神の使者からすごい応援

今日のセッションのことです。「今日のテーマからお話ください」というと、「アズさんのブログ、選挙のことで、すごく伝わってきて、自分にはなにができるだろう、って考えたら、今日ここに来ることだ、って思って」

世間というものではご法度と言われる政治のお話。でも、私は選挙じゃなくて、意識と世界と愛とその具現化の話だと思っています。それは彼、三宅洋平くんの演説を聞いてくださればわかると思います。だから、私はまっすぐに彼のことを伝えたいし伝えられるし、こんなにも勇気とパワーが出るのだと思う。でも今日の応援には本当に恐れ入りました。私の発信をこんなにもストレートに受け取ってくださる方がいて、こんなにも直球で投げ返してくださる方がいるなんて。これが、神と私で創造した世界なんだ、と今日も実感させられました。その顕現をありがとう。世界は光に満ちています。どんなときでも。

この後押しを受けて今日も書きます。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」(自民党 憲法改正草案から削除されている 憲法前文)

まるで神の言葉のように真実であると感じます。まるで私たちの究極の目的みたいです。こんなことが保証されている国家の国民であるというのはなんと恵まれ守られていることだろう。これまで当たり前と思ってきたこの加護。間違いはあってもそれは修正されるべくして修正されるし私達には平和を求める権利があったのです。でも、それが削除されようとしています。その結論はあと数日ではっきりします。

でもこれを削除するってどういうことなんでしょうか。

「恐怖と欠乏から免れることはできず、平和のうちに生存する権利を剥奪される」

わざわざあるものを削除しようというのは、このよう変えるということでしょうか。このように変えるにはその後ろに目的と意図があります。それは想像に難くありません。

みなさん、想像してみてください。そして平和もたらす憲法をもう一度私たちの手に取り戻したいと思われるのであれば、参議院選挙へ行って、改憲に明確に反対する意志のある政党と人に投票しましょう。

今回の選挙はこれまで投票に行かなかった若きおとな達が立ち上がってくれています。分母が変わります。一人でも多くの、平和を守る意志のある人に議席を与えましょう。あなたがたった一票入れるだけでもこれまでと違う重さが出てきます。本当です。

私は全国比例区に立候補している、緑の党推薦の三宅洋平くんを応援しています。日本全国どこからも、個人名で投票できます。まだの方はこちらの映像をご覧ください。今日のこの演説は、一段とすばらしい。彼どんどん進化しています。私達もどんどん進化しましょう。

三宅洋平 選挙フェス@仙台ー7/17/2013

潜在意識というのはたとえばこういうものです

昨夜の渾身の思いでのfacebookへのつぶやきですが、大事なことですので再度ここへかかせていただきます。文体がいつもと違うのはつぶやきだから(笑)

♥♡♥♡♥以下つぶやき♥♡♥♡♥

毎日選挙のことでうちなーのおばあとチャランケしてくるうちのだんなさん。(※チャランケとは…参議院議員比例区候補、三宅洋平の映像もしくはこんなサイトをご参照ください。)

確かに平和のためにここまで来た。戦争を勉強するためにここに来た気がしている。

普段穏やかで優しいおばあの癒されない痛みと怒り。あの、戦争の痛みは、体験しないとわからない。だから体験してみればいい、という。その悲しみを、私たちは愛でわからなきゃいけない。だって、それが人間だから。みんながどん底をわかるためにどん底を作り続けるやり方はもう終えよう。私たちのそれが使命。

「あんたは得するのか」「いいえ、みんなが幸せになってほしいだけ。生意気言ってすみません」「いや、そういうことじゃない」・・・

いつもおこりんぼのおばあが「いい話をありがとうございます」と言って缶ジュースをいつもより余計にくれた。

戦争だけは止めたいと選挙に行きたいけど寝たきりのおばあ、車椅子のおじい。

みんな戦争を体験している。どん底の地獄を見てる。そのことを簡単に、戦争はなくならない、なんて言わないで。なくそう。やめよう。やめると決めよう。それができるのが人間だ。

みんな、許すのに必死だ。許せない十字架を背負う人の、その重荷を少しでも分けてもらって私はかたづけを手伝いたい。なのにもう一度戦争なんて。簡単に譲らないで。そんな簡単なことじゃない。人が人のいのちを奪うなんて。その傷が全く癒えないのに、その傷は私たちの意識の中に引き継がれているのに、それを見ないふり感じないふりはもうやめよう。

