなさんそうおっしゃる。そしてその低さを作った原因がわかれば、それを修復できれば、誰かを許せれば、変われるかもしれない、そんなふうに感じている。

私も本当に長い時間かけてその答えを探しさ迷ってきた。私のその体験と時間をできたらみなさんに捧げたい。もし受け取ってもらえるならば。私の経験が、あなたの時間を短縮すること、そしてあなたがさらにその先を体験すること、それが魂の仲間の共通の目的だ。

身体だけじゃない、外側じゃない、中身が大事。中身が本当の自分だというところまで真実を突き止めたみなさんは、潜在意識こそが自分の真実だと思ってるかもしれない。或いは潜在意識こそが自分の宝もの、或いは自分の真の導き手、或いは神さまのような存在だと捉えているかもしれない。でもそれは、違う。

潜在意識は体験の記録の集大成のこと。からだという特定の反応をする方程式がつまった箱に何かを放り込んで出てきたもの、それをしまっておく場所のこと。いわば肉体のデータバンクだ。

データをいじって修正する権限を持つのはそれ以上の知能を持ったものに限られる。データがデータを改善することはできない。或いはデータの箱がデータを改善することはできない。権限を持つのはあなた。それを教え導くのが魂、ハイヤーセルフ、そしてその中核である全き神である。

私たちはこのデータをまとっている。このまとったものを自分自身と勘違いしている。傷だらけでみすぼらしい、くたびれたその姿に更に傷つき、それでも立ち上がって今度は修繕を始めようとしている。これは一人ではとても無理だと悟ったから手伝ってほしいと私に申し出てくれる。

いろいろなヒーラーやセラピスト、カウンセラーがいて、あなたを手伝うと言う。すごく長い時間をかけてその修繕を一緒にやったり(やってもいい。でもそれは目的ではない)、もっといいハウツーがありまっせ、と提案したりしている。どうです、私、立派でしょ、きれいでしょ、あなたもこんなふうになれますよ。それが宣伝文句。

でも私に言えるのは「それ、ただの服なんですよ」ということ。潜在意識、インナーチャイルド、あなたが自分あるいは自分の本質だと思っているそれは、データが編み込まれた、服なんですよ。

最近のセッションでのこと。その人の魂の光、愛の炎があまりに燃え盛っていて、その愛の炎でその人のまとったぼろぼろの服は既にほとんど燃え尽きているかに見えた。魂そのものが光を放ち、自らがまとっていたかりそめの古い衣が燃え堕ちようとしているさなかにまだ、その服をなんとか修繕しなければと真摯に訴えていた。あまりにまっすぐにそこに居てくださったから、私もまっすぐに伝えることができた。

「その古い服、脱いでください」

その方はしばらく目を見開いて、というか肉体の目をぎゅっと閉じて、心の眼を見開いてじっとしておられ、それからまっすぐにこちらを見て「そうか。そう観たことはなかった。確かにそうだ。魂はきれいなんだ。きれいなものなんだ。それが自分の心なんだ。」

その方は一瞬で悟られた。自分は魂なのだと。心の核は魂で、汚れた心と感じていたのは多くの体験を吸収し、くたびれた衣服だったと。服がどんなにズタボロでも、魂はそれに影響すらされることなく美しいままなのだと。私はその方のまとった焼け堕ちる寸前のその衣がばらばらと灰になり崩れ落ちるのを見た。そんな見事な再生に出会えたことが奇跡だと感じる。

しかしだったらなぜ潜在意識の探求などするのだろう。

それは、その衣の命を全うさせるためだと認識している。学びを完了させるとも言い換えられるが語弊もある。それは理屈や知識で得るものではない。感情の燃え残しに聖なる火を点火し燃焼させることだ。

人間は、五感を通して受け取った情報を感覚として感知し、そこから化学反応で感情の波を起こす。生長の道すがら、情報は確かに受け取ったけれど湧いてきた感覚や感情は感じ切らずに置いておいた。そんな体験が器に余る莫大なエネルギーを使わずに溜めている。鮮度が落ちたそれは、やがて器にこびりつき沈殿する。ものによっては腐敗する。

