自己肯定感、あります。

からだだけが自分じゃない。そう自覚している人はきっとたくさんいるだろう。心が大事。そう思っている人もきっとたくさんいる。

思うようにならない自分と格闘して葛藤して、潜在意識≒インナーチャイルドを探求している人も、今はたくさんいる。情報もたくさんある。

そしてこんなことも起こる。自分の過去に作った傷がたくさんみつかった。原因もわかった。一生懸命修復に取り組んでいるけどなかなか変われない。やっぱり自分には無理なんだろうか。がんばってもがんばっても追いつかない。

愛にあふれた人ほど、自分の内側の傷を見て、それに圧倒されてまた傷ついてしまう。思慮深い人ほど傷を負った自分自身にさらに問題を感じてしまう。

私自身、おとなになってみて何一つ思うようにならなくて自分を振り返り始めて数年、いや10年、いやもっとそれ以上長く、そんな思いの中にいた。

掘り起こせば起こすほど、自分の未熟さ至らなさに直面して自分を責めてしまう。そんな中で情報に照らして自分を分析し評価するとしたら「自己肯定感(自己評価)が低い」んです!みなさんそうおっしゃる。そしてその低さを作った原因がわかれば、それを修復できれば、誰かを許せれば、変われるかもしれない、そんなふうに感じている。

私も本当に長い時間かけてその答えを探しさ迷ってきた。私のその体験と時間をできたらみなさんに捧げたい。もし受け取ってもらえるならば。私の経験が、あなたの時間を短縮すること、そしてあなたがさらにその先を体験すること、それが魂の仲間の共通の目的だ。

身体だけじゃない、外側じゃない、中身が大事。中身が本当の自分だというところまで真実を突き止めたみなさんは、潜在意識こそが自分の真実だと思ってるかもしれない。或いは潜在意識こそが自分の宝もの、或いは自分の真の導き手、或いは神さまのような存在だと捉えているかもしれない。でもそれは、違う。

潜在意識は体験の記録の集大成のこと。からだという特定の反応をする方程式がつまった箱に何かを放り込んで出てきたもの、それをしまっておく場所のこと。いわば肉体のデータバンクだ。

データをいじって修正する権限を持つのはそれ以上の知能を持ったものに限られる。データがデータを改善することはできない。或いはデータの箱がデータを改善することはできない。権限を持つのはあなた。それを教え導くのが魂、ハイヤーセルフ、そしてその中核である全き神である。

私たちはこのデータをまとっている。このまとったものを自分自身と勘違いしている。傷だらけでみすぼらしい、くたびれたその姿に更に傷つき、それでも立ち上がって今度は修繕を始めようとしている。これは一人ではとても無理だと悟ったから手伝ってほしいと私に申し出てくれる。

いろいろなヒーラーやセラピスト、カウンセラーがいて、あなたを手伝うと言う。すごく長い時間をかけてその修繕を一緒にやったり(やってもいい。でもそれは目的ではない)、もっといいハウツーがありまっせ、と提案したりしている。どうです、私、立派でしょ、きれいでしょ、あなたもこんなふうになれますよ。それが宣伝文句。

でも私に言えるのは「それ、ただの服なんですよ」ということ。潜在意識、インナーチャイルド、あなたが自分あるいは自分の本質だと思っているそれは、データが編み込まれた、服なんですよ。

最近のセッションでのこと。その人の魂の光、愛の炎があまりに燃え盛っていて、その愛の炎でその人のまとったぼろぼろの服は既にほとんど燃え尽きているかに見えた。魂そのものが光を放ち、自らがまとっていたかりそめの古い衣が燃え堕ちようとしているさなかにまだ、その服をなんとか修繕しなければと真摯に訴えていた。あまりにまっすぐにそこに居てくださったから、私もまっすぐに伝えることができた。

「その古い服、脱いでください」

その方はしばらく目を見開いて、というか肉体の目をぎゅっと閉じて、心の眼を見開いてじっとしておられ、それからまっすぐにこちらを見て「そうか。そう観たことはなかった。確かにそうだ。魂はきれいなんだ。きれいなものなんだ。それが自分の心なんだ。」

その方は一瞬で悟られた。自分は魂なのだと。心の核は魂で、汚れた心と感じていたのは多くの体験を吸収し、くたびれた衣服だったと。服がどんなにズタボロでも、魂はそれに影響すらされることなく美しいままなのだと。私はその方のまとった焼け堕ちる寸前のその衣がばらばらと灰になり崩れ落ちるのを見た。そんな見事な再生に出会えたことが奇跡だと感じる。

しかしだったらなぜ潜在意識の探求などするのだろう。

それは、その衣の命を全うさせるためだと認識している。学びを完了させるとも言い換えられるが語弊もある。それは理屈や知識で得るものではない。感情の燃え残しに聖なる火を点火し燃焼させることだ。

人間は、五感を通して受け取った情報を感覚として感知し、そこから化学反応で感情の波を起こす。生長の道すがら、情報は確かに受け取ったけれど湧いてきた感覚や感情は感じ切らずに置いておいた。そんな体験が器に余る莫大なエネルギーを使わずに溜めている。鮮度が落ちたそれは、やがて器にこびりつき沈殿する。ものによっては腐敗する。

「感じ切ってください。」ヒプノセラピーでのあなたのミッションはこれにつきる。あとは、魂がやってくれる。

ごびりつきや沈殿物や腐敗物を燃焼したときあなたの内なる光は増し、その光があなたの内側と行く手を照らし始める。だからあなたは歩けばいい。光りの中で光とともに生きればいい。あなたのまま。一歩一歩。光りによって周囲は良く見え、自分の内にある光が周囲を照らす。それがあなたの価値だ。それに評価なんて必要だろうか。

そうやって光の器となって再生したあなたは、過去に着ていた服のことを思う。もし生まれてこのかたきれいな服ばかりを着ていたならどうだろう。あなたは違っていただろうか。

ボロボロの服からも、肌触りのいい服からも、そこに吸収された体験から抽出され中身(魂)にしみこんでいくのが愛であり、どちらの服もその愛を抽出し終えたときその任務を全うする。あなたはやがて手放す服を、あなたが学びやすいように選んできた。あなたの父、母、家族の設定、社会と国家、時代背景。

その服にありがとう、愛しているよ、さようなら、全うしたねと心から言える。それが自己肯定だ。そう言えるようあなたの気づきを促すのが潜在意識への取り組みでありそれはそのままあなたの魂、そして内なる神への回帰への道だ。

単にきれいな服を着ている他人を見て、あの人には自己肯定感があるとか幸せそうだと人は言う。でもその人の中身は本当に寄り添い向き合ってみないとわからないものだ。ボロボロであれきれいであれ、その服に執着している間の肯定や評価などまったくもって価値がないと今の私は思う。それは誤解であり錯覚なのだから。

