宇宙への扉

「わたしにはまだやれることがあるはず」「きっと別のところに使命があるような気がする」「なにかしたいけれど好きなことがわからない」。
そんなふうに感じるのならきっと、宇宙が、内なる自己があなたを呼んでいる。

使命を職業と同一視している人は多い。
為すべきことを対外的な行いだと信じている人は多い。

好きなことがみつからない。
なにをしたいのかわからない、と悩む方も多い。

いろいろな人のために宇宙はたくさんの扉を用意している。
「ワクワクすることをやりなさい」と、ある存在は言う。
その言葉が独り歩きして、あたかも
「人生の目的はワクワクすることをやること」だと言わんばかり。

ずうっとワクワクしっぱなしでいることが人生の勝利だと受け取られている感がある。

「ワクワクすること」は、宇宙とのチャンネル、つまり内なる神とのコネクションを開くための一つの手掛かり。
ワクワクが難しければ他にもいくらでも扉はある。

しかし扉があるからにはその向こうには目的地がなくてはならない。
「ワクワクすることをやりなさい」の前には「もしあなたが本当のあなたを生きたいなら」という前文がある。
目的は前文のほうだ。

本当のあなたは至福に満ちて、完全に豊かで、あらゆる欲求はすでに叶えられている。
そういうあなたを生きたいならまず・・・。

今はネットが普及して言葉だけの情報が満ち溢れている。
私がほんものを探していたころには手掛かりはわずかしかなかったが、その手の本はほとんど読んだと思う。
古本屋でこつこつ仕入れた書籍を紙袋何十袋に詰めてせっせと古本屋に運ぶ人生だった。
当時は高円寺に住んでいたのでそういう作業はとても簡単だった。

私はある時から、それ以上の情報を必要としなくなった。
それまでの疑問のすべてがつながってしまった。
真実は内側から聴こえてくる。気づきがいつも新しい喜びをもたらしてくれる。
取り組む題材は尽きない。
この世の細部にわたって、本質に紐づけする作業がいくらでもあるからだ。
今はそれが人の役に立つことだとわかっている。充足は循環している。

本当のあなたは、神の一部だ。
だからあなたはすべてを手に入れることができる。

じゃあ、と言って、すべてを手に入れることに人生を費やすだろうか。
思考はやってみたいというかもしれないが、本能はおなかいっぱいだと言うだろう。
魂は、だったらどう生きてみるか、とあなたに問う。

それを選ぶかどうかが意志だ。

あなたは最初から神の子、神の一部だ。
そのあなたが何をどう選ぶか、そしてどう行うか。
あなた自身を、そして同じ神の一部である他者を、どうみなし、どう扱うのか。

それをやってみると決めることが、扉を開けることだ。本当のあなたを生きるという扉。

それを選択したなら、外側から与えられる規範ではなく、内側からくる指針に従わなくてはならない。
内なる指針とのコネクションを開く方法のひとつとして、ワクワクすることを手に取っておこなってみなさい、というメッセージが役に立つ。
やってみたときに、それが導きだとわかるから。
それはひとつのデモンストレーションに過ぎない。

神はあなたにただ、魂の親を思い出してほしいだけだ。
肉体の世界の家族は、愛を思い出すためのひとつのきっかけに過ぎない。
あなたが愛そのものだったことを思い出すために過ぎない。
愛に還る道を選んでもらうための装置に過ぎない。

もしそれを選びたい気持ちがあれば、あなたは今すぐそれを始めることができる。
今すぐ光になること。
今いるそこをただ照らすこと。
今持っているそれに生かすこと。

もし今いるその場所が暗くてもっと明るい場所を求めるなら、あなたが照らす明かりとなりなさい。
どこかを探す必要が無くなる。そこが明るい場所となるから。

最初はひとりぼっちでも、あなたが明かりになれば、その明かりに引き寄せられ、仲間がやってくる。魂の仲間が。
魂の仲間(ソウルメイト)と出会いたいなら、あなたが光を放てばいい。

それが愛するということだ。

人生の目的はただ愛すること。
内側にある光を惜しみなく輝かせる。
それにはなにもいらない。
あなた自身とあなたの意志以外は。

あなたに今あるもの、それはすべて神があなたに与えたものだ。
そのすべてを使って、そのために自分をよく知って、今そこから始めればいい。

あなたに与えられた半径数メートル、あるいは数十センチから。
今までいのちを与えられ続けたそのからだから。その意識から。

私たちは意識だ。神は意識の源。
そこに戻ることさえできればそこにはすべてがある。

すべての人に用意されているギフト

私自身にとって、真の救いとは、すべての人が多種多様な側面を持ちながらもまったく同じ存在であるというところだ。内なる神について話すのは、それがすべての人のものでありひとつであるからだ。

パラマハンサ・ヨガナンダに圧倒的に惹かれるところは、師がそのことを世に、ひとりひとりに伝えることに人生をかけた人だからだ。

ヨガナンダが宗教という言葉を使ったとしても、それは既存の意味とは違っている。また彼が教祖のように見えてもそれも違っている。

彼は「私は私の中に神をみつけました。あなたにもそれができます。やってごらんなさい」と常に私たちに呼びかける。私を敬いなさいとは決して言わない。「私が神を愛するように、あなたも神を愛してごらんなさい。神は私に応えてくださったようにあなたにも応えてくださいます。私は幸せです。あなたもにもなれます。」と言う。彼は人類への奉仕者であり、仕えられる存在ではない。

私は暗闇の中にいたころ、そのように言える人になりたいと心から願った。まだ自分の中に神がいることすら知らなかったときから。その願いが伝わり、私はそっと導かれ続けたのだと思う。

そっと過ぎて、長い間私はそのことに気づいていなかったが。

内なる神の話をし、それを信頼する生き方を始めても、自分がすぐにその神の真実を知ることはできない。どうにか自己の中の神を信頼しかけても、今度は、他者の中の神をみつけることへの壁が来る。

しばしば起こることだが、「私には神がいます。あの人には本当にいますか?(ちょっと信じがたい)」「私にもあの人にも神がいます。でもその神は別々の神です。」という認識が、無意識に自分の中に生きている。