「感じ切ってください。」ヒプノセラピーでのあなたのミッションはこれにつきる。あとは、魂がやってくれる。

ごびりつきや沈殿物や腐敗物を燃焼したときあなたの内なる光は増し、その光があなたの内側と行く手を照らし始める。だからあなたは歩けばいい。光りの中で光とともに生きればいい。あなたのまま。一歩一歩。光りによって周囲は良く見え、自分の内にある光が周囲を照らす。それがあなたの価値だ。それに評価なんて必要だろうか。

そうやって光の器となって再生したあなたは、過去に着ていた服のことを思う。もし生まれてこのかたきれいな服ばかりを着ていたならどうだろう。あなたは違っていただろうか。

ボロボロの服からも、肌触りのいい服からも、そこに吸収された体験から抽出され中身(魂)にしみこんでいくのが愛であり、どちらの服もその愛を抽出し終えたときその任務を全うする。あなたはやがて手放す服を、あなたが学びやすいように選んできた。あなたの父、母、家族の設定、社会と国家、時代背景。

その服にありがとう、愛しているよ、さようなら、全うしたねと心から言える。それが自己肯定だ。そう言えるようあなたの気づきを促すのが潜在意識への取り組みでありそれはそのままあなたの魂、そして内なる神への回帰への道だ。

単にきれいな服を着ている他人を見て、あの人には自己肯定感があるとか幸せそうだと人は言う。でもその人の中身は本当に寄り添い向き合ってみないとわからないものだ。ボロボロであれきれいであれ、その服に執着している間の肯定や評価などまったくもって価値がないと今の私は思う。それは誤解であり錯覚なのだから。

どんな自分を生きたいか

ヒプノセラピー(催眠療法)をやっていると、いろいろな方のお腹の中の記憶に触れることができます。こんな体験が日常だなんて貴重すぎる、という気持ちです。物言わぬ胎児の心の声ですからね。

私が見てきた多くの胎児は、お母さんとの関係、お父さんとの関係、という意識をすでに持っています。もちろん言葉では認識していませんが、「喜んでほしい」「がんばらなきゃ」「楽しみ」「もっと気持ちを向けて」などの感覚を、お母さんの声や心音、またお父さんとのやり取りの中で、テレパシー的に捉えています。

また、過去世の感覚的記憶が残っている場合も多く、「なんとなく(生きるのは)しんどいな」「出たくないな」「また(あんな思いをするの)か」などと感じている赤ちゃんもいます。

私が総じて重要だと感じるのは、その最初の関係性、つまり両親との関係の中で、すでに心の中に求めているものがあるということです。

生まれてきてからは呼吸を始め、おっぱいを飲み、苦しいとか暑い寒いおなかすいた、気持ちいい、もっと、など、からだの欲求を学ばなければなりませんが、それよりも前に、お母さんという存在に対して「愛してほしい」さらに「愛したい」という思いの片鱗を多くの人が持っているのです。

人間は最初のアイデアとして、そういう青写真を持っています。言ってみれば、人間は愛するために生まれてきている、ということの証なのだと思います。

さて、この世に生まれてからというもの、先程述べたように赤ちゃんは、肉体を生きることを懸命に学びます。そして最初のアイデアの優先順位は次第に下がっていきます。数年するかしないかで、集団という社会に飛び込み、外界から世界を学ぶことが日常になっていきます。

おとなになるにつれ、今度は自立という課題がやってきます。就職、経済、そして結婚、などと、愛で結ばれる関係すら対外的なリストに並んできます。それから人によっては子育てという重責がかかります。その頃には人は、社会からの評価というものと自分がすっかりひとつになっています。社会から、集団から見た自分が自分の価値だというふうに身に染みています。

そうなるとその自分がうまくいっている限りは、本当の自分に触れるチャンスはなかなかみつかりません。チャンスがきたところでそれはなるだけ迅速に「処理すべき問題」としか目に映らないでしょう。たいていのことは排除するか、スルーするか、何かしらの機関に依頼するかして対処します。

すると今度はいよいよ、既存のやり方ではどうしようもないようなかたちで、チャンスがやってきます。パートナーシップか子育てか、という愛のやり取りに面と向かって初めて我に返る方も多いかもしれません。それが、あなたを本当の目的、最初のアイデアに注目させてくれるはずです。

