ゴールはあるのか。

47年生きてきて、特におとなになってからは長いこと、社会に対して怒っていたと思う。

私は正義感が強く、繊細で感受性が強く、強気で臆病、誇り高くてひどく自分を卑下していて、短気だけど恐ろしく気が長く(待つことがいいとわかれば永遠にでも待てるような)せっかちでのろま。つまり両極的な性質がいつも私の中にあり、それがどのように出てくるのかは自分でも掴めない。周りからはやんやと言われ、それに傷つき、悲しみ、怒り、孤独を感じ、でも前に進もうとする。自分のことで精一杯なのに、周りのことが気になる。自分のことも解決できていないのに、周囲を解決したい。ごまかせない。嘘がつけない。でも本当のこともなかなか言えない。愛されたいし愛しているつもりなのに伝わらない。自分が好きだけど恐ろしく呪っている。失敗すれば自分を責めるばかり。人間が好きだけど、とてもこわい。嫌われたり非難されたくない。ああはなりたくない。これは嫌い。なりたくないものが多すぎる。でもどうなりたいかははっきりわからない。一応の目安はあるがどうやってなったらいいかはわからない。お手本は有名人ばかり。タレントからイエス・キリストまで。真似てみると壁。自分のこれらの気質が噴出する。苦しむ。何かを探しているがどこのあるのかさえわかならい。理想が高すぎるのか、根本的に自分が存在する事自体が間違っているのか、それともすでに狂っているのか、わからない。

ある頃までの私の内面はこんな感じ。まだまだあるけどきりがないほど。オエッてなります?なったらごめんなさい。でももしそうなら、そしてそれが嫌だったら、それはかえられることを知っておいてほしい。道はあるってことを。私はもうオエってならない。人間だなー、全部。って思う。微笑みを持って見ることができる。愛を持って。そうじゃなければセラピストは続かないと思う。資格がないのではなくて、単純にきつくて続けられない。幸せでいられない。だから人を幸せにできない。

内面と向き合うというのは、具体的に言えばこういう自分の心の声をちゃんと聞くこと。探求するというのはそれをもっと掘り下げてみること。この感覚の奥にある気持ちは?その時自分のハートはどうなってる?体は?どこがどんなふうによじれてる?ひらいてる?かたまってる?感情は?じゃあどうなるといい?どうなりたい?それに邪魔なのはどれ?・・・でも確かにこれは一人でするのは難しい。自分が何をしているのか?自分の内部で。それは確かにいろいろな訓練や識別する力を身に着けていないと混乱する。だから私がいるんだと思っている。果てしない混乱を整頓し、クリアにするのに成功した体験者。しかも簡単にではなく途方も無い手間暇かけ、たくさんの失敗と躓きから何度も何度も立ち上がりながら。

私の時代には今みたいに情報がないから、頼れるのは古本屋さんだけ。新刊は立ち読みして真剣に吟味して狙って、お金をためてから買う。当時スピリチュアルのワークって日本でも特定のところしかやっていなかったし(その中の一つで後に働いたけれど)そういうところは料金もそれなりで、当時の自分には無理だった。私のところにいらしてくださる方も、本を読んだりセミナーへ行ったりして勉強している人がたくさんいる。出来る限り自分でがんばる人たち。私がそうだったから、私を選んでくれる人はそういう人が多い。波長の法則。

ただその時に見落としてしまいがちなのが、本から知識を得てしまうこと。理解したらできた気になってしまうこと。そうではなくて、スピリチュアルのワークは実践しなければ意味がない。機能しない。自分に法則なり原理なり(その根本原理は愛です)を取り入れて自分に付いている枠(これが思い込みというエネルギーでできています。信念とも表現されます。愛にそぐわない価値観、世界観と言ってもいいです。)を外していかなくてはならない。潜在意識から変えるというのはそういうことで、別人になるわけでもコントロールするわけでもなく、ただ習慣化している心の筋肉をほぐし、当たり前になっていた癖に気づいてあげてそれをもういらないねって自分に教えてあげる。そうすると、心の反応の仕方自体が変わってしまう。もっと自由に、柔軟に、あるがままになる。余分な力みがとれて余分な考えをカットできて、とてもエコで優しくなる。すると本来の私たちの基質である愛に近づくことになる。

