終戦祈念~沖縄慰霊の日によせて

「ソフィーの選択」って映画、映画だと思っても吐きそうに辛い。
もし自分に起こったら、どうなるのかまったく想像がつかない。
そんな未来が来ることは絶対に防ぎたいと思う。
人権と尊厳のない世界。
それはつい、最近まで存在していた。

戦争またやろう、やればいい、やったほうがいい、
なんて思っている人は一握りだろうし
ほとんどの人は、んなわけなんじゃん、って言いながら
騙されて巻き込まれていくんだろう。

どっちにしても、それは憑き物にやられているんだと思う。
みんなが瞑想すればそんな愚かさは消滅する。

憑き物は、人間の想念だ。

利己心、虚栄心、傲慢は誰もが心に持っていて
憑き物はそういう波動が好きだ。

私たちは自分のそういった波動と闘わなくてはならない。
そういう意味で、生きることは楽ではない。

自分の中の邪気を見て見ぬふりする楽は、本当は地獄だ。
楽ではなく、それは本当はずるだ。

ずるは自分の周りに地獄を創る。
でも逃げていると、地獄に追われ、それを自分が創っているとは気づかない。
誰かが創った、外側にある、と、本当にそう思えてしまう。

そして周囲を攻撃する。
攻撃している人こそが、自衛を必要とする。

中国が北朝鮮がイスラム国が攻めてくるぞ、抑止力だ、自衛だ、
自分を護って何が悪い、やられる前にやれ、それが生き物の本性だ、
というふうに。

でも本当はそういう人はちゃんと闘っていない。
闘っていない不甲斐なさやうっぷんを晴らしたいのだ。

平和を本気で目指す人は少なくとも、自己の欺瞞と闘っている。
私たちが平和を獲得するには
自己と向き合わなければ始まらない。

瞑想している人、霊性に目覚めている人は
そろって、戦争は間違っているという。
そして平和こそが人間が目指す波動だという。

平和を志す人にはそれが当たり前すぎて、
それ以外の目的の意味がわからない。
だからかえって自信を無くしてしまう。

戦争を支持する人のほうがあたかもおとなであるかのように、
社会の真実を知っているかのように、思わされてしまう。

しかし、知れば知るほど戦争の仕組みは愚かだ。
誰もが持つ人間の利己心、虚栄心、傲慢を
権力者が利用して利権を得ているだけのことだ。

あわれにも巻き込まれた一般人は
そこに儚い意義を見いだそうとして
戦争に価値をみつけようとするか、
もしくは自分の愚かさを黙殺しようとする。
しかし傷は、学びなしに消えはしない。

私の祖父も沖縄戦で亡くなり、
母は心の傷を無意識にパートナーと私たち子供に引き渡した。

そうやって潜在的な怒りと虚無はカルマとして引き継がれる。
私たちの子孫の誰かがそのカルマの支払いをする。
そしてまた新たなカルマが作られる。

踏みとどまり断ち切る勇気のある者だけが
世界を変える。

その種を、蒔こうと思う。

______以下引用______
沖縄慰霊の日:「泣く子だめ」…戦場で別れた弟、妹よ
毎日新聞 2014年06月23日 13時25分(最終更新 06月23日 14時22分)

 ◇浦添市の喜屋武さん、かすかな望み消えない69年間

 沖縄戦で命を奪われた家族や友人らに鎮魂の祈りをささげる「慰霊の日」。戦没者の名前が刻まれた沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の「平和の礎(いしじ)」には、23日早朝から遺族たちが訪れ、犠牲者の冥福を祈った。凄惨(せいさん)を極めた地上戦による傷は、戦後69年たった今も癒えない。【佐藤敬一】

 沖縄県浦添市の喜屋武(きゃん)幸清(こうせい)さん(75)は、「鉄の暴風」下で生き別れたきょうだいを捜そうとしている。家族の間でさえタブーにしてきたあの時のこと。「ひょっとしたら弟と妹は誰かに拾われて助かったかもしれない」。69年間、かすかな望みが消えることはなかった。

 沖縄戦の当時、6歳。父は移民先のマリアナ諸島テニアンに残り、祖父母とおなかに妹を宿していた母、弟2人と引き揚げ、那覇で暮らしていた。

 戦火に追われ南へと逃げた。途中、祖父母は死亡。母良子さんが水や食料を探す間、壕(ごう)で0歳の妹洋子(ようこ)さんを負い、4歳の幸紀(こうき)さん、2〜3歳だった幸雄(ゆきお)さんの弟2人をあやして母の帰りを待った。

 6月、たどりついた摩文仁の海岸で4人を連れた良子さんがガマ(壕)に入ろうとした時、避難民と一緒に潜んでいた日本兵が銃を突きつけて言った。「泣く子は入れない」

 良子さんは「究極の決断」を迫られた。「上の2人は泣きませんので助けてください」。喜屋武さんと幸紀さんを壕に入れ、幸雄さんと洋子さんを連れて出て行った。

 良子さんはしばらくして一人で戻り、再び出て行ってはまた一人で戻ってきた。置き去りにされて泣きながら追いかけてきた幸雄さんを、良子さんが言い聞かせるために出たのだった。

 終戦後、父幸一さんとともに親子の暮らしが戻ったが、弟と妹のことを誰も口にはしなかった。良子さんは敗戦から9年後、心臓病で亡くなった。38歳だった。「母は長男の自分だけでも何としても生かそうと考えたのだと思うが、ずっと自分を責めていたのでしょう。病気も戦争の苦しみが原因と思う」

