インナーチャイルドの真実

この世に生まれた赤ちゃんの最初の世界。
父と母という神の原型が、家庭という世界を築いていて、まずは自分の居場所と安全を確認する。

赤ちゃんによっては先にもう少し大きい住人がいることもある。
もっとたくさんいることもある。
沖縄へ来て驚いたのは、何人ものおとな(たとえば親戚のおじさんおばさん)が同じ王国に暮らしていたケースなどが意外と多いこと。

でも、大国の創造者であり自分のいのちを直接養う神はお母さん、そしてお父さんだ。

自分の居場所、それは「神々に歓迎されているかどうか」そして安全は「神々が友好的に平和を保っているかどうか」だ。
「歓迎されているかどうか」は「自分は愛されているかどうか」そして「友好的に平和かどうか」は「お父さんとお母さんは愛し合っているかどうか」と言い換えることができる。

赤ちゃんにとっての愛情確認は死活問題だ。

潜在意識(インナーチャイルド)の成り立ちと仕組み、作用の説明をこれまで何度繰り返してきただろう。何度も何度も繰り返し理解を求めているうちに自分の内側から真実がぽつぽつと浮かび上がってくるようになった。こういうのを降りてくるというのだろうけれど、降りてくるというような突発的で不安定な感覚ではない。

たとえばやかんのなかでいったんお湯が沸いたらそのあとは定期的にぼこぼこと水蒸気の泡が上がってくる。この泡を捉えるのだ。水である時の水蒸気は目に見えない。たとえ見えなくても空気中にそれは気体として上がってはいる。この水蒸気を見ようとするのがよくあるスピリチュアル風なやつで、見える人には見えるし見えない人にとってそれはオカルト的だ。

しかし瞑想を継続的に行って自己意識の浄化(既成概念の見直し)をして自分の波動を上げていくと水温が上がり、沸点がくる。そこから水蒸気を捉えるのは普通のことになる。見えるし聞こえるし、普通に実態があるのだ。

話を戻す。
前回の記事にも人間は弱いとかサバイバルに不利だと書いた。確かに知性はずば抜けているが、愛が伴わないと自滅すると。思いやりという裏打ちがない文明は、いづれ他者を倒すとか勝つとか、そんなことのために用いられるだろう。それが生き物の第一の本能だからだ。オオカミやライオンは自分の足と牙で適う相手を探すけれど、人間の知性はもっと多くに優る。知性の発達と愛の深化は、生き物としての人間にとっても不可分なのだろうと思う。

人間の潜在意識が3才くらいまでに最大の発達期を迎え、その後の変化はとても緩やか。13才ほどでその発達は収束してしまうとされる。私が面白いと思うのは、その発達期に人間という生き物が、肉体的には文字通りお母さんにおんぶにだっこだということだ。知性、意識ばかりが発達して肉体のほうは自立しない。そのアンバランスは人間という生体にとってそれが必要で重要だからなのだろうと思った。

人間の特質は圧倒的に知性だ。それと不可分なのが、情緒と言われるもの、感情、共感、そして愛なのだと思う。それなしに人間は生き残れない。知性は自立できない。破壊力はいつか自己を含む同種に向かい自滅するはずだ。賢者が長いこと警告し続けてきたのは寓話的な発想ではなく、人間の仕組み、原理そのものから解析した真実なのだと強く思う。 

人間は3才までに、お母さんにつきっきりの愛情を求める。目を離さないで、ずっと見ていてほしい。これはすべてのインナーチャイルドの根源的な欲求だと思う。そこには身の安全を図る「本能」と、愛情を求める「情緒」が入り混じっている。これが人間という生き物の原点なのだ。

心の問題と言われているものは、すべて愛情の不足だなどと言われる。その言葉を聞いて憤慨する人もいる。愛情不足をお母さんの努力不足、能力不足と混同すべきではない。愛というのは数字のように過不足を測れないものだ。だから私たちはそれについて一生かけて、いや、数千の輪廻を超えて学んでいるのだ。

愛はそもそも誰にも不足している。それがインナーチャイルドを探求してきた私の感想だ。完全な愛を知るまでそれは続く。完全な愛を神と呼ぶことができる。私たちの魂はそのための旅をしている。しかし新しく生まれてきた肉体のほうは知る由もない。そこでボタンの掛け違いが起こる。魂の求める愛を、肉体のほうはお母さんに求めるのだ。完全な愛を。

魂を主体に世界を観ると、インナーチャイルドの抱える欠損こそが、人間が魂の任務を遂行するための仕掛けなのではと思う。お母さんの愛が至上であったらその人はそれを超えることを求めるだろうか。自分が渇望するものを、人にも与えようと努力するだろうか。

いづれにしても、インナーチャイルドの問題を扱うとき、魂つまり超意識以上の観点を持たない限り、必ず限界の壁に当たる。それが私の得た真実だ。潜在意識を補修すれば「人並み(か、それ以上)の生活できる」という世界観から抜け出せない。前回書いた通り、暗雲が晴れる快感のために不幸を体験するというループ以上の喜びが見えない。

そうなると、欠損を作り出したのはお母さんの過失であり、それを赦すには我慢するしかない。欠損を抱えながらこの世を生きるのは不利であり、自分が過失を起こさないためには「子供にしてはいけないことリスト」を遂行することが子育てに必須になる。自分への愛などあとまわしだ。

この分野はまだまだ発展中だ。暗雲を一度すり抜けたことでセラピーばんざい、という気分になりセラピストを目指し実際行っている人も多いと思う。その中にもちろん真実はある。ただ、それで全部だと思わないでほしい。

自分の人生には多くの体験が与えられた。そこから得たものを伝えることは一つの使命だと思う。しかし体験から本当に大事なことを言葉やかたちで伝えるという作業は本当に骨が折れるものだ。私は伝えきれない多くを意識の海に記録していく。誰かが瞑想によってそれをすくいだして活用してくれるだろう。私が与えてもらったように。

セラピーのゴール

みなさんはなぜ、自分の内面と向き合おうとなさいますか?