使命

セッションで数名の方からほぼ同時にあるキーワードをちょうだいしました。そういう時はそのエネルギーが動きたがっている時です。ここからどこかへ、或いは同時多発的に、意識の大海の中でそれは震え輝こうとしています。そして言葉というメッセージとなり、人の気づきとなって流れを作ろうと発動しているのです。

キーワードは「自分自身への誤解」です。あまり耳ざわりのいい言葉ではないかもしれません。

私は長年、潜在意識の療法、つまりインナーチャイルドや前世療法、ハイヤーセルフのワークに取り組み実際の現場からたくさんの学びをいただいてきました。結局のところ、なにが問題の根っこなのか。意識の真実は薄皮を剥ぐように日々新しい姿となって私の前に現れてくれます。取組む姿勢は同じでも、根っこへ迫る道は日々シンプルに、可能な限りスマートに、みなさんをご案内できるようになってきていると思います。その道に従事する者へのそれがギフトであり、この世界に私を生かしてくださる神とみなさんへのご恩返しなのだと最近つくづく思うようになりました。

「愛」という、形に示すことのできないある大きな事象に込められた地上での意味は、私たちの気づきと体験と学びによって今も毎瞬上書きされています。この世のすべての事柄がそうです。世界のあらゆる出来事の意味は、私たちの実感によって書き換えられます。つまり、そこに込められたエネルギーは私たちの生命の営みと同時進行で変化し続けているのです。

潜在意識は、体験によって作られます。体験からくる実感が記憶された領域がそれです。

私たちは大海のうねりのような意識のエネルギーとともに、この肉体という船で波を体験しています。私たちは過去世から持ってくる見えざる記憶を初期設定とし、両親の創った王国に誕生し航海をゆるされます。細かなシナリオを持たないまま、地図のない航海を始めるのです。

しかしこのゲームの最大のカギは最初から手渡されています。魂は愛という至高の法則を記憶しており私たちはアクセスすることを思い出しさえすれば、どんな小道具や航海術を持つより遙かに安全で有意義な旅を進められます。

けれども私たちは荒波にあたふたするうち、すっかりそんなゲームの奥義は忘れ去ってしまいます。波を蹴散らし船の補修に補修を重ねるうち、この旅の目的どころか本当の自分の姿さえ忘れてしまいます。そしてイメージの中で、戦いのうちに受けた傷や怪我の後遺症や苦難の時に培った心の抵抗や痛み、孤独や悲しみのほうの記憶が鮮烈に大きく膨らんでしまうのです。

そんな自分が生きてきた人生、取り巻く人々、それらとのかかわりの中での自分像は、すっかり疲れ果ててボロボロでみじめでみすぼらしいかもしれません。逆にガッチガチに鎧を着こんで意気揚々としているかもしれません。どれにしてもその姿の奥にある本当の心、本当の気持ち、本当に感じていること、すなわち真のエネルギーの姿はよくわかっていないのです。そして周囲に対してはいつも「そんな自分がすべき行動」を無意識のうちに選択するようになっています。

これが自分自身への誤解、言い換えれば誤った自己イメージです。

私は、ヒプノセラピーの使命は誤解を解くことであると認識しています。誤解を解き、真実への橋渡しをすること。インナーチャイルドの癒しとは世間で言われているような、心の傷の原因探しなどでは決してなく、私の私に対する誤解を解くことであり、真の私自身との和解への道なのです。この和解なしに自分への愛は成就しません

実はこのプロセスこそが、無条件の愛、高次元の愛への最も重要なゲートのひとつであると私は思っています。多くの崇高な意思を持った人が首から上と下で分断されねじれた世界観の中でさ迷うのは、この領域に飛び込むことがある意味とても勇気を要する段階だからだと思います。おそらくどれだけのことを知っていようが、理解していようが、直感していようが無意味です。それは、自分が自分で進んで体験し突破するしかないゲートなのです。

魂はそのためにたくさんの仕掛けをしています。苦難や混乱という、あなたを撹乱させる思考や理性や既存の知識では対処不能な地雷を各所に埋め込みます。そうやってあなたに、魂自体に頼ることを思い出させるよう仕向けるのです。あなたの内の愛の体験の記憶の貯蔵庫である魂は、長い転生の履歴から愛を蓄え、あなたが肉体に宿りながらそこにアクセスし、その叡智を使ってあなたがさらにその体験を深めることを押し進めます。

その段階であなたはようやく、自分が自分にくっつけている歪んだ自己像に気づきつつあります。目覚めがそこまで来ているしるしです。

周囲からたくさんの攻撃を受けたと信じているあなたは、その攻撃によってずたずたに裂けた衣装をまとっています。でもそれは本当のあなたですか?答えはNOです。あなたはたくさんの人たちともみ合いながらコミュニケーションを繰り返し、古い衣装を脱ぎ捨てては生まれ変わっていきます。古い概念を捨て去りより大きな世界へと広がり続けています。脱ぎ捨てるほどに内側の光をよりストレートに放ちます。これが真実です。

あなたはそのプロセスの中にいて、それを体現しています。

決してひとりではありません。あなたは無限の霊(スピリット)とともに互いに作用し影響しあいながらその任務を全うしているのです。

心から思います。

こんにちは。ご訪問いただきありがとうございます。

私はヒプノセラピストのための講座を始めてから、まったくもって深い学びの日々。今は時間があると資料を作っています。とは言っても文字数の多いものではありません。主に意識の掘り起こし。受講してくださっている方々にも、同じように意識の掘り起こし作業をお願いしています。

そうしているとおもしろいもので、掘り起こしているテーマを持ってお客さまがいらしてくださる。この世が意識という大海でつながっている、ということをいつもいつも見せつけてくださいます。

本当に心の底から思うのは、自分と向き合い癒すというのは、世界を愛し癒すのとまったく同等な行為なのだということ。
世界を変えるためには、行いである前に、在ることなのだということ。
真に自己の統治者になるということは、真の統治者に自己を明け渡すのと同じことなのだということ。
私たちには、それを選ぶことが重要なのだということ。
選ぶためには自己を知らなくてはならないということ。

先日、勉強会での気づきをブログに書いてくださった竹美さん。

今度は個人のカウンセリングセッションを体験してくださり、さらにさらに細やかに率直に、気づきを書いてくださっています。

私への感謝をくださること以上に、細やかな気づきと、惜しみなくシェアしてくださっていることに心打たれ、また向き合ってくださる姿勢に勇気づけられ、思わずうるっとしてしまいました。

この場で改めて、感謝いたします。

きっとここにいらしてくださるみなさんに共感していただけるのではないでしょうか。また内なる探求の手がかりにもご参考にしていただけると思います。

竹美さんのブログ 『内側を感じる』
竹美さんありがとう!