もしその神が別々の神なのだとしたら、それは神ではない。それこそが悪魔と言われるものなのかもしれない。

神が分離していて対立したり、利害のために対立するものを後押ししたり、或いは罪を罰したりする存在であるなら、それはただ、人間のエゴの想念が拡大したものだと思う。(なるほど、それはやはり悪魔かもしれない)

内なる神とは、意識という本質のなかの最高次元の場のことも言える。それはすべてをひとつにする。対立するものの存在しない次元だ。

それを私たちが求めることに意味がある。

神が別々であるということはあり得ない。だから神なのだ。

だから、私たちはどのような壁からも解放されることが可能なのだ。

この世はない。神はある。

エゴは別々である。しかしそれは過ぎ去る幻想である。神は永遠に、無限にある。

それだから、私たちはすべてを超えて、わかり合うことができ、赦すことができ、ひとつになることができる。

それが、宇宙という生命を包括する。拡大し続けるという不可思議な活動を可能にする。

そしてそのことだけが、私の心に平安を与える。

分離、対立、偏った考え、利己的な思い、私欲は、私たちを刺激し駆り立てる。それを生命の営みというならこの世は地獄。天国はその対極ではなく、それを拒否するところに存在する。

どうしようもなくわかり合えないあなたと私の神はひとつである。その神は求めることにより与えられる。

私は求める。それがどうにも見えてこないゴールであっても。それに悲しみや苛立ちを感じることを私は私に許そう。

そしてその悲しみや苛立ちのすべてを神に捧げる。小さき私に神は喜んで慈悲と慰めを与えてくれるだろう。

無条件の愛とはそういった寛容のことだ。

神は寛容である。神はあなたの小さな間違いにいちいち罰を与えるどころか、その間違いをすべて赦し、余りあるほどに与える。

私たちがこの世の法則によって利益を求めるのか、神そのものを求めるのか、ただそれだけの違いだ。

多くの人が神からのご褒美を待っている。あるいは罰を恐れている。そのこと自体が神への誤解だと思う。神はただ、愛されることを待っている。あなたが愛することによって、神は応えることができる。神は愛そのものだから。

私たちの問題の答えは、愛すること、愛し始めることによって、すべて解決される、というのが私の中に与えられた答えだ。その答えをひとつひとつ実践すること、それが人生なのだとわかった。

過去に抱いた幻想から、私は愛をなにか別のものと錯覚している。その錯覚から覚め、現実に戻る道。それが神とともに生きることなのだと思っている。

完璧な今を生きる

みなさんこんにちは。
今日も、長年のおつきあいをいただいている方からいただいたご質問への返信を掲載させてください。

正直、上手に書けているとは思えませんし、もっと簡潔にわかりやすい書き方がたくさんあると思っていますが、今の自分なりに精いっぱい、ある意味必死(笑)に書かせていただきました。

いただいたご質問は、「どんな状態でも完璧」と言われる概念についてです。難しいですよね!

以下、私からのご返信です。気がついたところを少し加筆させていただいています。

「どんな状態でも完璧」という概念は、何を、どの視点(次元)から観るかによって全く意味が違います。

まずどこからみても完璧なのは神だけです。

「状態」というのは移り変わるものなので、そもそも完璧ではありません。例えば「正しさ」というものも、状況によって変わるのであれば本当の正しさではありません。つまり本当に正しいものというのは真理だけですよね。

生きるということは変化するということです。この世界での真実は変化するということだけだと思います。

変化とは今の状態から次の状態へ移るだけなので、本質的な変化というものは確かに、本当は無いとも言えます。

そういう意味では、私たちは神という永遠無限の真理の中で、ただ移り変わるかに見えるものを体験しているに過ぎません。

それはある言い方で言えば、そのままで完璧です。でもそのことを、どんな状態であろうとそのままでいい、というふうには言えませんよね。

「どのような状態も完璧」の意味の一つは、今その状態であることが今のあるがままであって、それ以上も以下もない、ということではないでしょうか。完璧にそれでしかないのです。そして変化というのは、今の完璧な状態から次の完璧へと移り変わるだけ、という意味です。

私が(以前にお話した)他者(セッションであればクライアントさん)の内に対して観る完全、というのは状態ではなく本質で、魂と内なる神のことです。この場合の完璧は、それ自体が本当の意味での全き愛です。全き愛とその人の「状態」との間の壁がどこにあって、その人が今どういう状態に「陥って」いるのかな、という観方をします。

魂と神に対して開いていない状態はすべて陥っている状態です。そしてすべての人は、みな等しくどこか陥っています。陥っていなければそれはすでに完全に神と一体ですよね。

私が相手の方に見る魂や神は、自分の中に観るのと同じ程度にしか見えません。ですから私は、自分の中に日々神を観ることを求めます。

ご質問に対しての端的な答えとしては、自分の中の神をみつけることがすなわち、世界の完全さと出会うことになります。神をみつけるには、深い瞑想が必然となります。それ自体が答えです。

セッションでは私は自分の分と、相手の方の分を両方、神にお願いします。

まずはその壁を互いがはっきりと観ることができますように、そしてそれが本当に必要なのか、必要がないものなのか、明らかに気づけるようお導きください、そして、不要なものであれば、それを手放せますように、さらにその壁や鎧の代わりにあなたが護ってくださいますように、というふうに。

陥ったところには必ず影である闇と無知があり、それを維持するための恐れがあります。私たちはそれらから、自由になる努力が必要です。それが、内に神を宿す私たちの必然であり使命だと思うからです。そうしなければ、愛を生きたことにはならないと思うからです。

その努力にあたって人が変化する時、今の状態を受け入れることができないままに次に移行しようとしても、その人の世界では、不完全さから次の不完全さへ移行するだけになってしまいます。物理次元を主体に観ているとみなそれをやっています。

意識(スピリット)が主体の世界での法則はこうです。

今があるがままの100%であることを認めると、次の、別の100%へ移行できるようになります。つまり、変化の中にいて、常に新しい完全な自己へと移行できるようになります。

その時に人は初めてあるがままに、今にいる、ということがわかるようになります。完璧な今にあって初めてこれまでのすべてが完全であったと悟るのです。

つまり、「どんな状態でも完璧」というのは、今という完全さに目覚めた瞬間の中にだけ存在することなのであり、この世、幻想世界での現象を示してはいない言葉だと思います。つまり、神をみつけたときにだけ在り得るのだと。

