真我を生きる

『人々は単純な裸の真理――――彼らの日常の、常に存在する、永遠の体験の真理を理解しません。その真理とは真我の真理なのです。

彼らは真我について聞きたいとさえ思いません。その反対に、人々は何か彼方なるもの――――天国や地獄、輪廻転生などについて熱心に知りたがります。なぜなら、彼らは神秘を愛しており、裸の真理を愛してはいないからです

それゆえ、宗教はただ真我の周辺に彼らをつれてくるだけのために、欲しいままに与えて甘やかします。あちらこちらをさ迷い歩いたあげく、結局は、他でもない真我に戻ってこなければならないのです。

ならばなぜ、今ここで真我として在ろうとはしないのでしょうか?』(ラマナ・マハルシとの対話 第1巻第2章対話145より)

この一文に激しく共感します。

この地上で真実をみつけるために私は、様々な「似て非なるもの」に試されてきたように思います。明らかな悪意ではなくやむを得ない成り行き、善行のなかの矛盾、中立に見える無関心、愛情に包まれた押し付け、正しさに支えられたすり替え、笑顔の裏の黙殺、慇懃な無礼、清らかな傲慢・・・。

無数にちりばめられた悪とすらみなされない欺きに出会ってきました。それらすべてはもちろん、気づいたら自分の中に在ったものです。そしてそれらの欺瞞は私の人生を裏切り続けました。

私は自分に裏切られないよう注意深く自分と付き合い、そして真の自己、と言うものを見つけたのだと思います。

裸の真理という叡智は、私という個を幸福にするため、存在しています。そして私という個はすべての個に通じています。おそらくその叡智以外の知恵のすべては諸刃の剣です。人を幸せにも不幸にもしうるものです。

真我を生きる、というのは私の言葉で言えば、今ここから愛するという態度を始めることです。

もしありとあらゆる手段を講じても人生が好転しないと感じている人がいるなら、その点だけを見直してみてください。愛するということだけが本当は神秘なのかもしれません。それ以外の不可思議なことというのはすべて、無知から来ているだけなのです。

未知への好奇心はもちろん、すばらしいものです。しかしその未知の混沌をさえも照らすひかりこそが、叡智であり、すべてを幸福へと導く神です。目的地は未知を開拓して到達するものではなく、そもそもそのすべてに在った大切なものへの気づきこそが私たちにとっての目的だった、ということではないでしょうか。

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原点と一歩

前回のブログ、『原点』と題しましたところ、なんとちょうど1000投稿目でした。偶然か、はたまた必然かお導きか。みなさんお付き合いいただきありがとうございます。

また先日22日は夫の39回目のお誕生日でした。彼のお誕生日ブログ、私へのプレゼントのようで嬉しいのでこちらに貼っておきます。よろしければこちらもお付き合いください。
あなたに合った治療法—誕生日

夫が39才の立派な中年の領域に突入するとともに、今年50才の私は夫から早くも初老と呼ばれています。まあ確かに、老眼もひどくなってきたし、先日会った弟からは「わかった、ねえさん髪のボリューム減ったでしょ。うふふ、かわいそう」と温かい笑顔で指摘されました。

もし私が霊性に目覚めていなかったら本気で憂鬱になっていることでしょう。早めに肉体意識から自由になっていたことを本当にありがたく思います。そうは言ってもこの世と魂を体験するためにはとても大切な肉体です。最低限のお世話と敬意はもちろん心がけております。

昨年あたりは50才が近づくにあたって、あと20年くらいがんばれるかな、20年の間に何がどこまでできるんだろう、などと若干気負った思いがありましたが、今日あたりふと「いやいやそうじゃないよ」と気づきがやってきました。「肉体の生命力の減速とともに為せることもだんだん収束していく。それでいい」のだそうです。なんだ、つまりは今までいっぱい乗り越えたり気づいたりしてきたことが集大成化されるなんて幻想を抱いていたんだ。むしろだんだん人生がおまけになっていくんだな、と、今朝がた悟りました。

どっかまで行く必要はまったくない、とわかっているつもりでも、ついつい過去の記憶の延長で気持ちは走っていこうとしていたんだと思います。それが肉体意識の記憶なんですね。

私たちはほおっておくと肉体意識の記憶(潜在意識)が優勢になって、過去の録音テープをいつまでも再生するように今日一日を過ごしてしまいます。それは創造というよりは消費です。

人生を消費するのではなくて創造する、というのは、やりたいことを探してやる、というような欲望を達成する生き方ではなく、ただいつも気づきによって愛と真実を思い出すことなのだと思います。なぜならその本質こそが不滅のものであり、それ以外は過ぎ去るものだからです。