みなさんにも真の自己を生きるための内なる導きがありますように。

自分の中身を知る

実態の見えないものを人は恐れる。
人には想像力があり、思考力があって、それを「生存」のために役立てようとするから。

予測することによって人間はか弱い野生力でも生き延びてこられた。
人はこうした直感力を使って生態系の頂点に立ったかに見える。

しかしここで言う直感は、五感の記憶の集積、つまりデータによる予測力に過ぎない。

前世の記憶として多くの人が関心を持つものも、この範疇にある。
当たり前のことだけれど、それは、過去の記憶だ。

また多くの人が、これが私の性格だから、と思っているものも、そのほとんどは、過去の記憶からくる習慣、つまり癖だ。

これらの領域は「潜在意識」に属する。
それらの記憶を直感的に察知することができても、それをどう捉えていいのか、多くの人が知らない。
過去からのメッセージをそのまま予知だと勘違いしている人も多い。
また単なる過去の記憶の残像を、意味のあるお告げや導きだと捉えていることも多い。

また、今起こったことから想起されるイメージは、これらの記憶のフィルターを通して感知される。
そして次の展開が予測される。

人類の歴史は、生存とそれに付随する困難の集積だ。
ゆえに人は、このフィルターを通して世界を知覚している限り、無条件に幸福や愛を感じることは不可能だ。
一番いいところで、赤ちゃんの時のお母さんのぬくもり、何も知らずに得た安心感に勝るものはない。

運よくそれを体験でき、そういった幸福の記憶を途中で塗り替えてしまうような体験に打ち消されていない人は、その恩恵を持続できる。
しかし多くの人はそうはならない。
つまりは印象によって、私たちの幸福の基盤は決まってしまうのである。
肉体感覚を信頼しているあいだは。

意識的進化の途上にある人間という生き物のこういった悲劇的側面を克服する方法は一つしかない。
それは、潜在意識のさらに奥深くに座している、より本質的な領域「超意識」というところにアクセスすることだ。

超意識を私はざっくり、魂と呼んでいる。

魂は愛の記憶の貯蔵庫、と私は呼ぶ。

肉体意識の貯蔵庫が潜在意識。愛は魂。

そこに、それぞれの人の本質が眠っている。
いや、眠っているのは私たちの意識のほうだ。
私たちが目覚めて、そしてそこへ向き直し、そして手を伸ばせばいい。
手を伸ばして、そこに触れたら、その手を離さず摑まることだ。

ただし、そこへはいくら考えても、なにかを知ったとしても到達することはできない。
内面という、予測不可能な世界に向かっていくしかない。

ナビゲーションがほしいと思う方はご連絡ください。
そのために準備を整えてお待ちしてます。


1日1クリックの応援、いつもありがとうございます。よろしくお願いいたします。

魂の目的を知る


1日1クリックの応援いつもありがとうございます!

みなさんこんにちは。AZU WORLDへお越しくださりありがとうございます。

沖縄に住んで7年目に入りました。そして、ここ知念具志堅に来てまもなく2年になります。ついでに、結婚からはまもなくまる8年となります。結婚生活のほとんどは沖縄で過ごしていることに驚きます。たった二人でやってきて、社交性も発揮せず、こつこつと自分たちのワークに取り組んできたな、と思います。にもかかわらず、私たちの仕事を通して、直接関わってくださった多くの方への感謝は言葉になりません。私たちの中身のほどんどはそれでできている、というくらいです。

ネットで一所懸命探して、吟味し、私たちを選び、来てくださったり、私で言えば、遠隔という顔の見えないセッションでも私をご信頼くださった方がたには、敬意と誠意と、そして私たちがコツコツと前進することでおかえししたい気持ちです。

私の行っているワークは、昨今知名度は上がってきたとは言え、まだまだ一般的にその内容や実用性、必要性は浸透しているとは言えません。自分にはそれらを誤解なく少しずつ伝えていくという使命があるかと思っています。セッションやメールなどで、レイキの用途についてお話しますと「そんなふうに使っていいんですね」というお声が返って来ます。ブログに書こうか、と考えていて、ふと、これは資料にまとめておこう、とひらめきました。実際こんなふうに使おう、という参考資料です。レイキというエネルギーの本質を解説しつつ、ご説明します。

私のセッションをお受けいただく方にはこれからお渡ししようと思いますが、過去にお受けいただいたみなさんにも、ご希望があればお渡しさせていただこうと思います。出来上がりましたらまたこちらとホームページにも掲載いたしますが、もしご希望があればメールをください。出来上がり次第、ワードのファイルでお送りでします。

インナーチャイルドについても、本当にたくさんのことをお伝えしたいと思っています。正直、自分が知ったことを伝えなくてはと思うと、あまりの膨大さに降参したくなるくらいなのです。自分がこの人生で、ワークを通して気づき、知ってきたことの膨大さ、それはまだ書物やこの世界の学問としてあまり現されてはいません。

インナーチャイルドとはなんでしょう。私の中に住んでいる子どものこと、とイメージされることが多い気がします。実際は、私の今世で作られた自己意識のすべてと言っていいです。ここの領域は潜在意識と言われ、肉体感覚、つまり五感を通して感知し刷り込まれた記憶のことです。この領域はお母さんのお腹の中からすでに記憶が始まり、3歳までに概ねの部分が記録され、13歳くらいになると蓋がされ、それ以降はあまり変わらない、よほどショッキングなこととか、心にどんと響くようなことがない限り、というふうに言われています。

➖セッションの冒頭で、このご説明をしただけで、感涙される方々をたくさん見てきました。その涙は、自分の苦しみのわけがこれで見つかるんだ、という安堵のお気持ちが奥にある気がします。➖

ですから、退行催眠をすると、お母さんのお腹の中の記憶も思い出せるということが起こります。実際、赤ちゃんの耳は胎内6ヶ月くらいで出来上がるそうです。それくらいからは耳で聞こえたことを感覚的に(言葉の意味ではなく、耳触りの感触で)覚えています。しかもお母さんの心臓音、もしかしたら血流音、そして声などはとても密接に近くに聞こえています。それに比べるとお父さんの声は遠くにあり、お父さんの声にお母さんはいつも反応しているはずです。ですから、お父さんに対するお母さんの心情などは声色や口調に表れているはずです。お父さんと対話してお母さんが泣いたり、怒ったり、感情を害することが繰り返されることは、お母さんの心音や血流音や声で赤ちゃんに伝わるでしょう。もしかしたらお母さんから与えられる栄養分の流れが増えたり阻害されるということから影響を受けることもあるかもしれません。それを不穏さ、不快さ、または不安という感覚で赤ちゃんが捉えることは想像に難くありません。

ここまでは生物学的に見て自然のことですが、スピリチュアル的な捉え方をすれば、赤ちゃんはそれ以上の感覚でお母さんを捉えている可能性があります。赤ちゃんはお父さんとお母さんの魂を選んで生まれてくる、などと言われますが、もっとざっくり言えば波長を感知して合うところに宿るという感じです。

