ひさびさ、映画のはなし

映画鑑賞は沖縄へ来てから特に、夫婦共通の娯楽というか趣味。
DVDを車で往復1時間以上かけて借りに行き、家の壁にプロジェクターで映して観ます。

週に2本観るのはわりと普通。結構な数を観ています。前にも書きましたが、探し方はオラクル。自分の内面を感じて、心が求めているのに合った内容を探します。ヒットするととても満足できます。

「THE GOOD LIE」という映画があまりに良くて、翌日もう一度観ました。良かったら予告編ご覧ください。

ロストボーイズってみなさんご存知でしょうか?83年からのスーダン内戦で孤児となった子供たちのことだそうです。この映画はその子たちの人生の話です。

ほとんど冒頭から涙が溢れて止まらなくなり、終始泣きながら観ました。翌日も朝から思い出し泣き。もちろん悲しいのですが、悲惨だからというのではなくて、あまりに美しくて、という感じです。

なんとこの映画、主演にハリウッドスター(リース・ウィザースプーン)を起用しているというのに日本のWikipediaページがありません。珍しい。それで詳しくは調べられなかったのですが、(私、映画一本観ると徹底的に背景や関係者について調べるのです)主役の4人はスーダン出身で、うち二人は元少年兵です。あとは元スーダン難民の女の子と、父親がスーダン難民だったという子。

彼らの笑顔や感情表現がもうほんとにかわいくて美しくてたまりません。彼らの一挙一動に、子供時代に見た風景や遊んだ背景、仲間とのやり取りなど、彼らのインナーチャイルドがにじみ出ているとしか見えません。

サバンナを踏みしめながら、牛とともに歩いたその歩き方がからだから溢れて見えます。これは、アメリカでマックを食べコークを飲んで幼少期を過ごした俳優からは絶対に見えないオーラだと思いました。

心が洗われるなんて言葉、ありふれていて使ったことがなかったけれど、こういうことか、と思ってしまいました。おススメします。

映画とオラクルと瞑想と至福

みなさんこんにちは。一か月以上ブログを書かないなんて、2002年に始めて以来だったかもしれません。

改めまして、前回勉強会にいらしてくださった皆さんありがとうございました。なんというか、本当にいらしていただいて交流できたことを改めて幸せに思います。人生の価値って、こういうふうに深く(というのは心の深くでという感じ)触れ合えることなんだなぁと味わっております。

同じような思いをセッションを受けてくださるお一人お一人に感じることも、最近頓に増えています。宇宙から魂を見たとき、しるしはそういうところに深く刻まれるのだろうなと感じます。地球での学びの意義に満たされた日々です。いつも気づきをともにしてくださるみなさん、本当にありがとうございます。

こうして書いていても胸と鼻の奥にこみ上げてくるものがあります。

先日、「遺体」という映画を観ました。私と夫は数少ない趣味がだいたい一致していて、休日は家で映画鑑賞、というのは沖縄へ来てからの定番です。最初はPCの画面で見ていたのですが、ある時プロジェクターを買ってから、ウィークエンドシアターは壁に映して観ています。

車で片道30分近い道のりを出かけて行って、ひとり一本を選びます。これが実は、オラクル(神託)カードを引くような塩梅なのです。「今の私の気分にフィットする内容」とか「今の私が癒される内容」とかいうふうに意図してよーいどん、と店内を歩きます。手に取って、しっくりくるとか、ストーリー、監督、出演者などをチラ見してみて、しっくりくる一本を選びます。

観てみて、やっぱりね、とか、なるほど(今の自分って、こうだったのね)という具合に気づくこともあります。思考で狙いすぎると大失敗することもあります。

また、意図して二人でオラクルしているので、相手の状態に気づく手立てにもなります。あれ、ちょっと、疲れてるかな、とか、バランス崩してるかな、なんてね。選ぶ食べ物とおんなじくらい、選ぶ映画でエネルギー状態を読めますよ。

二人で見始めた頃は主人はほとんど「演技」なんていうものを知らなかったので、かわいい子が出ているほうがいいだろう、みたいな観点だったはずなのですが、いつの間にか見る目がどんどん肥えて「今日の誰誰の演技が弱くて全体のバランスが…」とか「ここだけ急に役者に戻っちゃってて…」みたいに言うようになりました。なぜ感動するのか、どこに感動するのか、何が足りていないのか、どうしてそうなってしまったのか、など、見終えてからこんこんとしゃべる私によく付き合ってくれています。