 弟、妹の顔を今では思い出せないが、思いは巡る。「母は泣きながら追いかけてきた弟に、何と言い聞かせたのでしょう。考えただけで胸が張り裂けそうになる」

 今年、遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(60)に「万が一だが、弟と妹をDNA型鑑定で捜せるかもしれない」と教えられた。「戦場で肉親と生き別れた人は多い。その人たちのためにも声を上げよう」。具志堅さんとともに、希望する家族と戦争孤児のDNA型照合を国に求めることにした。

 喜屋武さんは言う。「当時の話を母に聞いておけば良かったという後悔と、聞けば更に母を苦しめたという思いが今も交錯します。こんな複雑な思いを抱いている人が沖縄にはたくさんいるのです」

 安倍晋三首相は、他国を守るための戦争を可能にする集団的自衛権の行使容認に動く。「沖縄戦であれだけの犠牲を被ったのに、政府は『これからも日本のために我慢しろ』と言っているように聞こえる。戦争に加担して真っ先に狙われるのは基地のある沖縄です。一体何なのでしょう」

弟と妹と生き別れた摩文仁の海岸を見つめ、「ここに来ると当時を思い出して辛い」と語る喜屋武さん=沖縄県糸満市の平和祈念公園で2014年6月21日午前11時9分、佐藤敬一撮影
____引用ここまで____

いいね!シェア、ブログランキングへのクリックで応援いつもありがとうございます。

号外 

今日は戦争法案のこと。
戦後70年、とうとう日本はここまで来ました。

原発事故の2011年3月11日からこっち、どしろうとなりに情報をあれこれ読み、自分なりに考察を重ねた結果、今日ここまでの流れはおおむね当初から推測したとおりです。

脱原発には、卒戦争が絶対に不可欠であり、脱原発しない、できない理由は、日本はまだ戦争を卒業できていなかったためだと思います。それは、沖縄での生活が私に突き付けてくれた真実でもあります。

ですから、特に今回の決定にがっかりしたりショックだったりと言うことはありませんでした。ああ本当にそう来るんだね、という残念さはありますが。

ですが、私は昨日今日と、新たに意外な発見と希望を感じています。

フェイスブック、ツイッターにはあげておりますが、主に国会中継の動画を見て感じたことです。

私は常々、自分を社会的マイノリティーであると感じてきました。自分の実際の生活上ではそんなことはありませんが、自分の視点、発言が、こんなにも多数派とずれているものかと思い知る機会は多々ありました。また、おおむね方向性が同じ意見の仲間の中でも厳密には食い違うこともたくさんありました。

そもそも私のしている仕事からいって、通常社会に認知されている常識からは逸脱するものです。先日、脳科学者が提唱する、意識の量子論の動画を見て、ああ、科学ってまだそこなんだな、と再認識したところです。私はそういった科学的仮説を飛び越えて、意識と心のセラピーという、脳科学の量子論的臨床をしていますが、それは昨今の科学の歴史があまりに浅いだけこのことであり、人間と宇宙と意識の探求というのは少なくとも数千年の人間の歴史に刻まれているものです。

社会の常識、認知というのは往々にして、こういった、そもそも、という観点が抜け落ちた上に風潮として流布されたものであることが多いと痛感しています。

私が感じた希望というのは、その国会中継の動画のなかで、福山哲郎氏と枝野幸男氏のスピーチを見て、なんだ、自分が疑問に思っていたこと、おかしいと感じていた思いなどがちゃんと語られてるじゃない、というところでした。

本当のことであろうけれど大手マスコミの報道に載らないために、黙殺され、デマ扱いされ、ごく一部のたわごととして扱われているとされているようなマイノリティーの意見を、少なくとも堂々と代弁しているように見えました。

つまり、政治という領域において、自分の頭にあることは自分で思うほどマイノリティーではなかったんだ、それどころか、政治と民衆の声がこんなに直通だったことってあったっけ、これはもしかしたら、ものすごく大きな事件だ、と思えたのです。(私の言うマイノリティーは、政治における野党レベルのものではもちろんありませんでしたので。)

『民主主義というのは多数派によって物事を決めていく制度だが、決してそれが正義ではない。多数の暴力によってこそ、少数派の人権侵害ということが起こるものである。少数派、少数の立場にある人間が、安心して生きていける、少数の権利を守るものが立憲主義であり、民主主義と立憲主義は絶対にセットでなくてはならない。

安倍総理大臣は歴史に残る仕事をした。立憲主義というものがいかに大切なものかということを、私たち日本人が、あまりに当たり前すぎて忘れていたとことを知らしめた。』枝野氏。

私は特に両氏を支持どころか興味すら持ったことがない人間でしたが、彼らのスピーチには胸を打たれました。彼らの態度には、そもそもの自らの使命というものを体現するものの迫力がありました。

約50分と、1時間45分という、とても長い演説です。へたしたら映画や芝居1本分の独演、私は退屈しませんでした。へたな映画よりずっと良かったです。

付録です。
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-8066.html

こんな感じでいつも考察と創造をします


1日1クリックの応援いつもありがとうございます!感謝しています。

季節外れな話ですが、沖縄で、沖縄の台風を体験したらこれまでの台風観はまったく変わってしまいました。生まれも育ちも東京都。一度だけ、一度きりしか行ったことのない屋久島で、滞在期間の半分以上台風に見舞われたことありました。主人と一緒に初めての旅行だったのかな、主人のお友達夫婦が移住した先に泊めていただき、そこでの体験が人生で最も激しい台風でした。

築100年の古民家に住まわれていて、雨戸閉めきって、電気が止まり、3日目に水道が止まって床下浸水が始まって、もうどうしたらいいのかわからない・・・というところで過ぎ去ってくれました。確か風速が35メートルだったかな。主人と友人だんなさんはその中歩いて海まで行ったんです。なにも知らずに。そういうことして命を落とすってよくある話しですからとても怖かった。唯一その帰りを待つのが一番怖かった記憶です。