そう言うと愛ってなんですか、と言う問いが聞こえてきそうですが、もし本気でそう思われたらぜひ、ご自身に真剣に問いかけてみてください。そのために瞑想してみてください。その問いには必ず何かしらの返答があるはずです。その答えの主こそが、本当のあなたです。この世で最も親密にするべき友はその存在です。

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生きている間に絶対にみつけたいもの

ラマナ・マハルシは「自分を無くすこと」だ、と語る。そしてまた、「世界のことは世界に任せてあなた自身を見なさい」とも言う。

自分を無くすために、多くの人は、他人、周囲を一生懸命見ようとする。自分を忘れて人のために行う、ということをそしようとする。

それが入り口になる人もいる。でもその道を通じて必ず戻ってこなくてはならないところがある。それが真の自己、すなわち内なる神のことだ。

そこに戻ったとき、自分はなく、人もない。また自分は在り、人も在る。その背後にある神だけが実在、となる。

宇宙のすべてを神が創った、と頭で知っていても、この自分をも神が創ったとわからなければ、なにもわかったことにはならない。

この私を神がお創りになった、と日々感じて生きると、私たちはそれをいかに粗末にし、ばかにし、取るに足らないものとし、気に入っていないかがわかる。もっとこうだったら、とか、なんでこうでないのか、と思いながら生きている。

自分の細部にいたるまで、神が創り与えたと理解し、それを知り尽くす努力をすると、他人がわかるようになり、宇宙がわかるようになり、しまいには、その境目にはあまり意味がないとわかる。境目のことを気にするよりも、共有し分かち合うことでしか前進がないということがわかる。

そしてどんな場合でも、自分はその持ち場(自分自身)を通してしか世界に関与できないということもわかる。謙虚になるのだ。

私たちは往々にして、あるがままが気に入らない。自分の、或いは他者の。

どちらにしてもそれは、神の創造物が気に入らないのであり、それは捉え方も付き合い方も扱い方も理解も努力も感じ方も未熟であり不足している。

未熟で不足しているとのは前途洋々であるということだ。伸びしろが大きい。それが多分、今の地球人だと思う。

神を理解する努力をすればいい。神を理解しようとすれば人間も理解できる。

いったいどうやって、というと、神を瞑想することだ。

瞑想というと瞑想のCDを買う人が多いのだけど、そういうのってたいてい、この世しか見ずに作られているからそれなりの波動だ。選ぶなら、本当に瞑想で神に触れた人が作っているものを直覚の導きで選ぶといい。

神を見た人の言葉に触れ、その恩寵にあやかるほうがうんといいのにと私は思う。

CDを使うのはあくまで集中を助けるためであって、もし内なる神を信頼することさえ厭わないなら、いつも神の名を呼び、思い、そこから離れないようにがんばるといいと思う。

時々紹介する話しなんですが、フジ子・ヘミングさんが、演奏中なにを思っているかというと、「かみさま、かみさま、どうかまちがえませんように、たすけてください」とずっと思っているそうなんです。

世界的な才能と腕を持つピアニストが、まちがえませんように、なんてかみさまに祈りながら弾くなんて、誰が想像するでしょう。彼女の著書でそれを読んだとき、うそだ~と思ったのです。

でも今ではそれがわかるようになりました。それが真実だということが。それ以外の努力をし尽して、あとはまちがいさえしなければ、それで演奏は最高なのです。だから、祈るのはそれだけでいい。そしてその祈りを神はちゃんときいてくださる。

それからついでに書きますが、彼女は自分が突然脚光を浴びていい境遇になったのは、昔ネコをたくさん助けたからだと言っています。それも最初、???と感じましたが今ではなるほどと思います。

昔、というのは、貧乏で今日の食べ物に困るような、ジャガイモでおなかを満たすしかない苦しいときに、わずかな糧を自分よりか弱い存在に分けることを厭わなかった、ということなのです。

ですから、物理的には彼女は貧困にあっても、本当は豊かで強く、与える愛に満ちていたということなのです。それが時間を経て、形になって現れたということなのです。

あまりに具現化までの時間が長すぎて「神さま、わたしのことは忘れてしまったのね」と思ったこともありました、ともおっしゃっていました。こちらがそう思っていても「待っておれ、それは必ずあらわれる」というのが神のご意志なのです。


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自分探しと自分育て


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少し前【自分は探してる場合ではなく育てるもの】というようなつぶやきを見ました。名前を忘れてしまいましたが著名で人気のある方だったと思います。うまいことをおっしゃる、と思いました。

それについてしばらく考えて瞑想してみましたが、厳密にはこれは比較するには主語の守備範囲が違っている気がしました。【探すほうの自分は真の自己、つまり真我で、育てるべき自分は、潜在意識、つまりエゴの自分のほう】です。私が言うならこうですが、いかんせんキャッチーではないですね。仕方ありませんが。