こうなると冒頭に書いたきつい内面の相は変わります。それは愛とは共存できない性質のものなので、自己意識から去るしかなくなるのです。たとえそれらが心に顔を出したとしても、それは真実味もパワーも持たないので、私はすぐに真実のほうに戻ってくることができます。

真実は人に優しい。優しい世界は真実によって創られます。真実にたどり着くには人間は幻想に惑わされずに前進する必要があります。ここまで来たらもう安心、というエリアは存在します。それはなにかを持つ持ち物によって確保されるものではなく、自分が自己を知ることによってのみ、自分と仲良くすることによってのみ、愛することによってのみみつけることができます。そのエリアで幸せに生きることを、人間は選ぶことができるのです。

人生の目的を知る

自分の人生の目的を知りたいという人は多いと思う。私もそうでした。

見つけ方です。

今、ちょっとだけ勇気出したらできることで、したほうがいいと思うことをやってみることです。ワクワクとか言いますよね。でも、そのアンテナ、皆さんあまり信用できないと思いませんか。ワクワクは絶対ではありません。それは欲望だから、いろんな次元に反応します。エゴに飲まれ、振り回されたり混乱することもよくよくあり得ます。

でも、「本当はしたほうがいいけれど、ちょっと抵抗があること」の場合、抵抗のほうがエゴです。大きな理想を心に掲げても、抵抗があまりに大きければそれを実践するのは困難なので、結局できない自分を裁いて終わってしまいます。自分への攻撃ですね。けれど抵抗をしっかり捉えて感じきることができると、自己意識の浄化ができ、内面のヒーリング(霊的回癒)が進みます。

更に、「ちょっと勇気を出せば実現可能なこと」にチャレンジすれば、自己の枠を広げることになり自分を覆っていたエゴの枠を突破できます。突破されれば心は自己への信頼を作ります。そこには本質からの光が流れこんできます。できたことには感動と感謝が生まれます。これがエネルギーです。コツは、とても小さなことで自己への信頼の実績を築くことです。それで内面のエネルギーというものが発動し、今を構築し、また次のへの橋渡しをしてくれます。

できれば単調な行動というよりも内面的な動機の方に意識を向けてください。良いことをした、という思いではなく、尊いこと、優しいこと、愛あることと「感じられること」が大事です。エネルギーは見えないパワーです。それは人間の場合、心が作り出します。

この積み重ねはやってみると美しく楽しいものです。

抵抗が大きすぎて手に負えない時はナビゲーター(セラピスト・ヒーラー)に手伝ってもらうほうがうんとスムーズだと思います。急いでない、と思う人もいるでしょうが、スムーズな方がいのちにもちきゅうにも魂にとってもエコではあります。私達は自分の内面、心、エネルギーに取り組む時、自身と仲間と世界を同時に助けています。ですから、一人のこととして放って置かないほうが全てに優しいと言えるのです。

その先の幸せにどんどん向かっていいのです。それが、全体への貢献になります。

痛みを持ったまま生きるというのは、もちろん悪ではありませんが、毒を散らしながら生活することと似ています。環境も、家族も、コミュニティーもそれを共有し、混乱して更に防御の壁を厚くしていきます。だんだんとこじれます。こじれていくことで固まって(波動が荒くなって)苦しみが大きくなり、問題が大きくなって人は初めて問題と向き合わざるをえなくなりますが、その時には向き合い方を知らず、またその厚くなった防護壁の奥にある心を感じることは容易ではなくなっています。「自分がなんなのか、何を感じているのか、何を求めているのか」も実感するのが難しくなってしまいます。そうなると「自分の人生の目的がわからない」状態になってしまいます。