本当の自分とはなんだったのか。そもそも、なにがしたかったのか。なんのために生まれてきたのか。

内なる真の自己はいつもあなたにそう問いかけます。「あなたはだれ?」と。そして、その人生において、何を、誰を、真に愛しますか?と。

本当の自分を取り戻すことは恐らく、どんな人にも、誰にも必要なことです。私たちは自分が愛という意識だということをいったん忘れ、肉体としての自分を乗りこなすことに集中せざるを得ません。そしてそれが軌道に乗った頃にはすっかり最初の目的を忘れています。乗りこなせる自分に夢中なのです。

愛するものを今生で与えられながらも、それに深くは気づかずに人生を送っている人も大勢いると思います。人は愛についてこそ体験しなければ(実感しなければ)ならないのに、他の多くにあまりに気をとられます。

どのような人もすべて、最初は同じところからやってきました。種が違う?魂の故郷が違う?いいえ、そのもっともっとおおもとは、ただ一つの神だったのです。ただ一つの愛という意識です。

私たちが思い出すべき最も重要なことはその点にあると私は思っています。

人間ってほんとにすごいのよ

「RUACH AZUによるヒプノセラピストのための講座」を開催中です。

ベーシック講座なれど、これまでの経験からの発見、学び、気づきをなるべくお伝えしたいがゆえに、膨大な情報量となっています。全身全霊を傾けて受け取ってくださる受講者さんに、またこのような導きを成就させてくださった大いなるものに感謝ばかりです。

究極、煮詰めれば煮詰めるほど言いたくなるのは「人間ってほんとにすごいのよ」ということです。
私がどうしても伝えたいと思う動機はそこに在るのかもしれないなと思います。

まだまだみんなきっと、自分の中の壮大なエネルギーにびっくりできますよ。
人生の中で、生きてるうちに体験してほしい、みつけてほしい。
みつける旅を始めてほしい。内面の世界の旅を。
潜在意識の探索はもちろん自己を知るための宝庫だけど、それは神をみつけるための作業に他ならない。
その奥の本質、(超意識、宇宙意識)ってところまで、みんなが目を向けるようになったら、世界はあっという間に変わるだろう。

それでなくても、私が出会う人はすばらしい人ばかり。
だから、世界はよくなるに決まってる、としか思えない。
いろいろと良くないニュースが目に付くけれど、本当に世界を動かしているのは、意識のエネルギーのほうだから。

今日も自分を磨きます。
壮大なすべてを内包するエネルギーの一部として、「それ」とひとつであるものとして。

感謝とともに
AZU拝

HSP~論文なみに長いです。ご注意ください(笑)

「敏感な人には、ものよりこころです」
昨日のセッション中、私の口を突いて出た言葉です。

これは私が長い自分とのつきあいの中で見いだした、体験に基づく教訓です。もちろん当初それは、自分の個人的な尺度でしかありませんでした。

実は、クライアントさんからある日、HSPについて教えていただき、ある時からその概念を視野に入れて自身や家族、クライアントさんと向き合ってみると、驚異的に普遍化と理解と統合が進むようになりました。

実は前回の勉強会でも、この概念を含めた意識の仕組みのお話をしました。

HSPは highly sensitive person つまり、とっても敏感な人々。
まんまじゃーん、という感じがしますね(笑)。
人間全体の15~20%を占める人がこれにあたるそうです。

このことについては、これまでの探求を紐づけしたいという思いと、紐づけするときりがないほど膨大な考察になる・・・との思いで、なかなかブログデビューさせてあげられませんでした。

そもそも、生きにくいというのはどういうことなのでしょう。
私は自分のことを「生きにくさの権化」のように認識しつきあってきました。

生きにくさは苦痛を伴います。私が自分が生きることへの苦痛を認知したの中学生の時です。それは単に年頃、のことではありません。当時すでに、家庭内は私にとって火宅そのもので、そこで生きていくことに限界を感じていました。義務教育が終わったら、私は自分の人生を築くんだ、そうしなければと意気込んでいました。なんの術も持たないまま。