私はある時、人間の赤ちゃんほど長い時間自分で動けない生き物は珍しいのでは、と気づきました。哺乳動物が生まれる映像など見ると、生まれたばかりの赤ちゃんがみるみるうちに立ち上がって、やがてお母さんと一緒に走りだすところを目にします。しかし人間の赤ちゃんは違います。2歳と言ってもよちよちしていて、全面的にお母さんの庇護を必要とします。潜在意識の形成期、赤ちゃんはそのほとんどをお母さんの愛情と庇護を求め受け取ることで成長します。私はそれを、人間という生き物が、生存と同時に愛を学ぶ生き物であることを示しているのでは、と思いました。愛を学ぶ必要がある生き物であるが故に、お母さんの愛情を一身に集めるため、肉体が自立するのに時間を要するようになっているのではないかと思ったのです。

その考えに至ったのは、退行催眠で思い出すトラウマの原因があまりに些細な出来事であるケースの多さによります。生後まもなくお布団に寝かされていて、お母さんに来て欲しかったけど来てくれなかった、とか、眠っていて目を覚ましたら誰もいなくてとてもこわかった、とかそういうことから人間は孤独や恐れの原型を自己意識に刻んでいきます。しかしこれらはあってはならないことでも、誰かのミスでもありません。人間が体験すべき自然な場面であり、それを通らずに人間の成長はあり得ません。

以前はトラウマというのはないほどいい、というふうに考えていました。また今勉強されている方もほとんどはそういう考えではないでしょうか。しかし、こういったことから人間が傷つきを体験し記憶し、それが後の心の反応を作っていくというのは、実際ネガティブなこととは言えません。ネガティブに捉えるか、前向きに捉えるか、という感じ方のほうがむしろ解放されるべきことであり、作ったきっかけはどうであれそれは言わば習慣、思い癖なのですから、それは気づきによって解放されればいいだけなのです。要は、理由を知ることより、自分が心のなかでなにをしているかに気づき、それを自ら手放すと決めること、その選択こそが重要です。そしてあとは仕組みに基づいてそれを実際に行うだけでいいのです。またその作業、ワークというのは、特定の人にだけ必要なものではなく、望むと望まざるとにかかわらず内面の成長、霊的進化を生きるすべての人にいずれ求められる自己を知る道につながると私は思います。

私はこう考えました。人間は、この世にやってくる時、波長の合うお父さんお母さんに宿った肉体に魂として宿ります。この波長はその人の意識のエネルギー体系によるもので、潜在意識にある過去世の記憶も大いに含み、関係します。(潜在意識は、過去世の体験からくる記憶と、今世の主に幼少期に形成される肉体意識の貯蔵庫です。)

そして赤ちゃんはまず、このお母さんが持っている愛に対する知識と愛情表現をコピーするように学びます。3歳までほぼつきっきりで教えてもらおうとします。頭でそう考えるのではなく、本能でそれを求めます。本能では、人間の赤ちゃんは他者に面倒をみてもらわなくては生きられないことを知っていて、必死に気を惹こうとします。時に笑顔で、時に泣き声で。そしてその本能の発令がうまく機能しないとき当然ながら恐れをいだきます。それが恐れの記憶の原型になります。

一方魂の目的では、赤ちゃんは両親、特に縁の強い(お腹から一心同体であることから)お母さんに対して非常に強い愛情と愛情欲求を持っています。同時にお母さんから、魂の学びの基礎となる愛について学んでいきます。13歳くらいまでの間にそれを完了し、それ以降は実践に入るわけです。恋をし、そして愛し合うことやもっと大きな愛について実践していきます。そこで初めて自分が学び、無意識的に受け入れ信じてきたものが試されることにもなります。それで、躓いた時、またお母さんと同じやり方では通用しないような人生の局面に出くわした時、初めて過去を振り返る必要が出てくるのです。

そこでしなくてはならないのは、単に自分を知ることだけです。私たちは自分自身をよく知ることを通してこの世を知り、神を知っていきます。過去にあるのは、そこへ自己を向かわせるための道標です。

子どもはどうであろうと自分の人生に則したテーマを生きなければなりません。お母さんから学ぶのはその最初のスタート地点だけであって、確かに自己意識の礎を占める重要な役割ではありますが、それを糧に乗り越え学ぶのはその人自身です。トラウマさえも含めて、それはその人が最初に与えられた人生を模索する手がかりに過ぎません。それが優しいものであれ、厳しいものであれ、それがこの世で自分を生きていくための地図に予め埋め込んでおいた付箋となります。

インナーチャイルドワークは、無くするべき傷を癒やす方法を超えて、自己をその無意識的習慣と思い込みという檻から解放するための自己探求のやり方です。

魂とスピリチュアル、この世の表面に見えているもののもっと奥の仕組みを探って行くと、私はそこに行き当たりました。現実の奥にはそうあるべくしてある、壮大な仕組みがあります。ワークの目的を、自己の傷の修復と見るか、更に壮大な魂の真の目的への道標とするか。私は前者から後者へと導かれました。多くの方がそう導かれることを祈っています。

健康のもと。


1日1クリックの応援、いつも本当にありがとうございます。
パワーをいただいています。

みなさんこんにちは。

先日のことです。「メンタルの問題の原因は食べ物ですか?」と聞かれて、一瞬考えました。食べ物は確かに心にも大きな影響力を持っています。何につけ、生きることへの不調和を感じるのは身体になにかしらの異変や不具合を感じる時だと思います。人間の幸福と健康に多大な貢献をした偉大なチャネラーであるエドガー・ケイシーは「人間のからだは食べ物と日々の思いでできている」と言いました。そして「食べ物には2種類しかない。身体にエネルギーを与えるものと、毒するもののどちらかだ」とも言っています。これには深く共感します。口に入れる時、これがそのどちらなのだろうと意識し選ぶことはとても大切だと思います。

しかし、人間は肉体であると同時に意識という存在でもあります。エネルギーというレベルで言うならまず意識という微細なエネルギーがあり、それが結晶化したのが肉体である、というイメージです。まず意識のエネルギーありきです。冒頭の質問に私は「おもに、家族関係」と答えました。もっと明確に言うなら、あらゆる不調和の本当の原因はどんなレベルであれ、どんなシチュエーションであれ「愛の欠如」だけです。

口に入れるもの、食べ物にあまりに意識を向けすぎると、私たちは自分を「肉体という存在だ」というふうにみなしていがちになるかもしれません。身体の健康は本当にありがたいものですがそれ自体が贈り物とも言えます。その贈り物に対して世話をするのは大事なことです。世の中には食べ物にむとんちゃくな人も恐らくたくさんいるので、それが健康状態や心の状態に深く関係していることに気づき選択することはとても重要です。

しかしもっと言えば、私たちは栄養素によって生かされているのではなく、食べ物の生命力をいただいています。自然界の中にいる乳酸菌や麹菌や枯草菌などの菌類、また、細胞の中のミトコンドリアのような微細な生物は意志を持つかのように連携しながら働いています。彼らの生命力は私たちの生命力でもあります。その自然界のバランスが崩れることで私たちは当然バランスを崩します。

私が学校で習った頃の栄養学では、食べ物はその栄養素に価値があるというものでした。それは多分今でも基本変わっていないのでしょう。しかし私自身自分の体調や心の状態などを探求してきて思うのは、人間はやはりそれ以上のものから影響を受け、与えられ受け取ることのできる生き物なのだということです。