自己に取り組むワークというのは、今を完全に認めることに他なりません。その作業があって、私たちは次への変化を進むことができます。それらの工程は自分の枠の中にある自己意識だけでは不可能なのです。必ず、それ以上の意識、つまり超意識以上の、魂、神という意識が伴ってこそ可能になります。それで初めて、不完全から不完全への移行という幻想を退け、完全から完全への移行が可能になるのです。

魂の連帯に、今日も感謝いたします。
AZU拝

神さまから学んだこと

最近になって気づくのは、敏感な人ほど怒りを抱えている、ということです。私も自分の内面を見直すようになって、自分の中身が、というより、外界のほぼすべてに対して「怒りで防御」していたことに仰天しました。

そして自分が防御すればするほど、その攻撃は自分に向けられるというのが法則でした。攻撃を受けるからさらに防御する、この攻防のスパイラルは人間界での「普通の営み」だと思います。

私は、自分がそれでいいとは到底思えませんでした。自分の周りで明らかにそれをやっているおとなを見るにつけうんざりしていましたし、なんでわかんないんだろう、と、憤ってもいました。「よし、自分だけはそうはなるもんか。」

その決意は上々ですが、気がついてみると自分はいくら正しいことを言ったり行ったりしているつもりでも、人には伝わりませんでした。そして世界は傷つくことばかりでした。

自分を見直してみると、法則は単純でした。要は、今、この自分がどんな状態なのか、ということだけなのです。それが伝わるし返ってくる。これがまず、3次元の2元的法則です。

つまり、「自分が体験したいような自分でいればいい」が、答えです。

1,こうされたいなら、そういう人でいる。2,こうされたいなら、自分をそう扱う。3,こうされたいなら、他者にもそうする。
これが鏡の法則。

多くの人が知っている因果の法則はこの3番目だけだったりして、とにかく他人にはそうするんだけど、自分とか自分の身内、近い人にだとそうできない、という人もたくさんいます。私もまあ、そうでした。だから、そとづらがいい、とか、偽善者、などと家人から言われたり自分でもそういう罪悪感を持っている人もいます。

鏡の法則は、この意識世界、エネルギー世界を、もう少し精妙に表しています。

例えば、先の2番、こうされたいなら自分をそう扱う、というのは、外側に働きかけるのではなく、自分の中だけで完結する、思いの世界です。ものでは表現できません。私の中の再構築はこれから始まりました。

内面は嘘がつけませんので、自分が心から思ったり、そうなる、ことでしか、自分には伝わりません。いくら作り笑顔をがんばっても、心がついていけなければは微笑んでくれません。むしろ消沈してしまいます。

そうやって自分との本当の親密なおつきあいを始めてみると、自分がいかに恐がっていて、それゆえに怒ってもいて、理不尽さに発狂しそうで、叫びたくて、がっかりもしていて、消えてしまいたい気持ちでいっぱいだったかがはっきり見えました。あなたのそばにもしそんな状態の友人がいたらどうしますか?

私はその友人にするように、自分に対して接し始めました。私はそれまで、自分のそばにいる元気のない人のために一生懸命になることは大の得意でした。でも、それができる自分だからこそ、自分は元気満タンだと思っていました。そして、元気満タンでなくても、同じように正しいことをしなくてはならないと自然に思っていました。なんで自分にはそんなに厳しかったのでしょう。

自分は正しいということに、安全さや安堵感を見いだしていたのだと思います。傷つくことから逃れたかったのだと。自分が傷ついていたからこそ、傷ついている人を放っておけないし助けたかった。でも助かりたいのは自分だったのです。

危なっかしい人をかたっぱしから正して、或いは助けてまわる人はおおむね自分の状態に気づいていません。自分からなにが発せられているか。悲痛な叫びとともに痛みが発せられていても、行いはいつも正しいので、周囲はなかなか手を差し伸べられないのです。

いったんこのことに気づいた私は、とても寛容になることができました。まずはどこまでも自分に寄り添い、そして励ました。できないことではなく、できたこと、大きな目標ではなく、より小さな目標をかかげ、クリアを積み重ねました。

理想的なお母さんのように自分自身に対してふるまいました。どうしていいかわからない時は、神様に尋ねました。そして、もし神様だったらなんて言うだろう、どうするだろう、ということだけ考えました。

それまでの自分は理想が高くて困っていました。自分も許せないし、世界に対して批判的でした。しかし神様を理想と考えると、この問題は消えてしまいました。それまでの高い理想は、自分や周囲の人間に求めてしまっていたから窮屈だったのです。理想の神様はあまりに完璧なので、人間のほど遠さがはっきりとわかりました。神様から比べてみると、人間の個々の差なんてほんと~~~~~うにちっぽけでした。みんな、ほんと~~~~うに未熟なんだし、そんなのと比べていきがっても自分を責めても仕方ないんだ、とつくづく思いました。

その個々の違い、というのは、潜在意識の体験の記憶の差です。神様は超意識の中にいます。問題なのは、みんなと大差ない、ちっぽけな自分のほうであり、自分が気を配らなくてはならないのは、そのちっぽけな自分と、なによりあまりに大きな神様のこと、だというふうに。

そしてさらに、自分と神様との関係に意識を向けていくと、なにしろ自分の変化は早まりました。当たりまえです。目標設定が高いばかりでなく、その神様ご自身こそが、私たちを成長させてくれる源だからです。そしてさらにさらに、周囲との関係はどんどん改善されました。これが究極の鏡の法則。自分をこうしたい、こうしてほしいというのはごく些末な欲望かもしれませんが、理想を神様と設定してしまえば、周囲に反映されるのは神様、ということになります。そしてそこに紛れ込んでいる自己意識の破片をみつけるのはとてもたやすいのです。

私は私を取り囲む人々の、その外側ではなく内側、つまり神様に近いほう=ハイヤーセルフを観ることが得意になりました。そうすると、とてもじゃないけど解決できそうにない、と思うような出来事も、一瞬でこんがらがった糸がほどけることが起こります。