そして高1でファミレスのバイトを始めましたが、その時の苦しさにノックアウトされてしまいます。自分の神経が異常に緊張していて、ミスをしないことに精いっぱい、しかも回避が不可能でした。家に帰ってからも、頭の中でぐるぐると、張り詰めた記憶が廻り、目を閉じると仕事場のバタバタがよみがえり、あれ?もしかして失敗したかも、と飛び上がるほどびっくりして眠っても目が覚めてしまいます。

疲れて仕方ありませんでした。実際はその時、中学からの仲良しの友人と一緒に働いていて、私たちは多分いつも笑顔でかわいくて、しっかりしていて、優秀でした。実際に店長からはとても気に入られていて、厳しくはあっても怒られても嫌われてもいませんでした。

友人はとても健全で、リラックスして楽しんでいるように見えました。自分はピリピリして必死で張り詰めて、ぐったりの繰り返しでした。

自分はもしかしたら、不適合者なのではないか、とその時初めて思いました。普通のお仕事を普通にこなせなない、普通に時間を過ごせない、と感じた、初めての体験でした。

この時の感覚は消えることはなく、悪化していきました。鬱を通り越して絶望の淵に行くのはあっという間でした。高校生でからだもボロボロになりました。動悸、息切れは絶えず、電車に乗るのも道を歩いても視線が刺さるように怖いと感じ、眠れず、起きられず、不快さは絶えず消えず、体重は増加し、食べては吐き、ニキビだらけで、自分が自分ではないようで、誰とも触れ合いたくなく、消えてしまいたい思いでしたし、もちろん誰も助けてくれませんでした。

結局私は大学へ行かせてもらいました。受かったのは奇跡だと今も思います。あれは救いでした。しかしそれでも、自立への焦りと不安は大変なものでした。

その後も私の抑うつや過敏や恐れはどんどん増していきました。
その頃には弟が統合失調症を発症し、やがて問題を起こして一般社会からドロップアウトしました。自分もそうなるのでは、という呪いに恐れおののいていました。

とにかく自立の道から落っこちたら人生がおしまいになる、と、戦っていました。
よく周囲から「生き急いでるよね」とか「戦っているよね」と言われましたが、何言ってるの?辞めたら終わりでしょ、としか思えませんでした。そして、どうしてみんなそうでなく息をしていられるか不思議でした。

社会には、心の問題を扱う概念がほとんどありませんでした。心の不具合は精神病であり、薬物と電気ショックと隔離が対処法。救いを求めるのは病院か宗教か自己啓発、というような行き先でした。唯一、芸術、というのが私にとっては希望の光でした。いびつさを魅力に変え、敏感さを才能として開花させれば生き残れるのでは、というような感じです。父がそうだったように。

私も、多分社会も、硬直しきっていました。

芸術方面で知り合った友人から、スピリチュアル、という概念が届きました。女優のシャーリー・マックレーンの本が世界でベストセラーになった頃です。でも私にとってそれは現実的ではありませんでした。見えないふわふわしたものに頼るなんて論外で、それは文学や芸術作品の一部のように感じられていたと思います。しかし、自分を再認識し、育てなおす必要性は充分に感じていました。なにしろまず、健康にならなくてはなにもできません。

心の問題を探るとき、まず手がかりになったのは「アダルトチルドレン」でした。
少なくても間違いなく自分はそこに当てはまることができ、世界で独りぼっちではないということは理解きました。

しかし、アダルトチルドレンの回復のプロセスはまた、非常にそそらないイメージでした。当時は権威の匂いがするところと関わりたくありませんでしたし、グループで体験をシェアするみたいなイメージも苦手でした。また先が見えている感じがして、希望もわきませんでした。

私は父の精神的な病気のため、子供の頃精神病院へつき添ったりしていて、父の状態や家族をほとんど理解できない病院に対して非常に不信感を持っていました。また私の体調や心の不具合を誰も見抜けませんでしたし、誤解も受けました。それ以上誤解されたり実験の対象にされたりするのはまっぴらでした。それ以前に、のほほんと自分の治癒に時間を費やすなんて論外でした。なにより、大学を中退し家出同然に家を出た私は貧困でした。自立を確保すること、また、家族の問題の嵐に圧倒され巻き込まれないこと、生きていること自体をいやにならないこと、それだけで、いっぱいいっぱいという感じです。