私は自分がとても身体が弱いと感じて生きてきました。実際に母親から、あんたたちはなんて弱いんだろうと言われて育ちました。そして幼い頃同居していた健康おたくの祖母が試したあらゆる健康法、健康食などを享受されました。食材も、当時は生活クラブに入っていて、選ばれたものをいただいていました。そして調子を崩して病院で検査してもどこと言って決定的なことは出てきません。それは今も変わりません。いったい自分のからだはどうなっているんだろう。どうしてこうもスタミナが続かずガッツがないんだろう、些細なことでダメージを受け、ひきずりやすいんだろう、と、いつも感じていました。自分が怠け者でずるい人間のように思えることもありました。

しかし、理屈でいくら理解しても分析しても、或いは栄養学的な健康法を試してみても、自分の生命力のパワーは一向に上昇しないどころか、大人になるにつれ制限が増え、とうとう20代の酷い時には、近所のスーパーに買い物に行って戻るだけで力尽きてしまうほどまで弱ってしまいました。そのような自分に抵抗し、努力をしてみてもできる限りの手を尽くしたつもりでも改善しませんでした。そうしていると、自分は自分自身や自分の人生に対してなかなか自信が持てませんでした。自分がとても危うくまたこの世界から歓迎されざる存在だというような―そうはっきり認識しなくても―感触を人生に持たざるを得ませんでした。

結局のところそのターニングポイントは、「意識の仕組み」に出会った所で初めて訪れました。肉体や状況、環境や人間関係、社会性や能力の問題、それらのすべてに影響を与えていたのは、『潜在意識』でした。潜在意識への取り組みを始めたことでようやく負の折れ線グラフに変化が訪れたのです。

私はよく母親から「うちの子達は、どんなに良い物を与えても効果が出ない」と言われていました。振り返るとその通りだと思います。何を食べても飲んでも、心の中に毒がたまっていればいい影響が現れません。心の毒というのは「悪」」という意味ではありません。それは、愛の光が行き渡らない部分に積もっていく「恐れ」なのです。

その恐れは過去世からの想念も含め、潜在意識にブロックを作っていきます。ブロックされたところには、神の光である生命力や治癒力や愛情のような魂の滋養が流れこまなくなっていきます。身体に良い物を摂っても、健康法や治療法を試しても結果に繋がらないのはこういった意識のエネルギーにブロックがあるためだと私は理解しています。意識のエネルギーはとても強力なのです。何しろすべてを創っているおおもとです。

食べ物や健康法の良い影響は、意識の浄化が進むにつれて徐々に効果が現れるようになりました。内面が浄化されるとそれに伴い波長の会う人や食べ物、健康法や治療法などを引き寄せるようになり、その内容が自然に移行していくことにも抵抗を感じなくて済むようになりました。ものごとは絶対的ではなく相対的です。

幼少期、愛を与えてくれ愛とはなにかを体感として教えてくれるのが、親という存在です。親が自分自身の中にこの毒を抱えていれば当然、子供に与えることに何かしらの制限ができます。しかしこの毒は人間誰もが持っているものですので完璧にクリーンな人など存在していないと言えるでしょう。また、このように言うと、与える側の問題が取りざたされてしまいますが、本当に重要なのはいつでも受け取る側の問題なのです。

子供は誰もが、まずは親から愛を受け取ることが仕事です。ですが与えられたものをすべてじょうずに受け取れるはずがありません。しかしながら愛からも、愛の欠如からも人間は成長します。そのレッスンのすべてが、人間に与えたれた人間らしく生きることへのテーマであり贈り物です。

学ぶとは、賢くなるためでなく、愛という面においてより崇高な存在へとなっていくためです。霊的成長というのがそれであり、人間が霊的(スピリチュアル)な存在であるということの意味です。

Favorite Things

みなさんこんにちは。
人生できる限り正直にあるがままに生きたいので、できるだけ遠慮なくぶっちゃけて書いていきたいと日々思う私です。わりと控えめで臆病なので色々なことに気を回してしまってわりと見えない制限を自分で加えていることによく気づきます。たかが私の個人のブログなのですが。

うちはテレビを見ないのですが、プロジェクターがあってそれで家の壁に映画を上映して鑑賞しています。私は元々映画好きです。私の母は結婚前、あの時代に週に6本見ていたと言っていました。父は職業柄家ではいつも真剣に映画やドラマを見て、そして文句を言ったり本気で怒ったり、感心したり、子どもの頃から家の中で批評を聞かされて育ちました。

よく思い出すのが山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」をテレビで見ていた時に父が「しかし桃井かおりって女優はうまいな」と言ってどこがどんなふうにすごいかという話を私にしてくれたことです。その時父は桃井さんの「ねえそれじゃ、夕張まで行かない?!」というセリフを例にとって解説していました。こういうことを詳細に覚えているところなど(妹もそうだと思うけど)本当におかしなことだと思いますが、こんな感じで私の役者の血は大人になるまでにどんどん熟していたわけです。

私はすでに桃井ファンだったので、自分の価値観が認められたように嬉しくて内心うわぁという気持ちでした。父は新劇出身の、スタニスラフスキー・システムの申し子のようなくそ真面目な役者さんだった(と私は思っていた)ので、そんな父が桃井さんの変則技に心底感心しているのを見て目からウロコのような嬉しい気持ちでした。

しかしいつもこんなだったわけではなく、父がテレビを見ている時は私たち子どもは音を立てたり喋ったりしてはいけないルールがあり、子供らしく騒いだりすることは許されず、もし父の気に障った時は力石徹のあの声で凄まれたりして本当に怖かったものです。力石徹のあの声、リアルに怖いですよ。父は常に本気ですから(笑)

少し前に私の演劇専攻時代の先輩であり同級生である(留年して同級生になったわけですが)Sさんがうちに来てくれて、ナカムラミオ(当時の私)とはどんなやつだったかということを真剣に論じてくださいました。すごく真剣で鋭かったのでもう私の半生を統括してもらったような面白さがありました。その中で、なぜ大学生の当時からあんなにも自分の世界が確立されていたのか、という点を論じられた時に振り返ったのは、やはり父のあの芸に対する真剣さ、芸(表現)は自分そのもの、というあの感じが自分にも当たり前のように身についていたのだということを思い出します。

仕事のことを一切家に持ち込まないお父さんも世の中には多いと思いますが、我が家は全部持ち込む派で、お陰で、声優界の大御所の皆さんのお名前はすべて知っていましたし、どんなことをどんなふうに発言なさったかまでかぎかっこ付きのセリフのようにうちで再現されていました。母はいつも「聞きたくない」と言っていましたが、とにかく父は全部しゃべらないと気が済まない人でした。

