神に触れる

みなさんこんにちは。投稿久しぶりになりました。先週末は定休日にプラス2日のおやすみをいただき、夫婦と夫の母と3人で長野へ行ってまいりました。長野は私の父の故郷でもあり、夫の風間家の古いルーツでもあり、ご縁を感じています。

旅のテーマは諏訪大社と風間氏発祥である風間神社の巡礼でした。夫の往診先のおばあにおやすみをいただくときに理由をお話すると、おばあは「先生はえらいさー」と言って褒めてくださり「どここどでこういう仕事をしています、と、神さまにちゃんと言ったらいいさー」と教えてくださったそうです。

旅はのっけからおもしろいことだらけでしたが、話が長くなってしまいますのでまた今度ということにして、帰ってきて感じたことですが、やっぱり瞑想とこういった巡礼は別ものでした。どういうことかというと、旅の刺激で頭の中がわんわんしてしまい、落ち着くためにはどうしても瞑想が必要でした。神さまに触れ合いに聖地へ赴いたのですが、神さまを感じるには圧倒的に静けさが必要だということでしょう。数回瞑想するうちに内面は静まり、肉体の疲れもそれとともに癒えていきました。

巡礼というのはそれそのものが自分へのご褒美ですね。神とのつながりというのは普段の生活の中にあるものだとしみじみ思いました。

さて、人間にとっての神さまってなんなのでしょう。神さまが人間に望むことってなんでしょう。

いろいろな側面があり表現があると思いますが、どんな場合にも私は一番に「人間のしあわせ」だと思います。神さまは人間のしあわせだけを望んでいると思います。

人間とはとても複雑で高度な仕組みを持ちながら生きています(神に似せて創られたと言われるほど)ので、しあわせになることは一筋縄ではいきません。だから、神は私たち世界の背後に遍在し、私たちを常に内面(意識)から導きます。

私たちは人生ゲームの最中、どんなに必死になってもはっと我に返って「神さま、私のこのゲームはあなたのご意志にかなっていますか」と問いかけることが許されています。そしてそのルールを採用したとき神さまは必ず応えてくれることになっています。

私たちはついつい、ゲームをプレイしているのはわたしであって、その全責任は自分だしその成果も自分だけのもの、と勘違いしてしまいます。しかし、人生のゲームは常に神さまとのチームプレイです。そしてこの物質界に出現してくる以前の水面下で、ほとんどすべての段取りや設定を、私たちの自由意志が非常に尊重されるかたちで整えてもらっています。

私たちが自分という存在をよく見てよく感じてよく知り、そしてその本質に沿った選択ができたとき、神のちからは最大限に私たちと一体化できます。なぜなら私たちの本質と神の特性がひとつだからです。

「自分のしあわせってなんだろう」
このことをどうぞ追い求めてください。その問いとその追及こそが、神が私たちに歩んでほしい道です。そして何度も本質から逸れながらもあきらめずに求めれば、おのずとその答えに出会うことができます。

「しあわせ」についての様々な誤解がこの世にはあります。インナーチャイルドを探求することの目的もここにあります。過去世を探求することの目的もここにあります。ハイヤーセルフを探求することも、チャネリングをすることも、宇宙と真理の探究をすることも、すべてここにあります。

人ひとりの想念にも、社会的な通念にも、そして世界の在り方のの中にも、しあわせについての誤解が満ちています。私たちはその誤解の存在に気づき、そしてその誤解に慣らされてしまった自己の洗脳を解き、そして本質という光りであり愛であるものに出会い感じること。魂は私たちにそれを求めています。神とその愛は私たちにそれを求めています。

私が人生を通して体験した神はそれです。

すべての人に用意されているギフト

私自身にとって、真の救いとは、すべての人が多種多様な側面を持ちながらもまったく同じ存在であるというところだ。内なる神について話すのは、それがすべての人のものでありひとつであるからだ。

パラマハンサ・ヨガナンダに圧倒的に惹かれるところは、師がそのことを世に、ひとりひとりに伝えることに人生をかけた人だからだ。

ヨガナンダが宗教という言葉を使ったとしても、それは既存の意味とは違っている。また彼が教祖のように見えてもそれも違っている。

彼は「私は私の中に神をみつけました。あなたにもそれができます。やってごらんなさい」と常に私たちに呼びかける。私を敬いなさいとは決して言わない。「私が神を愛するように、あなたも神を愛してごらんなさい。神は私に応えてくださったようにあなたにも応えてくださいます。私は幸せです。あなたもにもなれます。」と言う。彼は人類への奉仕者であり、仕えられる存在ではない。

私は暗闇の中にいたころ、そのように言える人になりたいと心から願った。まだ自分の中に神がいることすら知らなかったときから。その願いが伝わり、私はそっと導かれ続けたのだと思う。