戻った二人は顔色が若干変わっていました。本当に身の危険を実感した。もうしない、と言っていました。それで済んで、そしてそういう学習ができて本当に良かったと思いました。

そして沖縄。風速70メートル、ということが起こります。最初の恐怖体験は豊崎のマンションでした。埋立地で背の高い建物だったので、普段から風が強かった。台風が近づいてまず停電は当たり前。まったくぬかっていたのだけど、水道も同時に止まりました。そうだった。もちろん電話も。そして、船のように家がずっと揺れます。通気口から風が音を立てて出入りします。竹の笛がずっと鳴っているみたいな音です。夏に締め切るので、蒸し風呂です。窓のサッシから水が浸水しますから、塞いだタオルを絞ったり取り替えたり、重病人の看病のようです。車での買い出しも出遅れました。車は風でひっくり返されるものです。➖知り合いの奥さんは本当にひっくり返されて浸水して出られず、電話も止まり、直感で探しに出たご主人に救出されたそうです。➖ 我が家の駐車場では追突事故が起こっていました。無人の車でです。うちのはサンバイザーの部分が剥がれただけでしたが、整列していた車が一方に寄ってグチャグチャになっているのはぞっとします。窓ガラスが割れるのでは、というのが一番ヒヤヒヤしました。同じ建物ではなかったですが、後から「うちの建物では割れました」という実話も伺いました。

台風が去ると、今度は家周りに水を撒かなくてなりません。塩害でサビやら酷い劣化につながるのです。とにかく風が当たるところはみんな。それから、外にあるものは家に入れたり(鉢植えなどもみんな)縛ったり、今は家の窓の外にネットを張ったりしますので、準備も復旧作業も1日仕事になります。沖縄の人はここがものすごく手早いのです。私もものすごくがんばらなくてはなりません。

車も洗車渋滞が起こります。植物も枯れます。これがとてもショッキングでした。風で街路樹が倒され折れてしまう様も悲しかったですが、海岸では風に吹かれた砂が樹の皮をずるっと剥いてしまうのです。それから台風が去った後、徐々に木々が枯れていきます。山がどんどん赤茶けていきます。これが塩害でした。新しい東屋の柱や壁もものすごい劣化です。こういうのは目の当たりにしないと想像がつきません。それから、沖縄南部は農業が盛んで、その恩恵にいつも感謝していますが、その農産物の被害がものすごいのです。数十億円という単位での損害が出ます。これはとてもショッキングです。この、こういうことがショッキングであるという感覚も、東京で暮らしている時には体験したことがありませんでした。

東京は日本の中心、情報の中心でありながらあらゆることはとても遠いところで起こっているという感覚に取り巻かれる気がします。食べているものを作っている人の顔が見えない。すべては【どっかで誰かがうまくやってんだろ】➖昔そういうCMありました➖というふうになるのです。

沖縄にいると、すべてのつながりが身近に見えてきます。1つ何かが起こるとその連鎖は観察していれば身近に実感できます。例えば選挙とか、基地とか、野菜とか、農薬とか、景気とか、魚とか、海とか、空とか、PM2,5とか、戦闘機とか、見回して目についたことを観察しているとあらゆるつながりが感じられます。

さて、今日の話しは、これがテーマではありません。私は台風について考えています。この台風を、私はどう捉えればいいのだろう、と。今しばらくお付き合いの程を。

ずっと以前に、村上春樹のエッセイで読んだフレーズを私はよく思い出すのです。ギリシャの島では、毎年台風で石垣が破壊されるが、それをまた同じように手作業で復旧する。何度でも、何度でも。日本では、壊されない何かを開発していく。でもギリシャのこういうやり方が日本には失われているのではないか、という論旨だったと思う。この意味はとてもよくわかる。沖縄の美しさの部分は圧倒的にこのようにしてしか残されないだろうと思う。

しかしそもそも台風はなぜ存在するのだろう。私はこの破壊力は人間界の戦争に似ていると感じる。この一瞬で奪われる命とエネルギーの多さに私は呆然としてしまう。台風のあとはしばらく生命力が奪われ若干虚脱してしまう。多くの敏感な人は気圧のせいだと思っているかもしれないあのなにか脅かされる感じは、エネルギーの次元ではやはり、暴力的な破壊力に細胞や意識レベルでダメージを感じているのではないか、と私は仮説してみる。というよりそう感知している。

意識界では地震について、極端なエネルギーの溜め込みや偏りをこまめに浄化、バランスすることで小さく頻発させ大地震を回避できると考えられている。台風も同じ原理ではないか。人間の感情についてはまったくこの通りだ。

台風が自然界に絶対必然のものであれば、私たちは起こるべくして起こることに対処することを学習するしかない。しかし、台風がそもそも過剰なエネルギーの沈滞や抑圧に対するバランス現象であるなら、エネルギーの次元で意識的に働きかけることで結果を変えることは、自然に付加をかけるようなエゴ的行為にならないはずだ。

同じ原理で、私は人間には戦争は不要となっていくと確信できる。多くの人が過去から推察して、また現在の自己意識の結果として、戦争は人間にとって避けられないものだと認識しているだろう。だから現時点で戦争は存在している。その存在が消えたことは有史以来ない。しかし本来の仕組みはそうはなっていない。

私たちはエネルギーによって存在し、そして変化を遂げる。私たちは進化する。創造する。意識によって。その意識の源を神と呼ぶなら神のみこころに沿って、私たちは出現し続ける存在である。

