原点

家族内の不和、将来・未来への不安、からだの極度な不調、自己不信、恋愛の失敗、パートナーシップの失敗、お金の不足、仕事につけない、できない、選べない、慢性的な憂鬱、疲労、無気力、悲嘆にくれる、孤独感、尽きない悲しみ、あらゆる恐怖、不眠、生きていたくない、死にたいと願う。

私が体験してきた、このままでは生きていけないと決意させた要因はてんこ盛りだ。これらのすべてが指さす方向は絶望しかなかった。これらの状況は高校生くらいから始まり、人生が進むにつれて順繰りにそれぞれ深刻さを増しながら私に迫ってきた。

逃げ回って生きるにしては長すぎると感じる人生をなんとかするには結局のところ、自分が変わるしかなかった。自分が変わるとはどういうことなのだろう。言葉では何とでもいえる。変わるのではない、進むのだ、という言い方もある。ありのままのあなたでいい、とか、いろいろと言われている。けれどそのさなかではとてもそんな言葉では納得できなかった。そのままでいい、というのは「地獄にいなさい」と言われるのと同じに感じられたし、進めと言われても、地獄からは地獄しか見えない。一つの地獄から這い出して別の地獄を体験するなんてこの世は狂っているとしか思えなかった。

今ではこの地球に同士はいるということがわかる。多くの人が苦しみの中で、自分の何かが間違っていてそれが悪いに違いないと感じている。当然、私もそう感じていた。「変わらなくてはならない」という考えはそのまま、自分がいけないか間違っているか、と理解するように人間は仕込まれているのだ。

しかし本当はそうではなかった。私たちは、自己を罰することや間違いを正すことではなく、もっと愛することによって変わる必要がある。

正しさ、というのは高次の意味では、より愛であることである。しかし人間の思考はそうは理解していない。だから私たちはもっとそれについて学び、そして変わっていく必要があるのだ。

自分を愛する、とはどういうことだろう。自分と向き合うというのは欠点と間違いを探す旅ではなく、愛の浸透していないところに愛を満たしていく行為だ。

原点は、自分をよく知ること。しかし欠点と間違い探しに終始せずに、愛とともに学ぶには、絶対に神への信頼が必要だ。私たちは神の視線によってしか、自分を赦すことはできない。利己的にではなく自己を愛し赦し受け入れるためには神という高次の愛という中心が必要であり、究極的にはそこに向かうこと以外に私たちを前に進ませるものはないのだ。これはやってみようとした人にはきっとわかる。

ワークはそのためにある。鍛錬は、訓練は、そのためにある。

そのレッスンなしにあるがままである人はいない。あるがままとは受け入れることだから。

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癒しとゆるし

虹は神が二度と人間を滅ぼさないという約束のしるしだそう。
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インナーチャイルドの本を開くと、「潜在意識に毒をもたらし傷を作る原因となった親を必ずしも許す必要はありません」とあります。ここでの「許す」は、親に許可を与える、というような意味に見えます。

「あなたは私に著しく悪影響を与えましたが、私はそのあなたを許します。あなたは自由です」というのはなんだか不自然でいびつでいかにも力みが感じられます。インナーチャイルドの癒しにはそういう不自然な力みは必要ありませんよ、と著書は教えているのかな、というふうに私は受け取ります。

しかし私は癒しには赦しが必要だと思います。理論上でも体験上でも。この赦しは、自分が自由になることとひとつです。自分が自由になる決意をし、そして、その主権は、おおいなるものに委ねます。そうすると、その動きに必要な流れやうねりが起こります。そこでいろいろな方法や人などとの出会いが起こります。それらは聖霊の引き寄せによって起こるイベントです。

ゆるしに関して多く見られる見解として、頭と理論できっちりと結末をつけて納得することをもって、許した、と決めているケースがあります。何を隠そう私がそうでした。理性で許すことがいい、必要だ、と気づくことはすばらしい前進なのですが、理性での納得を赦しだと思ってしまうと、赦しの効果はとても薄くて、ちっとも自由と幸福へは近づけません。インナーチャイルドは更なる要求を強いられ、抑圧に耐えなければならなくなり、苦痛は大きくなるばかりです。そして、「こんなに努力しているのに、どうして私ばかりが苦しむの?うまくいかないの?」という怒りが増します。

