とっても大事なこと言わせて。

非二元性のことをノンデュアリティというらしい。少し前にクライアントさんから教えられた。

私が実践している奇跡のコースや敬愛するパラマハンサヨガナンダはその世界を教えています。ゆるしの祈りで知られる、「生命の贈り物」も、その世界に根差しています。

私がそれと出会ったのは遡りますがやはり「神の使者」という本からでした。それらにはノンデュアリティという言葉はなく、非二元性、一元論という言葉が遣われます。

私が心の底から探していたのはそれだと今でははっきりと言えます。幼少のころからずっと気になっていた、人間とは何か、宇宙とは、愛とは、神とは、生きるとは、人はどこから来てどこへ行くのか、という問いの答えはそこに在ったと言っていいと思っています。

つまり、それは真実だと私は確信していて、その真実によって私の魂は深く安堵し救われたのです。もうそれ以上さ迷う必要がなくなり、今ここで生きるということが可能になりました。

非二元性、一元性を端的に表す言葉に「この世はない」という表現があります。これは自分史的に遡ればほとんど初期のスピリットとの出会いである「マインドトレーニング」(byシャクティ・ガ―ウェイン)の根底にある概念と同じです。

「この世は本質である内なる神からくる光源が、私の記憶によって作られたフィルム(意識のフィルター)を通して3次元に映し出されている投影(幻想)である」。

ゆえに、私たちが現実だと認識しているほとんどすべてのものは単なる幻影であり、実在ではない。

では、実在とはなんなのか。

重要なのはその部分ですよね。

ノンデュアリティというのは、いったんこの世のリアルな現実(だと誤解しているもの)を否定し手放す過程なのだと思います。よくある「否定的を否定する」ことや「価値判断」を手放す、とか言われているもの、それらはまずこの世を白黒で認識するのをやめてみようということなのだと思います。

しかし真剣にやめてみた人はわかると思いますが、ただ「やめる」だけで人は幸せになることはできません。

好きなお酒がからだに毒、また酔っ払って周囲に迷惑をかける。だからお酒やめました。・・・それで?・・・やめてみたら時間ができました。酔っぱらって楽しくなってそのあとグダグダになってそっからまた通常に戻す、というプロセスがなくなり、平坦な日常が来ました。・・・それで?・・・幸せになったのならその人は後戻りしたいと思わないし選ばない。でも、幸せを感じなければ多分、その人はそのアップダウンに酔いしれることが必ず恋しくなる。

私が心に重たい苦しみを持っていたころ、平安というイメージに一片の魅力も感じられませんでした。人間はなにを目的にこんな苦しい人生を生きるのだろうと問うたとき、あるチャネリングセッションで「それは平坦にするためです」と言われてまったくイメージできませんでした。これだけ落ちているんだからと、次に期待するのは盛り返し、盛り上がることなのです。それがまさに、二元性の世界の醍醐味なのです。

二元性の醍醐味に酔いしれている間は、平坦のそのすべてを支えている、そこにある実在を感じることはできません。しかしもしあなたが自分だけではなく、また自分側の人だけではなく、もっと、多くと深く関わりたい、世界を広げたい、愛したい、と願ったとき、二元という対立を超えて、そこに横たわる全てと関わることができます。

それが実在です。

実在というのは目先にあるものではなく、圧倒的に絶対的に存在しているものです。あまりにすべて過ぎて私たちの目や手や耳や鼻や舌でとらえきれないのです。心の眼を通し、ハートを思い切り開くことでしかそれを知ることはできません。しかしそれは私たち人間に可能なことであり、そこへ向かうことこそが、これらの機能と可能性を持ち合わせた人間の使命でもあります。

実在を体験すること。それが一元論です。おおもととひとつであるという自覚を持って生きることです。

愛を生きるというのがそれです。人は愛することが天命であり自然なのです。幼い愛から大きい愛へ移行することが波動を上げることであり、小さき神から大いなる神を知ることが悟りです。

ノンデュアリティを信奉するということは小さく無感覚に、無感動に生きることではありません。目の前にあるものを「これは本当は幻想なんだから」などと思いこむことでもありません。頭の中に入りこんで生きるのをやめ、からだ(五感や本能、過去のデータという古い価値観)に任せて生きるのもやめて、一番確かな「実在」につかまって生きることです。

手放すということはかりそめの幸せを捨て、本当の幸せを取るということです。別にそれほど難しく考える必要はないのです。やるかやらないか。やればおっきな神さまが来てくれます。おっきな神さまを迎えるために場所を作るかどうかなのです。来てくれたらあとはすべてを教えてもらいながら一歩一歩生きるだけです。

そうすると、幻想が去っていくのです。そして存在するすべての奥に、実在を観るようになります。それ以外のものにいちいちとらわれずに、ああそうか、と思うようになります。だって実在を観てしまったら幻想なんていちいち相手にしないじゃないですか。本当にすっきりしますし、楽しいですよ。

