あなたが選ぶ現実

この世の法則と高次元の法則。
この違いってわかりますか?

似たものは似たものを引き寄せる。(類は友)
与えたものが返ってくる。(ブーメラン)
カルマの法則。(因果)

これらはざっくりこの世の法則。物理宇宙の法則。
昔の人は「いいことをすれば自分に還ってくる」と教えました。

しかしもう少し内面を観ていくと
実は、自分が自分に与えた「想い」
つまり意識のエネルギー法則が働いているとわかります。

自分が自分を攻撃すると、外から攻撃される。
自分を敬うと周囲から敬われる。
自分が自分を愛すれば、愛される。

この法則は、例えば周囲に一生懸命なにかをしてあげたり、
良かれと思ってがんばったりしていても
自分の心が「嫌われたくないから」とか
「そうしないと良くないことが起こるから」とか
「相手にわからせたいから」
など消極的であったりコントロールしたい想いのエネルギーが潜んでいれば
愛よりも恐れとしてそれが発せられ
結果恐れをもとにした現実が返ってくる、という結果が来ます。

がんばっているのにいい結果、つまり幸せに結びつかないのです。
がんばるほどに、もっとがんばらなくてはならない結果がついてきます。

これもいわば物理法則です。

高次元の法則とは、それを凌駕したうえで超越しています。

愛とは与えるもの、などと言います。
愛とは無限、愛に優る法則はない。

物理次元の法則に生きている人が
もし無限に与えていたら、枯渇し失ます。

しかし高次元の法則、
つまり神と愛、無限の創造の法則に生き始めるとどうでしょう。

私たちは神という無限の源泉から湧き溢れる愛という光の
通り道になることができます。

愛は無限に増殖します。
私たちの源は、愛です。
しかし私たちがその源とつながるという選択をしなければ
私たちはさしあたりこの世界の物理法則に生きています。

レイキヒーリングでは「私たちはエネルギーのパイプになる」と言います。
それをからだでしっかりと体験すると
私たちは自分が無限の源泉、つまり神の愛とつながっていると
心身でわかり始めます。
最初から最後まで、癒しの極意はそれです。

私たちにはただ、体験が足りないのです。
物理法則ではなく、愛の法則の中で生きるという体験が。

無限とつながるということがどういう生活をすることなのか。
頭ではなく、心から、からだの底から、体験することが。

肉体がある限り、人間は無限でいることはできません。
無条件の愛だけでいることはできません。
無条件の愛は神の特権です。
しかしそれを、からだをもって体験し実感すること、
今この瞬間それを知ることは、人間だけの特権です。
そこには必ず、圧倒的な夜明けのような感動があります。

私は無限の源泉の愛のパイプになる、という選択をしたその時だけ、
神の恩恵に与ることができます。

そして毎瞬のようにそれを選択することでしか
それを招き入れることはできません。

本当に毎瞬のように気づき、選択し、招き入れることがおそらく
完全な目覚めであり悟りです。
その時、本当に過去や未来、時間が無くなるのです。

そのようになるまでの間、
私たちは時間の中で生きます。
時間という訓練者が教えてくれます。
その限られた時間の中で
尊い選択ができるようになるように。

私と神はひとつであり、私は愛そのものです、という
真実へ還るまで。

豊かさは、愛することから

理想や意志を持つ人ほど、自分のコントロールができるようにならない限り葛藤が大きいものだと思います。思慮ある多くの人が自分を簡単に愛せないのはそこにあるような気がします。

トラウマがあるとかないとか、インナーチャイルドの状態に関わらず。(インナーチャイルドは自分史のすべてですから、見直しをするまでの自分の多くはそこから成り立っているのはもちろんのことですが。)

理想と意志に感情とからだがついてこないイライラ、これは放っておけば一生つきまとう人間のジレンマでしょう。放っておいたなら、その人にどんなに崇高な思いがあっても、心の中が平安に満たされることはないでしょう。むしろ自己のなかの分裂は時とともに深まっていくことと思います。

崇高な意思とうらはらに心の中ではいつも不平不満が渦巻いている。いつも他者かもしくは自分を攻撃している。もしくは諦めや我慢とともに固まり閉ざされている。

この状態をチャクラで見ると、スピリチュアルに目覚めている方には往々にしてあることですが、下3つのチャクラが閉じているとか弱い、というふうに出ていることが多いです。「地に足がついていないんです」などと自覚なさっている方も多いけれど、言葉のイメージのように単にふわふわしているということだけではなく、