また、私は一本見終わった後、ほぼ必ずその映画について気になったところを勉強します。歴史だったり場所だったり、もしくは作り手、出演者などのバックボーンをググって、ああ、だからか、とかなるほどね、という具合に。これは例えばレイキのようなエネルギーワークにも当てはまりますが、先に手引き書をいくら読んでも頭に入ってこないのですが、体験や実感を得た後ですと、それにまつわる知識はぐんぐん頭に入ります。

私はせっかく大学で芸術、演劇を学んだのですが、当時はからだを動かして訓練することや表現することに夢中でした。学業を終えて数年してから今度は急に勉強し始めて、「なんだ、ここに書いてあった」「ああ、こういうことはみんな先人が体験済みだったんだな。先生の言ってた通りだ」なんて納得したものでした。

結局のところ、自転車についていくら知識を入れたところで乗りこなすにはいつか乗って漕いで、転んで体で覚えなくてはなりません。人生もおんなじです。体験が、学びです。

さて、「遺体」に戻ります。これは西田敏行さん主演の、東日本大震災当初の遺体安置所のお話です。実際の取材に基づいています。でもこういう映画ってだいたいにおいて、わかりやすく、感動しやすいような作りになっていて、さらにそういう意図が見え見えになっていたりすることが多いので、私の最終選考にいつも漏れていたような次第です。

しかし内容は想像を超えて、とてもリアルでした。描かれていたのはしかし、その悲惨さなどではなく、愛でいることの出来るたったひとりが差し出すものがその場を天国に変える、ということでした。愛でいることがとても自然で当たり前のことであればあるほど、周囲を自然に照らし、自然に周囲から光を引き出し、導くのだということ。しかしその自然のちからの威力は莫大で力強く、私のハートは最大級に揺さぶられました。

「重いんですけど・・・」と見る前から気乗りしなかった夫も、見終えるといきなり「瞑想するか」と言って、観たものをかみしめたようでした。祈らずにいられなくしてしまう、荘厳な命の尊厳にただただ圧倒されるような、そんな作品になっていたと思います。

全ての方におすすめ、というわけではありませんが、迷っている方はぜひ^^

さて、瞑想に入ると、あらゆるいのちの尊さが押し寄せてきました。セッションを通じて私とつながってくださった方々の顔が次々に現れもしました。ただただ感謝が押し寄せ、涙と鼻水が流出し続けました。実は少し前から、至福を体験させてください、とヨガナンダさんを通して神さまにお願いしておりました。この世の本質は至福、だそうです。目覚めるということは、無限の至福の中にいること。私はようやく意識と宇宙の仕組みがわかってきて、感謝を体験させていただけるようになったけれど、至福ってどんなんだろうな、その片鱗でも教えてほしい、と、思うようになってから、なんというか、その片鱗が出てくるようになりました。

私たちはいつも、愛の中にいます。私たちの中に愛があるのではなく。肉体の中に魂があるのではありません。魂にくっついているのが肉体です。私たちの内側には内なる神がいます、とみなさんにお伝えしていますが、すべてが神の中に在るのが本当です。そのことを意識するにはただ全部愛だ、と思っても実感に乏しいかもしれません。でもいつも内なる神とともにあって内なる神を通してすべてを体験するようになってくると、実はすべては神の中にあったんだ、ということが理屈じゃなくわかるようになってくるのだと思います。そっちが真実です。

真実はいつも私たちに優しい。優しさをたくさん、地上に見いだしましょう。

『ゆれる』と『マリアたち』について。

前回の続きを書くつもりだったのですが、おやすみします。社会問題も気がかりですし、言いたいこともあるのですが、今日は映画のこと。

元々は役者をしてましたし両親も芸能関係の芸能一家で映画は好きとか言うレベルではないほど好きでしたが、意識の探求をするにつれて尋常じゃないレベルからは離れました。それでも映画は週に数本見ます。

いい映画にもちょいちょい当たります。一番最近では『ゆれる』という西川美和監督の映画は抜群でした。2006年作品。主演がオダギリジョーさんということで敬遠するところですが、その他のキャストが面白すぎだったので選びました。オダギリジョーさんはいい映画に出ているんだけど毎回いまいちな物足りなさを残すので。ですが今回は初めて及第点。手足の長いスタイリッシュな男の武器のだめな使い方というのが見事に出ていてよかったです。悪口みたいですけどそうではないです。自分の持ち物に頼って或いは無視して演技している間は持ち物の良さを結局は使いこなせないのですが、それを客観的に理解できるとそれを使いこなせると思います。この映画ではそれがうまく機能していたように思います。香川さんと絡んでいてきっと、気づいたところも多かったのではないかと推測します。