もし、ひとりひとりのすべてが武器を置くという選択を今する意識状態に至れば、武器は消滅してしまう。それは難しい、と思う人がいるならその人が意識を変える手助けをすればいい。私は、私自身の自己意識を浄化しバランスし続ける。そして内なる神を求め続ける。そして願わくばそれに出会い続ける。難しいと感じている自分が訓練によって、体験を重ねることで難しいことも難しくなくできるようになった時、初めて難しくなくそれを伝播することができる。自分に難しいことを人に強要することはできない。私にとって、愛であること、愛をもって伝えることが難しくない、易しく優しいことであるとき、それは難なく実現する。それは毎瞬の意識的選択と、愛のためにのみ存在する神の愛を求める意志によってなされる。

台風がまずは沖縄から消滅することを私は神に願ってみようかと考えている。そのために神から求められることはなんだろう。それを受け取ってみよう。人間が本当の平安と愛を自己のうちに実現する道の創造のひとつのしるしとして。

慰霊とともに新たな指針を。


1日1クリックの応援本当にありがとうございます。

先日6月23日は慰霊の日でした。沖縄戦の終戦記念日で、学校も休日となります。沖縄に住むまでは私もこの日がこんなに大切な日だということは知りませんでした。

毎年この日は用事と重なったり仕事をしていたりでしたが、今年は定休日と重なったため、平和祈念公園へ行き瞑想することができました。

Twitterのハッシュタグで慰霊の日を検索すると、たくさんのうちなーんちゅ(沖縄人)のつぶやきを見ることができます。若い世代、男女問わず、多くの人がこの日に平和について思いをはせ、平和を損ねるものに対してノーの意志を表わしていることがわかります。

私が生まれたのは戦後21年年目の夏です。子供の頃は、戦争は遠い昔のことだと漠然と思っていました。日々の暮らしの中で戦争の傷跡に触れることができたのは、父母と祖母から聞くものがたりの中でのことでした。

母と祖母は、終戦直後の混乱の中を満州から帰国してきました。30歳になったばかりの祖母は幼い子供3人をたった一人で満州から連れ帰り、またその戦争で夫を失いました。その祖父は沖縄戦で戦死し、この島に骨を埋めています。

日本はまた戦争の犠牲者を作りたいのでしょうか。

私は戦争を恐れます。戦争という暴力は恐れるに値するものです。戦争に恐れを感じないのは、それ以上の暴力的思考に感覚が麻痺し、想像力という人間と神をとつなぐアンテナを折っているからに違いありません。暴力に麻痺している人に必要なのは愛と癒しですから、私は日本を戦争へと導こうとするリーダーが癒やされることを願います。世界で戦争という手段によって利己的な欲求を満たそうとする人が癒やされることを祈ります。またその暴力に無意識に力を貸し、賛同している多くの人が眠りから覚め、暴力の魔力から解放されることを祈ります。

また私自身がこの恐れに絡め取られることなく、自分の意志で平和に向かって歩みを進めることができるように、祈ります。

私は今では戦争というものをとても身近に感じることができます。沖縄には戦争という人類の病をじょうずに包み隠し、目をくらまし、自分たちがどこへ向かっているのかをわからなくする隠れ蓑が少ないのです。そんな隠れ蓑が通用しないほど、戦争の傷は心と身体にしっかりと刻まれているのです。その傷の痛みを家族が引き継いてくれています。私たちはその痛みを、今のうちに自分のものとして、贈り物として、受け取らなくてはなりません。私は、そして夫は、そうしたくて沖縄に来たのだということが今ではよくわかります。

少し前まで、日本では戦争は過去の(負の)遺産だと思われてきたはずです。でもその時にも今も、地球では戦争が消滅した瞬間というのはありません。日本の平和は、休火山のようなものなのではないか、と私は考えていました。そしてその脅威を多くの人が忘れた時、再び噴火するのではないか、というふうに。

戦争を終わらせること、というのは、今地球に乗り合わせている人類にとって最重要で最も直近の目的なのではないか、と最近では思います。多くの人が気づかなくてはならないのは、戦争を終わらせることに本気を出さなくてはならない、という命題なのではないでしょうか。私は瞑想を通じてはっきりとそう受け取っています。

暴力の魔力から人間が目覚めるには、多くの人が自分を癒やさなくてはならないでしょう。癒し、満たし、そして力をたくわえなくてはなりません。愛という最高で最強のパワーを。

多くの人が自分の課題に取り組んでいます。自己への取り組みは尊く永遠です。しかし、自分の欠点を探しまわって虱潰しに問題にしてく必要なんて全くありません。私たちは今にいて、今を感じ、内なる理想の霊である神を自分に投影し、自分を全てに投影し、一つになることが個の目的だと気づき、そしてそれに対して自己を開いて足元からできることをしていけばいいだけです。人生はシンプルなのです。

そのシンプルさを受け入れることさえできたら、私たちは自分の存在の目的や使命もはっきりと感じることができます。多くの人がものごとを複雑に煩雑にし、多くを追い求める方向へ自分を駆り立てています。完璧を目指したりないものを手に入れようと努力することにちからを注いでいるように見えます。でも、本当の目的はシンプルですし、人生で為し得るもの為すべきことは本当に限られています。

きらびやかなタイトルに惑わされないでください。目の前にあるもの、いる人、与えられた関係に目を向け、現状に耳を澄まし、余分なものを手放し振り落とすことに集中することです。他者と比べないでください。隣の芝生はいつも青く見え、比べた瞬間にあなたは負けます。青く見える隣の芝生は、他者に見抜かれることを恐れて青くなっているだけです。いつでも人の恐れの中身は同じです。