そう、こういう壁に当たる人というのはとてもとても努力しています。努力とともに非常な忍耐を重ねています。そして、もっとやらなくては、と感じています。

そして当然勉強もしているので、やってはいけないこと、と言われていることをやらない努力もしています。怒りを抑え、感じないようにし、感情的にならない努力をしています。人に与えたものが自分に返ってくると信じ、他者へ気を配り、思いやりある態度で接しています。にもかかわらず、自分のことをちっともすてきだと思えなし、自分のことがわからないし、いつもぎりぎりまで我慢しがんばるのが普通なので、自分にはちっとも優しくありません。それで、周囲の人も、自分が与えているほどは自分に与えてくれないと薄々感じていますが、そんなふうに感じるのは感謝が足りない人みたいなので、感じることも自分には許しません。

そんな風に生きていると、まるでトンネルの中をただ走らされているように感じてきます。いつか、ここから出なくては、と、出ることが人生の目標のようになってきます。そして、その方法を探しているのですがなかなかみつかりません。時間だけが過ぎ、焦りますが焦れば焦るほど、空回りしてエネルギーは先細りに思えてきます。そして今のうちに何とかしなければと更に焦ります。徹底的に何かをやってみたりやろうとしたりしますが、成果が出ません。

・・・こんな感じのとき、人は思考の罠にはまっています。今ではなく思考の時間軸上を生きています。過去を悔やみ、未来を恐れている状態です。そうなっているとき人は、自分のパワーを肉体次元に縛り付けてしまっています。

解き放ち、自由になる。そうなるためには「道」があります。思考から出て、肉体から魂へと戻るのです。

瞑想だけがその道を示し、おおいなるものが導きます。現世的にはワークとセラピーが役に立ちます。

私たちはひとつからやってきた魂。


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沖縄はめっきり春めいてきました。沖縄へ来て丸5年が過ぎ、沖縄で初めてセッションさせていただいたお客さまがぴったり5年後の先日、また東京からいらしてくださいました。とても感慨深いセッションです。

常々思っていますが、セッションにいらしてくださる方は私の人生をも作ってくださっています。私の魂に導きと気づきと喜びをくださいます。自分の人生に輝きと意義と美しい景色を与えてくださいます。人生にはいろいろなことがありますが、魂同士のふれあいというのは地上の時間を超えて宇宙の記録として刻まれるということを改めて実感します。

こういう魂の連帯というのは本当にあるものなのだと思います。そうして触れ合いながら互いに化学変化を地上にもたらし、人類の希望を紡ぎだしていくのです。

この5年の間、長くおつきあいくださる方がとても増えました。セラピーを知らない方から見るとセラピーに行くのは病んでいるい人だと思われているかもしれません。実際そんな声も遠巻きに耳にしたこともあります。けれど本当はそうではありません。私のセラピーに関して申し上げれば、人間と自己を探求するという、人間として王道の道にある方こそがいらしてくださっています。苦しみとはその道へいざなうひとつの導きだと今では確信しています。

長くおつきあいくださる多数の方がここ最近になって、昔の痛みを再体験したり、停滞にあると感じていらっしゃるようです。こういう時は集合意識全体で何か取り組みをしている時です。水面下では必ず成長の準備が行われていて、大抵それは後でわかります。

「AZUさん、なかなか進まなくてすみません。こんな私に根気強く付き合って下さりありがとうございます。私だったらとうに自分に嫌気がさしてます」というような言葉を何人もの方から同時期にいただき、これはただごとではないと感じました。

そういう時には、私自身も自分のこととしておなじような心的体験をしています。痛みの度合いなどはそれは以前とは比にならないほど微細ですが、それでも何かに縛られて進んでいないかのような幻想を見せられることがあります。

けれど私はそのことを調子を崩したというふうには見なくなっています。その時は「なんとかしなければ抜けられない」とじたばたするのですが、結局は時期がくるとふっと気づきがあったりしてそれを通過します。そして後から振り返ると、その時期の学びは大きく、後でそれが役立つ場面に必ず遭遇します。同時期に同じような心的体験をしている魂の仲間がいるというだけで、その体験は貴重な何かなんだろう、というふうに思えてきませんか。これは創造のプロセスと同じです。「自分が悪い」わけではありません。

こんな時期に同じようなテーマを持っていらしてくださった方のセッションで、(実際テーマがブームのように重なることはよくあります)例えばご一緒にテーマを解体し乗り越え、自己意識のヒーリングや、ヒプノのワークで浄化をすると、私まで一緒にクリアになります。その時、魂みんなで協力して取り組んでいることがよくわかります。そして改めていつも「肉体は別々でも意識の深部はひとつ」ということを実感します。自分を癒やすことは等しく他者を癒しますし逆もまた真なりです。

私は昨日ある段階を超えた感触を得ました。みなさんはいかがですか?