きっかけは多分、外面の世界との関係(対家族、対社会、恋愛その他の人間関係)、自分自身との関係(自己認識、自己コントロール)に問題が生じたことだと思います。私が辿り着いた自分を幸せにする原則は、他者を変えたければ自分が変わる(生長する)こと。そして幸せになりたかったら、愛を実行することです。

いろいろ考えているとごちゃごちゃしてきますが、混乱したらいつも原則に戻ることにしています。自分がすっきりすれば世界はすっきりします。いろいろな社会現象が目に見えて変わるわけではありませんが、社会を組成している一部である私の意識は紛れもなく全体の一部であり全体に影響を与えます。この原則に慣れると、自分の進化が見えれば周囲がすぐに変わらなくても必要以上に気にならないものです。ですから逆に、周囲が気になって落ち着かない時は自分の前進が滞っているか自分を見失っている時だとわかります。

すべての関係性の問題は愛の法則によって解決できます。もしすぐに解決しないものがあるのであれば、愛のほかに必要なのは時間と経験です。しかし愛なしに時間と経験を重ねても解決に向かうとは限りません。

すべての関係性を愛の法則によって解決することは、私たちを本質的に生長させます。霊的成長と言われるものはこのことを指しています。

私たちは幸せの実態をよく知らないまま人間として生きていますが、幸せとは何だろうと探求しそれを生きようとすることは、私たちを本質的に生長させ、ひいては人間はなんのために生きるのかという問いに自ら応えることになります。それ以外の目標はいつも危険と隣り合わせです。得れば失い、また失うかもしれないという恐れと抱き合わせです。幸せから逸れないことだけが私たちを奪うことも失うこともなく共生させてくれます。

幸せは感じるものであるし、愛もそうです。そしてそれ以外の領域では人間はとても弱い生き物です。賢さは愛なくしてはすぐに自滅してしまいます。それ以外の能力で人間はこの世に生き残ることすらできないでしょう。

私はインナーチャイルドの問題に長年取り組み、多くの方の問題に寄り添わせていただいてきました。

愛に関する問題の根っこはインナーチャイルドにあります。昔はその事実すらみつけるのにおおごとでした。今はネットという情報網があるので、その辺に見当をつけることがわりと容易です。

しかし、情報をもとに自分でワークするには結構なコツと原理の理解を要するのが事実だと思います。ひとつ間違うとワークは間違い探し、他者との違い探しとなり、それではなにかを理解したつもりでも実際は孤立し、癒したつもりでも実際は傷に目印をつけて目立たせたところにとどまります。

ワークの目的とはなんでしょう。癒しとは何でしょう。肉体であれば、傷や病理が治ればある程度元通りになります。しかし心というエネルギーは、本来正解というかたちがありません。雲のように常に変化するものです。雲自体が悪者なのではなく、ただ時と場合によってはひかりを遮って世界を暗闇に見せます。

私たちの心の正しい在り方とはなんでしょう。雲一つない晴天を維持し続けることでしょうか。雨が永遠に降らないように自分を作り変えることでしょうか。

ワークで暗雲が晴れ渡ったときのその喜びはすばらしいものです。人によっては、その喜びのために私たちはまた暗雲を作り出すのだ、などと言う人もいます。それが人生なのだと。

それは本当の目的地を見失った人が、なんとか生きることをやめないでいるための暇つぶしのようです。そんなことのために人間は生きるのでしょうか。人生には雨降りも必要だ。なぜなら…と自分を納得させてすべてを無理やりいいことだと信じ込むことが幸せでしょうか。

私はごめんです。

私は、私の人生の創造者です。私が生きることで、世界は気づきという輝きを常に放ちながら生長しています。すべての私という存在がその一員です。つまりあなたです。

意識は創造し続けます。あなたが思うことはすべて宇宙という鏡に映し出されます。その連続が変化です。私たちは被造物であると同時に創造主でもあるのです。それを体験し続けています。個としてそしてすべてとして。

私たちは取り引きなしの純粋な喜びを生きることが可能です。私たちのすべてに備わった愛という質のゆえに。

以下はあるお客様からいただいたご質問に対して私がお答えしたものを少し手直ししています。(Mさん、ご質問ありがとうございました。)みなさんにとてもお伝えしたい内容となりましたのでこちらへ掲載させていただきます。(プライバシーには配慮しておりますがお気づきのことがあればご連絡ください。対処いたします。)

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書くという作業は頭を使いますよね。

言葉はものごとを整理するにはとても役に立ちますし、言葉にして顕在化することで無意識に光りを当てる作用もあります。ただ「理由をみつけようとすること」は感情への癒しには直接つながりにくいものかと思います。

たとえば怒りは正当化されるととたんに増長します。世の中では正しい人ほど怒っています。そして怒りは正しいという考えから自己を抜け出せなくさせます。

許さない気持ちというのはどこからくるのでしょう。
それは忘れてはいけない、という気持ちです。
忘れてはいけない気持ちはどこからかと言えば、覚えておかなければまた繰り返してしまう、という防御からきます。
それが役割です。

インナーチャイルドとはなんでしょうか。
それは、過去の体験データです。
すでに終わったことのリストです。

インナーチャイルドがなにか問題を起こすとしたら、理由は一つしかありません。それは、すでに終わったことを終わっていないと勘違いしてしまうことです。つまり脳と肉体が、今問題が起こっていると感知し作用してしまうことです。これはチャイルドと見立てて例えれば情緒的な反応に見えますが、実際は肉体がロボットのように機械的に反応しているだけと言えます。実際、脳と肉体のシステムがそうなっています。