よく、芸事は習うのではなく盗むものだといいますが、それは本当だと思います。師匠の背中を見ると良くも悪くも色々なことがわかります。私は子どもの頃から何らかの芸事をする人を目指していたので、その盗む芸はその頃から始まっていたと思います。Sさんにそういうことも話ましたが、それを自覚している事自体が異常だと言われました。例えば小学生の頃から泣いている時に鏡を見て確認したり、マンガや本、テレビのあらゆるセリフを自分だったらどう言うかというのは常に練習していました。すべてのそういうものは練習台だと思っていました。そして自分の方が絶対いい感じに言える、といつも思っていました。

そういう中で、衝撃的に現れたお手本は大竹しのぶさんや桃井かおりさんでした。他にも当時はすてきな女優さんがたくさん活躍していましたし、テレビドラマも本気で良い物がたくさんありました。最近では満島ひかりさんという沖縄出身の女優さんが「刺すような役者でいたいと思います」と発言なさっていましたがあの頃は刺すような女優さんがたくさんいました。そういうのに刺されることは喜びでした。他にもショーケンさんや松田優作さんや原田芳雄さんや石橋蓮二さんや刺す役者さんはたくさんいて、もっと、もっと、もっと本当のことはないか、もっとリアルな表現はないか、もっと刺さる表現はないかと探すことに必死な人とその人達を活かせる飢えた監督さん演出家さんもたくさんいたと思います。

今はいないわけではないのでしょうが、もうなんというか、そんなものを求めてないのが世の中なのだろうと思います。

近年はショーケンさんもかっこ悪くなった、ヤキが回ったと思われているかもしれないですが、「ショーケン」という本を読むとショーケンさんがどれだけすごい人だったかということがよくわかります。桃井さんが[ショーケンさんに育てられた役者は多い」とおっしゃっていますが、その彼の「見ている」目は本当にすごいなと思います。あれは、愛です。近くにいたら、愛されていると感じてしまうだろうなと思います。彼らのような役者さんが出ている作品て、役者のパワーがすごすぎて、だいたいストーリーとかあまり頭に入ってきません。一挙一動が面白すぎて、頭でストーリーを追いかけることを忘れてしまいます。そしてその感触がじかに潜在意識に刷り込まれてしまうので、シーンや言葉やトーンがそのままある感覚として記憶されていくのです。そういう作品は私たちの意識を変える力を持ちます。演劇も映画も、そういうものがすごいものだと私は思っています。

以前にも書きましたが、高校生の時に、演劇を目指すと決めた私を父が仲間の芝居に連れて行ってくれました。津嘉山正種さんがいた青年座やいろいろ。その時に劇場の客席の重い扉を開きながら「美緒、こうやって劇場に入る前と出てきたあとでは、その人の人生は少しだけ違っているんだよ。それが演劇なんだ。」と言いました。私は今でも芸術とはそういうものなのだと思っています。だから、潜在意識にまで入り込んで、リアルな夢のように私たちの記憶を塗り替えたり、想像力をかきたてたり、人生観に色彩を加えたり、そういう作品が、本物だというふうに信じています。

そしてその作品の多くは娯楽です。その娯楽の中で私たちが培えるものといったら「想像力」だと思うのです。想像力は思いやりとも言えます。思いやりはある種の愛の表現です。

演劇の目的は「浄化」にあると、私は大学の(ダサマの演劇史の)授業で教わりました。神の視線からみた人間界のエゴのドラマに自己意識を同化させて心を開いてそれを観ることで、私たちは自己の内側にあるなんらかの「思い」に気づくことができます。それを実際に実生活の中で行わなくてもその登場人物に寄り添うことで、その思いを感じきり、そして乗り越えたり卒業したりすることができるわけです。実体験に叶うものはないという人がいますが、私は想像力に叶うものはないのではないかと思っています。人間の脳は、リアルに想像したことと実際に体験したことの区別がつかないという特性があります。それを利用したのがヒプノセラピーなわけですが、身体はロボットのように感じたことに反応します。ですから私たちはなにを感じるか、なにを信じるかということが実際どうであるかと同じように重要なわけです。

私たちは想像する生き物です。その想像力を破壊にも創造にも、友愛にも保身にも使うことができます。

苦しい時代になってきたので、真のいい作品が世に必要とされる時代が来るかもしれません。残念ですが、往々にして世の中はそういうものです。そうならないうちに私たちは自らの叡智を養いさらなる発展にエネルギーを使いたいのですが、なかなかそうはなりません。生きることが楽な時代には私たちは心を甘やかし堕落するもののようです。それでも、内側に愛と叡智を蓄えながら養いながら、私たちは少しずつ、後退もしながら前身することでしょう。今日も生きていきます。

社会科と意識の進化

私は今になっても右翼と左翼の明確な定義がよくわかりません。先日もそれでググって調べていました。脱原発は左翼だ、というようなことを公人が言っていたりして、私も脱原発賛成なので左翼なのかなーとか、政治家の発言を聞いていると、まともだなーと思うのが共産党だったりして、私も共産主義者なのかしら、とか、一人で突っ込んだりしています。でも強いて言えば私は自由と平和が好きです。既存の言われているものではなく、より本質的なそれ、を志すものです。

右と左は根っこは一緒、という意見もあります。左翼とは正義感がやたら強いバカ、と定義している人がいて笑いました。右翼は自国の伝統や歴史に誇りを持っている人、とか軍事国家主義とか愛国者とか・・・。元公安の菅沼さんという人がおっしゃるには右翼の運動しているあの大きな音を出す車は暴力団の資金稼ぎで、その内部は在日朝鮮人や被差別部落出身の人が多いとのことで、いわゆる右、という思想と一般に見かける右、また政治におけるそれ、は実態が一つではないようです。そしてどうやら一方が他方の悪口を言う時に使う言葉でもあるようです。だから絶対的な意味も実態も本当はないのかもしれません。

311が起こり原発の問題は潜在的に在る社会の構造と歪みと汚染をあぶりだし続けているように思います。311がきっかけで意識の内面に目覚め始めたという人は実際にとても多く、私のところへみえる方からもよく伺います。結局のところ、この世は菌の世界と似ていてこの菌バランスによって世相が形作られているように思います。ただしそれは考えによってではなく、内面のエネルギーによります。考えていることというのは潜在意識の100万分の1と言いますがその通りで、潜在意識にどういう信念を保持しているか、その保持している信念のエネルギー(振動)で全体=集合意識の様相が決まります。決まりますといってもこれはとどまることなく変化し続けていますが。

人間はうにゃうにゃと変化し続ける流れに流されるようでいて、その流れそのものを作るファクターにもなっているわけです。そう考えると、社会を変えたいのであればやはり自分の意識が変わること、具体的には広がることが重要だと思います。何かを否定し別の何かになるというイメージより、より広がる、より高いところから全体を見渡し、決意すること、意図することで、要は「どんな思いを信じるか」で全体は変化していくはずです。

私がよく、自分を幸せにすることが一番大事、というのはこのことです。私で例えるなら、私は以前心のなかに想念がいっぱいに詰まっていた時には、願いや思いや意志や意図はことごとく実を結びませんでした。祈りというのはなんと虚しく踏みにじられるものだろうと思っていました。何度か書いたことがありますが、神をも呪う気持ちがありました。それが今ではこんな人になってしまいました。(笑)この差はなんでしょう。