日常私が気をつけていること。

日常生活の中で気をつけていること。

①習慣によって決めていないか。

②恐れに縛られていないか。

大きくこの2点だと思う。

習慣と恐れ、というと別のカテゴリーに属するように見えますが、どちらもエゴ(肉体意識)の特性です。

エゴは習慣が好きです。おかげで良い習慣に慣れている人はそれによって助けられます。ご飯食べるとか歯を磨くとか、お風呂の時間とか。しかし幼少期に恐れ(ストレス)が多いとこういう当たり前のことをするのにいちいち忍耐や抵抗が伴い、それ以上の仕事、子育て、または勉強などをするのがとてもしんどくなります。大人になるにつれて動けない、行動できない、やる気がない、しんどい、疲れる、おっくうだ、という風になっていくことがあります。

私は主人と結婚して、彼には良い習慣がたくさん身についていることに驚きました。でも習慣化するのが上手な反面、見直すことを忘れがちにもなっていました。新しい良い習慣を導入するのですが、どんどん儀式が増えてしまうのです。そこで手放すことが重要になってきます。見直して手放すこと。内面も同じです。

私には億劫な心の習慣が身についていたので、恐れを癒やすことが重要でした。具体的にはネガティブなレッテルと剥がしていくことです。

食卓=楽しい、美味しい、嬉しい、好き、というイメージが幼少期に付いている人と、食卓=暗い、緊張、恐い、苦痛というイメージがある人ではご飯の意味が当然違います。ご飯に付いているレッテルに気づいて、解除すると、ご飯にまつわる行動がスムーズになります。

安心で自由であると身体は素直に新しい習慣を受け入れ覚えてくれます。

続きは後ほど書きます。

家族のワーク

2013年もあとひと月ですね。昨年はアセンションという、何年も前から注目を集めた年でした。アセンションという言葉もスピリチュアルという言葉も知名度、市民権を得てきた一方、誤解や誤認や言葉のひとり歩きと言っていい現象もあり、進歩というのは本当に一歩一歩なのだと実感します。

厳密な意味で、私は「これがアセンションだ」と言えるような体験と実感をしました。きっとこんなだろう、という思い込みの予測なしに体験を見なおして見れば、きっと多くの次元上昇の証を見つけることができることと思います。

私にとってのアセンションは、家族と家族関係の中に最も色濃く顕現しました。

昨年春は父の喜寿のお祝いということで、妹が付き添って沖縄でお祝いするというイベントがありました。妹と父のツーショットの旅行、私と主人でホテルを用意し、そして何より私の心が、一片の曇りなく父への愛でいっぱいだったことが奇跡でした。これは私の家族の涙無くして語れない歴史を知らなければごく当たり前の光景ですが、私の内なる世界においてはすべてが奇跡でした。

父の心からも私や家族や世界への愛が溢れているのを感じることができました。私と父の間が「すべてわかっている」という感覚で埋め尽くされた至福の感覚でした。地上にありながら天国にいて、これがすべてだったのだ、という思いに満たされたのです。南城市のカフェのテラスで美しく眩しい海を眺めながら「お父さんこんなに幸せでいいのかい」と言った父の目や声やセリフのトーン(笑)を心で再現するといつでも天国が私の中で蘇ります。

そして、この年の秋に妹が結婚しました。私が結婚したのは40歳。きっと妹は私よりは早く嫁ぐのではと漠然と思っていましたが、妹は更に1年遅く41歳での結婚でした。私は子どもの頃に家族の不和から結婚というものに疑問を持ち、自分は結婚しないと決めていました。けれども意識の世界を探求し、愛、人間の幸せというものに取り組むにつれ、結婚の重大さに気づき始めました。また世間で言われている結婚というものと、実際の結婚というものの神聖さとのギャップにも気付かされました。父と母なしにこの世に肉体を持ってくることはできません。誰もが肉体の父と母を持ちます。戸籍がどうであろうと、呼び名がなんであろうと。そして私たちは、その父と母の世界観を通して愛と、そして神を体験し始めることを最初に選びます。

私はヒプノセラピストの仕事を通して、幼少期にインプットされる体験の記憶が人間の意識にどのように影響し続けるかを学び続けています。すべての舞台措置や人物設定は、そこから愛を体験し始めるために魂が選ぶのですが、それは必ずしも望む、という選び方だとは限りません。選ぶというのは、過去のデータ(カルマ)から今とこれからの魂の学びにふさわしい波長、波動で設定されるということです。ですからそれは個の感覚としては望ましく感じられないこともおおいにあり得ます。選んだからと言って、望んだとは言えないのですが、魂という高次元の人格があるとするなら、その高次元の人格はそれを望んだということです。

