引き寄せの奥の奥

空港のラウンジにて、普段触れることのない雑誌を手に取る。
普段読むことのない、堂本兄弟のどっちかの
(丸い感じのほう)のコーナーに
なぜか目が行く。

記憶にある限り、なんとなくふてぶてしい感じの人かなと思っていたけど
彼は奈良に帰るときだけが、本当の自分になれるときだと言う。

そのときだけは、心が静かに穏やかになり、
鎧が脱げるときなのだそうだ。

神社仏閣巡りもお好きなようで
宮司さんとお話なんかしていて

「神道は信じるものではなく、感じるものなんですよ」

なんていう言葉に感銘を受けるとのこと。

私も感銘を受ける。
言霊を引き寄せたな~と、感謝が沸くので神に伝える。

神道に限らず、神は信じるものはなく感じるものだと思う。
信じるとすれば、感じるから信じるのであって、
もし感じずに信じるだけなら盲信になってしまう。

もし感じたことのないものに祈るとすれば
その交流は一方通行になる。

ヨガナンダジは、
「ただ週に一回教会に行って祈るだけでは不充分です。」
とおっしゃる。

いつも神に話しかけるのは素晴らしい。
神の声が聞こえたらそれも素晴らしい。

でも本当はいつも心に神を感じられたら
それが最高だと思う。

それは、神は遠いどこか、別のどこかにいるのではなく
私とともにあるのだ、ということだから。

神の愛を求める人は、神を感じられないときに心が沈む。

暗闇のとき、悪いことばかり気になるとき、からだの調子が悪いとき、
貧乏なとき、退屈なとき、

私たちは神から迷子になる。
神に見捨てられた気分になる。
罪悪感。

自分が良くない波長にいるから引き寄せている、と
抜け出すことに必死になる。焦りが起こる。

確かに波長は引き寄せ合う。
でも、この宇宙で最も強い磁力は神の愛。
(引き寄せを学んで神と愛を学ばないなら
私たちは牢獄にいるのと同じだ)

たとえ私たちが小さな過ちをおかしても
それをも包み込む大きな愛がある。

小さな過ちから抜け出そうと必死になっている間にも
私たちは本当は包まれている。
もっと大きな、強い波動に。

私たちがそれを本当に信じることができるようになるには
たくさんの、愛の体験が必要だ。

傷ついた犬が、安堵に身をゆだねるようになるには
たくさんの、愛の体験が必要だ。

彼は愛を何度も拒絶するだろう。
でも、与え続けられることで
いつか信じるようになる。

拒絶に拒絶で応えるうちは、
私たちは滞り、光りに向かうことができない。

怒っても、泣いても、うちひしがれてもがっかりしても、
その向こうに受容と理解を求めていれば
それは来る。
神の愛の波動に後押しされながら。

泣いてもいい、怒ってもいい、
拒絶と絶望よりずっといい。
無関心よりずっとずっといい。

魂が振動し躍動すると
エゴの殻は混乱と恐怖におののく。
私たちはより一層目を凝らし、心を澄ませて、
真実を探す。それでいい。

不安でもいい。
怖れてもいい。
しかしその声に従うな。

何度もその荒波に飲まれながら
私たちは浮上する。
何度でも、何度でも。

神の愛という最も強い磁力が
私たちを浮上させ、
悪い夢から私たちを呼び覚ます。
何度でも、何度でも。

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