私のおじいちゃんのからだも、私の暮らす近くのどこかでこの島の土になってる。おじいちゃんは陸軍で島の人は嫌っている。でも、おじいちゃんは本当はアーティストだった。美しいもの、表現、人間、言葉。好きで兵隊になったわけじゃない。私は感じる。おじいちゃんはきっとこの島の優しい女の子に優しくされたんじゃないかって。母も妹もひめゆりの塔で手を合わせた時なぜか同じこと思ったって。とってもお世話になって、本当にありがとう、って、なぜか少し嬉しい気持ちで泣きながらそう言った。

沖縄へ来る前は心配だった。おじいちゃんもすさんだ心で亡くなっていったんだろうか。でも海軍壕へ行った時、私はもしそうでもおじいちゃんを赦せると思った。誰だってこんなにも怖い目に合ったら、おかしくなって当然だ。だから私は赦せるって。海軍壕の守衛さんも怒っていた。海軍は立派だった。陸軍は人間じゃなかった。

でもしばらくったって、やっぱりおじいちゃんは最後まで人間らしく、死んでいったんじゃないかと思った。ただ、そうわかった。沖縄の優しい女の子の優しい気持ちをちゃんと受け取って死んでいった。なぜならおじいちゃんも優しい人だったから。33歳という若さで4名の子どもと若く美しい妻、祖母を残して。

人間らしい心のまま地獄を味わうなんてどれほど辛かったかと思う。この島では心を無くす訓練も受けないまま、家族みんなで戦争に参加させられ島民の4人に1人は亡くなった。家族や親戚のうちの誰かが痛ましく亡くなっている。その思いをどうやって乗り越え、あるいは乗り越えることもできずに胸に抱えて、みんなが生きているか。

私の母はそうして父親を亡くし、いろいろなものを諦めて、そして求めて生きてきた。何が足りないのかもよくわからないまま。誰かの利益、誰かの得のために誰かがそんな思いをするなんて、絶対にいけない。得した人も等しく背負う十字架だ。人間はすばらしい。そう思えるような人間を生きよう。

Don’t give up to stop the fight.

いのちより愛

ツイッターなんかで社会科のお勉強をしていると、「お金よりいのち」という言葉をよく目にします。これを見る度になにか引っかかって気持ちが悪かったのですが、それがなんなのか最近はっきりとわかりました。

お金よりいのち、と言っている人は善意ある、311以降脱原発などを訴えている人がほとんど。脱原発は私自身も賛成です。賛成というか、目指していることですから、この点では同志です。

ですが、お金といのちって、比べるものでしょうか。そして比べて確認して、何か意味があるのでしょうか。例えば政府や国家が国民すべてのいのちを軽んじて、経済優先にしていることに対する反論としての言葉だとしても、お金よりいのち、なんて言っては大切なことが遠くへ行ってしまうように思える。

なぜならまず第一に、国民のいのちを軽んじている政治家だって、お金より自分のいのちのほうが大事だと知っていると思うから。というよりも自分のいのちがなにより惜しいと思っていると思うから。お金にしがみつくのといのちにしがみつくのは同じことだから。彼らがもしわかっていないとすれば、自分のいのちと他者のいのちは等しく尊いということがわかっていない。(いのちは等しく尊い。このことはとても重要です。平和を訴える意識の根っこになくてはならないから。)

それから、お金というのは単なる道具、エネルギーの対価としての仮のしるし。それとわざわざいのちを並べてみることがいのちをとても軽くしてしまう。(結果的にいのちを軽く扱うこととなってしまう。)

それから、お金と並べてしまったいのちというのは、肉体のいのちのことにしか見えにくい。(自分のいのちにしがみつく、というふうに使われる意味でのいのち。)でも本当はいのちというのは宇宙と同じ。意識のことであり、神のことであり、愛のことだから。お金と並べてしまうなんて、物事を明らかにするどころか混乱へと向けることにしかならないと思う。(いのちとは肉体のことではなく意識とすべてのこと。)

比べて意味がないばかりか弊害が大きい気がしてならない。

もし私達が本気で世界を変えたいと思うなら、真実を語ろう。真実の言葉の中には莫大なパワーと奇跡の素が備わっている。

私は「いのちより愛」と言いたい。ここでいういのちは小さい意味のいのち。肉体に縛られた意識という意味のいのち。「子どもたちのいのちを守れ」の意味がこのいのちであるなら、私達は子どもを守るなんてできないと思う。すべての人は神の子ども。大いなるちからに生かされた宇宙の意識をわけた子どもだ。この地上でどのくらいの時間を生きたかどうか、その小さな差なんて問題ではない。すべての人が、今を、愛を生きることができるかどうかが問題だ。