つまりどっちかではなく、両方とも人間には必要で、しかも両者は並列に並ぶものではなく主従関係にあって、相互に関連しあっているものです。ですから私たちはその優先順位などもわかっていないと混乱します。しかし多くの人は「あ、そっか、そっちでいいんだ」というようなシンプルなものに惹かれます。これやってればいいんだ、というような。

それから【自分探し】と題して、エゴの比較対照によって自分を確立しようとする人も多いかと思います。どこが人より優れていてどこが劣っていて、なにが好きでなにが嫌いで・・・だから、自分はなにをすべきか、というようなみつけかたですね。そしてそれをしていても答えはありません。なぜなら、それは比較つまり二元性の世界で、それらの基準は相対的に移り変わるものだからです。

ではどう解決すればいいのでしょう。

聖書にもあるように「まず神の王国を求めよ」「求めよさらば与えられん」が真実であると私は思います。神の王国というのは内なる天国つまり真の自己です。ヨガナンダ先生は、人生の目的は内なる神を見つけること、とだけおっしゃっています。私は、それを見つけようと決めることが一番だと思います。決める、というのがポイントです。そうすると、そのために自ずと課題が出てきます。つまりそれを妨げる意識や制限する意識、ブロックですね。

そうしたら、そういった働きをしている自己意識を探求して、原因を見つけて育て直せばいいのです。

つまり、旅の目的は、真の自己を見つけること、と決めて、それに必要な自分に育てていくということです。とても無駄がない感じがしますが、実際はそう単純には行きません。恐らく過去世で目的を見つけ、チャレンジした経験をたくさん積まない限り、そして今世でもよほど生きにくい体験でもしない限り、現世でそこまで決めきれないのが普通ではないでしょうか。

ブロックを解除するというテクニックは素晴らしいのですが、なんのための、なんのために、という意図が最も重要なところです。

先ほど書きましたように、真の自己を見つけるという目的で、それを妨げるものを解放する、というふうに目標を決めないと、それはその時の自分に不都合な想念を延々と解除し続けることにもなります。そういう体験も、意識の仕組みを体験する上では貴重だと思いますが。

人間の潜在意識は無限の図書館のようなものです。その書物を全部がんばって捨てる必要はありません。人が魂とともに前進するにあたって、もうどうしても役目を終えた古い情報である書物に気づき、手放すのです。

そうして、最終的にはその図書館を真我、内なる神と直接つながる光ネットワークシステムのように軽い空間として保持し、それを妨げる、学びを終えた古く重たい情報は気づきとともに解放する、そして新しい自分を生きる、というのが自分育てと言えます。

ヒプノセラピー、ヒーリング、その他の心と意識エネルギーのワークは、そのような人間の幸せと豊かさに貢献することのできる瞑想を伴うテクニックです。多くの方に親しんでいただけることを願っています。

私腹、至福考

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沖縄南部は強風域に突入しました。とたんに空は嵐もようとなりました。

私たち人間は、個々の魂のカルマを乗り越え消化していくとだんだんと内なる光の存在が感じられるようになります。自らの光を遮るような在り方から、共にある在り方になることは幸せです。不調だったところにことごとくエネルギーが流れて調和し、周辺の景色は変わります。自身の内なる光の放射によって、そう見えるようになるのです。特に家族というカルマ的な繋がりの強い関係に光が流れる体験は、神からご褒美をいただいているような幸せを味わうことができます。

そこで私たちは、ただそれを味わい感謝を体験するだけでいいのですが、出てくるのはその感覚に対する執着です。この状態を維持したい、という欲求と、また失って元に戻ってしまったらいやだな、という恐れが顔を出します。古い課題はクリアしてきたわけですが、新たなステージに上がるとそこにはまた新たな課題が顔を出すわけです。

その葛藤はエネルギーを膠着させて、私たちを肉体感覚の意識のほうへ引き戻そうとします。それによって私たちはまんまと、なりたくなかった状態、つまり元に戻っちゃった感覚を体験します。けれどもそれは本当は戻っちゃったわけではなく、新しい状態に慣れるための新たな練習課題と言えます。私たちの肉体意識はこんなに調子のいい、或いは平安な状態に慣れていないので、幸せすぎてこわい、というふうに心が感知するわけです。そして肉体は再び警戒警報を発令します。そこには本当は敵はいません。心から古いパータンから抜けきれていないだけです。

心と身体が新しい自己(意識)に慣れるためには時間と体験が必要になります。この神の計らいは実に見事です。神はここで、緩やかな時空を私たちに与えます。心や肉体感覚で対処しない環境を与えてくれるのです。急がない、思考で組み立てない、できる限り自己の中心にいる時間を増やし、起こった最低限のことに、この状態のまま対処していく、というのがここでのレッスンになります。