進んで他者に弱みを見せることができたらあなたは勝者です。それは愛への一歩に繋がります。

その勝利はひとつなるものを隔てる迷妄の壁を突破し、恐れが駆り立てる攻防の争いからあなたを目覚めさせ、あなたを平和の柱として光り輝かせます。

私たちが恐れの闇を光でひとつひとつ照らしていく時、私たちは戦争を終わらせ、地上に愛を構築するというもっとも重大な任務を果たしていると言えます。

私は、全てのひとりひとりがその内に光を灯し、そのおおもとの光の源と繋がるビジョンを慰霊の日の瞑想の中で観ました。それを実現するのはまず自分、そして一番身近な人たちと分かち合うことからです。そうしながらも、最上の、魂が喜びで膨れ上がるような最上の目的をいつも胸に灯しておくこと。慰霊の日にしるすことができることに感謝します。

潜在意識と戦争。

辺野古埋め立ての要請が行われました。17年を経て今だそうです。

私は、人間の進化の証として、愛と、平和の象徴として、この世界から戦争が消滅するというビジョンを持っています。これは、今の私たち人類にとって共有し得るビジョンではないでしょうか。ただ、これまでやってきた悪習をやめるだけのことなのですから。

愛と平和の社会というとよく、お金のいらない世界だとか、共同体を作るとか、今と全く違うシステムに変わるというビジョンが提案されています。『スライブ』という映画では、エネルギーのシステムが変われば共存ができる、という提案がされています。私もスライブは素晴らしいと思います。

だけど、その前に、です。新しいものを生み出すには、或いは受け入れるには、古いものを手放さなくてはなりません。長い間人間を支配してきたサバイバルという本能の権化が戦争という人間のからだに巣食っているおできです。

過去にはこのサバイバルが人間が生き抜くために必須だった時代もあると思います。しかし今ではそれは中身のない儀式のように形骸化され、それを一部の人間によってビジネスとして利用され続けています。重要なのは、利用する側は地球上のごく一握りの人たちで、利用されているのが大多数であるということです。そしてこともあろうに、利用されている人は、自らの意識の中でそれを選んでいるというとことです。利用されている人は自由意志でこう言います。「戦争は人間の本能だよ。」「戦争はなくならないよ。」「戦争があるのはしかたないことだよ。」

これらの信念というのは、ほとんどまったくもって、問い直しがなされていない、ごく幼い、人間として未熟な段階で身につけている信念だと言うことができます。「だってみんなけんかするじゃん。」「男同士ってのは競い合う性なんだよ。」「食べ物が足りなきゃ取り合うだろ。」これは、人間の特性と言うよりは、もっと知性の低い動物の特性です。主語を「猿とは」に置き換えてみてください。・・・当てはまりますよね。

しかし猿とて、優しく育てられれば思いやりや共感という心すら育ちます。

古くは人間も猿に近かったのかもしれません。その頃の記憶が潜在意識に刻まれていて、あたかも「生き抜くためとなればそのように振る舞わなければならない」と無意識に思わされているのかもしれません。おそらくそうです。

意識の世界を探求し実践している私が言わなくてはならないこと。それは「潜在意識などというものは人間の本性ではない」ということです。多くの人が誤解しているのです。本能というのは、と置き換えてもいいかもしれません。もう一度言います。「本能などというものは人間の本性ではありません。それは単に「習慣」です。」刷り込みであり、思い込みです。そしてその刷り込みがあって、確かに身を守ることができます。火を見たら、その中に飛び込んではいけない、というのが動物の本能です。虫にはそこまでの記憶の貯蔵領域がないので火を見たらつい飛び込んでしまうのです。それより少し進化して、動物はそうしないのです。敵と思えるものが近づいたら攻撃か防御をする、というのも動物のサバイバル能力です。しかし動物は食べるため、そしてそのための縄張り意識以上に富を得ようとはしません。

人間はそれ以上に考える、そして想像し、創造するという能力を与えられました。この能力は無限のものです。それをどこまでもいかしていいという自由が与えられています。でも肝心なのは「何のために」それを使うか、です。

今人間が立っている岐路があります。私たちが神に似た性質、「創造と無限」の能力をどこへ持って行くのか、という問いへの応えです。それについて考えなければ私たちは選びようがありません。漠然とした感覚意識である本能のままにいたのでは、動物として生きるしかありません。いったん問い直しさえすれば答えは難しくありません。神の性質をどこへ向けて持っていくのか、それは、神のところへ持っていくのが自然です。

では、人間が神を目指して生きるというのはどういうことか。これも、神について考えたことがなければ「わからない」でしょう。でもいったん考え始めれば、答えはあります。わからないと思っている人は、考えるのを、或いは追求することをやめてしまうからわからないのです。でもやり続ければ誰でもわかります。なぜならその答えを持っているのが人間だからです。

私は日々、自分の意識と向き合う決意をしてやってきてくださる方々と向き合っています。そして一緒に探求することでいつも必ず奇跡に立ち会います。奇跡というのは、人間が持っている限界だろうと予測できる壁を突破することです。しかし、やればできるのです。やり方やコツは、やってみた人にしかわかりません。だから、やってみた私と一緒なら短時間で突破できます。そして私はその奇跡をいつも自分の胸に刻みながら、人間という存在のものすごさを目の当たりにさせられ続けます。人間って本当にすごい、すばらしい、と毎日思わされます。こんなにすごい生き物が寄り集まって、その能力をわざわざ動物のまね事に使うなんて絶対にあり得ないとことだと思います。動物が低級だというのではなく、動物はベストを尽くしてそのやり方なのです。人間がベストを尽くしたら、違う現実、違う道、違う可能性が、無限に約束されているというのに。つまり地球の生き物すべてはベストを尽くしているのに人間だけが怠けることを覚えてそこに甘んじている可能性があるということです。