いつも自分の心を感じること、自分と仲良くすること。当たり前すぎでおとなになると忘れてしまうことです。でも多くの人がこの、自分と向き合うということをなかなかしていません。もしこの、自分と向き合うことをそれぞれがやってみると、世界が実際に変わるのは簡単です。

ご自身の中の痛みに向き合い取り組みをするのは、愛という行為です。愛を実践するとき、投影である世界は平和を映しだしてくれます。

優しさと強さと

私はとても感受性の強い両親のもとに生まれ、育てられたと思っている。父は役者、声優で、母も女優、モデル、ダンサーで生計を立てており、プロフェッショナルな表現者だった。もう感受性のかたまりと言っていい。

子供の頃には家庭内は世界でありグローバルスタンダードだからわからなかったけれど、とてもユニークに、ある意味自由な思想のもとに私達きょうだいは育てられた。人がどうであろうと、どう言おうと、自分で考え自分で責任を持ち、自分で後悔しないように生きなさい、というのが基本姿勢だったと思う。私は長女でもあり、いい子で賢くて優しい子だったと思うが、独立心も強く、おとなになるまでの間にひと通りの壁にぶつかって生きた。

10歳になった時には、自分を大と人認定した。年が二桁になったのを期に、大人として生きようと決めた。大人として生きるというのはお金を稼ぐとか選挙に行くとかお酒を飲むということではなくて、「人生を意識的に生きる」ということだと認識した。出来る限り意識して、すべてを選択する生き方。

手始めに始めたのは、とにかく感情を全部感じきってみよう、という試みだった。感じたことは流さないで感じきってみる、表現しきってみる、というのが課題だった。それで、10歳から15歳はこれをやりきった。12歳のころなんか、全開だった私にぶっ叩かれたり泣かれたり怒られたりいろいろした周囲の友達、いやだった子もいっぱいいただろうに、でも去年、33年ぶりのクラス会であの時はありがとう、とか、大好きだったよ、とか素晴らしい子だったとみんなに言ってもらえて私は、私のインナーチャイルドは、完璧に癒され、そしてハイヤーセルフと統合されたように思う。

15歳の時に、同級生で頭が抜群に良くおとなびた、教授というあだ名の女の子ととても仲良くなった。教授、で多分狛江2中の同窓生ならわかるだろうな。その子がある日、真剣な面持ちで「オミ(私のあだ名)、オミはもう少し、感じていることを言葉にして説明しなくてはいけないよ。みんなにわかるように。それは優しさなんだよ」と言った。私は、なるほど、それもそうだ、と深く納得して、そうすることにした。これは画期的なことだ。自分が何をどう感じ、そしてそれをどう表現したいか、ということを認識できないとそれはできない。しかしその作業にのめり込むと、今度は極度な分析癖というものが自分についた。常に監視役が自分にくっついているので、解放するのがとても難しくなった。これには解析力とともにものすごい忍耐力も必要だった。自分のことも世界のことも、私はあまりに知らなすぎた。

ただわかっていたのは、自分は優しい人間になりたい、ということ。そして優しくあるためには、強くなくてはならない、ということだった。この思いをはっきり意識したのは13歳の時だったと思う。その思いは紆余曲折を経て今も変わっていない。

母はよく、優しい人が結局苦しむのよ、と言った。その通りだと思う。母も父も、とても優しい人だと思う。共感力がとても強く、敏感で、人間的な洞察や思いやりや愛にあふれていると思う。でも、人生の途上では本当にどうなるのかわからないほど、人間としての道を踏み外して転落してしまうのではと感じられるほど、苦しみの中にいた。私はそこから飛び散る火の粉や刺を全身に食らいながらおとなになった。