結婚は、この世で愛を学ぶためには最も近くて対等な鏡だと私はよく語ります。子どもの目から見れば「どうしてお父さんとお母さんはけんかばかりしているのに一緒にいるんだろう」というように思えても、近くて密接で同等な波長である互いは強く引きつけられる一方でよく反発もし、ぶつかり合いもします。互いはその解決を、相手が変わることに求めることが多いのですが、ぶつかってしまう時には自分が一歩下がって視野を広げるか、自分が一歩抜きん出て成長すると、膠着した状態から脱して、また互いに磨き合う流れに変えることが可能です。このようにして結婚という神聖な絆は洗練され高められる可能性を秘めた土壌となっているのです。

私は主人との結婚を切望して叶い、主人は結婚してからその良さ、素晴らしさを実感してとても喜んでくれました。結婚してからこの方、2人で行うワークは絶え間なく継続し、そしてその気づきと感謝と愛からもたらされるギフトは私たちにとってかけがえなく最上のものだと言えます。妹の結婚には長い物語がありますが、この物語もまるで奇跡のようです。結婚から1年を過ぎ、彼女が日々創りだされ満ちていく幸せを体験している様子がよくわかるのも私の何よりの幸せであり、人生への問いかけに対する応えでもあります。

それからつい先日には、主人の弟の結婚と挙式がありました。私と彼の関係を思う時、家族というものの神秘を私は感じます。本当の家族、きょうだいのような絆を感じるからです。元々主人と弟は仲の良い兄弟ですが、私に対しても絶大な信頼と尊敬を託してくれています。私と主人とのワークを彼はお手本にし、実践者となってくれ、リトリートツアーだと言って沖縄へ度々来てくれていました。その彼が生涯の伴侶と、愛と光と出会う旅を共にする決意をしたことは、これも私たちへのかけがえのない贈り物となりました。披露宴では主人と、義父と義弟がそれぞれスピーチをしたのですが、それぞれが本当に愛に満ちた言葉を贈り合っていて、これまでのすべてに感謝が満たされる体験でした。

主人の両親は、こんな私たちを見て最近では自分たちもワークに参加してくれます。ワークというのは要するに、自分と愛する人が幸せであるために、向き合い、話し合い、和解と修正に取り組むということです。自分の内側で感じていることを明らかにして、互いの誤解を解き、または関係を微調整し、整理し、新たな繋がりを築いていくことです。家族でこのような作業をすることは本当に素晴らしいことだと最近では確信しています。このことにより、家族に対する愛が格段に深まることが実感され、その実感は魂の充足そのものです。

私の家族のほうでは過去あまりに過酷な問題が多すぎて、半ば強制的にこのワークをしなくてはならない面もあり、また、時には機能不全により断絶せざるを得ない時期もありました。そんな時は個々が傷つきながら内面に取り組んで、時間をかけて乗り越えなくてはなりませんでした。しかし近年になり、その多岐に渡る互いの努力のすべてが導きであり、神からの応えを受け取ることだったのだという思いを家族で共有できるようにまでなったのです。

この秋には父の健康に大きな異変があり、久しぶりに家族で全力で取り組まなくてはならない局面がありました。しかしどんなときでも、互いが互いの幸せのために向き合うという姿勢からぶれることなく、協力が実を結んで大きな峠を愛とともに乗り越えることもできました。出来事は一見不幸に見えても、歩む足は神の懐の中にあります。

私と主人の家族のひとりひとりが、寸分の狂いなくこうでなくてはならなかったようにかけがえのなさを感じることができ、この一見偶然に見える現実がすべて神の絶妙なはからいだと信じざるをえません。妹のだんなさんのご家族へもきっとこの光は広がるだろうと楽しみにしています。

世界はこのようにして確実に変化するものだと感じています。世界を平和にしたければまず身内から、というのは喩え話ではなくて現実であり、また家族の関係を刷新していくことは意識的に取り組まなければ叶わない、とても高度なワークなのだと思います。家族関係は放っておけば、幼いころに信じた窮屈な絆によって繋がれています。結婚すれば情熱は薄れ、互いに窮屈な関係を維持する努力しかないように語られています。しかし真の関係性は常に刷新されていきます。この刷新を認識しあう努力こそが、関係性を光輝かせ、愛をエネルギーとして感じさせてくれます。その恩恵ははかり知れず偉大です。このギフトを思う時、私は神と天国を見たと、胸を張って語ることができます。

行動を変えることについて

行動しなければなにも変わらない、という言葉には色々な意味が含まれている。行動しても思うようにならないことはたくさんあるし、自然に体が動いちゃうほど楽しいこと、好きなことならまだしも、努力や忍耐を要するような行動はだいたい良い結果を生まないか続かないかで、結果的にその行動にネガティブイメージがますます強く貼り付いてしまうことも多い。