癒しとは、現実に戻ってくることです。今のありのままの真実に戻ることです。今起こっていることと、起こっていないことを明らかにに認識することです。しかしそれは時にとても厳しいことです。ですから癒しは神に寄り添ってもらう必要があります。愛が必要なのです。

失敗という言葉で表現するのであれば、過去に失敗があったことになんの問題もありません。問題は、今も失敗し続けている、と、脳と肉体が判断してしまうことです。「問題が起こり続けていまーす」と、警報が鳴り続けているのです。

もし本当に今現在問題が発生しているのであれば、現実に対処することができます。でも実際にはそれは起こっていないので対処できないのです。

そうすると心の中にはいつもなにかしらの落ち着かなさや不安感、もやっとしたしこりの感覚があり、いつも対処すべき問題を抱えているような状態になり、それゆえその仮想問題以外の、今すべきことの優先度は意識の中で低くなってしまいます。当然そこにエネルギーが注がれることはありません。大事な人生の創造にちからがいかないのです。警戒警報中にバカンスなどその気になれないのと同じです。

さてそこで、実際は起こっていない問題を解消するには、意識の中で問題を終わらせてあげるだけでいいということなのです。それがインナーチャイルドワークであり過去世ワークです。

人間の脳とからだは、実際に起こっていることと鮮明にイメージしたことの区別がつきません。それゆえに起こっている不具合は同じ原理によって解消してあげよう、というやり方です。

それには思考をお休みさせ、五感を駆使し、リラックスして、心をオープンにバーチャル体験したいのです。それがヒプノセラピーです。

私は自身の体験から、このやり方が人間の仕組み上最も優しく適切と感じました。終わったことを終わったと理解するには、そのようにか「感じる」ことが重要なのです。それが心身ともに納得し、腑に落ちた状態です。

そうなったとき、私たちは安心して前に進むことができます。不安や恐れや緊張や、自己の欠陥や間違いがなくなるのではなく、自然な生長という変化の軌道に戻ることができるのです。

変化の中の今に生きるとき、私たちは自然に過去を忘れます。手放すというのはそういう感じです。

過ちも成果もともに経験し、今がある、ただ、今があれば良し、となっていきます。

みなさんに申し上げるのですが、もしご自身の大事な友人が傷ついて動けずにいたらどうしますか?その精いっぱいの思いを友人に向けてほしいということです。そして友人のために神に祈ってください。その友人は過去の自分自身です。

なにかを訴えているのならその訴えを聞いてあげてください。しかしその言い分が真実ではなく、傷を負った状態で、痛みを抱えながらの過剰な訴えだということをいつも心に留めて、全部本気にはしないでほしいのです。ただ気の済むまで寄り添う姿勢が大事です。解決してあげるのでもなく、助言するのでもなく、見守って、気持ちに共感してほしいのです。あまりに傷ついた人が死にたいとか殺してやると言ったからといって全部本気にして手伝ったりしないのと同じです。それくらいの思いなのだと受け止めてあげることです。

その友人は自分であり、未来の愛する相手です。この世ではすべて、自分が自分に行ったことが自分に還ってきます。

過去もそうでしたがそのすべてを理解することはできませんし必要ありません。ある程度理解したら、今、(愛を)行い始めればいいのです。それが未来のあなたへ還ってきます。あなたがされたいように自分にしてあげてください。創造するのは常に今だけです。

自己肯定感、あります。

からだだけが自分じゃない。そう自覚している人はきっとたくさんいるだろう。心が大事。そう思っている人もきっとたくさんいる。

思うようにならない自分と格闘して葛藤して、潜在意識≒インナーチャイルドを探求している人も、今はたくさんいる。情報もたくさんある。

そしてこんなことも起こる。自分の過去に作った傷がたくさんみつかった。原因もわかった。一生懸命修復に取り組んでいるけどなかなか変われない。やっぱり自分には無理なんだろうか。がんばってもがんばっても追いつかない。

愛にあふれた人ほど、自分の内側の傷を見て、それに圧倒されてまた傷ついてしまう。思慮深い人ほど傷を負った自分自身にさらに問題を感じてしまう。

私自身、おとなになってみて何一つ思うようにならなくて自分を振り返り始めて数年、いや10年、いやもっとそれ以上長く、そんな思いの中にいた。

掘り起こせば起こすほど、自分の未熟さ至らなさに直面して自分を責めてしまう。そんな中で情報に照らして自分を分析し評価するとしたら「自己肯定感(自己評価)が低い」んです!みなさんそうおっしゃる。そしてその低さを作った原因がわかれば、それを修復できれば、誰かを許せれば、変われるかもしれない、そんなふうに感じている。

私も本当に長い時間かけてその答えを探しさ迷ってきた。私のその体験と時間をできたらみなさんに捧げたい。もし受け取ってもらえるならば。私の経験が、あなたの時間を短縮すること、そしてあなたがさらにその先を体験すること、それが魂の仲間の共通の目的だ。

身体だけじゃない、外側じゃない、中身が大事。中身が本当の自分だというところまで真実を突き止めたみなさんは、潜在意識こそが自分の真実だと思ってるかもしれない。或いは潜在意識こそが自分の宝もの、或いは自分の真の導き手、或いは神さまのような存在だと捉えているかもしれない。でもそれは、違う。

潜在意識は体験の記録の集大成のこと。からだという特定の反応をする方程式がつまった箱に何かを放り込んで出てきたもの、それをしまっておく場所のこと。いわば肉体のデータバンクだ。