例えば自分の在り方を常に周りとの兼ね合いで測ってしまうというようなことや、どこにいても求められる以上にがんばってしまう、さらに求められないと居心地が悪い、つまり役割がはっきりしないと楽に居ることができない、人のことは許せるけど自分にはもっともっともっと多くを求めてしまうとか、だけど周囲からの理解は欲しい、賛美とは言わずとも少なからず認めてもらいたい、或いは許可がほしい・・・など様々な意識として現れます。まさに葛藤です。

これは30代のころの考察ですが、年を取って寛容になっていく人と偏狭になっていく人がいることに気づきました。更に掘り下げれば寛容に見えて諦めが強く閉ざしている人もいるかもしれません。本当の意味での寛容は、赦せることでしか生まれないのでしょう。

霊的成長、などというと仰々しいですが、私は単純にどっちに向かうかの二択だな、とその頃思いました。私は思春期から体調も精神状態も不調で不安定だったため、20代後半から自分を立て直し始めましたが、「次の山場は更年期だ。そこは自分の取り扱いマスターになって苦しまずに乗り切るぞ」と心に誓ったものです。そして自分との付き合いに対して本当に様々な実験を施してきました。

人間の肉体的な健康や寿命はおそらくホルモンに牛耳られていると私は今では勝手に確信しております。例えば女性ホルモンが一生の間に分泌される量って、ティースプーン1杯だと昔何かで読んで驚愕しました。総量でそれだけのものが、心身にどれだけの影響を持つか、というより女性のからだの一生をコントロールするのです。すごいと思いました。

この微細な采配は、心の在り方、自分の扱い方、つまり自分への心のエネルギーの向け方でまったく違うものになると、私は仮設を立て検証し、ほとんど納得に至っております。

また、自分が自分の思うようにならない、という体験は、子供の頃の些細にみえる兆候(例えば、宿題を後回しにしてしまう、毎日こつこつ予習復習ができない、忘れ物をしてしまう、テストでケアレスミスを必ずする、マラソン大会などが非常にプレッシャーである、ノートを最後まで使いきれない、-途中で飽きてしまって-)から始まり、思春期の体重のコントロール不能からはあっという間に不眠、便秘、摂食障害、鬱へとつながりました。

これらは自分への不信感、無価値観、自分自身との関係の溝の最初の兆候だったように思います。この後大人になるとこれらが仕事や自己表現、ひいては経済面、人間関係、恋愛、家族関係など生活と人生そのものへと大きく波紋を広げるようになりました。

これらは成長の過程で誰もが超えるハードルです。人によっては躓きもなく何気なく乗り越えていけるテーマかもしれません。ですが私の場合、どれもが気になり神経質さが増し、傷つきがひどくなり、愛を見失い、人生そのものへの絶望へとつながりました。

そこから回復する際、インナーチャイルドの状態が、すべての人生に非常に重大に関わっていることもわかりました。

世界を愛すること、他者を慈しむこと、自分を愛することは同じです。どこから始めてもいいのかもしれません。しかし、どれか一つだけ、あるいはどれかができないでいる間は、本当はどれもできていないのと同じなのだろうと私は思います。どれかが気になったときには全体を見直してみることが、人生を豊かに生きる一番の近道と言えるでしょう。

欠けていることへの気づきは、より全体性へと統合されるチャンスを与えられていること。それが魂の導きであり、自身の真実の道なのだと感じています。豊かさへの道は、得ることではなく、不全性をみつけ、思い込みを手放すことによって必ず開けます。どんなときでも。

愛するちから

「やりたいことがなんなのかわからない」という声をセッションでよく伺います。また、「なにかやらなければならないことがある気がするけれど、それがなんなのかわからない」という声もあります。

ひとつには、それを思考で解析しようとしているうちは、たとえ候補があがっても、行動に移すには至らないものです。思考は何かを行う原動力にはなり得ません。私たちを揺さぶる心の要求の声は普通、感情・感覚・本能を通して発動します。

