おつきあいをかみくだく

前回の怒、とのおつきあい
実のところ、怒りを本当に解消させることができるちからは
愛だけしかありません。

そして、愛によって、対立を和解させれば
その怒りは克服され、乗り越えたことになります。

と書きました。

あえて解消、克服、乗り越える、という言葉を使いましたが
実際にはこれらはヒーリング、つまり癒しと同じ意味です。

またここで起こる癒しは単に壁を超えるイメージではなく
この壁そのものを溶解し、内なるスペースを広げる意味があります。

私が言葉を非常に大切にするのは
言葉の意味ではなく、そこに込められたイメージのちからが
私たちの意識の作用を決定づける青写真となるからです。

私たちが自己意識の浄化をするのは
このように内面のスペースを拡大し
新たな視野から世界を見つめなおすことが可能になるという目的があります。

そのスペースが愛という光で満たされていくことが
私たちの霊的な成長であり人生の目的でもあります。

つまりそれが言葉を変えるなら
内なる神とひとつになることです。

人間が愛を体現するなかの一つの要素として、寛容があります。
怒りに罪悪感を持たれる方というのは
ご自分の状態がこの寛容という愛から逸れてしまっていることに
気づかれているのでしょう。

しかし前回も書きましたが、そんな時こそ、
そんな今の状態に対して寛容になってあげてください。

寛容という愛によって
逸れてしまった状態から即座に中心に戻ってくることが容易になるのです。

中心から観ますと、
逸れてしまった状態というのは
片方に振れた振り子だということがわかります。
片方へ振れた状態があなたではありません。
それはただの状態です。

そして無理に押し戻すよりも
リラックスして重力に任せて見守りつつ待つことが
もっともスムーズで優しい方法だということがイメージできますでしょうか。

この対処になじんでくると
それをそのまま他者へ応用できるようになります。

その人の状態をその人そのものだと思ってしまうと
その人を変えたいと思うことは非常に苦痛を伴います。
固定化されたものを別の形態に変身させなくてはならないからです。

しかしその人の内にもちゃんと内なる神が座していて
その人は偏った状態から徐々に神の引力によって
中心に戻ってきます。

前回にも書きましたが
傷ついて後へ引けなくなったり
なかなか戻りにくいこともあるかもしれませんが
神の引力にまさるものはありませんから
いづれは戻ります。

もしあなたにできることがあるすれば
それは自分が戻りやすいようご自身をケアするのと同じように
相手に対しても優しく見守るか
余分なちからを抜けるよう
そっと、こっそり手助けの手を差し伸べることかもしれません。

そういう意味では
けんか、というのも助け合いの一種かもしれませんね。
もう少し目的とルールさえはっきりさせておけば
とても急激に互いを中心に戻すことができると思いませんか。

卑近な喩えで恐縮ですが
うちではけんかしなくてはならないとき
目的はさらなる相互理解、ということを共通認識にし
そして、不要に傷つける言葉をなるべく排除し
どうしてもはずみで出てしまった時は
相手が売り言葉を買わないで見過ごすという努力をするようにしています。

(このルールが守られるようになるとこれは
もはやけんかですらない、
純粋なディスカッションへと進化します。
実際そうなりつつあり
むしろ冷静になってしまう傾向もあります。
なにごとも訓練と慣れです。)

すると結構短時間にいろいろな発見や気づきができて
ついでに感情も発散できて
互いが無意識におなかにためていた感情もセラピーできたりして
更に一緒に乗り越えた達成感まで共有できたりさえすることがあります。

じょうだんみたいですが、本当なんです。


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怒、とのおつきあい

みなさんこんにちは。
沖縄は夏!です。

みなさんは怒りについてどう認識をされていますか。

単純で深い、
そして最も日常的で身近な人間のテーマの一つであるかもしれませんね。
スピリチュアルの教えで言及されることも多いテーマです。

私はよくこのブログでも怒りは悪いものではありません、と言います。
でもそう言うと「では怒ってもいいんですね」とか
「じゃあこれを相手にぶつけてもいいんですか、
それはだめですよね、じゃあどうすればいいですか」
とおっしゃる方も多いです。

もしくは怒りは悪いものだからなきものにする、
という方策に出る方もいます。

大事なのは怒りがある、ということと、それをどう扱うかは別の問題ということだと思います。

それは火みたいなものです。
絶対に必要だし、万一必要でない、という方がいたとしても
この世に在るものには違いありません。

他人や周囲を巻き込むし
下手をしたら飛び火もするし
自分もやけどするし
いろんなものを破壊する可能性があります。

それで、そんな恐ろしいものはなきものにしよう、という発想をする人もいます。
でもそうしていると火の恩恵からも遠ざかってしまうことになります。

怒りとの付き合いで困るのはまず、
コントロールが難しいということ。

それから良し悪しの判断が狂うこと。

そしてさらに、その判断のもとに持論が展開していくので

そのストーリーからなかなか戻ってこれなくなること。

そして怒りそのものが悪い、という罪悪感がありますので

それ自体の正体と向き合うのが難しこと、などがあげられます。

人間が本当に怒るときというのは
自分の中に正当性があるという信念があることが多いです。

またプライドを傷つけられるとあとにひけなくなり
怒りで突っぱねるようなこともあるかもしれません。

別の感情が奥に潜んでいて、それをわかってほしい時、
またわかってもらえないときに怒りによって心が訴えることもあります。

いずれにしても、不快という感覚は、自分から自分に「お知らせ」をしています。
お知らせはなんのために来るかというと、
「対処してよ」という目的があるのです。

遡れば、赤ちゃんが最初に覚えるのは「不快を訴えること」。
それでお母さんは気づくことができて、対処してあげられます。

自分との付き合いもこんなふうにできるといいですね。
お母さんが赤ちゃんに対処してあげるのは愛情ですから
自分にもおんなじように愛情を与えてあげればいいのです。

実のところ、怒りを本当に解消させることができるちからは
愛だけ
しかありません。

そして、愛によって、対立を和解させれば
その怒りは克服され、乗り越えた
ことになります。

逆に言えば、克服され乗り越えられていない感情は
その時は鎮火しても
同じシチュエーション、同じストレスが来たら
その刺激に同じ反応を繰り返します。
解体されていない証拠です。

対立は一見自己と他者であるように見えても実際は
自己と自己、過去と今、自己と社会通念、自己と世界観など
要は自己と自己の観念というところに集約されます。
世界は自己の内面を映す鏡ですからね。

次回チャンスがあったらぜひそれを、愛する者からのお知らせ、と受け取って
しっかりと対処を検討してあげてみてください。
きっと世界が変わります。


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