データをいじって修正する権限を持つのはそれ以上の知能を持ったものに限られる。データがデータを改善することはできない。或いはデータの箱がデータを改善することはできない。権限を持つのはあなた。それを教え導くのが魂、ハイヤーセルフ、そしてその中核である全き神である。

私たちはこのデータをまとっている。このまとったものを自分自身と勘違いしている。傷だらけでみすぼらしい、くたびれたその姿に更に傷つき、それでも立ち上がって今度は修繕を始めようとしている。これは一人ではとても無理だと悟ったから手伝ってほしいと私に申し出てくれる。

いろいろなヒーラーやセラピスト、カウンセラーがいて、あなたを手伝うと言う。すごく長い時間をかけてその修繕を一緒にやったり(やってもいい。でもそれは目的ではない)、もっといいハウツーがありまっせ、と提案したりしている。どうです、私、立派でしょ、きれいでしょ、あなたもこんなふうになれますよ。それが宣伝文句。

でも私に言えるのは「それ、ただの服なんですよ」ということ。潜在意識、インナーチャイルド、あなたが自分あるいは自分の本質だと思っているそれは、データが編み込まれた、服なんですよ。

最近のセッションでのこと。その人の魂の光、愛の炎があまりに燃え盛っていて、その愛の炎でその人のまとったぼろぼろの服は既にほとんど燃え尽きているかに見えた。魂そのものが光を放ち、自らがまとっていたかりそめの古い衣が燃え堕ちようとしているさなかにまだ、その服をなんとか修繕しなければと真摯に訴えていた。あまりにまっすぐにそこに居てくださったから、私もまっすぐに伝えることができた。

「その古い服、脱いでください」

その方はしばらく目を見開いて、というか肉体の目をぎゅっと閉じて、心の眼を見開いてじっとしておられ、それからまっすぐにこちらを見て「そうか。そう観たことはなかった。確かにそうだ。魂はきれいなんだ。きれいなものなんだ。それが自分の心なんだ。」

その方は一瞬で悟られた。自分は魂なのだと。心の核は魂で、汚れた心と感じていたのは多くの体験を吸収し、くたびれた衣服だったと。服がどんなにズタボロでも、魂はそれに影響すらされることなく美しいままなのだと。私はその方のまとった焼け堕ちる寸前のその衣がばらばらと灰になり崩れ落ちるのを見た。そんな見事な再生に出会えたことが奇跡だと感じる。

しかしだったらなぜ潜在意識の探求などするのだろう。

それは、その衣の命を全うさせるためだと認識している。学びを完了させるとも言い換えられるが語弊もある。それは理屈や知識で得るものではない。感情の燃え残しに聖なる火を点火し燃焼させることだ。

人間は、五感を通して受け取った情報を感覚として感知し、そこから化学反応で感情の波を起こす。生長の道すがら、情報は確かに受け取ったけれど湧いてきた感覚や感情は感じ切らずに置いておいた。そんな体験が器に余る莫大なエネルギーを使わずに溜めている。鮮度が落ちたそれは、やがて器にこびりつき沈殿する。ものによっては腐敗する。

「感じ切ってください。」ヒプノセラピーでのあなたのミッションはこれにつきる。あとは、魂がやってくれる。

ごびりつきや沈殿物や腐敗物を燃焼したときあなたの内なる光は増し、その光があなたの内側と行く手を照らし始める。だからあなたは歩けばいい。光りの中で光とともに生きればいい。あなたのまま。一歩一歩。光りによって周囲は良く見え、自分の内にある光が周囲を照らす。それがあなたの価値だ。それに評価なんて必要だろうか。

そうやって光の器となって再生したあなたは、過去に着ていた服のことを思う。もし生まれてこのかたきれいな服ばかりを着ていたならどうだろう。あなたは違っていただろうか。

ボロボロの服からも、肌触りのいい服からも、そこに吸収された体験から抽出され中身(魂)にしみこんでいくのが愛であり、どちらの服もその愛を抽出し終えたときその任務を全うする。あなたはやがて手放す服を、あなたが学びやすいように選んできた。あなたの父、母、家族の設定、社会と国家、時代背景。

その服にありがとう、愛しているよ、さようなら、全うしたねと心から言える。それが自己肯定だ。そう言えるようあなたの気づきを促すのが潜在意識への取り組みでありそれはそのままあなたの魂、そして内なる神への回帰への道だ。

単にきれいな服を着ている他人を見て、あの人には自己肯定感があるとか幸せそうだと人は言う。でもその人の中身は本当に寄り添い向き合ってみないとわからないものだ。ボロボロであれきれいであれ、その服に執着している間の肯定や評価などまったくもって価値がないと今の私は思う。それは誤解であり錯覚なのだから。

どんな自分を生きたいか

ヒプノセラピー(催眠療法)をやっていると、いろいろな方のお腹の中の記憶に触れることができます。こんな体験が日常だなんて貴重すぎる、という気持ちです。物言わぬ胎児の心の声ですからね。

私が見てきた多くの胎児は、お母さんとの関係、お父さんとの関係、という意識をすでに持っています。もちろん言葉では認識していませんが、「喜んでほしい」「がんばらなきゃ」「楽しみ」「もっと気持ちを向けて」などの感覚を、お母さんの声や心音、またお父さんとのやり取りの中で、テレパシー的に捉えています。

また、過去世の感覚的記憶が残っている場合も多く、「なんとなく(生きるのは)しんどいな」「出たくないな」「また(あんな思いをするの)か」などと感じている赤ちゃんもいます。