私は誤解されることをそれほど恐れなくなりました。だって、それは、自分が(神様とつながって)わかっていれば、そのうちほどけてしまうことだし、なにより自分が神様にしがみついて離れなければいいのだとわかったからです。

怒っている人を見て、「恐い」「いやだな」と感じるのは、生き物として当たり前の反応です。でも自分の怒りがどんななだったか、そしてその解消の道をたどった人には、それがもはや脅威だとは感じません。その奥にある共通の痛みや苦しみへの共感、そしてさらにその奥にある絶対的な意識である「愛」を同時に感じることさえできます。

そうなるためには、自分を分析して批判的であるよりは、私が神様だったらどうする?という優しい目線で自分に接することをお勧めします。

私なりに神様の特徴をあげさせていただくなら、

神様は、とても謙虚に私たちに寄り添います。
出すぎたり上からだったり裁いたり罰を与えたり怒ったりはしません。

そして求めれば求めるほど応え、迎えるほど喜び、ほとんどは隠れていて私たちの好きにさせてくれます。

でも本当は、私たちがいつでも、神の道に沿って選ぶことを望んでおられ、
どんなに裏切られても知らん顔されても背かれても、
ただいま、ごめんなさい、と言われれば即座にすべてゆるし、
優しさだけで包んでくれる。

私たちが少しでも心に感じる意志を持てば、
どこまでも広がる自由さを思い出させてくれ、
愛そのものを示してくれる。

私たちの不義なんで一瞬で忘れてしまう。

なかったことのように消し去ってしまう。

あたかも永遠に、神の家族であったように、
一瞬たりとも神から離れたことなんてなかったかのように、
どうやって迷子になったかも、どうやって帰ってきたのかも、なにも問題にせず、
ただ、ひとつであった、という永遠の安らぎの中に迎え入れてくれる。

人間との大きな違いはそのあたりだと私は思います。

人間はディテールにこだわり、どのように、なぜ、にこだわるから。
それは一つの知恵なのだけれど、
それにこだわっていると、神のやり方には沿えない。

神は良いも悪いも帳消しにして、ただ愛のところへ戻してくれる。
正しいことを良いとがんばりすぎた人には到底納得いかない。
そして、自分が怒り、すり減ってしまい、迷子になる。

良きも悪しきも、神への帰り道を探している。
本当は、すべての人のおうちは同じだし、目的も一緒です。

神様は私にそう教えます。

世界の逆転

先日の勉強会、いらしてくださったみなさん、本当にありがとうございました。私がご提供できることなんて本当に限られていますが、みなさんがお集まりくださることで、意識を向けるべき点や方向性が示唆されます。本当に充実したお時間でした。何しろ、人の優しさや思いやり、神聖さを感じさせていただき共有できることは、それそのものが人を幸せにするものだとしみじみ思います。

誰もが自身の持つ優しさ、愛、神性を意識しながら人や社会とかかわることのできる、優しい世の中であってほしいと切に願います。ただそれだけで、世界は一瞬で変わります。いつも言いますが、ライトワークはいつでもどこでもできます。一人でも他者といても。人知れず、内なる神とともに作業をすることは、称賛とも報酬とも無縁かもしれませんが、誰よりもそれをしている自分自身にはその手ごたえがわかります。人を照らすのは、なにより自分が満たされることですし、自分が満たされることでさらに世を照らすことができます。それを一番喜んでくれるのは神ご自身です。

昨日はキッチンに立ちながらふと、自分が困窮に喘いでいたころのことがよぎりました。選択の余地のないことだらけでしたが、それだけに、物事の優先順位はいたってシンプルで明快でした。まず食べる、家賃を払う、着る、そして自己表現する。そして、目的は幸せになること。それらをタイトな条件でこななさければならないとき一番大事なのが心の管理でした。

健康、と言いたいところですが、からだは、心に着いてきます。まずは心です。

私は心に非常なトラウマを持っていました(当時はそれすらわかっていませんでした)ので、普通のこと(生活)を普通にこなしたり維持することがまず困難でした。スピリチュアルの学びなしには意識を保つことはできませんでした。

お金も精神力も体力もいつも足りていませんでしたが、この苦からいつか抜け出そうという思いだけはありました。まあ、苦しいからなんとかしよう、というだけの発想ですが。

当時は「げんき?」とあいさつされると「はい」と答えるのがしんどい状態で、ついまじめに「いいえ」と答え、相手をびっくりさせたり、「なにかあったの?」ときかれると「なにも。ただ人生に疲れてます」などと答えていました。

心がそれ以上ダウンしてしまうと動けなくなってしまいます。

今ではセッションをしていると「動けなくなる」とおっしゃっている方によくお会いします。その感じがとてもわかります。心が重たくふさいで行先を見失うと、文字通り動けなくなります。これは、物理次元しか見えなくなっている状態なのだと今ではわかります。魂が向かうべき光を見失うのです。

しかし「動けなくなる」は、社会では通用しない理由でしたから、動けなくなる前に自分で手を打たなくてはならない。こういう自己統制が、自分の人生では大きな障壁でありテーマでした。

やりくりして小銭が手元に残るとそれを押入れに放り込んでおいて、それが貯まるとそれで、スピリチュアルのセッションを受けていました。いつも阿佐ヶ谷の古本屋さんで本を真剣に選び、これという一冊を探し、読んで実践しました。どうしても自分を変えなくては(いやさなくては)ならなかったし、一刻の猶予もありませんでした。じっとしていたら恐れや悲しみや孤独に自分が呑み込まれてしまいそうでした。

自分はボロボロでした。そのボロボロは自分にしか理解できないところです。家族や社会や世間はわかってくれません。病院や宗教や学校は直してくれるところではありません。また学びと言っても知識を得て理解するだけでは自分を変えるちからはありません。むしろ苦しみは増すばかりです。ですから、自分の中に、直すちから(気づきと、神)があるのだ、という考えこそが私にとって救いでしたし、それしか他に方法はみつかりませんでした。

なにがボロボロだったといえば、私は心が傷つき果てていました。最初は環境から、次にはそれと戦っている自分のありさまに。

私は本当は、人が真実に気づき、それを求めるのに、ボロボロから立ち直るというきっかけはいらないと思っています。しかしなににしろこの世のありように絶望しない限り、人は既成の「観かた」を手放しません。