要は自己意識=潜在意識のお掃除をせっせとした結果です。人間の自己意識にはものすごい思い込みが詰まっています。例を挙げるとキリがないほどですが、例えば、AさんがBさんに「絵がうまくてすごいね」と言うと隣にいたCさんは自分の悪口を言われたように感じる、というような感じです。誰もCさんを悪くなど言っていないのですがCさんは勝手に気分を害したり落ち込んだり傷ついたりしています。CさんがAさんに好意を持っていたり高く評価していたりまたBさんに元々少しライバル意識を持っていたりすればそういう思いは強くCさんを揺さぶったり苦しめたりします。この時Cさんの心の奥には、自己評価に対する思い込みがあります。自分で自分の価値を認めることが難しいので誰かの評価を必要としています。また、好きな人に愛されたいと願うことは普通のことですが、好きな人に高く評価されないと愛を得られない、という信念もあるかもしれません。これは幼少期にお母さんとの関係の中で作らる反応のパターンであったりもします。お母さんに評価されないと愛を得られない。お母さんの愛を得ないと自分には存在価値がなくなってしまう、という恐れを子どもは生存の本能と愛情欲求の双方の動機から強く信じる傾向があります。そういった信念は問い直されることなく人間の潜在意識の中で生き続けて別の人間関係に投影されていきます。

今のは思いつきで書いた例ですが、心はあらゆる場面で自己評価、存在価値への思い(込み)と照らし合わせながら反応し続けています。ですから、個々の価値観というものは白か黒かで分けることのできないものです。ほぼ、愛情欲求と自己評価と生存本能の感覚的な記憶からくる反応なのです。

例えば私の傾向を言えば、きれいなもの、美しい言葉、またシンプルな正しさというものが好きです。これは、これだけとれば美点のように見えます。しかしその奥の動機を見ると、ここなら安全で安心だというエゴの傾向も含みます。不安を埋めるためにはきれいで正しいものを求めるという傾向があります。ですからとてもごもっともなことを一生懸命に主張している間にとんでもない罠にハマっている、というようなことは起こり得ることです。こういう傾向は、今の社会問題を解くにあたってとても注意しなければならない部分だと改めて感じています。このように何事もある傾向には両極や多面的な可能性が含まれるものであって、それ自体に良し悪しはないのです。

そこで、この世はどうせこういうものだ。だから欲望のままに生きようとそれを信じる人もいるかもしれませんし、またそれでももがきなからがんばって生きようと思う人もいるかもしれない。できるだけ波風立てずに、とか、自分を取り囲んでいるごく狭い範囲に視界をフォーカスしてそれに対応し、あとは起こったことにだけ対処しようというやり方もあると思います。どれもごもっともです。そしてそのどの方式を選んだとしても結果は大差ないのかもしれません。

そこで、です。では、なぜそうしてまで人間は生きるのだろう、という問いが意識の中に浮かんではこないでしょうか。

私は人生の旅というのは本当はそこから始まるのではないかと思うのです。人間が人間たる所以はなんだろう、という問いです。スピリチュアルの問いかけというのはここからしか生まれてきません。ですから、スピリチュアルというのはライフスタイルや生き方の選択肢ですらないのかもしれません。それは外側を見て考えているだけでも旺盛な生命力にまかせて生きているだけでも決して出会うことのない根源的な問いかけに耳を傾けることです。その問いかけの答えを探し求め、みつけ、そしてそれを手放し、生に没頭し、また気づき、実践し、考察し、また手放す。こうしていると全体は熟成し形を成し、またその形を意識が超えていき、形は破壊される。こういうふうにしか人間宇宙は進化しないのかもしれません。ですが、この体験をするとしないでは世界が違います。また小さな一つの選択に、真実の愛を持って行えるかどうかも違ってきます。

私はある頃から愛という言葉を率直に使うようになりましたが、愛とエゴという言葉は本当に一般用語として一般通念として使うことが難しい言葉です。エゴに凝り固まったあの人、という言葉は同時にエゴに凝り固まった自分を指さします。でもそれは悪とも利己主義のこととも違います。あの人が見えない時、私たちは自己を見失っています。ただ、そういう視点に立っているだけです。見えなくしているものの後ろに自分が隠れているだけです。

私たちが意識しようがしまいが私たちはスピリチュアルな存在ですし、神から愛され生かされています。ですが、それを意識しないうちは私たちはそう生きるしかありません。そしてその人が作る世界はそれです。その気づきがいつどのようにして訪れるのかも自分で気づくしかないことです。私たちはそういう意味で自由です。しかしその自由というのは不自由さを選ぶ自由という意味です。

意識すること。意識する自己を意識し、意識している意識を意識し、その意識である自己を意識すること。意識の拡大というのはこのようにしてなされていきます。私たちの意識が気づきによって拡大していくことが進化であり、社会の進化というものも結局はその進化を映し出す幻想にすぎません。拡大した意識はどこまでも、「それをも愛する」のだと私は思います。

潜在意識というのはたとえばこういうものです

昨夜の渾身の思いでのfacebookへのつぶやきですが、大事なことですので再度ここへかかせていただきます。文体がいつもと違うのはつぶやきだから(笑)

♥♡♥♡♥以下つぶやき♥♡♥♡♥

毎日選挙のことでうちなーのおばあとチャランケしてくるうちのだんなさん。(※チャランケとは…参議院議員比例区候補、三宅洋平の映像もしくはこんなサイトをご参照ください。)

確かに平和のためにここまで来た。戦争を勉強するためにここに来た気がしている。

普段穏やかで優しいおばあの癒されない痛みと怒り。あの、戦争の痛みは、体験しないとわからない。だから体験してみればいい、という。その悲しみを、私たちは愛でわからなきゃいけない。だって、それが人間だから。みんながどん底をわかるためにどん底を作り続けるやり方はもう終えよう。私たちのそれが使命。

「あんたは得するのか」「いいえ、みんなが幸せになってほしいだけ。生意気言ってすみません」「いや、そういうことじゃない」・・・

いつもおこりんぼのおばあが「いい話をありがとうございます」と言って缶ジュースをいつもより余計にくれた。

戦争だけは止めたいと選挙に行きたいけど寝たきりのおばあ、車椅子のおじい。

みんな戦争を体験している。どん底の地獄を見てる。そのことを簡単に、戦争はなくならない、なんて言わないで。なくそう。やめよう。やめると決めよう。それができるのが人間だ。

みんな、許すのに必死だ。許せない十字架を背負う人の、その重荷を少しでも分けてもらって私はかたづけを手伝いたい。なのにもう一度戦争なんて。簡単に譲らないで。そんな簡単なことじゃない。人が人のいのちを奪うなんて。その傷が全く癒えないのに、その傷は私たちの意識の中に引き継がれているのに、それを見ないふり感じないふりはもうやめよう。