自然に行動できちゃうようなことを多くの人は当たり前だと思って気に留めない。だから、行動しなくちゃ、変えなくちゃ、という思いを伴うことというのはだいたいにおいて、よっこらしょ、と方向転換したり壁を超えたりしなくてはならない。

行動、と言うのはエネルギーの世界で言えば物質界に物質化して結晶する部分に近い。だから、この行動だけを変えようとするのは創造主である自己の源と外側を分断してしまうことになる。よってその行動にはエネルギーが伴わない。だから、結果が実を結ばない。

大事なのは内面のエネルギーである、感覚、感情、思考と行動が方向性として同じ方向を指し、エネルギーとして一致していることだ。ところが人間は多くの場合、感じていることと考えていることは違い、それによって選ぶ行動も一致していないことがほとんどだ。だから、行動を変えよう、こうしよう、と決める前に、内面をよく点検して、各レベルごとのエネルギーが一致していることを確認するといい。

自分の内面の今に気づいていることができれば、行動はそれに伴って来る。しっくりこない場合は内面に問いかけてみる。行動に移すことは、自己の内面に気づいて一致していればたやすいし、迷いや葛藤にエネルギーを消耗することは少なくて済む。

もう一つ、行動を変えよう、と人間が決意する時にはほぼ必ず結果を想定している。こういう結果を出すために行動を変えよう、と決める。だが、内面と行動が一致している時、私たちは結果にとらわれる必要がなくなる。あるがままに在って、それに伴って起こる変化が結果である。よって、結果を想定するのではなく常に意識するのは『今』である。今にはもちろん、未だ現象化されないエネルギーも含まれるが、その段階では私たちは意識の中で、気づきと理解をもってエネルギーを変えることも容易だ。つまり私たちは今に気づき、今をくまなく味わい、受け入れ、理解することで次の今を創るのだ。だから、行動だけを切り離して変えることにはあまり意味がない。

スピリチュアルは、本質的にエコなのである。

本当の自分のみつけかた

みなさんこんばんは。

先日行われた選挙では、みなさんの温かいメッセージを多数いただき、本当にありがとうございました。

私は普段出来る限り自分の波動に正直に生きるようにしているので、私が引き寄せるのは自分と似た波長の方ばかり。私のエネルギーをキャッチし理解してくださる方々に囲まれて暮らしているので地上は楽園に近いです。平安なのでいつでも瞑想にすっと入ることができ、内なる神や高次元の愛と呼ばれる意識にもすぐにつながることができ、感謝と優しさと思いやりと人間という生き物の複雑で精妙で美しい仕組みを肌で感じ、心で感じ、そしてみなさんにもその内なる世界を知り、体験し、理解し、愛せるようになるお手伝いをして暮らしています。本当にどこまでも広がり希望があり可能性と冒険に満ちた世界です。

もちろんこれは徐々に私の中で築かれていった世界です。とてもキメの細かい内面のお掃除にコツコツ取り組んでいる結果です。最初から今のような状態が想像できたわけでもありませんし、目指したわけでもありません。ただ、気になることをお掃除していったらあるとき部屋の全貌が見えて、そうなるとお掃除どころが更に明確になり加速していったという感じです。

ですが、311のあと、政治、国家や社会というものを探求するようになりました。なぜかといえば、そこに見えないおかしな壁を感じとったからです。

内面をクリアにするほど、その壁と影はくっきりと、なおかつ歪んでいるのがわかりました。それはねじれていました。つまり、実態と、認識の間にいくつかのファクターが挟まっていて、それは意図的に歪んだ像を結ぶべく操作されていました。

それは不自然で、嘘がたくさん含まれていました。その嘘が混乱を起こさせているのは明らかでした。その嘘という壁がとても気になりましたし、これは引っ掛け問題だったと思いました。

スピリチュアルを愛する皆さんの間によくある誤解ですが、内面を綺麗にしたら世界も綺麗になるというもの。ですがこれはどちらかと言えば内面をクリアにしたら世界もクリアになる、が正解に近いと思います。つまりあるがままがくっきりと見えるという感じです。混乱や痛みも、ぼんやりしたなんかモヤーとしたものではなく、散らかったお部屋の中には何と何があって、その中に重要なものやついでに置いてある物もある。そしてそれを識別することができいらないものは楽に手放し重要なものにはじっくり向き合うというような対処ができるという感じです。モヤーに騙されなくなるのです。モヤーに圧倒されたり、挫かれたり折られたりせずに、はっきり見ることができます。そしてそれさえ出来れば、恐れずにそれを「感じる」ことができます。