その中で学んだのは、優しい人が苦しみに中にいるときどれだけの混乱を引き起こすか、ということだった。彼らはすべてを地獄のストーリーに変えてしまうほどの想像力を持つ。そこから目覚めるのはたやすいことではない。そのストーリーから目覚めるのに必要なのは強さなのだ、と思った。こころとからだがじかに感じる痛みに対して「これは幻想だ。真実ではない」と言えるには強さ、つまり忍耐、冷徹、受容性、理解力など、外界を察知しつつもそれに飲まれない真実であるちからが必要だと悟った。痛みに対して目も心も開きながらなお、それを超えようとするちからが。

私の思う強さというのはそういうものだ。その強さはどのように育つのか、それは、ただ、愛から来る。愛したいと願うとき、私たちは強さを自己の中から見つけ出す。

優しさも強さも相対的なものだ。そこに真理はなくそれは暫定的なものだ。ただ愛だけがすべての相対的な要素に息を吹き込む。私たちはその息吹によって生かされている。

自分を掘る

自己の問題にぶつかる。
ちゃんと向き合う。
掘り下げる。
癒す。
視野が広がる
世界が広がる。
波動が上がる。
次元が上がる。
自分の問題は、共有できる人間の問題だと気づく。
個の問題は共通の課題。
自分に取り組んで、乗り越えると、他者を癒せる。癒している。
このプロセスなしに、ワンネスは想像できない。
この実感なしにワンネスは理解できない。

私たちは自己を癒すと、真っ白になるわけではない。
完全無欠になるために癒すのではない。
ただ、他者と隔てていたものに意味がなかったとわかる。
自己の痛みと他者の痛みは同じ。
自己の喜びと他者の喜びは同じだったとわかるだけ。
そもそも持っていたものをあると認めるだけ。
それが気づき。

だから、そもそもあるものに気づき続け、癒すだけになる。
癒されるほどに自分が持っているエゴに気づけるようになる。
つっぱねようと、目をそむけていたちからをただはずす。
すると、そこにある。
どんどん出てくる。
気づいて、癒す。
他人のも自分のもない。
どれも大差ない。同じもの。
だから、比べてもしょうがない。意味がない。
比べる暇があったら癒す。
癒すは、解体。癒すは手放し。癒すは赦し。自分よりも大きく力ある、大きな愛に、癒してもらう。
それは、人間でも、地上のなにかでもない。
それを超えた、意識。意識を超えた波動。波動なき、光。
どこに行って何を楽しんでもいいけれど、それは神に与えられた贈り物だと受け取って。
本当の仕事は、自分の中にいること。
自分の中を、観ること。
自分の心を感じること。実感すること。

そこにすべてがある。
他者との関係もそこにある。
もし欲しいのなら、なすべきものもそこにみつかる。
本当はなすべきものはないけれど、欲しいのならみつかる。

それを掘る。掘り下げると、人生は心底豊かだ。
人間は果てしなくおもしろい。
地獄から天国までがそこにある。
どれを選ぶのも自分。

もし、あなたが天国を望むのであれば、ひたすらにここに戻る練習をすることをおすすめする。
やがて、選ぶことができるとわかる。

でもまずはあなたの心を、平安というところまで癒さなくてはならない。
少なくとも平安を知る心になるまでは。
まずそこまで行くと次の世界が見えてくる。
他者を癒すとか世界を変えるとか。
でも、その方法は、やはり同じ。
自分を癒す。
つまり、足元を掘るのだ。
掘るところは永遠に同じだ。
世界の入り口は自分の足元にしかない。
みんな自分探しと言って、その入り口を探し回っている。
世界中に足を伸ばし、情報を食いつぶしている。
そしていっこうに掘ろうとはしない。掘り下げない。
どこかにいい感じの入り口があって、あなたの使命です、とか、あなたの天職です、とか、運命です、と言われるのを待っている。
でもそんなものは、すべて幻想。それは、まやかし。迷妄。幻想。悪魔の誘惑。欲望の世界のできごと。