もし私達が今を、愛をいきることができるなら、それはすべての人に伝わり、世界に伝わり世界を変えられる。結果的に子どもは守られ愛を受け取り学ぶこともできる。

すべての人のいのちを思いやることができるとき、人は自分という小さないのちの枠を超える。そのとき私達は愛であり、宇宙であり、真実であり、奇跡そのものになる。

愛が私達の中心であることがわかった人から、まだそれを見つけられない人を助ける。私達にできるのはただそれだけだ。地球を守るのでも子どもを守るのでもない。それは自分を救うことであり、同時に世界を救っている。

よびかけます

先の戦争で空軍の兵士だったおじいさんが「戦争では人間はただの道具なんだとわかった」と言ってました。颯爽と志願した時には気づかなかったと。本当にそうなのだろうと思います。

私は人間は道具ではなく、無限の愛を持った神秘の生命だと信じています。

私が戦争に反対なのはそういう理由です。

いくら安倍さんが優れた政治家だとしても、自民党がすばらしい政党だとしても、日本を戦争に導き、国民から基本的人権と尊厳を剥奪するのであれば、その方針には断固反対しいたします。

私はただの道具ではないですし、人類の誰に対してであれ、そうみなすことはできません。

すべての人が、道具ではなく、無限の愛を内包する尊い存在なのだと目覚めてほしい。それが真実だと思うからです。そのことは誰もが本当は知っているはずなのに、自分や隣人を無価値で無力だとみなして目を背けてしまう。

自分に対して、人間のおろかな面に対して、寛大で忍耐強い態度を持つことさえできたら、やがて誰もが偉大な価値を見出すことができます。その寛大さ、忍耐強さのために助け合うことが必要です。本当に必要なパワーをそこに使うことができたら奇跡を体験できます。本質的に世界を変えることができます。

私たちの意識は拡大してきており、本質的な変化を迎えるのにあと一歩のところにいます。その本質的な変化というのは、奪い合い競い合うという価値観から、補い合い分かち合うという価値観への変化だと思います。

実際私たちは家族や小さなコミュニティーで助け合いを経験しています。しかし、社会の機構、システムがそうはなっていません。ですから一歩外に出たら戦争、などと言われます。戦争というのは古い価値観、自然界の生き物のやり方を模倣した古いやり方の踏襲です。しかし人間は科学というテクノロジーを持つため、破壊しすぎるのです。進化した私たちは高度な新しいやり方を採用しなければ自滅します。

戦争は目先では奪い獲得する目的で行われますが、実際は自殺行為です。すべてを著しく衰退させます。わざわざ貧困を作り出しては欲望を掻き立てて再び奪い合うというからくりを人為的に起こします。このことは有史以来繰り返されてきましたが、殺人の技術は飛躍的に進化していますからその破壊力は破滅的です。

実際に今日本に54基ある原発は核の貯蔵庫のようなものですが、この状態が自殺行為そのものです。ですが、欲に目がくらんで目先だけを追っていると、この自殺行為が見えません。危機を危機と感じることができません。また、放射能の危険や電気の不足(それは捏造ですが)の危機感にさらされていれば、今度はもっと大きな危機に対して感覚を閉じてしまい、やはり大局を見失います。

今日本という国家は自殺前の開き直りのような状態にあるように見えます。これに対してストップをかけ、正しい方向、つまりより人間的で人の本質~無限の愛を持つ神秘の存在~にふさわしい道を選ぶのはその存在一人一人の気づきと選択にかかっていると感じています。

どうか、愛をもって現実に目を向け、ご自身の運命をご自身で選ぶ決意とコミットメントを、また必要な助けを求める勇気を、思いを言葉にする努力を、真実を求め見つけ出す一歩を、と、すべての人の心に呼びかけたいと思います。

アセンション前日に思う。これまでのまとめ。

今回の選挙結果には少なからずショックを受けました。政治についてこんなに真剣に願ったことはないほど、今回の結果が重要だと考えていたからです。311震災によって原発の事故が引き起こされてからこのかた、私は実際に起こっていることを見つける努力をしてきました。私にとってはスピリチュアルと社会は同じです。世界は内なる世界の投影です。