さて、言いたいことは山ほどあります。人間が戦争をやめたら、世界は今のままではいられません。殺しあうことではなく、また、騙したり騙されたり、利用したり利用されたりすることをやめて助け合う次元に人間はアセンションします。(アセンションって現実なんですよ。誤解しないでください。)習慣の奴隷になることをやめてみる。ただ、やめるということが重要です。だって本当にそれだけでいいのです。世界を大きく変えるには、新しいことをやらなければと悩む必要はなくて、ただ、もういらないものを断捨離(あえてこの言葉で言いますが)するだけでいいのです。

「私は戦争を選ぶことをやめます。そのために、利用されることをやめます。戦争を容認することを、動物の本能のせいにすることをやめます。戦争を容認したり養護することをやめます。そのやり方が人間らしいやり方だなどという考えを受け入れることをやめます。」ただ本気でやめると「イマジン」してみてくだい。

実際戦争が終われば次には具体的な変化が来ます。まずはエネルギーが大きく余るようになるでしょう。不足だから戦争が起こったのではありません。戦争が不足を引き起こしていたのです。貧困がなくなるでしょう。貧困は戦争が引き起こしてきました。過剰な富や支配権を本気で欲しがっているのなんて、まして手に入れてきた人なんて、本当にごくごく一部です。多くは自分と家族や身近な人の幸せを願っています。その願いが満たされることで私たちはその幸せをもっと広げたい、多くの人がそれを味わう人生を送ってほしい、と願うことができるようになります。地球上のすべてがそうあってほしい、という祈りは地球と宇宙の神々の望みと一致し即座に叶えられるでしょう。

それでも人間は欲望を追いかけるものだよ、平和になれば欲望がまた出てくるさ、と思う人もいるでしょう。その、あなたは、どうなんでしょう。本当は、人間って所詮こうなんだよ、というのは自分を正当化するための言い訳です。自分から出てきて止まない欲望を恐れているから、人間の本能のせいにしたいのです。欲望は出てきます。でもその時あなた自身、私自身が、なにを優先するか、どちらに価値があるか、と、選ぶだけなのです。恐れにからめとられて全体を貶めるか、それとも自分にとって本当に価値がある方を選ぶか、だけです。

さて、戦争が身近でないかりそめの平和の中にいた日本人は、戦争を宗教のせいだと思っている人も多いでしょう。このことについては次回書きます。

にほんブログ村 健康ブログ セルフケアへ
1日1クリックでご協力お願いします❧

よびかけます

先の戦争で空軍の兵士だったおじいさんが「戦争では人間はただの道具なんだとわかった」と言ってました。颯爽と志願した時には気づかなかったと。本当にそうなのだろうと思います。

私は人間は道具ではなく、無限の愛を持った神秘の生命だと信じています。

私が戦争に反対なのはそういう理由です。

いくら安倍さんが優れた政治家だとしても、自民党がすばらしい政党だとしても、日本を戦争に導き、国民から基本的人権と尊厳を剥奪するのであれば、その方針には断固反対しいたします。

私はただの道具ではないですし、人類の誰に対してであれ、そうみなすことはできません。

すべての人が、道具ではなく、無限の愛を内包する尊い存在なのだと目覚めてほしい。それが真実だと思うからです。そのことは誰もが本当は知っているはずなのに、自分や隣人を無価値で無力だとみなして目を背けてしまう。

自分に対して、人間のおろかな面に対して、寛大で忍耐強い態度を持つことさえできたら、やがて誰もが偉大な価値を見出すことができます。その寛大さ、忍耐強さのために助け合うことが必要です。本当に必要なパワーをそこに使うことができたら奇跡を体験できます。本質的に世界を変えることができます。

私たちの意識は拡大してきており、本質的な変化を迎えるのにあと一歩のところにいます。その本質的な変化というのは、奪い合い競い合うという価値観から、補い合い分かち合うという価値観への変化だと思います。

実際私たちは家族や小さなコミュニティーで助け合いを経験しています。しかし、社会の機構、システムがそうはなっていません。ですから一歩外に出たら戦争、などと言われます。戦争というのは古い価値観、自然界の生き物のやり方を模倣した古いやり方の踏襲です。しかし人間は科学というテクノロジーを持つため、破壊しすぎるのです。進化した私たちは高度な新しいやり方を採用しなければ自滅します。

戦争は目先では奪い獲得する目的で行われますが、実際は自殺行為です。すべてを著しく衰退させます。わざわざ貧困を作り出しては欲望を掻き立てて再び奪い合うというからくりを人為的に起こします。このことは有史以来繰り返されてきましたが、殺人の技術は飛躍的に進化していますからその破壊力は破滅的です。

実際に今日本に54基ある原発は核の貯蔵庫のようなものですが、この状態が自殺行為そのものです。ですが、欲に目がくらんで目先だけを追っていると、この自殺行為が見えません。危機を危機と感じることができません。また、放射能の危険や電気の不足(それは捏造ですが)の危機感にさらされていれば、今度はもっと大きな危機に対して感覚を閉じてしまい、やはり大局を見失います。

今日本という国家は自殺前の開き直りのような状態にあるように見えます。これに対してストップをかけ、正しい方向、つまりより人間的で人の本質~無限の愛を持つ神秘の存在~にふさわしい道を選ぶのはその存在一人一人の気づきと選択にかかっていると感じています。

どうか、愛をもって現実に目を向け、ご自身の運命をご自身で選ぶ決意とコミットメントを、また必要な助けを求める勇気を、思いを言葉にする努力を、真実を求め見つけ出す一歩を、と、すべての人の心に呼びかけたいと思います。

アセンション前日に思う。これまでのまとめ。

今回の選挙結果には少なからずショックを受けました。政治についてこんなに真剣に願ったことはないほど、今回の結果が重要だと考えていたからです。311震災によって原発の事故が引き起こされてからこのかた、私は実際に起こっていることを見つける努力をしてきました。私にとってはスピリチュアルと社会は同じです。世界は内なる世界の投影です。