既成の観かたは、それまでに与えられたもの(体で感知した体験)を真実だと受け入れて、それを基準にします。どれだけ自身の深くまで潜ってそれを問い直すか、そして、ーここからが重要ですー本当の価値、本当の基準とは何かに気づくことです。この部分なしに、やたらと掘り起こしてみても、掘り起こしの作業にはまってしまうだけで、光りは見えません。

希望も光も神聖さも、恐れも暴力も不平も、すべては私たち個々の内側に備わっています。しかし一見混沌と散らばっているこれらの意識の特性をみつけ、何が「普遍・不変・不偏」のもので、なにがかりそめの思い込みによってつくられたおばけなのかを見分けるのです。本当はおばけなんかいないんだ、という真実を受け入れ、本物の世界を観るのです。この作業は、瞑想かそれに類するワークを通してしか不可能です。

おばけの世界では、おばけを現実と呼び、真実をおまけのように扱います。この世界の逆転をもとに戻すことが、内なる神とつながって生きることであり、平安と自由を同時に手に入れることです。

自分探しの果てに

本当は誰もが、特別な承認と格別の祝福がほしいのだと思う。問題はそれをどこに求めるかだ。

最初はお母さんとお父さんの愛情に。学校では成績や人気や才能に。社会では評価、対人に。恋愛の対象、その相手そのものに。

過剰に求めない人は意外とすんなりと摩擦少なく歩めるかもしれない。でもどこかに欠如感というアンバランスを感じた瞬間、人は過剰に求めるようになっていく。人生いつでもそこそこ得られる人は少ないだろう。人は必ずどこかのきっかけで何かを失った、という体験をする。或いは慢性的に失いすぎていて気づかず虚無―無価値観に満たされている。

なにが足りないと感じるかによって、求めるものも変わる。経済、時間、環境、仕事、周囲との和、他者の関心、権力、地位など。しかしこれらの成果から内面的に獲得できるのは安全もしくは興奮のどちらか。

手に入れてしまうと始まる喪失への恐れ。手に入れてしまうと覚めてしまう興奮。

そしてまた別のものを探し始める。自分探しは終わらない。それを人生の旅だというのだろうか。

自分探しとは多分、特別な承認と格別の祝福を探す旅なのだろう。それはどこにあるのか。

私たちは得ては失うことの連続の途上に、気づく。エゴの足元がふと揺らいだ瞬間に。あるいは激しい消耗の合間に。決して失われないものを求める一瞬の内なる風を感じとる。

承認と祝福は、受け取る準備のある人に訪れる。積み上げた届いた人にではなく、失うことを恐れない人のところに。

手放すことは容易ではない。承認と祝福を信頼する以前には。

しかしいずれにしても恐れている間あなたは失い、恐れを諦めたとき、あなたは得る。永遠なるもの、という生を。

恐れを諦めたとき、怒りも裁きも消失する。そのときあなたはあけわたしている。あなたのエゴをあなたの神に。

永遠なるもの、それこそが魂の本質であり、神であり愛である。完全で終わりなく、私たちを満たし続け、目覚めという歓喜を生み出し続ける。

準備のために、あなたは少しずつ安心する必要がある。けれど、愛し始めるまでの間に手に入れたものは本物ではない。あなたはそれを手に入れたとしても、持ち続けてはいけない。いつでも手放す準備があることを魂に告げておくのだ。

愛し始めたとき、それ以外のものを手放すのは容易になる。承認と祝福を受け取ったとき、あなたはすでに神とひとつだ。

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すべての道は神に通ず

私がこの世に生きて、悲しみや痛みや苦しみに圧倒されてはじめたのは
高校に入ってから。
そこから最大の苦しみと混乱は20代終わりころまで続いた。

20代後半になって何が変わったのかといえば
精神世界、スピリチュアルという概念に出会ったことだ。

以来自分と協力して自分を創造する作業が始まった。
私が簡単にワーク、と呼ぶのはこの作業のことだ。

それまでは何をしていたのかと言えば
生きることに翻弄されまくっていた。

生きることを具体的に言うなら
たとえば身体、感情、また
知らずに刷り込まれていた思い込みや癖、価値観、世界観など。
それは自分が気づいたらそうなっていたものであって
自分で精査し選び創造したものではなかった。

親から引きついだもの、
DNAや親の価値観、家庭や社会環境、
社会や国家や歴史の影響、
のちになって発見した過去世やカルマと言われるものまで全部、
気がついたら私の中に属していたものだった。

それらは私にとって非常に重たい鎧だった。
いや当時はそれが鎧だとすら思わなかった。
それが私そのものであり、人格だと思っていた。

自分を変えるというのはほぼ無理なことに思えた。
努力の方法すらわからない。
自分をがんじがらめに縛るしかない。

だから人生はなんだか自分という存在への
罰か呪いのように思えた。

女性には生理がある。
毎月やってきては、感情を乱し、体調を崩し、不安感をあおって
神経質にして去っていく。
毎月、会いたくない自分に会う。
それだけで自分を好きになれなくなる人は多いのではないかと思う。
命を育むための機能なんだとわかっていても
生産性を上げるための社会システムと体のシステムは
すり合っていなかったりする。

あかちゃんを育み産む瞬間は
生命のシステムに感謝するかもしれないが
子育てに入った瞬間から社会のシステムが押し寄せてくるだろう。

自分は周囲に足並みをそろえてついていくだけで精いっぱいで
自分の人生の主人公どころかからだの主人にすらなれない。

私は人生にほとほと疲れ果てていた。
人間であるということに。

人間であるとはなんなのだろう。

その問いは子供のころから自分の中に在った。

人生に疲れ、諦める前に、
その問いの答えをみつけなくてはならない。
私の魂は、そちら側に私を
ぎりぎりのラインで導いてくれたと思う。

人生を悠々と楽しみ成功している間は
楽しいことに夢中で内側に目を向けられないだろうし
疲れ切って心を閉じ切ってしまったら光を取り込めない。

まさに絶妙だった。

私は自分との関係を取り戻し、
やがて内なる真の自己を見つけた、と思う。

そしてそれとともに生きることを
日々実践している。

パートナーとそれを分かち合い、
それを人と分かち合うことを生業としている。
とてもシンプルで気に入っているし
与えられたものすべてに感謝している。

けれど私が見つけたスピリチュアルな生き方は
スピリチュアルの世界でもあまり一般的ではないようだ。

どうしてなんだろうと常々考えている。

ヨガをして、自然が好きで、
エコでナチュラルでオーガニックでヘルシーで環境に優しく
ポジティブで愛にあふれていて笑顔でピースフルで
仲間がいっぱいいて、イベントやお祭りに集まって楽しそう。