私が皆さんと向き合ってご一緒にやっているのはこの作業です。識別、整頓ができても確信が持てない、あるいは「感じる」ことはそれ自体が恐いと思っている人も大勢います。

この壁にぶつかる多くの方は「共感能力」の高い方です。繊細で傷つきます。ですから、そういう人に限って「できるだけ感じないように」普段からとても用心して生きています。子ども時代にいったん閉じる人も多いのです。そして成長の過程でいちいち開いていければ良いのですが、閉じることで身を守ってその方法に則って生きてきたため、開くタイミングがわからなかったり、あるいは閉じたことを忘れてしまっています。これがインナーチャイルドのブロックと呼ばれるものです。

このブロックは取り除けばいいというものではありません。取り除かないと感じることができないので多くの方が思考をフル回転しながら生きています。思考は時系列でしかものごとを捉えることができないので、このように思考に頼ると常に先の心配、過去の後悔、未来の不安とそれに対する対処、過去の総括、反省に追われ、人生をこれに費やしてしますのです。

そうすると、ワクワクすることをしなさい、と言われても感じられない。好きなことをして生きなさいと言われてもわからない。やろうとすると頭で考えて計画を立てたり遠い未来にゴールを掲げて、ここにたどり着くまでしあわせにはなれないと信じてしまったりします。

申し上げておきたいのは、ワクワクすることをするのが人生の目的ではありません。好きなことをして生活することが成功ではありません。

人は幸せになるべく生きると真理がわかります。真理というのはそれぞれの魂が惹きつけられる光です。そちらへ向けて生きるようになると人は愛を体験します。

私はどの道を通っても愛を生きることができます。でもそれは魂を乗せて運んでくれる肉体があって体験できることです。この肉体なしにそれを色々なレベルで実感できません。ですから私たちはすべてのいのちを尊ぶ必要があります。肉体は等しくその内側に神を宿し魂を運び、魂はより高次の目的を見つけてその道を歩みながら成長します。まずは人は等しく尊いという、人権というものを人間が見つけることができこれを社会に反映することができたのが、人類の叡智の顕現です。

今日本は人類がその血みどろの動物的な歴史から学び得た叡智を闇に隠そうという動きの中にあります。これは人間として大きな後退であり、多くの犠牲を伴う動きです。これまで磨き上げ丁寧に愛という光を織り込んできた人間の心を破壊してしまうでしょう。

ですから私は内面に向きあうとともに、この外側で起こっている動きを皆さんの内面に問いかけていきたいのです。

私はまだ多くの人が幸せではないのだと感じています。もし幸せでしたら、このような後退は誰も望まないのです。誰も磨きあげた美しい庭園を荒らしてほしくありません。大切な人を乱雑に扱いたくはありません。幸せでない心は混乱し、ものごとを順序立てて理解することができません。違う次元のもの同志を見比べて判断してしまうよなことが起こります。そして破壊的な思考になります。

私は人間の探求を続け、解けない混乱は存在しないということを発見しました。私達はすべて元々ひとつの光です。そのことを思い出すには、あなたの心を稼働させてください。心で感じ、あるがままを見て、それを受け入れます。そうしていると壁はどんどん溶かされ思い込みで作られた枠は解体され、やがては本当の自由と内なるパワーと可能性を感じられるようになります。

ご自身へ問いかけてください。私が気づくべきことはなに?私に付けられている目隠しはどれ?私が恐れて避けているものはなに?その奥にある心の声はなんて言っているの?と。

難しい時は私をお使いください。お手伝いします。そして慣れれば自分でできるようになるどころか、いつの間にか自分を、その隅々まで、また人生を、家族を、運命を、愛している自分に気づけるはずです。

自分を掘る

自己の問題にぶつかる。
ちゃんと向き合う。
掘り下げる。
癒す。
視野が広がる
世界が広がる。
波動が上がる。
次元が上がる。
自分の問題は、共有できる人間の問題だと気づく。
個の問題は共通の課題。
自分に取り組んで、乗り越えると、他者を癒せる。癒している。
このプロセスなしに、ワンネスは想像できない。
この実感なしにワンネスは理解できない。

私たちは自己を癒すと、真っ白になるわけではない。
完全無欠になるために癒すのではない。
ただ、他者と隔てていたものに意味がなかったとわかる。
自己の痛みと他者の痛みは同じ。
自己の喜びと他者の喜びは同じだったとわかるだけ。
そもそも持っていたものをあると認めるだけ。
それが気づき。