圧巻は香川照之さんのいちいち絶妙な演技で、こんなにも一言一言に緊張する作品は久々でした。久々にこういう映画の見方をさせられました。昔、子供の頃はこの緊張感を味わいたくて映画を見たものです。ひとつのセリフをこのトーンで言うか否かで、その人物像がどう刻まれるか決まります。そういうふうに役作りをみんなしなくなっていて面白くないのですが、本当にビタイチ聞き逃したくないと思わせてくれる演技で、後から、あの時その人物がなにを思ってそのように言ったのか、どの心情でそんな風に言ったのか、走馬灯のように遡ることができるような見事な芸術になっています。映画は娯楽ですが、人間の心、エゴの探求にはもってこいの教材です。というか、教材になり得るようにしっかりと人間を観察して作ってくれたら映画全体がぐっと面白くなると思うのですが。

こういう撮り方をする西川美和さんという監督はきっと、こういう映画の楽しみ方が好きなのではないかと勝手に共感します。ストーリーがサスペンスだと、火曜サスペンスか土曜ワイド劇場でよかったんじゃないかと思えてしまう日本映画が多いのですが、こんな風に作ってくれたら映画って素晴らしいと思えます。

見終わってから、『ディア・ドクター』を撮った監督だと知ったのですが、あれよりもこちらのほうが傑作に感じました。他の作品も楽しみです。

この少し前にとっても良かったのは『屋根裏部屋のマリアたち』という映画。フランスが舞台でフランス人とスペイン人が主役。最近ハリウッド以外の良い映画を観て、もしハリウッドだったら、とイメージしてみます。優れたハリウッド映画って、映画の見方、観客の視線も全部決められていて、本当に何にも考えず、想像せずに見ることができます。それ以外の良い映画は全く違っていて、捉えにくかったり、知識や背景に対する興味が必要だったりして、ちょっとずつ紡がれていって気がつくとハートの中で世界が熟して感動しているような感じ。ハリウッドには好きな役者さんがたくさんいますが、ヨーロッパの映画では「この人本当に役者なの?」「こんな普通な感じの役者さん、よく見つけてくるよ」というような役者の層の厚さを感じます。調べると舞台をやり脚本も書いている、なんていう役者さんがごっそり出ていたりして、そうだよな、そうでないとな、と思わされます。

日本の役者さんがタレントさんになってしまって年月が経ち、年配の修行を積まれた役者さんがどんどん亡くなっていくのはとてもさびしいものです。

人間が人間として普通に豊かに生きることをちゃんとやるには人間としての探求や訓練が必要です。そうでないと人間は人間にもなれない。私は語弊を恐れずそう思う。役者というのはそのスペシャリストでもあってほしいものです。そうでない役者はおもちゃです。

日本がおもちゃの国にならないように、本物の人間が作る、神が微笑む集合体であってほしいと心から願います。

つぶやきました

先日フェイスブックにつぶやいたつもりが長くなって、せっかくなのでこちらにも上げておきます。推敲していない文章なのでお見苦しいところもありますが、以下転載。

☆彡☆彡☆彡

映画、『戦場のピアニスト』を公開時に映画館で見て以来11年ぶりにDVDで。
改めて本当にすごい映画だと思った。
二度目だし、シーンやセリフも結構覚えていたけれど、それでもすごく緊張しながら見た。
冒頭から、あれよあれよと市民が戦争に巻き込まれていく感じがあんなにリアルに描かれているものは少ないと思う。
ユダヤ人がじわじわと逃げ場を塞がれていき、まさかそこまで、まさかそこまで、そんなに長く続くわけがない、と思っているうちに収容所へ送られる。
収容所が今より良いところなのかどうかもわからないまま。
その場で射殺は当たり前。
抵抗も、質問すらもできなくなる。
完全なる家畜。家畜以下。
心や尊厳を持つ人間が、心や尊厳を持つ人間をそのように扱い、当たり前にことが進んでいく。
終戦を向かえると、支配者だったドイツ軍は捕虜になる。
心あるドイツ人も同様に収容される。
本当にクレージーなことだけど、人間は追い込まれるとああなる。
個々がどうであれ、ああなると思う。
勇気ある人や、心ある人は即殺される。
追い込まれてからでは遅い。
いったん戦争になると、平和な良識なんて全く通用しない。
憲法を国家の都合のいいように変えるのも、国民に秘密を作る法案も、結局は人間が尊厳を失う道に続いている。
家畜以下の道へ続いている。
まさかそこまでは、まさかそこまでは、とずるずる後ずさりをして、地獄へ落とされる。
殺す方も殺される方も結局は地獄だ。