足元を掘り下げよ。
自分の心と向き合う。
醜さ、浅ましさ、弱さ、それでいい。
それを見つけて、そして、自分を痛めつけるのをやめるのだ。
それを、愛という熱で、光で、包み込め。溶かしきれ。焼き尽くせ。
抱きしめて、それを愛しいと言うのだ。
それから神に、これを愛させてください、と願って、そして安心して眠るのだ。

これを繰り返すうちに、人間すべてが、同じことで苦しんでいるとわかる。
自分の中の醜さ、浅ましさ、弱さを、人間は恐れている。
劣っていることを恐れ、向上を望むが、向上したところで恐れから自由にはなれない。
これから自由になるにはそれを愛するしかない。

人間のあらゆる恐れを愛でることができる人がブッダでありキリストだ。
だからそれを赦すことができる。
あらゆる醜さ、浅ましさ、弱さを赦すのが神だ。

あなたがもっと幸せになりたいのなら、神をまねるといい。
ブッダに、キリストに、あらゆるマスターと天使に頼るといい。
あなたに近づけるように、私を導いてください、と。
必要なのはただそれだけだ。
それで、なかなか簡単に立派になれない自分に出会い続けるといい。
立派でない自分を愛する練習を積むといい。
それが一番の修行だ。
神にもっとも早く近づく修行だ。

そうしていると、だんだんとあなたは、世界を愛することができるようになる。
本当に世界を愛する人は、世界の醜さと浅ましさと弱さをなめつくす。
そして、哀れみ、悲しみ、そして包み込む。

人間の悲しさを、無慈悲を、無力さを、愛することができたら、あなたの次元は上昇する。
あなたの内に、神がいるのをあなたは知ることができるだろう。

優しい人のための自分を愛する方法

よく戦争を終わらせるには心の内面の戦いを終わらせることだなんて言います。

温厚で優しい日本人はだから多分、怒っちゃいけない、すぐに反応しちゃいけない、と思うのだと思います。

反対を唱えることも、デモで訴えるのも、議論するのにもなんだか罪悪感があるし、いい反応が返ってこなかったとき傷つくし、そんな気持ちを感じるくらいなら黙ってよう、がまんしよう、という反応をする人は多いのではないでしょうか。

ざっくり例えてすみませんが、例えばアメリカ人だったら多分黙ってがまんすることのほうが無理がかかるから、言い返すしけんかする。だからアメリカ産のスピリチュアルは概ねまず「怒りを抑える」とこを教えている。

でもこれ、内面で行っていることは同じです。要は不満のエネルギーをどこにどのように出しているかの違いです。

黙ってがまんしているエネルギーは必ずなにかを攻撃しています。相手は自分自身だったり、自分よりも小さい弱いものだったり、またはその攻撃性をごまかすために食欲、性欲、出世欲、物欲などを満たそうとするとか、建設的なやり方だと、燃焼するためにスポーツに仕事に熱中するとか、別の楽しいことに意識をそらすとか、芸術などの創造に活かすとか・・・

この中でもとても発覚しづらいのが、自分自身を攻撃することです。これは一見誰にも迷惑をかけないし、問題が表面化するのには長い時間がかかることもある。でも、とても破壊力があります。

自分を攻撃するというのは、自分を裁くこととも言い換えられます。ですからこの傾向が強い人は無意識にいつでも正しくあろうと気をつけています。自己批判の力が強いので、他者からの批判にとても敏感です。間違っていなければ批判を避けることができますからいい子いい人で清く正しくあろうとします。感情をコントロール(本当のコントロールではなく、抑えて隠す)することがうまいので、周りとは問題を起こすことは少なくむしろ周囲からは歓迎され尊敬されうらやましがられたりするのですが、自分では自分を評価できません。摩擦に弱く、またいい人を保つために他者に踏み込むことも踏み込まれることもしないように防御しているので、他者と一緒にいるととても疲れます。そしてそういう自分にも罪悪感を感じてしまったりします。さらにこの緊張が進むと和らげるためになにかに依存します。多くはできるだけ他者に迷惑のかからないもの、食べ物とか恋愛とか、買い物とか、或いは仕事とかです。