ただ、アダルトチルドレンの原因と、不幸のスパイラルを繰り返すという特性を持つという事実と、そのからくりは非常に納得でき、自分がまさにそこにどっぷりはまっていることは重々理解できました。当時は原因を探ってはさらに絶望、というところに居ました。

こののちに、アダルトチルドレンのトラウマ、認識の歪み、知覚の過敏、愛情の欠如による心の不安定などに有効な改善法に出会い、それがヒプノセラピーの退行療法、インナーチャイルドワークであったわけです。出会うまでには更に長い月日が経っていました。それまではひたすら意識の法則を学び、こつこつと意識的に自分と向き合うという実生活での実践が続きました。もちろん祈りもしましたが、神さまは遠いどこかにいて、多分そちらからこっちは見えていないだろう。見えたらこんなひどい状態で放っておくわけがないと感じていました。

長くなって恐縮ですが、話を戻します。最近になりHSPの概念を組み入れたところで、この敏感さというのが、ことさらにトラウマのひずみを非常に強く根深く自身の心(潜在意識)に刻み込んでしまうということに気づきました。つまりさほど強烈な体験でなくても、些細なことから大きな傷にしてしまうのと、さらに影響が薄れないで長く引くという傾向です。

この発見は納得でした。自分にはまさに当てはまりますし、長いインナーチャイルドワークの臨床から、クライアントさんの多くが「それほど過酷でない環境で育ったにもかかわらず、深い傷を受けている」という実例を数多く見てきました。というよりほとんど、幸せな家庭で育ったにもかかわらず、です。

彼らは「自分より不幸に、厳しい中で育った人はたくさんいるというのに、生きづらさを感じてしまうなんて、これは自分が怠けているからか能力が足りないか、もしくは性格に問題があるのだ」と認識しているのです。これは実は私にも充分に覚えがあります。

幼少の時から私の母はなにかにつけて、「もっと不幸な人はいくらでもいる。文句を言うな」という論調でした。私の弟は生まれつき顔と全身を濃いあざで覆われていて、見た目にぎょっとするくらい目立つのですが、母はよく、「知恵遅れよりうんとまし」というようなことを言いました。そうやって自分を鼓舞していたのだとはとても理解はできますが、子供の私はそういう対比そのものを残酷で差別的だと感じました。

また弟以外の私や妹に対しては、弟以上の問題を持つことは決して許されませんでした。妹はこれも生まれつきひどいアトピーであったり、おできやトビヒや喘息、ひどい車酔いで大変でしたが、私の知る限り弟以上の扱いは決して受けませんでした。ですから私など論外です。ちゃんと立派に産んだのに問題を持つなんて、という婉曲の圧力をよく受けました。

母の名誉のため申し上げておけば、母は戦争で父親を亡くし、戦後満州から引き揚げるまでに1年以上も、母親と幼いきょうだい3人で逃げ歩きながら暮らしていたという体験を持ちます。追われて高い塀を乗り越えて逃げまわったり、ソ連兵が来て母親は屋根裏に隠れて子供たちだけホールドアップしたり、日本へ戻ると家屋敷を取り上げられたらいまわしにされ、弟のために進学をあきらめ就職し、就職では父親がいないと差別されたりと、さんざんな成長期を送っています。

ちょっと傷ついたくらい、それがなんなの?という価値観を持つ理由は山のようにあります。彼女こそが非常に感受性の強い、無意識のトラウマを持つアダルトチャイルドでしたが信じられないほど強い信念の持ち主です。

それに引き替え私は、過酷な環境であるとは認識しながらも、ちゃんと食べられ、ものも与えられ、教育も受けさせてもらえ、父親は精神不安定ではあっても仕事である程度成功し有名人のはしくれでもありました。なのに私は根性なしで忍耐力、持続性に欠け、傷つきやすく虚弱でした。

父への恨みを母からさんざん聞かされた上に、私の苦しみはいつもいとも簡単に抹殺されました。お聞き苦しいと思いますのでこれ以上は控えます、というくらいそれはひどいことがたくさんありました。そして私は苦しみながらも、「自分には苦しむ資格さえない」というその考えを受け入れてもいました。自分より苦しい人はたくさんいるのに、と。