これは酷い、市民や子どもの生命をどう思っているのか、と日本の現状に疑問を持っている人は多いけれど、生命のために政府が動くのであればもうとうに、まったく違う方向へ動いているだろう。国家は市民や子どもの生命を守るためにはまったく動いていないということに気づいて認めなくてはそこから先へは行けない。

憲法改定で、内容次第ね、という考えは一見正論だけど、本当は違う。
国家が国に有利に変えるということは市民にリスクが来ることと直結している。
政府は実利のない無駄なことをわざわざしない。
世論を騒がせるようなことでは特に。
例えば今は少しお金が増える人もいるだろうけど、そのうちに家族に地獄が入り込んでくるだろう。

秘密保護法って言われたら、終わった、と思わなくては次に行けない。
権力は被権力に対して隠したいことだらけだ。
そんなの当たり前だ。
とうとうそれをあからさまにやろうというのだから相当本気だということだ。

私たちひとりひとりがどんな意思を持つか、それが大事だ。
一番いいのは認識を共有することだ。
現状を把握し共有することだ。
そうしなければ、力を合わせることができない。

力を合わせなければ大衆は権力の流れに抵抗することすらもかなわない。
主義や方法ではない。
まず現状起こっていることを観て、それを共有することだ。
共有するためには知ること、考えること、そして伝えることだ。
伝えあうことができるのもいつまで可能かはわからない。
でもそれしかない。

Favorite Things

みなさんこんにちは。
人生できる限り正直にあるがままに生きたいので、できるだけ遠慮なくぶっちゃけて書いていきたいと日々思う私です。わりと控えめで臆病なので色々なことに気を回してしまってわりと見えない制限を自分で加えていることによく気づきます。たかが私の個人のブログなのですが。

うちはテレビを見ないのですが、プロジェクターがあってそれで家の壁に映画を上映して鑑賞しています。私は元々映画好きです。私の母は結婚前、あの時代に週に6本見ていたと言っていました。父は職業柄家ではいつも真剣に映画やドラマを見て、そして文句を言ったり本気で怒ったり、感心したり、子どもの頃から家の中で批評を聞かされて育ちました。

よく思い出すのが山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」をテレビで見ていた時に父が「しかし桃井かおりって女優はうまいな」と言ってどこがどんなふうにすごいかという話を私にしてくれたことです。その時父は桃井さんの「ねえそれじゃ、夕張まで行かない?!」というセリフを例にとって解説していました。こういうことを詳細に覚えているところなど(妹もそうだと思うけど)本当におかしなことだと思いますが、こんな感じで私の役者の血は大人になるまでにどんどん熟していたわけです。

私はすでに桃井ファンだったので、自分の価値観が認められたように嬉しくて内心うわぁという気持ちでした。父は新劇出身の、スタニスラフスキー・システムの申し子のようなくそ真面目な役者さんだった(と私は思っていた)ので、そんな父が桃井さんの変則技に心底感心しているのを見て目からウロコのような嬉しい気持ちでした。

しかしいつもこんなだったわけではなく、父がテレビを見ている時は私たち子どもは音を立てたり喋ったりしてはいけないルールがあり、子供らしく騒いだりすることは許されず、もし父の気に障った時は力石徹のあの声で凄まれたりして本当に怖かったものです。力石徹のあの声、リアルに怖いですよ。父は常に本気ですから(笑)

少し前に私の演劇専攻時代の先輩であり同級生である(留年して同級生になったわけですが)Sさんがうちに来てくれて、ナカムラミオ(当時の私)とはどんなやつだったかということを真剣に論じてくださいました。すごく真剣で鋭かったのでもう私の半生を統括してもらったような面白さがありました。その中で、なぜ大学生の当時からあんなにも自分の世界が確立されていたのか、という点を論じられた時に振り返ったのは、やはり父のあの芸に対する真剣さ、芸(表現)は自分そのもの、というあの感じが自分にも当たり前のように身についていたのだということを思い出します。

仕事のことを一切家に持ち込まないお父さんも世の中には多いと思いますが、我が家は全部持ち込む派で、お陰で、声優界の大御所の皆さんのお名前はすべて知っていましたし、どんなことをどんなふうに発言なさったかまでかぎかっこ付きのセリフのようにうちで再現されていました。母はいつも「聞きたくない」と言っていましたが、とにかく父は全部しゃべらないと気が済まない人でした。