まず、原発事故が起こったときから世界はくっきりと二つに分かれていきました。これは情報をどのように受けとり意識にどう反映されるかによって、形作られました。もちろん元々あった傾向がより鮮明になったということです。原発事故を受けて、私が信頼できた情報とは放射能は人体に非常に危険で、これに迅速に誠実に対処すべきであり、このような事故は責任を追及し再発を防ぐよう取り組むべきものというとても当たり前に見えるものでした。これまでそのような社会で生きてきましたし、もちろん欺瞞や間違いは多くありますが、通常事故などに対して日本ではこのように取り組む努力を全体としてきたと思います。

当然このような意見を持ちそのように進もうとする人は周囲に大勢いました。同じ間違いを起こさないよう、今回のミスを認識して改善について考え、また今起こっていることに誠実に対処しようと努力するグループです。ところが、世の中全体を見回してみるとどうもそのようには動きませんでした。対極にあるのは放射能は危険じゃない、原発を止めてはならない、という意見です。そこで対立が起こりました。私にとって、放射能が危険ではない、原発を今までどおり動かそうという意見を理解するのには、今起こっていることとは別の事情を理解する必要がありました。それは簡単に言えば過去からのしがらみです。利権、お金儲け、権力争い、もちろん生活がかかっている人もたくさんいます。過去にそれらの恩恵にあずかっていたために、今本当の気持ちを言えない、ゆえに動けない人もたくさんいます。また過去からずっと存在していたおそれによって喚起され生きるというやり方の中にずっといた人はその傾向をますます強めることになりました。

この流れの上に今回の選挙がありました。すでに現在ではこれまでにないほどの前進の成果によって、脱原発という認識は広まっていました。テレビや大手新聞の報道が捻じ曲げられ隠蔽されている、要は政府によって情報操作されているという認識は、少し前には本当にごく少数の陰謀論者などと呼ばれる人だけのものでしたが、今では自ら進んで知ろうとするすべての人がほぼ必ず見つけることのできるものとなりました。隠されたゆがみを見つけるのがうれしいのは人間にとって自然なことです。毒を出せは健康になり、美しいものに触れれば豊かになるのが人間です。それで、前者のグループは、今どの程度この新しい視野と展望が浸透しているのかということがこの選挙に反映されるものだと期待しました。また今回は、脱原発などの根底にあるとても重要な基礎の部分の是非を問われる選挙でもありました。私個人としてはこの部分が最も重要でした。それが憲法を変えることついての部分です。

私が脱原発を考えるとき、何度も申し上げてきましたが、脱戦争が根幹にあります。70年戦争していない、憲法によって平和が宣言されている日本で脱戦争を訴えるのはおかしなことに見えたかもしれませんが、私の中では脱戦争がなければ脱原発はありえませんでした。つまり原発は戦争の道具だから、なのです。原発を死守する側には、戦争の道具を失ってはいけないという意図があるからです。水面下では刻々と戦争の準備が進められまた、日本以外のあちこちで起こっている戦争に、日本は(アメリカを通して)戦争に加担してしてきていました。それが今回、合法化されるかどうかという重要な局面だったということです。この流れは今回の選挙と首相の宣言を持ってもはや明るみに出たとも言えます。

多くの人は日本は戦争をしないんだから、というところに甘えてきたと思います。遠い国の戦争、紛争のニュースを見ても、かわいそう、信じられないわ、現代にこんなことがあるなんて、日本に生まれてよかった、と思うのはとても共感力のある部類の人の反応ではなかったでしょうか。でも、憲法が変われば私たちはこれらの遠い場所の戦争と直接繋がります。震災で多くの人の命を救った自衛隊の人々が、今度は国の命令で人の命を奪うのです。民間人や子供の命も奪ってしまうことが起こりえます。

原発が戦争の道具だという見方は一年前にはとんでも論的にみられていたかもしれません。でももう、今は違います。日本は軍隊を持つ、徴兵も視野に入れているということが国家の首相の口からテレビでも宣言されてしまいました。どれくらいの人がそのことをリアルにイメージしてきたでしょうか。また人権を尊重するという項目が憲法から除かれれば「子供たちの命を守りたい」「みんな大事な平等な命」という主張も、とんでも論の部類に入るようになるかもしれません。「何言っているんだ、命は国家のものだよ、国家にささげるものを自分のものみたいに言って」というのが軍事国家です。私たちはおじいちゃんの世代に戻ろうとしています。