そこで世では潜在意識を活用(活性)せよ、というふうに言われたりします。しかし、潜在意識というのはあくまで欲の世界です。しかもその欲とは、からだが学習したことをもとに設定されています。からだが習慣としている反射がほとんどを占めます。欲がなくなったら死ぬよ、なんて言う人もいますが、欲が最低限命を守ろうとする力はそうそう抑えられるものではありません。いざとなったら働いてくれます。そんなことより私たちの欲求が普段、本当はしあわせになるためにいらないものを欲しがってみたり、それが必要だと思わせるよう私たちを仕向けているところが問題です。本当はその欲求を吟味し、手なずけたり手放していくことが重要なのです。

「やりたいこと」とみなさんが表現されるものの中味はそんな欲ではなくて、心底意義を実感できるような、人生や自分そのものを愛さずにはいられないくなるような、本当の満足のことを指しているのではないでしょうか。しあわせ、というのはその中身を手に入れいることに他なりません。

すべての人に可能で、そしてそれが最も地上で価値あるものだと神さまが人間に保証してくれているもの、それが、愛することです。「愛です」と言ってしまうと多くの人は、愛を手に入れるとか、愛されることを連想するかもしれません。しかし、愛を求めていても愛しているとは限りません。

愛することを始めるのに必要な準備は、それぞれに完璧なかたちで魂と内なる神から与えられています。その愛は内側で準備され、発動命令が下るのを待っています。

しかしそれを始めない限りは、そのレッスンを始めることはできません。自転車についていくら考えたとしても、自転車に乗ってみないと上達はしません。愛することも同じです。愛について知っているつもりでも、愛してみないことには問題点にすら気づけません。

現代では愛する前に問題点に気づきたいと考えている人も多く見受けられます。しかしそこでいう問題点とは他者の体験であって、自分のものではありませんから、いくら吟味しても自身に役立てることは難しいのです。わかったつもりでもいざ自分のこととなるとうまくいきませんから、余計にイライラしたり否定的になってしまう弊害も起こります。

愛に向かうための問題とは本当はそれ自体喜びです。向き合うほどに、愛が育つわけですからね。

すべての人は、生まれながらに愛を求める強いちからに動かされ、まず親からそれを受け取ります。そして同時に親を愛します。しかしその愛は、本能や刷り込み的な学習によって裏打ちされた、条件付けによる愛です。欲しい、という気持ちと表裏一体なのです。

ですから思春期に異性に抱く愛情もそれに似て、欲しいの裏返しの感情です。どうりで相手を思うと苦しかったり怖かったりしますよね。幼少期に愛情の欠乏感(寂しさ)を強く持つと、思春期的な愛情欲求が長く続いてしまうものです。求めては失望することを繰り返し、それを超えることができません。欠乏状態では信頼関係を育てることが困難なのです。

トラウマ(心的外傷)というと暴力を連想しますが、多くは共感力の強さ、優しさから傷つく人がほとんどです。他者にフォーカスすることに慣れすぎ、自己の欲求を抑え込んだ体験が寂しさ、欠乏につながって、インナーチャイルドが不満、不安を抱えたままになっていることが愛することを妨げています。ですから人一倍愛を求めていながら、恐れによって愛を遠ざけているのです。愛せていないのです。

一方で、強い欲求なしには人間はなかなか愛のレッスンに取り掛かれないのかもしれません。愛は受容や忍耐や理解や、自分の慣れ親しんだ世界観までもを差し出すことを私たちに求めます。そうすることで他でもない、自分自身が内なるスペースを広げ、養い、成長し、新しいものに生まれ変わるというしあわせを享受することが可能になります。

つまりは愛を学ぶことが即ちしあわせなのです。手放すとは、愛するもののためにスペースを明け渡すことです。愛は古い価値観を捨てるにふさわしい理由です。

その過程で、私たちは幾重にもがんじがらめに巻き付けられた恐れに出会うことでしょう。この恐れに直面させ、そのまやかしに気づかせてくれるのもまた、愛のちからです。

ではどうやって愛すればいいのでしょう? 未知を体験するにはそれを想定してやってみることです。最大限の想像力で、あなたが最上だとイメージできる限りの愛と見当をつけて。そうしてみるとき、魂のちからが発動します。悠久の時間を超えて、神の愛とともに歩んできた魂の記憶があなたの意志のちからに触発されて、魂が廻り始めます。あなたとともに。

するとあなたは気づきます。なんだ、なにも大げさなことじゃなかった。どこへ行く必要も、持ち物を変える必要もなかった。私はひとりじゃなかった。すべてはここにあったんだ、って。

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感謝とともに

AZU拝