だから、そもそもあるものに気づき続け、癒すだけになる。
癒されるほどに自分が持っているエゴに気づけるようになる。
つっぱねようと、目をそむけていたちからをただはずす。
すると、そこにある。
どんどん出てくる。
気づいて、癒す。
他人のも自分のもない。
どれも大差ない。同じもの。
だから、比べてもしょうがない。意味がない。
比べる暇があったら癒す。
癒すは、解体。癒すは手放し。癒すは赦し。自分よりも大きく力ある、大きな愛に、癒してもらう。
それは、人間でも、地上のなにかでもない。
それを超えた、意識。意識を超えた波動。波動なき、光。
どこに行って何を楽しんでもいいけれど、それは神に与えられた贈り物だと受け取って。
本当の仕事は、自分の中にいること。
自分の中を、観ること。
自分の心を感じること。実感すること。

そこにすべてがある。
他者との関係もそこにある。
もし欲しいのなら、なすべきものもそこにみつかる。
本当はなすべきものはないけれど、欲しいのならみつかる。

それを掘る。掘り下げると、人生は心底豊かだ。
人間は果てしなくおもしろい。
地獄から天国までがそこにある。
どれを選ぶのも自分。

もし、あなたが天国を望むのであれば、ひたすらにここに戻る練習をすることをおすすめする。
やがて、選ぶことができるとわかる。

でもまずはあなたの心を、平安というところまで癒さなくてはならない。
少なくとも平安を知る心になるまでは。
まずそこまで行くと次の世界が見えてくる。
他者を癒すとか世界を変えるとか。
でも、その方法は、やはり同じ。
自分を癒す。
つまり、足元を掘るのだ。
掘るところは永遠に同じだ。
世界の入り口は自分の足元にしかない。
みんな自分探しと言って、その入り口を探し回っている。
世界中に足を伸ばし、情報を食いつぶしている。
そしていっこうに掘ろうとはしない。掘り下げない。
どこかにいい感じの入り口があって、あなたの使命です、とか、あなたの天職です、とか、運命です、と言われるのを待っている。
でもそんなものは、すべて幻想。それは、まやかし。迷妄。幻想。悪魔の誘惑。欲望の世界のできごと。

足元を掘り下げよ。
自分の心と向き合う。
醜さ、浅ましさ、弱さ、それでいい。
それを見つけて、そして、自分を痛めつけるのをやめるのだ。
それを、愛という熱で、光で、包み込め。溶かしきれ。焼き尽くせ。
抱きしめて、それを愛しいと言うのだ。
それから神に、これを愛させてください、と願って、そして安心して眠るのだ。

これを繰り返すうちに、人間すべてが、同じことで苦しんでいるとわかる。
自分の中の醜さ、浅ましさ、弱さを、人間は恐れている。
劣っていることを恐れ、向上を望むが、向上したところで恐れから自由にはなれない。
これから自由になるにはそれを愛するしかない。

人間のあらゆる恐れを愛でることができる人がブッダでありキリストだ。
だからそれを赦すことができる。
あらゆる醜さ、浅ましさ、弱さを赦すのが神だ。

あなたがもっと幸せになりたいのなら、神をまねるといい。
ブッダに、キリストに、あらゆるマスターと天使に頼るといい。
あなたに近づけるように、私を導いてください、と。
必要なのはただそれだけだ。
それで、なかなか簡単に立派になれない自分に出会い続けるといい。
立派でない自分を愛する練習を積むといい。
それが一番の修行だ。
神にもっとも早く近づく修行だ。

そうしていると、だんだんとあなたは、世界を愛することができるようになる。
本当に世界を愛する人は、世界の醜さと浅ましさと弱さをなめつくす。
そして、哀れみ、悲しみ、そして包み込む。

人間の悲しさを、無慈悲を、無力さを、愛することができたら、あなたの次元は上昇する。
あなたの内に、神がいるのをあなたは知ることができるだろう。

内面を感じることで内なる愛とひとつになる具体的な方法

人間にはどの瞬間にも、感じている感覚があります。

例えば朝起きてから家事をしていてふと、「なんだか嫌な感じがする。ああ、なんだかもう逃げ出たい気分だな」と感じたとします。そこで次に、よし、この感覚をもっとじっくり感じてみよう、と思う人は少ないのではないでしょうか。

「こんなのは気のせい」と、なかったことにするとか「こんなこと思うのは良くないからやめよう」と、否定してみるとか「どうしてこんなこと感じるのかしら。きっと○○なことがあったからだ」と、理由を想定して納得しようとするとか、だいたいこんな対処を無意識的、反射的に行うことが多いのではと思います。

今はやりのスピリチュアル風に、「こういう感覚を持っているとこういう出来事を引き寄せちゃうからやめよう」というのも無視、否定の部類に入りますし、「この感覚の意味はなに?メッセージはなに?」と頭で考えるのは理由探しの部類です。