私が総じて重要だと感じるのは、その最初の関係性、つまり両親との関係の中で、すでに心の中に求めているものがあるということです。

生まれてきてからは呼吸を始め、おっぱいを飲み、苦しいとか暑い寒いおなかすいた、気持ちいい、もっと、など、からだの欲求を学ばなければなりませんが、それよりも前に、お母さんという存在に対して「愛してほしい」さらに「愛したい」という思いの片鱗を多くの人が持っているのです。

人間は最初のアイデアとして、そういう青写真を持っています。言ってみれば、人間は愛するために生まれてきている、ということの証なのだと思います。

さて、この世に生まれてからというもの、先程述べたように赤ちゃんは、肉体を生きることを懸命に学びます。そして最初のアイデアの優先順位は次第に下がっていきます。数年するかしないかで、集団という社会に飛び込み、外界から世界を学ぶことが日常になっていきます。

おとなになるにつれ、今度は自立という課題がやってきます。就職、経済、そして結婚、などと、愛で結ばれる関係すら対外的なリストに並んできます。それから人によっては子育てという重責がかかります。その頃には人は、社会からの評価というものと自分がすっかりひとつになっています。社会から、集団から見た自分が自分の価値だというふうに身に染みています。

そうなるとその自分がうまくいっている限りは、本当の自分に触れるチャンスはなかなかみつかりません。チャンスがきたところでそれはなるだけ迅速に「処理すべき問題」としか目に映らないでしょう。たいていのことは排除するか、スルーするか、何かしらの機関に依頼するかして対処します。

すると今度はいよいよ、既存のやり方ではどうしようもないようなかたちで、チャンスがやってきます。パートナーシップか子育てか、という愛のやり取りに面と向かって初めて我に返る方も多いかもしれません。それが、あなたを本当の目的、最初のアイデアに注目させてくれるはずです。

本当の自分とはなんだったのか。そもそも、なにがしたかったのか。なんのために生まれてきたのか。

内なる真の自己はいつもあなたにそう問いかけます。「あなたはだれ?」と。そして、その人生において、何を、誰を、真に愛しますか?と。

本当の自分を取り戻すことは恐らく、どんな人にも、誰にも必要なことです。私たちは自分が愛という意識だということをいったん忘れ、肉体としての自分を乗りこなすことに集中せざるを得ません。そしてそれが軌道に乗った頃にはすっかり最初の目的を忘れています。乗りこなせる自分に夢中なのです。

愛するものを今生で与えられながらも、それに深くは気づかずに人生を送っている人も大勢いると思います。人は愛についてこそ体験しなければ(実感しなければ)ならないのに、他の多くにあまりに気をとられます。

どのような人もすべて、最初は同じところからやってきました。種が違う?魂の故郷が違う?いいえ、そのもっともっとおおもとは、ただ一つの神だったのです。ただ一つの愛という意識です。

私たちが思い出すべき最も重要なことはその点にあると私は思っています。

人間ってほんとにすごいのよ

「RUACH AZUによるヒプノセラピストのための講座」を開催中です。

ベーシック講座なれど、これまでの経験からの発見、学び、気づきをなるべくお伝えしたいがゆえに、膨大な情報量となっています。全身全霊を傾けて受け取ってくださる受講者さんに、またこのような導きを成就させてくださった大いなるものに感謝ばかりです。

究極、煮詰めれば煮詰めるほど言いたくなるのは「人間ってほんとにすごいのよ」ということです。
私がどうしても伝えたいと思う動機はそこに在るのかもしれないなと思います。

まだまだみんなきっと、自分の中の壮大なエネルギーにびっくりできますよ。
人生の中で、生きてるうちに体験してほしい、みつけてほしい。
みつける旅を始めてほしい。内面の世界の旅を。
潜在意識の探索はもちろん自己を知るための宝庫だけど、それは神をみつけるための作業に他ならない。
その奥の本質、(超意識、宇宙意識)ってところまで、みんなが目を向けるようになったら、世界はあっという間に変わるだろう。

それでなくても、私が出会う人はすばらしい人ばかり。
だから、世界はよくなるに決まってる、としか思えない。
いろいろと良くないニュースが目に付くけれど、本当に世界を動かしているのは、意識のエネルギーのほうだから。

今日も自分を磨きます。
壮大なすべてを内包するエネルギーの一部として、「それ」とひとつであるものとして。

感謝とともに
AZU拝

HSP~論文なみに長いです。ご注意ください(笑)

「敏感な人には、ものよりこころです」
昨日のセッション中、私の口を突いて出た言葉です。

これは私が長い自分とのつきあいの中で見いだした、体験に基づく教訓です。もちろん当初それは、自分の個人的な尺度でしかありませんでした。

実は、クライアントさんからある日、HSPについて教えていただき、ある時からその概念を視野に入れて自身や家族、クライアントさんと向き合ってみると、驚異的に普遍化と理解と統合が進むようになりました。

実は前回の勉強会でも、この概念を含めた意識の仕組みのお話をしました。

HSPは highly sensitive person つまり、とっても敏感な人々。
まんまじゃーん、という感じがしますね(笑)。
人間全体の15~20%を占める人がこれにあたるそうです。

このことについては、これまでの探求を紐づけしたいという思いと、紐づけするときりがないほど膨大な考察になる・・・との思いで、なかなかブログデビューさせてあげられませんでした。

そもそも、生きにくいというのはどういうことなのでしょう。
私は自分のことを「生きにくさの権化」のように認識しつきあってきました。

生きにくさは苦痛を伴います。私が自分が生きることへの苦痛を認知したの中学生の時です。それは単に年頃、のことではありません。当時すでに、家庭内は私にとって火宅そのもので、そこで生きていくことに限界を感じていました。義務教育が終わったら、私は自分の人生を築くんだ、そうしなければと意気込んでいました。なんの術も持たないまま。