今回の選挙でこういったことが民意である証拠となってしまいました。安倍さんは「憲法改正が民意なら、もっと簡単に民意が反映されるようにまず法律を変える」と言いました。だから懸念してきた人たちは本当にショックだったと思います。私もショックでした。今脱原発に尽力している人、お母さん方、原発を廃止しただけでは子供さんの命を守れなくなるかもしれません。脱原発を願うなら、今起こっていることを知って、隠されていることを知って、私たち自身の手でもう一度平和憲法を再獲得しなければならないでしょう。

今回の選挙は不正選挙だということがあちこちで言われています。私は猪瀬さん当確のニュースと、次の自民党ダントツの経過を見た瞬間にそう思いました。それから思い込みと希望的観測から導きだした考えではないかと自分の内面を検証した上で、この可能性は否めないし全体として見張るべきと判断しました。確証なんていいんです。確証というなら、実際に日本の憲法が変わり、軍隊を持ち、戦争をしている世界の国々と同列になって家族や友人が死んだとききっとわかるでしょう。それよりも前に別の選択をするためには、私たちは察知して、対応していかなくてはなりません。選挙の現場にいた人が感じた異変(証言はあります)、ちらちらとしっぽを見せるぼろ(ニュースに挙がっています)。こういうぼろを見逃さずにおかしいことをおかしいとちゃんと認識し、大切な人々に伝えていけば、事件はありのままをやがて見せてくれます。

さらに私が一番大事だと思うのは今回起こった結果すらも、真実への流れから決して外れていないということです。

私たちが今立っている局面とは過去にこれまで分離してきた二つの世界が統合へ向かっているという真実です。分離が統合するには、その分離が明らかにならなくてはなりません。もう分離したまま別々でいるなんて限界、というところまで来て、個々の意識の中でもういやだ、こんなことおかしい、私たちは理解しあい、愛し合いひとつになりたいだけなのに、という気づきがあって、世界は統合します。それが極端に引っ張られれば、反動として痛みがあります。痛みが少なくて済むには、私たちがこまめに気づくことなのです。そしてこまめに修正していくことなのです。地震が大地震にならないようにするには小さい地震によってプレートのずれをこまめに修正されるといいのと同じです。ですからこまめに気づいて自らを修正しているみなさんは決してがっかりする必要はありません。そのようにして世界のゆがみを癒しているからです。ですが、それは決してほっとけばなるようになるんだということとは違います。私たちは起こったことからどんどん気づいて反応し、軌道をいつも修正する、つまり癒す必要があります。(癒しについては前回の記事をご参照ください。)

スピリチュアルの教えの中に、アセンションについて降ろされた高次元の情報がたくさんあります。この情報はある次元では真実なのですが、自分自身がどんどん癒されて意識のフィルターをクリアにしておかないと、生きた概念として受け取ることができません。つまり活かせないし誤解するということです。地球がアセンションを選び地上のみんなが上昇する。その際世界は古い概念にしがみつく勢力と進んで上昇に身を委ねるグループに別れ世界は二つに分かれるという情報は耳にされたことがあると思います。それで、上昇する人たちは宇宙船で引き上げられたり瞬間移動をして世界を平行移動する、みたいなことをささやかれています。私は今日になってわかりましたが、これがもうすでに起こっていることです。世界は二つに分かれていたのです。日本は世界の雛形と言われていますが、これが日本で、世界中の人にとってもわかりやすい形で起こりました。それで、地球はもちろん前進し上昇していきますが私たちはどうすればいいでしょうか。受け入れるということは前回も書きましたが進んで感じきろう、つまり体験しようという姿勢のときに可能になります。感じきるのは痛みかもしれない。少なくとも意識の浄化に私と一緒に取り組んでくださった皆さんは、浄化の痛み、膿出しのときのいやなフィーリングを体験したり乗り越えたりしてきたはずです。でもそれを進んで受け入れ感じきってみると、そこには毒を出し切ったあとの清清しい愛、統合の世界があるのです。