それがどれほど自分への愛と信頼を失うことになるのか。自己評価を失い、尊厳を侵され、生きる意欲すら削いでしまうことになるのか。あたりまえのことですが、問題なのは出来事や条件ではなく、「それをどう感じ、認識し、受け止め、そして何を学ぶか」です。

HSPへの認識によって、個々の自由がさらに尊重されると同時に本当の自分を取り戻し生きることが社会の中で重要視され普遍化されるようになることを願います。

またこの敏感さと別に、共感力、というのも非常に重要な概念です。これについてはたびたびブログでも触れましたが、共感力だけでその普遍性を説明できないことも多々ありました。

共感力は、たとえば、他人の感情や痛みを自分のもののように察知し、時にはそれを実際に自己に起こったように感知してしまうという能力ですが、知覚が敏感な人でも共感力は比較的、或いは極度に鈍感という人もいます。

共感力の強い人から見ると、自分の心情を説明なしにわかってくれない人は鈍感なのですが、そういう人も例えば音や光には非常に敏感で、絶えずそれに反応していて疲れている人もいます。そういう人は無意識であることが多くトラウマ自体を発見しにくいものです。ですが、実際は得体の知れない無力感を抱えています。自分の知らない自分が勝手に反応しているわけですから、自分を愛しにくいとも言えるでしょう。

どちらにしてもそれは他者との相互理解の溝となり、不快さや傷つくことを避けて、コミュニケーション不全へとつながっていく可能性が大です。

例えば今では発達障害など、様々な症例がありそれには名前がついています。器質的な損傷があるものもありますが、はっきりしないものも多数でしょう。それらを無理に個性なのよ、と思おうとしても、実際の不具合の不快さには勝てません。それは自己不信、他者への不信、誤解、愛と信頼の欠如、おそれ、無気力、生への放棄をはらみます。

実際には、全体的な理解と、具体的な自分取り扱いをマスターすることで、本来の自尊心と信頼の気持ちが回復します。人が健全に、尊厳を持って生きるのに絶対的に必要なのはそれです。それこそが、愛を持って生きる生き方なのだと私は理解しています。

私たち人間は、愛によって満たされるまでは常に欠如を抱え、また愛の欠乏によって傷と心の限界の壁、すなわち分離を作ります。傷と分離は、注意を向けられ手当されるまでは外側、他者から愛を補います。傷が深いと愛はダダ漏れになって、周囲から知らずに奪い続けるカルマを作ります。善意であれ悪意であれ関係なくそれは起こります。

私たちが自分の中の傷や分離に向き合い、他者から愛を奪うのをやめるとき、その源へつながることが必然になります。それが、私の言う、内なる神です。人には愛が必要というのは、誰にもうっすらと理解できると思いますが、神が必要と言うととたんに怪しまれます(笑)。

しかし神という無限の源泉とつながらない限り、その愛は制限付きの愛でもあります。癒しは神によってしかもたらされないというのが、この世の真実だと、やはり私は思います。

冒頭の命題とちゃんとつながったでしょうか。長文とおつきあい、まことにありがとうございました。

AZU拝

怒涛の刷新中

みなさんこんにちは。

「RUACH AZUによるヒプノセラピストのための講座」今月から始まりました。おかげさまで、この私のみっちりと詰まった濃厚なエネルギーを、よっしゃとばかりに受け止めてくださる方に恵まれました。

初まってみて改めて思うのは、ああ、本当に教えるとは学ぶことなのだ、ということです。あまりに学びが大きいし多いため、あれ?これまでの私ってまだまだスカスカだったか?と自己イメージが変容してしまうほどです。おかげさまで意識が若返りを速めています。

集大成などというものは幻想なのだとつくづく思い知らされます。

いろいろな認識を整理することになっているのはもちろんです。ですが、整理されたものとしてお渡しするのではなく、私の中で最大限に生きているものを伝授させていただけることがなにより幸せですし、大切なのだと思っています。アチューメント、というわけではないのですが、エネルギー的にはそうなっているように感じています。

お受け取りくださっている親愛なるおふたかたと、導きくださった大いなるものに感謝としか言いようがありません。おふたりとも、飛行機で来てくださる状況で、本当に、頭が下がる思いです。