そして高1でファミレスのバイトを始めましたが、その時の苦しさにノックアウトされてしまいます。自分の神経が異常に緊張していて、ミスをしないことに精いっぱい、しかも回避が不可能でした。家に帰ってからも、頭の中でぐるぐると、張り詰めた記憶が廻り、目を閉じると仕事場のバタバタがよみがえり、あれ?もしかして失敗したかも、と飛び上がるほどびっくりして眠っても目が覚めてしまいます。

疲れて仕方ありませんでした。実際はその時、中学からの仲良しの友人と一緒に働いていて、私たちは多分いつも笑顔でかわいくて、しっかりしていて、優秀でした。実際に店長からはとても気に入られていて、厳しくはあっても怒られても嫌われてもいませんでした。

友人はとても健全で、リラックスして楽しんでいるように見えました。自分はピリピリして必死で張り詰めて、ぐったりの繰り返しでした。

自分はもしかしたら、不適合者なのではないか、とその時初めて思いました。普通のお仕事を普通にこなせなない、普通に時間を過ごせない、と感じた、初めての体験でした。

この時の感覚は消えることはなく、悪化していきました。鬱を通り越して絶望の淵に行くのはあっという間でした。高校生でからだもボロボロになりました。動悸、息切れは絶えず、電車に乗るのも道を歩いても視線が刺さるように怖いと感じ、眠れず、起きられず、不快さは絶えず消えず、体重は増加し、食べては吐き、ニキビだらけで、自分が自分ではないようで、誰とも触れ合いたくなく、消えてしまいたい思いでしたし、もちろん誰も助けてくれませんでした。

結局私は大学へ行かせてもらいました。受かったのは奇跡だと今も思います。あれは救いでした。しかしそれでも、自立への焦りと不安は大変なものでした。

その後も私の抑うつや過敏や恐れはどんどん増していきました。
その頃には弟が統合失調症を発症し、やがて問題を起こして一般社会からドロップアウトしました。自分もそうなるのでは、という呪いに恐れおののいていました。

とにかく自立の道から落っこちたら人生がおしまいになる、と、戦っていました。
よく周囲から「生き急いでるよね」とか「戦っているよね」と言われましたが、何言ってるの?辞めたら終わりでしょ、としか思えませんでした。そして、どうしてみんなそうでなく息をしていられるか不思議でした。

社会には、心の問題を扱う概念がほとんどありませんでした。心の不具合は精神病であり、薬物と電気ショックと隔離が対処法。救いを求めるのは病院か宗教か自己啓発、というような行き先でした。唯一、芸術、というのが私にとっては希望の光でした。いびつさを魅力に変え、敏感さを才能として開花させれば生き残れるのでは、というような感じです。父がそうだったように。

私も、多分社会も、硬直しきっていました。

芸術方面で知り合った友人から、スピリチュアル、という概念が届きました。女優のシャーリー・マックレーンの本が世界でベストセラーになった頃です。でも私にとってそれは現実的ではありませんでした。見えないふわふわしたものに頼るなんて論外で、それは文学や芸術作品の一部のように感じられていたと思います。しかし、自分を再認識し、育てなおす必要性は充分に感じていました。なにしろまず、健康にならなくてはなにもできません。

心の問題を探るとき、まず手がかりになったのは「アダルトチルドレン」でした。
少なくても間違いなく自分はそこに当てはまることができ、世界で独りぼっちではないということは理解きました。

しかし、アダルトチルドレンの回復のプロセスはまた、非常にそそらないイメージでした。当時は権威の匂いがするところと関わりたくありませんでしたし、グループで体験をシェアするみたいなイメージも苦手でした。また先が見えている感じがして、希望もわきませんでした。

私は父の精神的な病気のため、子供の頃精神病院へつき添ったりしていて、父の状態や家族をほとんど理解できない病院に対して非常に不信感を持っていました。また私の体調や心の不具合を誰も見抜けませんでしたし、誤解も受けました。それ以上誤解されたり実験の対象にされたりするのはまっぴらでした。それ以前に、のほほんと自分の治癒に時間を費やすなんて論外でした。なにより、大学を中退し家出同然に家を出た私は貧困でした。自立を確保すること、また、家族の問題の嵐に圧倒され巻き込まれないこと、生きていること自体をいやにならないこと、それだけで、いっぱいいっぱいという感じです。

ただ、アダルトチルドレンの原因と、不幸のスパイラルを繰り返すという特性を持つという事実と、そのからくりは非常に納得でき、自分がまさにそこにどっぷりはまっていることは重々理解できました。当時は原因を探ってはさらに絶望、というところに居ました。

こののちに、アダルトチルドレンのトラウマ、認識の歪み、知覚の過敏、愛情の欠如による心の不安定などに有効な改善法に出会い、それがヒプノセラピーの退行療法、インナーチャイルドワークであったわけです。出会うまでには更に長い月日が経っていました。それまではひたすら意識の法則を学び、こつこつと意識的に自分と向き合うという実生活での実践が続きました。もちろん祈りもしましたが、神さまは遠いどこかにいて、多分そちらからこっちは見えていないだろう。見えたらこんなひどい状態で放っておくわけがないと感じていました。

長くなって恐縮ですが、話を戻します。最近になりHSPの概念を組み入れたところで、この敏感さというのが、ことさらにトラウマのひずみを非常に強く根深く自身の心(潜在意識)に刻み込んでしまうということに気づきました。つまりさほど強烈な体験でなくても、些細なことから大きな傷にしてしまうのと、さらに影響が薄れないで長く引くという傾向です。