よく、芸事は習うのではなく盗むものだといいますが、それは本当だと思います。師匠の背中を見ると良くも悪くも色々なことがわかります。私は子どもの頃から何らかの芸事をする人を目指していたので、その盗む芸はその頃から始まっていたと思います。Sさんにそういうことも話ましたが、それを自覚している事自体が異常だと言われました。例えば小学生の頃から泣いている時に鏡を見て確認したり、マンガや本、テレビのあらゆるセリフを自分だったらどう言うかというのは常に練習していました。すべてのそういうものは練習台だと思っていました。そして自分の方が絶対いい感じに言える、といつも思っていました。

そういう中で、衝撃的に現れたお手本は大竹しのぶさんや桃井かおりさんでした。他にも当時はすてきな女優さんがたくさん活躍していましたし、テレビドラマも本気で良い物がたくさんありました。最近では満島ひかりさんという沖縄出身の女優さんが「刺すような役者でいたいと思います」と発言なさっていましたがあの頃は刺すような女優さんがたくさんいました。そういうのに刺されることは喜びでした。他にもショーケンさんや松田優作さんや原田芳雄さんや石橋蓮二さんや刺す役者さんはたくさんいて、もっと、もっと、もっと本当のことはないか、もっとリアルな表現はないか、もっと刺さる表現はないかと探すことに必死な人とその人達を活かせる飢えた監督さん演出家さんもたくさんいたと思います。

今はいないわけではないのでしょうが、もうなんというか、そんなものを求めてないのが世の中なのだろうと思います。

近年はショーケンさんもかっこ悪くなった、ヤキが回ったと思われているかもしれないですが、「ショーケン」という本を読むとショーケンさんがどれだけすごい人だったかということがよくわかります。桃井さんが[ショーケンさんに育てられた役者は多い」とおっしゃっていますが、その彼の「見ている」目は本当にすごいなと思います。あれは、愛です。近くにいたら、愛されていると感じてしまうだろうなと思います。彼らのような役者さんが出ている作品て、役者のパワーがすごすぎて、だいたいストーリーとかあまり頭に入ってきません。一挙一動が面白すぎて、頭でストーリーを追いかけることを忘れてしまいます。そしてその感触がじかに潜在意識に刷り込まれてしまうので、シーンや言葉やトーンがそのままある感覚として記憶されていくのです。そういう作品は私たちの意識を変える力を持ちます。演劇も映画も、そういうものがすごいものだと私は思っています。

以前にも書きましたが、高校生の時に、演劇を目指すと決めた私を父が仲間の芝居に連れて行ってくれました。津嘉山正種さんがいた青年座やいろいろ。その時に劇場の客席の重い扉を開きながら「美緒、こうやって劇場に入る前と出てきたあとでは、その人の人生は少しだけ違っているんだよ。それが演劇なんだ。」と言いました。私は今でも芸術とはそういうものなのだと思っています。だから、潜在意識にまで入り込んで、リアルな夢のように私たちの記憶を塗り替えたり、想像力をかきたてたり、人生観に色彩を加えたり、そういう作品が、本物だというふうに信じています。

そしてその作品の多くは娯楽です。その娯楽の中で私たちが培えるものといったら「想像力」だと思うのです。想像力は思いやりとも言えます。思いやりはある種の愛の表現です。

演劇の目的は「浄化」にあると、私は大学の(ダサマの演劇史の)授業で教わりました。神の視線からみた人間界のエゴのドラマに自己意識を同化させて心を開いてそれを観ることで、私たちは自己の内側にあるなんらかの「思い」に気づくことができます。それを実際に実生活の中で行わなくてもその登場人物に寄り添うことで、その思いを感じきり、そして乗り越えたり卒業したりすることができるわけです。実体験に叶うものはないという人がいますが、私は想像力に叶うものはないのではないかと思っています。人間の脳は、リアルに想像したことと実際に体験したことの区別がつかないという特性があります。それを利用したのがヒプノセラピーなわけですが、身体はロボットのように感じたことに反応します。ですから私たちはなにを感じるか、なにを信じるかということが実際どうであるかと同じように重要なわけです。

私たちは想像する生き物です。その想像力を破壊にも創造にも、友愛にも保身にも使うことができます。

苦しい時代になってきたので、真のいい作品が世に必要とされる時代が来るかもしれません。残念ですが、往々にして世の中はそういうものです。そうならないうちに私たちは自らの叡智を養いさらなる発展にエネルギーを使いたいのですが、なかなかそうはなりません。生きることが楽な時代には私たちは心を甘やかし堕落するもののようです。それでも、内側に愛と叡智を蓄えながら養いながら、私たちは少しずつ、後退もしながら前身することでしょう。今日も生きていきます。