アセンションで上昇を選ぶ人たちが引き上げられ別々の地球に分かれるというのは私は最善の策とは思えません。それは肉体の死をもって別のところでやり直すこととしか思えません。それは古い概念が物理次元で大きな破壊をしたときに、おそれなく別の次元に魂が進むためのガイダンスだと私は理解しています。まず何よりもそれでは統合にならないのです。地球がやむをえず再分離しましたということになります。とかげの尻尾切り的発想です。ここにはやはりキリスト教のノアの箱舟的な発想があるように見えます。私たちはどんなに悪条件だったとしても、統合、愛の次元に進まなくてはならないという魂のゲームに参加しています。そして一見悪条件に見えるものから愛を見つけ出すときに奇跡を体験するのです。

私たちは何であれ、体験し実感するためにこの次元に肉体を持ってやってきています。そのあらゆる体験の中から真実というエッセンスをいつも間違いなく見つけられるようになったらこのゲームは終わりです。真実というのは神であり光であり愛です。

アセンションにあたり、私たちはこれまで冒してきたひどい間違いから学ぶという姿勢から、気づきと赦しと手放すという神の愛による創造のやり方を選ぶ姿勢に移行します。このやり方によって人間はとうとう、長いこと言われてきた「私たちは神の子であり小さな神である」という領域に足を踏み入れることになるでしょう。アセンションには分離による解決などという3次元的な発想から目覚める入り口だったのだと、その日を前にして私は実感しています。地上で今を共有するすべての神の子たちと、共に目覚める目標以外にここにいる意味はありません。最後の1人までが幸せに目覚めるまで、私たちの旅は続きます。

私はここへきてあらゆるものに感謝しています。私はずっと以前から「政治が変わるのは最後」だと言ってきました。新しい概念が過半数の同意を得るというのはもうほぼ世界が変わった後のことです。でも今そうなろうとしています。そんな時代を見ることができるとは10年前には信じられなかったものです。それから私自身が個人の課題というものを概ねクリアして、社会や世界の膿出しという痛みに意識を向けられることができたことに感謝しています。10年前にはやはり想定できなかったことです。選挙の投票率が今回発表された通りだとしてもそれはありうることだと私は思います。それほどまだみんな幸せではないのです。幸せになるために投票する、というような建設的な考えができるのはとても幸せなことです。誰だって自分が不幸なときには社会を憎み世界を呪います。私は神だって恨んだくらいですから。だからできる人でやっていきましょう。社会の膿出しに参加するには自分の毒出しをある程度片付けなければできません。無理にしたら無理が来ます。ですから、自分を癒し、隣人を癒すことこそが、本当の近道なのです。家族間で原発のことを話し合えない人がたくさんいます。家族間ですらそうなのです。自分への愛、家族との愛、隣人との愛を体験してください。そうすればおのずと世界の平和のためにすべきことが見えてきます。

遠回りだと思っていたのにこんなに近道で早かった、と、癒された多くの方が私に伝えてくれます。その実感こそが世界を変えます。私は今日という日に心からの感謝を捧げます。

優しい人のための自分を愛する方法

よく戦争を終わらせるには心の内面の戦いを終わらせることだなんて言います。

温厚で優しい日本人はだから多分、怒っちゃいけない、すぐに反応しちゃいけない、と思うのだと思います。

反対を唱えることも、デモで訴えるのも、議論するのにもなんだか罪悪感があるし、いい反応が返ってこなかったとき傷つくし、そんな気持ちを感じるくらいなら黙ってよう、がまんしよう、という反応をする人は多いのではないでしょうか。

ざっくり例えてすみませんが、例えばアメリカ人だったら多分黙ってがまんすることのほうが無理がかかるから、言い返すしけんかする。だからアメリカ産のスピリチュアルは概ねまず「怒りを抑える」とこを教えている。

でもこれ、内面で行っていることは同じです。要は不満のエネルギーをどこにどのように出しているかの違いです。

黙ってがまんしているエネルギーは必ずなにかを攻撃しています。相手は自分自身だったり、自分よりも小さい弱いものだったり、またはその攻撃性をごまかすために食欲、性欲、出世欲、物欲などを満たそうとするとか、建設的なやり方だと、燃焼するためにスポーツに仕事に熱中するとか、別の楽しいことに意識をそらすとか、芸術などの創造に活かすとか・・・

この中でもとても発覚しづらいのが、自分自身を攻撃することです。これは一見誰にも迷惑をかけないし、問題が表面化するのには長い時間がかかることもある。でも、とても破壊力があります。