以上は優しい日本人の攻撃のパターンの一例、という感じです。

さて、この裁きなのです。
特に知的で優しい日本人は普段から戦いをあまり好まないのですが、この裁きはとても好き(行いがち)です。

裁きというのは「何かと比べて優劣の価値判断を下す」ことです。ここでまた多くの人が価値判断を手放さなくちゃ、と思って、なんでもいいよいいよ、という風に流すというか通り過ぎればいいと考えます。つまり自分の心にかけない、感じないように、という対処をしようとします。見た瞬間気に入らないものが来たときにいきなりゆるさなくちゃ、と思うわけです。でもそれは、ただ頭でゆるさなくちゃ、と思うだけであって実際にゆるすことはできません。実はもう自分にとって不利、つまり価値がないと決めているから来る前に拒絶しているだけです。価値判断を手放すどころか、価値判断し続けているわけですね。

ものごとになんでも優劣をつけることのできる人が「違いのわかる優れた人間」という見方は私たちの中に常にあります。あれが美味しい、ということがわかることが、自分の価値、というようなことです。たくさんものを知っている人は価値がある、と言い換えると、そりゃそうじゃん、となるかもしれません。あの人は権力を持っている、お金を持っている、或いは仕事ができる、とかも、本質的には同じような価値基準から来ています。つまりすべてはなにかと比べて優れているということです。

自分への攻撃をしているとき、人は常に何かと比べて自分は劣っていると自分に訴え続けいるのであり、その立場が逆転するときには他者を攻撃すします。どちらにしても平和はありません。

私にこのことを気づかせてくれたのは「鏡の法則」でした。外界は内面の鏡だと思って世界を見ると、世界は競争、優劣のレッテルでいっぱいでした。しかもそれを見て必ず嫌な気分になるのです。おえっとなったりぎゅーんと胃がつぶれる感じがしたり、もやーっとした気持ち悪い、足元が危うくなる感覚が起こるのです。これを感じるときはつまり自分の中の攻撃性、劣等感、罪悪感、無価値感がうずいているのです。いたたまれない感じがして世界を嫌になるのです。でもそれは紛れもなく自分を嫌がって否定して攻撃しているときです。自分が気に入らず、ありのままを受け入れられません。

それで私の場合はそういうもやーが出てくるたびに中身を点検してそれを解析し手放すというしらみつぶし作戦をとりました。これは時間と手間がかかり、なおかつ余計に自分が嫌になってしまうというリスクがあります。でも私にとってはすばらしい取り組みでした。本当に内なる世界の状態が世界を彩っているということがいやおうなくわかりました。今はこの仕組みがはっきりとわかり、もっと的確でシンプルな方法を身につけています。

さて、戦争を終わらせるにはどうしたらいいでしょうか。

いくら平和を願い平和平和と謳ってもかないません。世界の平和ふうな所だけにフォーカスして平和ふうなところ以外を感じなくしても平和は創れません。戦争を終わらせるには裁きを終わらせることです。比較という価値判断を捨て、新しい、ほんものの価値を指針にすることです。

このほんものの価値というのが、愛です

裁きをやめるには、気づき、赦し、手放しが必要です。この気づき、赦し、手放しというのが癒しです。癒しには感じることが必要です。感じることなしに癒しはありません。拒絶を解き、進んで感じきろうという姿勢をとるとき、私たちはなんであれ受け入れています。受け入れ感じきったとき、そこには安らぎがあり、自由があります。癒しを起こすのは神のちから、つまり愛です。ですから私たちは愛というもっとも価値あるものによって、自分を癒す必要があります。ここに真の平和があります。