私のような仕事をしていると、
当然そういうところに属していると思われることも多い。

私はほとんど家にいて、家族とクライアントさんと
ご近所の犬と飼い主さんくらいしかかかわらない。
社会との接点はインターネットだし、
頭の中は難しいことが大体を占めている。
瞑想こそが癒しだし、仕事が喜びでもある。

瞑想は家のリビングかセッション部屋かベッドでする。
ハタヨガは最小限の自分の好きなアーサナしかしない。
畳1.5畳ほどのスペースで事足りる。

主婦業をまじめにやっていると
あっという間に一日が終わる。
1人出かけるとしたら徒歩圏内の犬の散歩だけ。

おうちの中の日用品は自分なりのこだわりがあるけど
質素なものばかり。

聖地を巡るのは好きだけど
そこになにかをを求めてはいない。

いや求めていないと言ってしまうのはおかしいけど
お墓にその人がいないのと同じで
神もそこにはいない。

いやいなくはないけれど
会いに行くのはそこではない。
祈るのも瞑想するのもそこではない。
挨拶はもちろんするけれど。

スピリチュアルふうのイベントに違和感を感じることが多い。

本当に普段から神と一緒に生きていて
それを分かち合うためにやっている人と
かたちでそれふうのことをやっている人の違いを感じる。

前者は、神はその人全体に溶け込んでいる。
後者は、神を外にいると思っている。
自分には神が降りてくる、神的な何かが見える、
などと言っている人も
神は普段は外にいて、自分のなかにはいない。
人に見せるためか、自分の得になることのために
神を降ろしている。
神だとその人が信じているなにかの想念を、降ろしている。

自然の中に神を見るのはすばらしい。
でも神に会うために自然の中に行く必要はない。

どんなに美しい景色も
あなたの中にある美しい光や
神の愛の現れである人の優しさや正しさや
人を思う心にはかなわない。

言葉の中、思いの中にある神の愛は
自然をもより活かし、輝かせる。

あなたには、すべての人には、私には、
そのちからがある。
命あるものにより真実の命を与えるちからが。

人間が神の似姿に創られたということを
多くの人は認めたくないのだと思う。
面倒だし、現実に直面するから。

自己の中に神をみつけるには
自分の足元をみつめなくてはならないから。
自分が今していることをみつめ
そこから変えていかなくてはならないから。
天を仰いでいるだけではみつからないから。

そういう現実を避けて
気持ちのいいことだけをして
楽なことだけを見て生きることが
あたかもできるかのように
スピリチュアルの一部の思想は誘惑する。

でもそれは、カルマを刈り取らずに
自分の子供たちや来世に丸投げするのと同じだ。
問題をより複雑に混乱させ膨らませて。

私たちは今ここで、今あるものをなるだけまるごと受け入れて
よく見て考えて、きちんと消化しなくてはならない。
物事の良い面とその裏側をまるごと全体として眺めなければならない。
そしてそこから真実を理解する。
それによってしか、愛を学ぶことはできない。
それだけが、分離から統合へと変容する道だから。

あまりに壮大で地道な作業だけど、
内なる真の自己、神とともにその作業をすれば
あなたは楽に平安に、喜びの中でそれに取り組むことができ
そこから生み出される恩恵と学びを最高のかたちで享受できますよ、
それが本当のスピリチュアルだと私は思う。

すべての人が、本当のあなたへと導かれますように。

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生きている間に絶対にみつけたいもの

ラマナ・マハルシは「自分を無くすこと」だ、と語る。そしてまた、「世界のことは世界に任せてあなた自身を見なさい」とも言う。

自分を無くすために、多くの人は、他人、周囲を一生懸命見ようとする。自分を忘れて人のために行う、ということをそしようとする。

それが入り口になる人もいる。でもその道を通じて必ず戻ってこなくてはならないところがある。それが真の自己、すなわち内なる神のことだ。

そこに戻ったとき、自分はなく、人もない。また自分は在り、人も在る。その背後にある神だけが実在、となる。

宇宙のすべてを神が創った、と頭で知っていても、この自分をも神が創ったとわからなければ、なにもわかったことにはならない。

この私を神がお創りになった、と日々感じて生きると、私たちはそれをいかに粗末にし、ばかにし、取るに足らないものとし、気に入っていないかがわかる。もっとこうだったら、とか、なんでこうでないのか、と思いながら生きている。

自分の細部にいたるまで、神が創り与えたと理解し、それを知り尽くす努力をすると、他人がわかるようになり、宇宙がわかるようになり、しまいには、その境目にはあまり意味がないとわかる。境目のことを気にするよりも、共有し分かち合うことでしか前進がないということがわかる。

そしてどんな場合でも、自分はその持ち場(自分自身)を通してしか世界に関与できないということもわかる。謙虚になるのだ。

私たちは往々にして、あるがままが気に入らない。自分の、或いは他者の。

どちらにしてもそれは、神の創造物が気に入らないのであり、それは捉え方も付き合い方も扱い方も理解も努力も感じ方も未熟であり不足している。

未熟で不足しているとのは前途洋々であるということだ。伸びしろが大きい。それが多分、今の地球人だと思う。

神を理解する努力をすればいい。神を理解しようとすれば人間も理解できる。

いったいどうやって、というと、神を瞑想することだ。

瞑想というと瞑想のCDを買う人が多いのだけど、そういうのってたいてい、この世しか見ずに作られているからそれなりの波動だ。選ぶなら、本当に瞑想で神に触れた人が作っているものを直覚の導きで選ぶといい。

神を見た人の言葉に触れ、その恩寵にあやかるほうがうんといいのにと私は思う。

CDを使うのはあくまで集中を助けるためであって、もし内なる神を信頼することさえ厭わないなら、いつも神の名を呼び、思い、そこから離れないようにがんばるといいと思う。