この発見は納得でした。自分にはまさに当てはまりますし、長いインナーチャイルドワークの臨床から、クライアントさんの多くが「それほど過酷でない環境で育ったにもかかわらず、深い傷を受けている」という実例を数多く見てきました。というよりほとんど、幸せな家庭で育ったにもかかわらず、です。

彼らは「自分より不幸に、厳しい中で育った人はたくさんいるというのに、生きづらさを感じてしまうなんて、これは自分が怠けているからか能力が足りないか、もしくは性格に問題があるのだ」と認識しているのです。これは実は私にも充分に覚えがあります。

幼少の時から私の母はなにかにつけて、「もっと不幸な人はいくらでもいる。文句を言うな」という論調でした。私の弟は生まれつき顔と全身を濃いあざで覆われていて、見た目にぎょっとするくらい目立つのですが、母はよく、「知恵遅れよりうんとまし」というようなことを言いました。そうやって自分を鼓舞していたのだとはとても理解はできますが、子供の私はそういう対比そのものを残酷で差別的だと感じました。

また弟以外の私や妹に対しては、弟以上の問題を持つことは決して許されませんでした。妹はこれも生まれつきひどいアトピーであったり、おできやトビヒや喘息、ひどい車酔いで大変でしたが、私の知る限り弟以上の扱いは決して受けませんでした。ですから私など論外です。ちゃんと立派に産んだのに問題を持つなんて、という婉曲の圧力をよく受けました。

母の名誉のため申し上げておけば、母は戦争で父親を亡くし、戦後満州から引き揚げるまでに1年以上も、母親と幼いきょうだい3人で逃げ歩きながら暮らしていたという体験を持ちます。追われて高い塀を乗り越えて逃げまわったり、ソ連兵が来て母親は屋根裏に隠れて子供たちだけホールドアップしたり、日本へ戻ると家屋敷を取り上げられたらいまわしにされ、弟のために進学をあきらめ就職し、就職では父親がいないと差別されたりと、さんざんな成長期を送っています。

ちょっと傷ついたくらい、それがなんなの?という価値観を持つ理由は山のようにあります。彼女こそが非常に感受性の強い、無意識のトラウマを持つアダルトチャイルドでしたが信じられないほど強い信念の持ち主です。

それに引き替え私は、過酷な環境であるとは認識しながらも、ちゃんと食べられ、ものも与えられ、教育も受けさせてもらえ、父親は精神不安定ではあっても仕事である程度成功し有名人のはしくれでもありました。なのに私は根性なしで忍耐力、持続性に欠け、傷つきやすく虚弱でした。

父への恨みを母からさんざん聞かされた上に、私の苦しみはいつもいとも簡単に抹殺されました。お聞き苦しいと思いますのでこれ以上は控えます、というくらいそれはひどいことがたくさんありました。そして私は苦しみながらも、「自分には苦しむ資格さえない」というその考えを受け入れてもいました。自分より苦しい人はたくさんいるのに、と。

それがどれほど自分への愛と信頼を失うことになるのか。自己評価を失い、尊厳を侵され、生きる意欲すら削いでしまうことになるのか。あたりまえのことですが、問題なのは出来事や条件ではなく、「それをどう感じ、認識し、受け止め、そして何を学ぶか」です。

HSPへの認識によって、個々の自由がさらに尊重されると同時に本当の自分を取り戻し生きることが社会の中で重要視され普遍化されるようになることを願います。

またこの敏感さと別に、共感力、というのも非常に重要な概念です。これについてはたびたびブログでも触れましたが、共感力だけでその普遍性を説明できないことも多々ありました。

共感力は、たとえば、他人の感情や痛みを自分のもののように察知し、時にはそれを実際に自己に起こったように感知してしまうという能力ですが、知覚が敏感な人でも共感力は比較的、或いは極度に鈍感という人もいます。

共感力の強い人から見ると、自分の心情を説明なしにわかってくれない人は鈍感なのですが、そういう人も例えば音や光には非常に敏感で、絶えずそれに反応していて疲れている人もいます。そういう人は無意識であることが多くトラウマ自体を発見しにくいものです。ですが、実際は得体の知れない無力感を抱えています。自分の知らない自分が勝手に反応しているわけですから、自分を愛しにくいとも言えるでしょう。

どちらにしてもそれは他者との相互理解の溝となり、不快さや傷つくことを避けて、コミュニケーション不全へとつながっていく可能性が大です。

例えば今では発達障害など、様々な症例がありそれには名前がついています。器質的な損傷があるものもありますが、はっきりしないものも多数でしょう。それらを無理に個性なのよ、と思おうとしても、実際の不具合の不快さには勝てません。それは自己不信、他者への不信、誤解、愛と信頼の欠如、おそれ、無気力、生への放棄をはらみます。

実際には、全体的な理解と、具体的な自分取り扱いをマスターすることで、本来の自尊心と信頼の気持ちが回復します。人が健全に、尊厳を持って生きるのに絶対的に必要なのはそれです。それこそが、愛を持って生きる生き方なのだと私は理解しています。

私たち人間は、愛によって満たされるまでは常に欠如を抱え、また愛の欠乏によって傷と心の限界の壁、すなわち分離を作ります。傷と分離は、注意を向けられ手当されるまでは外側、他者から愛を補います。傷が深いと愛はダダ漏れになって、周囲から知らずに奪い続けるカルマを作ります。善意であれ悪意であれ関係なくそれは起こります。

私たちが自分の中の傷や分離に向き合い、他者から愛を奪うのをやめるとき、その源へつながることが必然になります。それが、私の言う、内なる神です。人には愛が必要というのは、誰にもうっすらと理解できると思いますが、神が必要と言うととたんに怪しまれます(笑)。

しかし神という無限の源泉とつながらない限り、その愛は制限付きの愛でもあります。癒しは神によってしかもたらされないというのが、この世の真実だと、やはり私は思います。