まず、原発事故が起こったときから世界はくっきりと二つに分かれていきました。これは情報をどのように受けとり意識にどう反映されるかによって、形作られました。もちろん元々あった傾向がより鮮明になったということです。原発事故を受けて、私が信頼できた情報とは放射能は人体に非常に危険で、これに迅速に誠実に対処すべきであり、このような事故は責任を追及し再発を防ぐよう取り組むべきものというとても当たり前に見えるものでした。これまでそのような社会で生きてきましたし、もちろん欺瞞や間違いは多くありますが、通常事故などに対して日本ではこのように取り組む努力を全体としてきたと思います。

当然このような意見を持ちそのように進もうとする人は周囲に大勢いました。同じ間違いを起こさないよう、今回のミスを認識して改善について考え、また今起こっていることに誠実に対処しようと努力するグループです。ところが、世の中全体を見回してみるとどうもそのようには動きませんでした。対極にあるのは放射能は危険じゃない、原発を止めてはならない、という意見です。そこで対立が起こりました。私にとって、放射能が危険ではない、原発を今までどおり動かそうという意見を理解するのには、今起こっていることとは別の事情を理解する必要がありました。それは簡単に言えば過去からのしがらみです。利権、お金儲け、権力争い、もちろん生活がかかっている人もたくさんいます。過去にそれらの恩恵にあずかっていたために、今本当の気持ちを言えない、ゆえに動けない人もたくさんいます。また過去からずっと存在していたおそれによって喚起され生きるというやり方の中にずっといた人はその傾向をますます強めることになりました。

この流れの上に今回の選挙がありました。すでに現在ではこれまでにないほどの前進の成果によって、脱原発という認識は広まっていました。テレビや大手新聞の報道が捻じ曲げられ隠蔽されている、要は政府によって情報操作されているという認識は、少し前には本当にごく少数の陰謀論者などと呼ばれる人だけのものでしたが、今では自ら進んで知ろうとするすべての人がほぼ必ず見つけることのできるものとなりました。隠されたゆがみを見つけるのがうれしいのは人間にとって自然なことです。毒を出せは健康になり、美しいものに触れれば豊かになるのが人間です。それで、前者のグループは、今どの程度この新しい視野と展望が浸透しているのかということがこの選挙に反映されるものだと期待しました。また今回は、脱原発などの根底にあるとても重要な基礎の部分の是非を問われる選挙でもありました。私個人としてはこの部分が最も重要でした。それが憲法を変えることついての部分です。

私が脱原発を考えるとき、何度も申し上げてきましたが、脱戦争が根幹にあります。70年戦争していない、憲法によって平和が宣言されている日本で脱戦争を訴えるのはおかしなことに見えたかもしれませんが、私の中では脱戦争がなければ脱原発はありえませんでした。つまり原発は戦争の道具だから、なのです。原発を死守する側には、戦争の道具を失ってはいけないという意図があるからです。水面下では刻々と戦争の準備が進められまた、日本以外のあちこちで起こっている戦争に、日本は(アメリカを通して)戦争に加担してしてきていました。それが今回、合法化されるかどうかという重要な局面だったということです。この流れは今回の選挙と首相の宣言を持ってもはや明るみに出たとも言えます。

多くの人は日本は戦争をしないんだから、というところに甘えてきたと思います。遠い国の戦争、紛争のニュースを見ても、かわいそう、信じられないわ、現代にこんなことがあるなんて、日本に生まれてよかった、と思うのはとても共感力のある部類の人の反応ではなかったでしょうか。でも、憲法が変われば私たちはこれらの遠い場所の戦争と直接繋がります。震災で多くの人の命を救った自衛隊の人々が、今度は国の命令で人の命を奪うのです。民間人や子供の命も奪ってしまうことが起こりえます。

原発が戦争の道具だという見方は一年前にはとんでも論的にみられていたかもしれません。でももう、今は違います。日本は軍隊を持つ、徴兵も視野に入れているということが国家の首相の口からテレビでも宣言されてしまいました。どれくらいの人がそのことをリアルにイメージしてきたでしょうか。また人権を尊重するという項目が憲法から除かれれば「子供たちの命を守りたい」「みんな大事な平等な命」という主張も、とんでも論の部類に入るようになるかもしれません。「何言っているんだ、命は国家のものだよ、国家にささげるものを自分のものみたいに言って」というのが軍事国家です。私たちはおじいちゃんの世代に戻ろうとしています。

今回の選挙でこういったことが民意である証拠となってしまいました。安倍さんは「憲法改正が民意なら、もっと簡単に民意が反映されるようにまず法律を変える」と言いました。だから懸念してきた人たちは本当にショックだったと思います。私もショックでした。今脱原発に尽力している人、お母さん方、原発を廃止しただけでは子供さんの命を守れなくなるかもしれません。脱原発を願うなら、今起こっていることを知って、隠されていることを知って、私たち自身の手でもう一度平和憲法を再獲得しなければならないでしょう。

今回の選挙は不正選挙だということがあちこちで言われています。私は猪瀬さん当確のニュースと、次の自民党ダントツの経過を見た瞬間にそう思いました。それから思い込みと希望的観測から導きだした考えではないかと自分の内面を検証した上で、この可能性は否めないし全体として見張るべきと判断しました。確証なんていいんです。確証というなら、実際に日本の憲法が変わり、軍隊を持ち、戦争をしている世界の国々と同列になって家族や友人が死んだとききっとわかるでしょう。それよりも前に別の選択をするためには、私たちは察知して、対応していかなくてはなりません。選挙の現場にいた人が感じた異変(証言はあります)、ちらちらとしっぽを見せるぼろ(ニュースに挙がっています)。こういうぼろを見逃さずにおかしいことをおかしいとちゃんと認識し、大切な人々に伝えていけば、事件はありのままをやがて見せてくれます。