いったいこのあとどうなるんだろう、どこまでこのようなことが続くんだろう、と、多くの人が考えると思いますが、この頃には古いカルマや自己意識の枠を外した体験があるので、本質の流れ、つまり魂の導きを信頼してついていくことにも多くの人は馴染んできています。ですからその流れに従っていくことは、小刻みにつまづくことは起こっても(実際何度もつまづくことでしょう)恐れをなして後へ引き下がることはもうないでしょう。以前より今のほうがずっといい、ということを知っているからです。

私たちは至近距離に迫っていた個の課題、家族の課題に恩赦を与えられ、神の優しい導きを体験し、もうひとりではなく、その大いなるものとともに歩む人生のことがわかってきます。同時に、以前の視点から見ていた、或いは想定していたことと事実とは随分違うな、と、多くの人が気づきます。過去の視点から覗く未来は一直線上に延長線を引いていく世界ですが、実際は、自分はどこにも移動していないし移動する必要もなかった、ただ、見通す感覚が変わり、見え方が変わり、感触が変わり、佇まいがかわり、捉え方が変わった。つまり自分が変わっただけなのだということがわかります。ですが、このことは同時に世界を変えたことになるのです。

新しい世界では私は何よりも、自分のことばかり考えなくなります。私って、私って、という心の声はすっかりきかれなくなります。これはどういうことかというと、私が私自身にうんとフィットしている感じです。本質と個がフィットして、一体感があるので、私って、という分離感がなくなっていくのです。私に対する意識は高まり、私を尊いものとして扱えるようになり、愛するようになります。自己意識が設けた枠がはずされ、よりあるがままでいることが可能になるのです。自由で、楽で、平安、という表現が合っているかもしれません。

古い視野では、解放された自分は望むような自分になることを達成している、というイメージかもしれません。しかしそのイメージは小さな枠の中にいる自分が今の不満を晴らすための願望が込められていますので、達成自体も人生においてはあまり意味のあるものではないと言えます。(小さな自己が)望む自分になるのではなく、本当の(真の)自分(我)になるのです。本当の自分がもしつまらなく退屈だったらどうしよう、そうではなく、私は私よりもっと素敵なものになりたい、と枠の中の小さな私は思います。その事自体が、自分をわかっていない証拠です。枠の中に入っているので本当の自分なんてまったく見えていないというわけなのです。ですから、その枠をはずして、想像もできなかったような本当の素晴らしい自分に出会えばいいのではないでしょうか。

その方法というのが瞑想です。そこで多くの人が、おっと、その瞑想とやらを習得しないと本当の自分にすらなれないというのか、いんちき臭い、と思うでしょう(小さい枠の中の私は以前そのように言いました)。もっと自然に生きてこそ、あるがままに近づくんじゃないの、と。でも、ただこの日常を一生懸命生きるだけで、自然に生きることにはならないのです。私たちがそもそも、幻想という煙にまかれて生きているのだという前提を私たちは知りません。生まれ落ちた瞬間からそうだから気づきません。これが、あの映画のマトリックスのからくりです。そこから出るにはわずかな違和感をスルーしないで嗅ぎとって、嘘を拒まなくてはなりません。嘘を拒むには、真実に慣れることが一番です。瞑想は私たちのうちにある真実に意図的に意識を向け、そこにいることです。ヨガナンダさんふうに言えば、内なる神に、愛を捧げに行くことです。その神をみつけることが人生の目的だとヨガナンダジはおっしゃいます。

彼はみつける、とおっしゃっていますが、実際はただみつけるだけではなく神とできる限り片時も離れずに一緒にいること、そのための技法がヨガだと師はおっしゃいます。

ところで、個のカルマをすっかり解放してしまうと、そこには空のスペースが生まれます。それで小さい枠の中にいる人はその自由を使って好き三昧に生きたい、などと願望するものです。ですが、実際に空になると、見通す世界は無限に広がり、世界中のカルマが透けて見えるようになるそうです。そして、導くことはもちろんですが、そのカルマを自身に引き受けることができるようになると。つまりカルマを解脱した人は私腹を肥やして贅沢をすることができるようになるわけでも、仕事でスペシャルに成功し、願望達成を自己実現だなとと言うこともなく、(それもカルマ。いいカルマと言われますが人生の目的ではありません)そういう外面的なことには影響を受けなくなり、世界中の人々のカルマを引き受けてあげられるようになる、ということです。ですから、成功しているふうなことをことさらに目標にする人や、それを幸せだと言って売り物にするような人の言うことには私は用心します。至福な人は神と一緒に仕事をし、生活をし、周囲を幸せにする人だと私は思っています。