時々紹介する話しなんですが、フジ子・ヘミングさんが、演奏中なにを思っているかというと、「かみさま、かみさま、どうかまちがえませんように、たすけてください」とずっと思っているそうなんです。

世界的な才能と腕を持つピアニストが、まちがえませんように、なんてかみさまに祈りながら弾くなんて、誰が想像するでしょう。彼女の著書でそれを読んだとき、うそだ~と思ったのです。

でも今ではそれがわかるようになりました。それが真実だということが。それ以外の努力をし尽して、あとはまちがいさえしなければ、それで演奏は最高なのです。だから、祈るのはそれだけでいい。そしてその祈りを神はちゃんときいてくださる。

それからついでに書きますが、彼女は自分が突然脚光を浴びていい境遇になったのは、昔ネコをたくさん助けたからだと言っています。それも最初、???と感じましたが今ではなるほどと思います。

昔、というのは、貧乏で今日の食べ物に困るような、ジャガイモでおなかを満たすしかない苦しいときに、わずかな糧を自分よりか弱い存在に分けることを厭わなかった、ということなのです。

ですから、物理的には彼女は貧困にあっても、本当は豊かで強く、与える愛に満ちていたということなのです。それが時間を経て、形になって現れたということなのです。

あまりに具現化までの時間が長すぎて「神さま、わたしのことは忘れてしまったのね」と思ったこともありました、ともおっしゃっていました。こちらがそう思っていても「待っておれ、それは必ずあらわれる」というのが神のご意志なのです。


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ずばり言います

自己探求という言葉における自己は、
本性ではなくて本質、だと思っています。

本性というのは動物的な性質の部分であり、意識で言えば潜在意識。

そこを探求する意味は、ある程度把握しておくべき景色のようなものであり、
あまりにも偏っていて執着となっている部分はほぐすべき対象となります。
それは言わば、より本質に近づきやすくするための下準備です。

ですが、その部分というのは探検してみると面白くて、
知らなかった自分を知ったような喜びがあり、
うっかりすると、もっと、もっと、となってしまう領域でもあります。

ヨガナンダ先生はそのことを指して
「瞑想して潜在意識のところをうろうろしていてはいけません。
とっとと通過してできるだけまっすぐに内なる神のところへ行きなさい」
と教えています。

そうです。この内なる神が、本質であり、
自己探求において本当に探求されるべき目的なのです。

そして
「人生でなるだけ多くの時間を、この神とともに過ごしなさい」
つまり
「本質として人生を生きなさい」
と教えています。

潜在意識というのは、インナーチャイルドであり過去世の体験的な記憶のことです。

それらのことはとっとと思い出して
なるだけ神に手伝ってもらって癒し浄化し愛で満たしてもらい、
自分の意志を最大限に発動させることができるように準備しなさい、
それはなるだけ若いうちに済ませなさい。

さもないと、意識の習慣を変えて生きるのはとても大変です、
幼少期に体験的に刷り込まれた記憶というのは
放っておけば一生その価値基準の基礎となって生き続けます。

そのまま生きれば生きるほどそれは繰り返し強化され、
外したくても外せない習慣となります。
だから、その矯正、修正は早くに気づいて取り組むほどいい。
体力も気力もあるし、
本質として生きる体験も多く積むことができます、と。

いったん神のもとへ戻ることができたら、
人生を生きることはあらゆる意味で、楽になります。
いろいろなことはそれから体験すればいい。
そうすれば体験そのものの質が圧倒的に良くなり、
生み出すものの価値が増します。

天職を探したい、と願っている人が多いのすが、
職を探し回るのではなくて、先に探すべきものは内なる神です。
そして神とともに行うお仕事はなんであれ天職です。
それは神をみつければわかることです。

ですから瞑想も、そういう目的、意志をしっかりと持って行いましょう。
そうすれば最速で、わたしは、あなたをそこへ導きます
、と
ヨガナンダ先生は、言われます。

ヨガナンダ先生の直球の言葉は、私にとっては最高に心に響きました。
しかしそれというのも、私の潜在意識の癒しという取り組みとチャレンジが功を奏して
そういう真実の言葉を、痛みなく受け入れる心の準備ができていたからだと
今では思います。

潜在意識の世界をぐるぐる回ってそれが目的にすり替わってしまうことは
よくよく起こります。
私自身が潜在意識の道案内をするとき、
本当の目的から目を一瞬たりとも逸らさないよう
とても集中しています。

そうやって、気合を入れて、
「神よ、私はあなたから離れません。
あなたも一瞬たりとも私から離れないでください」と
強く強く願うことは、とても大切なことです。
そうやっているうちに、その他のいろんなことが押し寄せてきても
神から目を逸らさず、神と一緒に対処できるようになっていきます。

潜在意識の探求をやっているうちに、
どこまでそれをやればいいかわからなくなってしまう人もいます。
そうなってしまうと、人は
「自分を全部矯正して完璧に自分を気に入るようにしなくては」
「すべての欲求をがまんしてない状態にならなくては完成じゃない」
などというふうに思い込んだりします。

それは、自己探求の自己の部分が、本性のほうにすり替わっている状態です。
この物質世界で自己を完璧に実現しようなどと思うとそうなってしまいます。

自己というのは物質世界などという限定された世界ではなく
心の内側という無限の世界に存在しています。

その心の内側の、その中でも最も崇高な部分、
それが、あなたでありわたしです。
ですからそれ以外のものを赦すことができるのです。
それ以外は大目に見て、こだわらないでいいのです。
一番大事なこと以外には。

内なる神とつながってくると、言い換えれば波動が高くなってくると、
自然とそういう姿勢になっていきます。

だからOSHOなどは、それを目指すな、と教えます。
自然とでなければ嘘になるから。
ですが一方で、本当にそれ(本質)を理解できるのは
ブッダに帰依したほんのひとにぎりの人だけだ、と言います。
最初から目指さないのなら、ブッダに帰依はしません。
目指している人への教えであることが大前提なのです。