私のおじいちゃんのからだも、私の暮らす近くのどこかでこの島の土になってる。おじいちゃんは陸軍で島の人は嫌っている。でも、おじいちゃんは本当はアーティストだった。美しいもの、表現、人間、言葉。好きで兵隊になったわけじゃない。私は感じる。おじいちゃんはきっとこの島の優しい女の子に優しくされたんじゃないかって。母も妹もひめゆりの塔で手を合わせた時なぜか同じこと思ったって。とってもお世話になって、本当にありがとう、って、なぜか少し嬉しい気持ちで泣きながらそう言った。

沖縄へ来る前は心配だった。おじいちゃんもすさんだ心で亡くなっていったんだろうか。でも海軍壕へ行った時、私はもしそうでもおじいちゃんを赦せると思った。誰だってこんなにも怖い目に合ったら、おかしくなって当然だ。だから私は赦せるって。海軍壕の守衛さんも怒っていた。海軍は立派だった。陸軍は人間じゃなかった。

でもしばらくったって、やっぱりおじいちゃんは最後まで人間らしく、死んでいったんじゃないかと思った。ただ、そうわかった。沖縄の優しい女の子の優しい気持ちをちゃんと受け取って死んでいった。なぜならおじいちゃんも優しい人だったから。33歳という若さで4名の子どもと若く美しい妻、祖母を残して。

人間らしい心のまま地獄を味わうなんてどれほど辛かったかと思う。この島では心を無くす訓練も受けないまま、家族みんなで戦争に参加させられ島民の4人に1人は亡くなった。家族や親戚のうちの誰かが痛ましく亡くなっている。その思いをどうやって乗り越え、あるいは乗り越えることもできずに胸に抱えて、みんなが生きているか。

私の母はそうして父親を亡くし、いろいろなものを諦めて、そして求めて生きてきた。何が足りないのかもよくわからないまま。誰かの利益、誰かの得のために誰かがそんな思いをするなんて、絶対にいけない。得した人も等しく背負う十字架だ。人間はすばらしい。そう思えるような人間を生きよう。

Don’t give up to stop the fight.

ゴールはあるのか。

47年生きてきて、特におとなになってからは長いこと、社会に対して怒っていたと思う。

私は正義感が強く、繊細で感受性が強く、強気で臆病、誇り高くてひどく自分を卑下していて、短気だけど恐ろしく気が長く(待つことがいいとわかれば永遠にでも待てるような)せっかちでのろま。つまり両極的な性質がいつも私の中にあり、それがどのように出てくるのかは自分でも掴めない。周りからはやんやと言われ、それに傷つき、悲しみ、怒り、孤独を感じ、でも前に進もうとする。自分のことで精一杯なのに、周りのことが気になる。自分のことも解決できていないのに、周囲を解決したい。ごまかせない。嘘がつけない。でも本当のこともなかなか言えない。愛されたいし愛しているつもりなのに伝わらない。自分が好きだけど恐ろしく呪っている。失敗すれば自分を責めるばかり。人間が好きだけど、とてもこわい。嫌われたり非難されたくない。ああはなりたくない。これは嫌い。なりたくないものが多すぎる。でもどうなりたいかははっきりわからない。一応の目安はあるがどうやってなったらいいかはわからない。お手本は有名人ばかり。タレントからイエス・キリストまで。真似てみると壁。自分のこれらの気質が噴出する。苦しむ。何かを探しているがどこのあるのかさえわかならい。理想が高すぎるのか、根本的に自分が存在する事自体が間違っているのか、それともすでに狂っているのか、わからない。

ある頃までの私の内面はこんな感じ。まだまだあるけどきりがないほど。オエッてなります?なったらごめんなさい。でももしそうなら、そしてそれが嫌だったら、それはかえられることを知っておいてほしい。道はあるってことを。私はもうオエってならない。人間だなー、全部。って思う。微笑みを持って見ることができる。愛を持って。そうじゃなければセラピストは続かないと思う。資格がないのではなくて、単純にきつくて続けられない。幸せでいられない。だから人を幸せにできない。

内面と向き合うというのは、具体的に言えばこういう自分の心の声をちゃんと聞くこと。探求するというのはそれをもっと掘り下げてみること。この感覚の奥にある気持ちは?その時自分のハートはどうなってる?体は?どこがどんなふうによじれてる?ひらいてる?かたまってる?感情は?じゃあどうなるといい?どうなりたい?それに邪魔なのはどれ?・・・でも確かにこれは一人でするのは難しい。自分が何をしているのか?自分の内部で。それは確かにいろいろな訓練や識別する力を身に着けていないと混乱する。だから私がいるんだと思っている。果てしない混乱を整頓し、クリアにするのに成功した体験者。しかも簡単にではなく途方も無い手間暇かけ、たくさんの失敗と躓きから何度も何度も立ち上がりながら。

私の時代には今みたいに情報がないから、頼れるのは古本屋さんだけ。新刊は立ち読みして真剣に吟味して狙って、お金をためてから買う。当時スピリチュアルのワークって日本でも特定のところしかやっていなかったし(その中の一つで後に働いたけれど)そういうところは料金もそれなりで、当時の自分には無理だった。私のところにいらしてくださる方も、本を読んだりセミナーへ行ったりして勉強している人がたくさんいる。出来る限り自分でがんばる人たち。私がそうだったから、私を選んでくれる人はそういう人が多い。波長の法則。

ただその時に見落としてしまいがちなのが、本から知識を得てしまうこと。理解したらできた気になってしまうこと。そうではなくて、スピリチュアルのワークは実践しなければ意味がない。機能しない。自分に法則なり原理なり(その根本原理は愛です)を取り入れて自分に付いている枠(これが思い込みというエネルギーでできています。信念とも表現されます。愛にそぐわない価値観、世界観と言ってもいいです。)を外していかなくてはならない。潜在意識から変えるというのはそういうことで、別人になるわけでもコントロールするわけでもなく、ただ習慣化している心の筋肉をほぐし、当たり前になっていた癖に気づいてあげてそれをもういらないねって自分に教えてあげる。そうすると、心の反応の仕方自体が変わってしまう。もっと自由に、柔軟に、あるがままになる。余分な力みがとれて余分な考えをカットできて、とてもエコで優しくなる。すると本来の私たちの基質である愛に近づくことになる。

こうなると冒頭に書いたきつい内面の相は変わります。それは愛とは共存できない性質のものなので、自己意識から去るしかなくなるのです。たとえそれらが心に顔を出したとしても、それは真実味もパワーも持たないので、私はすぐに真実のほうに戻ってくることができます。

真実は人に優しい。優しい世界は真実によって創られます。真実にたどり着くには人間は幻想に惑わされずに前進する必要があります。ここまで来たらもう安心、というエリアは存在します。それはなにかを持つ持ち物によって確保されるものではなく、自分が自己を知ることによってのみ、自分と仲良くすることによってのみ、愛することによってのみみつけることができます。そのエリアで幸せに生きることを、人間は選ぶことができるのです。