冒頭の命題とちゃんとつながったでしょうか。長文とおつきあい、まことにありがとうございました。

AZU拝

怒涛の刷新中

みなさんこんにちは。

「RUACH AZUによるヒプノセラピストのための講座」今月から始まりました。おかげさまで、この私のみっちりと詰まった濃厚なエネルギーを、よっしゃとばかりに受け止めてくださる方に恵まれました。

初まってみて改めて思うのは、ああ、本当に教えるとは学ぶことなのだ、ということです。あまりに学びが大きいし多いため、あれ?これまでの私ってまだまだスカスカだったか?と自己イメージが変容してしまうほどです。おかげさまで意識が若返りを速めています。

集大成などというものは幻想なのだとつくづく思い知らされます。

いろいろな認識を整理することになっているのはもちろんです。ですが、整理されたものとしてお渡しするのではなく、私の中で最大限に生きているものを伝授させていただけることがなにより幸せですし、大切なのだと思っています。アチューメント、というわけではないのですが、エネルギー的にはそうなっているように感じています。

お受け取りくださっている親愛なるおふたかたと、導きくださった大いなるものに感謝としか言いようがありません。おふたりとも、飛行機で来てくださる状況で、本当に、頭が下がる思いです。

セッションにも私自身の変容がダイレクトに反映されているのを感じています。講座の生徒さんから「AZUさん、辞めるわけではないよね?」と言われました。始めたときも今も、エネルギーにお任せの私なので、「あれ?そうなの?」とも思わないでもありませんでしたが、閉じる予定はありません(笑)。が、セッションとは本当にその瞬間のご縁なので、神のみぞ知る、ではあります。私のからだと人生はすでにそこに預けてはいるつもりです。

感謝とともに

AZU拝

ヒプノという瞑想

先日お電話で直球なご質問をいただきました。「ヒプノセラピーは素晴らしいものだと言われているのにどうしてもっと普及しないのですか?」

その通りですね。この10年、この療法とお付き合いしてきて、それは何度となく考えました。ですがまず、この10年の普及率は凄まじい、というのも本当だと思います。最初は日本でも行っている人が数えるほどしかいなかったはずです。私が始めたころには全国から受けたいという方が見えていましたが、私の所属していたところと有名なところはもう一つ、あとは怪しい感じのところ(お客様談)という感じでした。でも今はセラピストも増え、とても研究されていて進化もしている領域だと思います。

私に言わせればこのセラピーはテクニックやビジネスという風に捉えることを許さない領域です。それが爆発的に広まらない理由のひとつ。どこそこで認定を取った、などとよく言われていますが、認定を取ったからできるというものでもありません。そして個人で始める人が多いと思いますが、個人で進めるには難しすぎるものでもあります。私は幸運にも最初に所属してた機関でいつもセラピストが3~4人リアルタイムで情報交換をしたり休憩の時に相談し合ったり、またお互いに練習台になったりという研究ができました。研究所のような感じです。自分のクライアントさん以外のケースについても知ることができ、探求の材料となりました。そして個人ではなかなか体験できないほどの多数のケースを担当することもできました。しかし経営という面から見たら効率がいいとは言えません。場所や宣伝、維持費がかかり、セラピストの賃金はとても低くなります。ハードな仕事ですので多くのセラピストは自己メンテナンスに追われて身が持たなくなります。ですからちからがついたセラピストは独立します。経営者はいつも新人セラピストを育てなくてはならないし、安定した内容を提供することが難しくさらに進化もできません。必然、型にはまったセッションにせざるをえません。心理セラピーは受け手と施術者の意識の領域でのセッションとなるためセラピストの意識の状態が内容に圧倒的に影響していきます。つまり癒されていない、浄化されていないセラピストは形式では行うことができてもその影響が自分に返ってきて非常に苦しくなったり重たくなったり、また疑問が恐れとなって不安定になったりと、何かと前進が難しいのです。消化しきれないほどの想念を扱うことになってしまうのです。

そして、このセラピーの素晴らしさは受けた人にしか実感できない、ということも大きな要因です。概要や仕組みを知ることは容易くなってきていますが、実際の感触や変化についての予測はつかないでしょう。概ねの予測を裏切り、思考がする物理的な予測を超えます。当然ながら、それが思考を超えた潜在意識の領域のことだからです。

多くの方が体験のあとで「みんな受けたほうがいいのに」「家族に受けさせたい」「どうしてこれなしにみんな生きられるのでしょう」などの感想を持たれます。もちろん私もそう思っています。ですが、これは人間という存在の根幹とも関わる魂の問題でもあり、受けるという決意とコミットメントなしに足を踏み入れるのが難しいものでもあります。ある意味、本当に変わることを人間は恐れるのです。このままでいて、一部の状況だけ、あるいは周囲の人だけに、変わって欲しいと願うのがエゴ(個我)の欲求です。その個我を本当に窮屈と感じより大きな次元へ自分を拡大したいという根源的な欲求なしには踏み入れることはないのかもしれません。もちろん多くの方はそんなことを最初からすべて理解してみえるわけではありませんが。

魂から解放の声がかかり、それを聞き入れる準備があり、私のエネルギー的形成と波長があって惹きつけられて来てくださる方とセッション行うという今の形はひとつの理想です。私が自由になり私の領域が広がれば自然私の守備範囲も広がり、よりフィットしたセッションをご提供できるようになっていくと思っています。

もちろん、自己を解放し、より広がったセラピストが増えてくればそれだけ世界の浄化も加速するかもしれません。そのために私ができることがあるとすればその準備はしておくつもりです。

興味のある方はご参考になさってみてください。