スピリチュアルの教えにはこう言ったパラドックスが多く存在します。
なぜなのかと言えば、導きというのは、ゴールを教えるものではなく
あなたの気を引き、目覚めるようショックを与えることだからです。
目的はゴールにあるのではなく、
あなたが毎瞬毎瞬、神に目覚めては、あなたの人生を歩くことだからです。

今あるもののなかに、まず、愛をみつけてみてください。
そしてそれをどんな時でもどんな場所でもできるよう
自分を訓練してください。

それがどうしてもできないときは
まず自分を癒すところへ戻ってみてください。
そしたらまた、最初のステップに進んでみましょう。

本気でやってみたら、それが最高の前進であるとわかるでしょう。
それ以上の素晴らしいものはどこへ行っても存在しません。


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おつきあいをかみくだく

前回の怒、とのおつきあい
実のところ、怒りを本当に解消させることができるちからは
愛だけしかありません。

そして、愛によって、対立を和解させれば
その怒りは克服され、乗り越えたことになります。

と書きました。

あえて解消、克服、乗り越える、という言葉を使いましたが
実際にはこれらはヒーリング、つまり癒しと同じ意味です。

またここで起こる癒しは単に壁を超えるイメージではなく
この壁そのものを溶解し、内なるスペースを広げる意味があります。

私が言葉を非常に大切にするのは
言葉の意味ではなく、そこに込められたイメージのちからが
私たちの意識の作用を決定づける青写真となるからです。

私たちが自己意識の浄化をするのは
このように内面のスペースを拡大し
新たな視野から世界を見つめなおすことが可能になるという目的があります。

そのスペースが愛という光で満たされていくことが
私たちの霊的な成長であり人生の目的でもあります。

つまりそれが言葉を変えるなら
内なる神とひとつになることです。

人間が愛を体現するなかの一つの要素として、寛容があります。
怒りに罪悪感を持たれる方というのは
ご自分の状態がこの寛容という愛から逸れてしまっていることに
気づかれているのでしょう。

しかし前回も書きましたが、そんな時こそ、
そんな今の状態に対して寛容になってあげてください。

寛容という愛によって
逸れてしまった状態から即座に中心に戻ってくることが容易になるのです。

中心から観ますと、
逸れてしまった状態というのは
片方に振れた振り子だということがわかります。
片方へ振れた状態があなたではありません。
それはただの状態です。

そして無理に押し戻すよりも
リラックスして重力に任せて見守りつつ待つことが
もっともスムーズで優しい方法だということがイメージできますでしょうか。

この対処になじんでくると
それをそのまま他者へ応用できるようになります。

その人の状態をその人そのものだと思ってしまうと
その人を変えたいと思うことは非常に苦痛を伴います。
固定化されたものを別の形態に変身させなくてはならないからです。

しかしその人の内にもちゃんと内なる神が座していて
その人は偏った状態から徐々に神の引力によって
中心に戻ってきます。

前回にも書きましたが
傷ついて後へ引けなくなったり
なかなか戻りにくいこともあるかもしれませんが
神の引力にまさるものはありませんから
いづれは戻ります。

もしあなたにできることがあるすれば
それは自分が戻りやすいようご自身をケアするのと同じように
相手に対しても優しく見守るか
余分なちからを抜けるよう
そっと、こっそり手助けの手を差し伸べることかもしれません。

そういう意味では
けんか、というのも助け合いの一種かもしれませんね。
もう少し目的とルールさえはっきりさせておけば
とても急激に互いを中心に戻すことができると思いませんか。

卑近な喩えで恐縮ですが
うちではけんかしなくてはならないとき
目的はさらなる相互理解、ということを共通認識にし
そして、不要に傷つける言葉をなるべく排除し
どうしてもはずみで出てしまった時は
相手が売り言葉を買わないで見過ごすという努力をするようにしています。

(このルールが守られるようになるとこれは
もはやけんかですらない、
純粋なディスカッションへと進化します。
実際そうなりつつあり
むしろ冷静になってしまう傾向もあります。
なにごとも訓練と慣れです。)

すると結構短時間にいろいろな発見や気づきができて
ついでに感情も発散できて
互いが無意識におなかにためていた感情もセラピーできたりして
更に一緒に乗り越えた達成感まで共有できたりさえすることがあります。

じょうだんみたいですが、本当なんです。


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楽になる一番シンプルな方法

心のセラピスト AZUです。お読みくださりありがとうございます。

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楽になる方法、それは、許せずにいたものを赦すこと。
どうやって?と、やり方を聞き返す前に、
やる?本当に?と自分に問いかけましょう。

やらない、と答えがきたら
「なぜ?」と自分に問いかけましょう。

許さない理由は無数にあると思います。
その理由をちゃんと(自分から)聞きましょう。
全部(自分に)言わせてあげましょう。

ひとつひとつ丁寧に。

そしてその理由をしっかりかみ砕いて受け入れましょう。
簡単に同意したり、聞き流したり、
無視したりしないように。

しっかり受け入れたら
今度はその理由に対して
「本当に?本当の本当に?」と
問い直しましょう。

もしかして・・・
そこまででは・・・
違う見方もあるかも・・・などと
もしその理由に疑いが出てきたら

その疑いをしっかり感じてみます。

それからもう一度、
赦してみる?と問いかけてみましょう。

もしいつか、Yesという声がしたら
その時を逃さないでください。

そして
「私は〇〇を赦します」

と、自分の内なる神に向かって
(それが在ると仮定して)
宣言してください。

内なる神をみつけている人は
地上にほとんどいませんし
みつけていないのに信じられる人は
そういないので安心してください。

それだけではきっと不安を感じることでしょう。
ですから

「赦せますように、どうか私を導きお護りください」
とすかさず願ってください。

神と親しんでいない人にとって
こんなんで届くのかしら、と疑われるのは当然と思います。

しかしながら、神という全き意識、全き愛が
もっとも得意とするところは赦しです。

ですから、赦させてもらうための願いは
なんといっても届きやすいのです。

願ったあとは、
できるだけ、祈ったことと、神のことを忘れず
頻繁に思い出すようにしてください。

そして思い出すたびに神に話しかけてください。
心の中にあることを。
どんなことも聞いてもらって
そしてそれは神に赦してもらいます。

これは、真理と意識とエネルギーの原則に則したやり方です。

もっと自由に、幸せになりたいすべての方にお勧めします。