自分を攻撃するというのは、自分を裁くこととも言い換えられます。ですからこの傾向が強い人は無意識にいつでも正しくあろうと気をつけています。自己批判の力が強いので、他者からの批判にとても敏感です。間違っていなければ批判を避けることができますからいい子いい人で清く正しくあろうとします。感情をコントロール(本当のコントロールではなく、抑えて隠す)することがうまいので、周りとは問題を起こすことは少なくむしろ周囲からは歓迎され尊敬されうらやましがられたりするのですが、自分では自分を評価できません。摩擦に弱く、またいい人を保つために他者に踏み込むことも踏み込まれることもしないように防御しているので、他者と一緒にいるととても疲れます。そしてそういう自分にも罪悪感を感じてしまったりします。さらにこの緊張が進むと和らげるためになにかに依存します。多くはできるだけ他者に迷惑のかからないもの、食べ物とか恋愛とか、買い物とか、或いは仕事とかです。

以上は優しい日本人の攻撃のパターンの一例、という感じです。

さて、この裁きなのです。
特に知的で優しい日本人は普段から戦いをあまり好まないのですが、この裁きはとても好き(行いがち)です。

裁きというのは「何かと比べて優劣の価値判断を下す」ことです。ここでまた多くの人が価値判断を手放さなくちゃ、と思って、なんでもいいよいいよ、という風に流すというか通り過ぎればいいと考えます。つまり自分の心にかけない、感じないように、という対処をしようとします。見た瞬間気に入らないものが来たときにいきなりゆるさなくちゃ、と思うわけです。でもそれは、ただ頭でゆるさなくちゃ、と思うだけであって実際にゆるすことはできません。実はもう自分にとって不利、つまり価値がないと決めているから来る前に拒絶しているだけです。価値判断を手放すどころか、価値判断し続けているわけですね。

ものごとになんでも優劣をつけることのできる人が「違いのわかる優れた人間」という見方は私たちの中に常にあります。あれが美味しい、ということがわかることが、自分の価値、というようなことです。たくさんものを知っている人は価値がある、と言い換えると、そりゃそうじゃん、となるかもしれません。あの人は権力を持っている、お金を持っている、或いは仕事ができる、とかも、本質的には同じような価値基準から来ています。つまりすべてはなにかと比べて優れているということです。

自分への攻撃をしているとき、人は常に何かと比べて自分は劣っていると自分に訴え続けいるのであり、その立場が逆転するときには他者を攻撃すします。どちらにしても平和はありません。

私にこのことを気づかせてくれたのは「鏡の法則」でした。外界は内面の鏡だと思って世界を見ると、世界は競争、優劣のレッテルでいっぱいでした。しかもそれを見て必ず嫌な気分になるのです。おえっとなったりぎゅーんと胃がつぶれる感じがしたり、もやーっとした気持ち悪い、足元が危うくなる感覚が起こるのです。これを感じるときはつまり自分の中の攻撃性、劣等感、罪悪感、無価値感がうずいているのです。いたたまれない感じがして世界を嫌になるのです。でもそれは紛れもなく自分を嫌がって否定して攻撃しているときです。自分が気に入らず、ありのままを受け入れられません。

それで私の場合はそういうもやーが出てくるたびに中身を点検してそれを解析し手放すというしらみつぶし作戦をとりました。これは時間と手間がかかり、なおかつ余計に自分が嫌になってしまうというリスクがあります。でも私にとってはすばらしい取り組みでした。本当に内なる世界の状態が世界を彩っているということがいやおうなくわかりました。今はこの仕組みがはっきりとわかり、もっと的確でシンプルな方法を身につけています。

さて、戦争を終わらせるにはどうしたらいいでしょうか。

いくら平和を願い平和平和と謳ってもかないません。世界の平和ふうな所だけにフォーカスして平和ふうなところ以外を感じなくしても平和は創れません。戦争を終わらせるには裁きを終わらせることです。比較という価値判断を捨て、新しい、ほんものの価値を指針にすることです。

このほんものの価値というのが、愛です

裁きをやめるには、気づき、赦し、手放しが必要です。この気づき、赦し、手放しというのが癒しです。癒しには感じることが必要です。感じることなしに癒しはありません。拒絶を解き、進んで感じきろうという姿勢をとるとき、私たちはなんであれ受け入れています。受け入れ感じきったとき、そこには安らぎがあり、自由があります。癒しを起こすのは神のちから、つまり愛です。ですから私たちは愛というもっとも価値あるものによって、自分を癒す必要があります。ここに真の平和があります。