さらに私が一番大事だと思うのは今回起こった結果すらも、真実への流れから決して外れていないということです。

私たちが今立っている局面とは過去にこれまで分離してきた二つの世界が統合へ向かっているという真実です。分離が統合するには、その分離が明らかにならなくてはなりません。もう分離したまま別々でいるなんて限界、というところまで来て、個々の意識の中でもういやだ、こんなことおかしい、私たちは理解しあい、愛し合いひとつになりたいだけなのに、という気づきがあって、世界は統合します。それが極端に引っ張られれば、反動として痛みがあります。痛みが少なくて済むには、私たちがこまめに気づくことなのです。そしてこまめに修正していくことなのです。地震が大地震にならないようにするには小さい地震によってプレートのずれをこまめに修正されるといいのと同じです。ですからこまめに気づいて自らを修正しているみなさんは決してがっかりする必要はありません。そのようにして世界のゆがみを癒しているからです。ですが、それは決してほっとけばなるようになるんだということとは違います。私たちは起こったことからどんどん気づいて反応し、軌道をいつも修正する、つまり癒す必要があります。(癒しについては前回の記事をご参照ください。)

スピリチュアルの教えの中に、アセンションについて降ろされた高次元の情報がたくさんあります。この情報はある次元では真実なのですが、自分自身がどんどん癒されて意識のフィルターをクリアにしておかないと、生きた概念として受け取ることができません。つまり活かせないし誤解するということです。地球がアセンションを選び地上のみんなが上昇する。その際世界は古い概念にしがみつく勢力と進んで上昇に身を委ねるグループに別れ世界は二つに分かれるという情報は耳にされたことがあると思います。それで、上昇する人たちは宇宙船で引き上げられたり瞬間移動をして世界を平行移動する、みたいなことをささやかれています。私は今日になってわかりましたが、これがもうすでに起こっていることです。世界は二つに分かれていたのです。日本は世界の雛形と言われていますが、これが日本で、世界中の人にとってもわかりやすい形で起こりました。それで、地球はもちろん前進し上昇していきますが私たちはどうすればいいでしょうか。受け入れるということは前回も書きましたが進んで感じきろう、つまり体験しようという姿勢のときに可能になります。感じきるのは痛みかもしれない。少なくとも意識の浄化に私と一緒に取り組んでくださった皆さんは、浄化の痛み、膿出しのときのいやなフィーリングを体験したり乗り越えたりしてきたはずです。でもそれを進んで受け入れ感じきってみると、そこには毒を出し切ったあとの清清しい愛、統合の世界があるのです。

アセンションで上昇を選ぶ人たちが引き上げられ別々の地球に分かれるというのは私は最善の策とは思えません。それは肉体の死をもって別のところでやり直すこととしか思えません。それは古い概念が物理次元で大きな破壊をしたときに、おそれなく別の次元に魂が進むためのガイダンスだと私は理解しています。まず何よりもそれでは統合にならないのです。地球がやむをえず再分離しましたということになります。とかげの尻尾切り的発想です。ここにはやはりキリスト教のノアの箱舟的な発想があるように見えます。私たちはどんなに悪条件だったとしても、統合、愛の次元に進まなくてはならないという魂のゲームに参加しています。そして一見悪条件に見えるものから愛を見つけ出すときに奇跡を体験するのです。

私たちは何であれ、体験し実感するためにこの次元に肉体を持ってやってきています。そのあらゆる体験の中から真実というエッセンスをいつも間違いなく見つけられるようになったらこのゲームは終わりです。真実というのは神であり光であり愛です。

アセンションにあたり、私たちはこれまで冒してきたひどい間違いから学ぶという姿勢から、気づきと赦しと手放すという神の愛による創造のやり方を選ぶ姿勢に移行します。このやり方によって人間はとうとう、長いこと言われてきた「私たちは神の子であり小さな神である」という領域に足を踏み入れることになるでしょう。アセンションには分離による解決などという3次元的な発想から目覚める入り口だったのだと、その日を前にして私は実感しています。地上で今を共有するすべての神の子たちと、共に目覚める目標以外にここにいる意味はありません。最後の1人までが幸せに目覚めるまで、私たちの旅は続きます。

私はここへきてあらゆるものに感謝しています。私はずっと以前から「政治が変わるのは最後」だと言ってきました。新しい概念が過半数の同意を得るというのはもうほぼ世界が変わった後のことです。でも今そうなろうとしています。そんな時代を見ることができるとは10年前には信じられなかったものです。それから私自身が個人の課題というものを概ねクリアして、社会や世界の膿出しという痛みに意識を向けられることができたことに感謝しています。10年前にはやはり想定できなかったことです。選挙の投票率が今回発表された通りだとしてもそれはありうることだと私は思います。それほどまだみんな幸せではないのです。幸せになるために投票する、というような建設的な考えができるのはとても幸せなことです。誰だって自分が不幸なときには社会を憎み世界を呪います。私は神だって恨んだくらいですから。だからできる人でやっていきましょう。社会の膿出しに参加するには自分の毒出しをある程度片付けなければできません。無理にしたら無理が来ます。ですから、自分を癒し、隣人を癒すことこそが、本当の近道なのです。家族間で原発のことを話し合えない人がたくさんいます。家族間ですらそうなのです。自分への愛、家族との愛、隣人との愛を体験してください。そうすればおのずと世界の平和のためにすべきことが見えてきます。

遠回りだと思っていたのにこんなに近道で早かった、と、癒された多くの方が私に伝えてくれます。その実感こそが世界を変えます。私は今日という日に心からの感謝を捧げます。