ポジティブ、ネガティブ、バランス、愛

もしもあなたが、物事のポジティブな側面ばかりを見ようとがんばっているなら
その奥には恐れの声が響いているかもしれない。

それは、ネガティブな磁力に絡まって囚われているのとあまり違いがないかもしれない。

物事のポジティブなほうばかりが感じられてしょうがないのなら
奥底のバランスが欠けているかもしれない。

けれどもそれは、強力なネガティブの磁力の影響から解放された一時的解放感からきているかもしれない。

ネガティブな磁力とポジティブな磁力の双方のバランスを実感したとき
私たちは中立の意味がわかる。
それは最大のギフト。

そのとき私たちはひとつの物事を全体として捉えることができる。

ポジティブばかりを求めてしまう人は
本当は自分がもうすでに持っていることを忘れているかもしれない。

ネガティブばかりが気になってしまう人も
また然り。

あるがままが見えない。
持っているもの、おかれている状況、わたし、が見えない。

ひとつひとつを丁寧に感じ切りながら、それでいて、結果のいちいちに囚われることなく

そのひとつひとつに感謝を感じながら、それでいてひたむきに一所懸命に

恐れなく、けれど注意深く、軽やかに、けれど情熱的に

かっこなど気にしなく、それでいて美しく

けれど、なにも最初から求めない人は
そのどれも体験することすらない。

ただ、あるがまま、というのは
体験しないことでも行為しないことでもない。その逆だ。

多くを重ねないところに本当のバランスはなく
実感ないところに愛は見えない。

少しずつ、大事なものが見えてくればいい。
少しずつ、優しく、大きく、広く、美しく。
しかしその反対を恐れていては
それは自分に宿ってくれない。

愛の反対は恐れというが
恐れは愛を体験させないように覆い隠そうとするもの。

しかし愛は恐れに損なわれることはない。
ただそこにあって、私たちに体験されるのを永遠に待っていてくれる。


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私を目覚めさせた言葉

おはようございます。今日はもう、セミ、セミが朝から鳴いています。沖縄県南城市知念は晴れています。心のセラピストAZUです。

人間というのは本当に不思議な生き物です。よくここまでなんとか、絶えることなくやってきました。でも地球の歴史から見れば人類の歴史なんて豆粒を占めるくらいです。そしてその豆粒のなかのことすら、私たちはほとんどなにも知りません。さらに宇宙から見たらどんなでしょう。

知らなくても生きられるって、なんてありがたいことなのでしょう。だからこそ私たちは生きる目的を探すのではないでしょうか。つまり、ただ生きることが人生の目的ではないわけですね。

このところよく思うのは、探求の民である私たちの仲間は、情報を得ることはたやすくなっているのに、それを生かすことが難しくなっているような気がします。

自分に欠けているものを見つけたとき、多くの人が、何かおかしいとネットや本で調べます。私も調べることが好きなので調べます。そして、これかもしれない、と思い当たるものをみつけたとします。そして理論的に納得すると、多分少しすっきりします。

そうすると今度は、そのやり方をいろいろなことに当てはめてすっきりしたくなります。

いろいろあてはめているうちに、すっきり効果が薄く感じられるようになります。そうすると、別のすっきりツールを探して試す、という風になっていきます。

気がつくと、自己探求は自分の欠点探し、周囲との違い探し、自分の嫌いなところ探しのようになっています。そしていつか、そういうところが全部なくなってすっきりするのがゴールであるかのような設定がつくられていきます。

極端ですが、でもこういう傾向って、誰にでもあると思うのです。

私が長年、自己=スピリチュアルを探求してきて決定的に自分を変えた概念があります。
それは神はこの世を創らなかったです。

私が時々、一元論、と言う言葉を使いますが、一元論をかみ砕くとそういうことになると思います。

神はこの世を創っていない。この世は私たちの想念が投影されている鏡です。想念は神ではないのです。

想念は潜在意識という肉体の体験の記憶の貯蔵領域です。

記憶に神の光が放射されるとその影が周辺に映ります。私たちが世界に見ているのはその影です。私たちは普通それを現実と呼びます。

私たちは幻影を現実と呼び、すべてを映し出す根源を遠いお空にいるかもしれない架空の存在として位置づけています。逆転しているのです。

私たちの苦は、鏡に映った世界に手を伸ばし、鏡をいじくって鏡に映った映像を変えようと努力することから生まれます。それがどれだけ間違ったやり方であるか、こう言われればすぐにお分かりになると思います。そのやり方はほとんど無効です。

私たちが鏡に映った映像に夢中になっている間、神はだまって光を放ち続けます。そもそも大事なのは、その映像すら、神の光がなければ見えない、ということに私たちが気づくことです。映った映像について神に不満を持つ以前に、それを照らしている、つまりすべての背後にある神に私たちが気づくことが大事なのです。

そして、そこに映った映像をより良いと思えるものに変えたいとき、神に照らしてもらって、フィルム自体を点検し、さらにそこに映ったもの自体を変えることができるということです。

それが、内面に取り組むワークです。原因から変える、というのはそういうことです。


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