セッションにも私自身の変容がダイレクトに反映されているのを感じています。講座の生徒さんから「AZUさん、辞めるわけではないよね?」と言われました。始めたときも今も、エネルギーにお任せの私なので、「あれ?そうなの?」とも思わないでもありませんでしたが、閉じる予定はありません(笑)。が、セッションとは本当にその瞬間のご縁なので、神のみぞ知る、ではあります。私のからだと人生はすでにそこに預けてはいるつもりです。

感謝とともに

AZU拝

ヒプノという瞑想

先日お電話で直球なご質問をいただきました。「ヒプノセラピーは素晴らしいものだと言われているのにどうしてもっと普及しないのですか?」

その通りですね。この10年、この療法とお付き合いしてきて、それは何度となく考えました。ですがまず、この10年の普及率は凄まじい、というのも本当だと思います。最初は日本でも行っている人が数えるほどしかいなかったはずです。私が始めたころには全国から受けたいという方が見えていましたが、私の所属していたところと有名なところはもう一つ、あとは怪しい感じのところ(お客様談)という感じでした。でも今はセラピストも増え、とても研究されていて進化もしている領域だと思います。

私に言わせればこのセラピーはテクニックやビジネスという風に捉えることを許さない領域です。それが爆発的に広まらない理由のひとつ。どこそこで認定を取った、などとよく言われていますが、認定を取ったからできるというものでもありません。そして個人で始める人が多いと思いますが、個人で進めるには難しすぎるものでもあります。私は幸運にも最初に所属してた機関でいつもセラピストが3~4人リアルタイムで情報交換をしたり休憩の時に相談し合ったり、またお互いに練習台になったりという研究ができました。研究所のような感じです。自分のクライアントさん以外のケースについても知ることができ、探求の材料となりました。そして個人ではなかなか体験できないほどの多数のケースを担当することもできました。しかし経営という面から見たら効率がいいとは言えません。場所や宣伝、維持費がかかり、セラピストの賃金はとても低くなります。ハードな仕事ですので多くのセラピストは自己メンテナンスに追われて身が持たなくなります。ですからちからがついたセラピストは独立します。経営者はいつも新人セラピストを育てなくてはならないし、安定した内容を提供することが難しくさらに進化もできません。必然、型にはまったセッションにせざるをえません。心理セラピーは受け手と施術者の意識の領域でのセッションとなるためセラピストの意識の状態が内容に圧倒的に影響していきます。つまり癒されていない、浄化されていないセラピストは形式では行うことができてもその影響が自分に返ってきて非常に苦しくなったり重たくなったり、また疑問が恐れとなって不安定になったりと、何かと前進が難しいのです。消化しきれないほどの想念を扱うことになってしまうのです。

そして、このセラピーの素晴らしさは受けた人にしか実感できない、ということも大きな要因です。概要や仕組みを知ることは容易くなってきていますが、実際の感触や変化についての予測はつかないでしょう。概ねの予測を裏切り、思考がする物理的な予測を超えます。当然ながら、それが思考を超えた潜在意識の領域のことだからです。

多くの方が体験のあとで「みんな受けたほうがいいのに」「家族に受けさせたい」「どうしてこれなしにみんな生きられるのでしょう」などの感想を持たれます。もちろん私もそう思っています。ですが、これは人間という存在の根幹とも関わる魂の問題でもあり、受けるという決意とコミットメントなしに足を踏み入れるのが難しいものでもあります。ある意味、本当に変わることを人間は恐れるのです。このままでいて、一部の状況だけ、あるいは周囲の人だけに、変わって欲しいと願うのがエゴ(個我)の欲求です。その個我を本当に窮屈と感じより大きな次元へ自分を拡大したいという根源的な欲求なしには踏み入れることはないのかもしれません。もちろん多くの方はそんなことを最初からすべて理解してみえるわけではありませんが。

魂から解放の声がかかり、それを聞き入れる準備があり、私のエネルギー的形成と波長があって惹きつけられて来てくださる方とセッション行うという今の形はひとつの理想です。私が自由になり私の領域が広がれば自然私の守備範囲も広がり、よりフィットしたセッションをご提供できるようになっていくと思っています。

もちろん、自己を解放し、より広がったセラピストが増えてくればそれだけ世界の浄化も加速するかもしれません。そのために私ができることがあるとすればその準備はしておくつもりです。

興味のある方はご参考になさってみてください。