つまりどれもこのフィーリングを感じること、また受け入れることはしていません。その前に抑圧したり拒絶したりしています。これは手放していることとはもちろん違います。

どうして人間はそんなことをするかというと、その奥に「恐れ」があります。

「こんなこと感じたらいけない。」なぜなら、「仕事がはかどらないから」「良くない人間になる」「堕落する」「弱い人間になる」また「こんなこと感じるなんて自分はだめな人間だ。○○のせいでこうなってしまった」など言い分は様々ですが、その奥に共通してあるのは恐れです。

でもこれを繰り返していると、人間は実は成長しません。一見仕事をきちんとこなし、理性的で忍耐強く生産的に生きているように見えたとしてもです。一方内面では解放できない、自由がない、つまらない、苦しい、がまん、という感覚が少しずつ堆積していきます。積み重なる自己否定という心の行為のためです。自分の内側に感じる感覚(それがなんであれ)を無視、否定、理屈に当てはめることで処理しているからです。

では自己成長し、人生が前進し、内面に解放、自由、安らぎがあって自己をあるがままに受け入れることができているようになるにはどうすればいいでしょうか。

話を最初に戻します。朝起きてから家事をしていてふと、「なんだか嫌な感じがする。ああ、なんだかもう逃げ出たい気分だな」と感じたとします。そこで、そう感じている自分の内面に少しの間留まり意識します。それから「そうなんだ、私今、こんな風に感じている。こんなフィーリングが内面にあるんだ。そしてそれが出てきているんだ」と認めます。さて、ここまでできたら自由まであと一歩です。

最初のうちはそういう感覚が自分のものだということを認めたくないかもしれません。そうすると今度は「抵抗」という感覚が出てくるかもしれません。そういう場合はまだまだ内面に「私はこうあるべき」「私はこうありたい」という願望(幻想)が詰まっていて、実際の自分像とのギャップが大きいということがわかります。その場合はぜひワークしてください。⇒「ニュー・アース」「マインド・トレーニング」「ザ・ワーク」などの本でのワーク、またヒプノセラピーのインナーチャイルドワークもおすすめです。

もしくは、その抵抗そのものをじっくり感じてみるのもいいです。さらにいやーな感じがするかもしれません。でも感じきってみるとそれが終わるのがわかります。そして、「ああこんなに抵抗がある(あった)んだ」と認めることができたらまた一つ内面がクリアになります。

もしかしたらその抵抗を感じようとするともっと大きな恐怖が出てくるかもしれません。これは、真実を見ることに対する恐れとそれを体験することで自分(エゴ)が崩壊するかもしれないという恐れです。この恐れに行き着くことができたらすばらしいことです。心のあらゆる動きの奥には恐れが横たわっています。さらに恐れを解体すると、世界は愛だけになります。

しかしこの恐れがとても強い場合にはやはり誰かと一緒にワークすることをお勧めします。セラピストなどの体験と訓練を積んだ誰かです。このような恐れをリアルに感じるということは、変化することをリアルに捉える準備ができていることでもあります。愛の世界まであと一皮むくところにその人はいるはずです。

認めることに抵抗がなければ処理はずっと簡単になります。高次元の意識(神、光、愛、天使、マスター、宇宙意識、レイキをしている人はレイキ・・・・・)に手渡し委ねます。「この感覚を私は手放します。手放すのを手伝ってください」と願えばいいのです。

ですが、この委ねるということこそが実はなかなか難しいところです。私たちは慣れ親しんだ感覚のほうが、高次元という本当は一番大きく無敵なパワーよりもリアルに思えてしまうからです。ですからその感覚が手におえないほど手ごわく思えてしまい、感じることがこわいのです。本当の解決法は瞑想ですが、的確に最短で、と思われる場合はやはり訓練を積んだ誰かと一緒に行うワークが望ましいと思います。取り組む際にレイキがあるとものすごく進みが促されますし、いずれにしても何らかのセラピーを取り入れることはお遍路で言う同行二人のようなもので、間違いがありません。

さて、こんな一見面倒でぱっとしない行為でも、実際に行ってみるとその体験の中に多くの気づきがあるはずです。この気づきというものこそが私たちを本質的に成長させるものです。この気づきというのは「感じる」という方向に向かうことでしか得られないものです。

ブロックをとる、などとエネルギーワークでは簡単に言いますが、私たちは本当に些細なフィーリングさえ通常まともに向き合うことが難しいのです。向き合わずに避けているもの――無視したり否定したり理由付けして納得しているものが恐れというブロックとなります。

この恐れというブロックが取れていくと、私たちは愛という大海とひとつになっていきます。