そっと過ぎて、長い間私はそのことに気づいていなかったが。

内なる神の話をし、それを信頼する生き方を始めても、自分がすぐにその神の真実を知ることはできない。どうにか自己の中の神を信頼しかけても、今度は、他者の中の神をみつけることへの壁が来る。

しばしば起こることだが、「私には神がいます。あの人には本当にいますか?(ちょっと信じがたい)」「私にもあの人にも神がいます。でもその神は別々の神です。」という認識が、無意識に自分の中に生きている。

もしその神が別々の神なのだとしたら、それは神ではない。それこそが悪魔と言われるものなのかもしれない。

神が分離していて対立したり、利害のために対立するものを後押ししたり、或いは罪を罰したりする存在であるなら、それはただ、人間のエゴの想念が拡大したものだと思う。(なるほど、それはやはり悪魔かもしれない)

内なる神とは、意識という本質のなかの最高次元の場のことも言える。それはすべてをひとつにする。対立するものの存在しない次元だ。

それを私たちが求めることに意味がある。

神が別々であるということはあり得ない。だから神なのだ。

だから、私たちはどのような壁からも解放されることが可能なのだ。

この世はない。神はある。

エゴは別々である。しかしそれは過ぎ去る幻想である。神は永遠に、無限にある。

それだから、私たちはすべてを超えて、わかり合うことができ、赦すことができ、ひとつになることができる。

それが、宇宙という生命を包括する。拡大し続けるという不可思議な活動を可能にする。

そしてそのことだけが、私の心に平安を与える。

分離、対立、偏った考え、利己的な思い、私欲は、私たちを刺激し駆り立てる。それを生命の営みというならこの世は地獄。天国はその対極ではなく、それを拒否するところに存在する。

どうしようもなくわかり合えないあなたと私の神はひとつである。その神は求めることにより与えられる。

私は求める。それがどうにも見えてこないゴールであっても。それに悲しみや苛立ちを感じることを私は私に許そう。

そしてその悲しみや苛立ちのすべてを神に捧げる。小さき私に神は喜んで慈悲と慰めを与えてくれるだろう。

無条件の愛とはそういった寛容のことだ。

神は寛容である。神はあなたの小さな間違いにいちいち罰を与えるどころか、その間違いをすべて赦し、余りあるほどに与える。

私たちがこの世の法則によって利益を求めるのか、神そのものを求めるのか、ただそれだけの違いだ。

多くの人が神からのご褒美を待っている。あるいは罰を恐れている。そのこと自体が神への誤解だと思う。神はただ、愛されることを待っている。あなたが愛することによって、神は応えることができる。神は愛そのものだから。

私たちの問題の答えは、愛すること、愛し始めることによって、すべて解決される、というのが私の中に与えられた答えだ。その答えをひとつひとつ実践すること、それが人生なのだとわかった。

過去に抱いた幻想から、私は愛をなにか別のものと錯覚している。その錯覚から覚め、現実に戻る道。それが神とともに生きることなのだと思っている。

天使とのつきあい方

今日は、長年のお付き合いをさせていただいているお客さまからいただいたご質問への答え、を掲載させていたきます。
長いセッションの積み重ねの体験があると、お互いの共有する理解の中で、私自身が自由になれて、深い内容について触れることが容易になります。これは私自身のしあわせです。

いただいたご質問は、AZUさんご自身は天使やマスターにどのようにお願いをしていますか、という内容です。

昨今では波長の法則が認知されるようになり、高い波動は高いものを、低いものは低いものを引き寄せる、ということが広く知られるようになりました。確かに、この物理次元の法則はまったくもってそのようになっています。
それが認知されることはすばらしいことですが、そのために、自分の本当の状態を自分にまで隠す、というようなことをしている人をよく見かけます。いいことを引き寄せたいがために、本当は悲しいのに、それを思考で片付けて、ないことにするような態度です。

私はそれを本末転倒だと思っています。それは、自分をよりよく変える道を逆行するようなものです。

より良き未来を創るのは、自分の意志に他なりません。そしてそれはいつも未知です。
私たちが既に知っている良いことというのは、現状の自分にとって都合のいいことなのです。
でも、本当の良きことというのは、私たちが未体験の奇跡からやってきます。それは、神からの贈り物です。
神からの重要な贈り物というのは私たちにとってだいたい、都合のよくないものです。予期できないような道を辿って届くのです。

波長の法則を知って、神からの贈り物を期待する人は、もっと、もっとと贈り物を求めるようになっているように見えます。
でも、私たちは本当は、神からの最上の贈り物を受け取る準備をすべきです。それはときには過去にあげた自分の成果を手放すことです。

恵愛するヨガナンダ先生は「神からの贈り物を求めるのではなく、神そのものを求めなさい」と言います。スピリチュアルを信奉する人はぜひ、そうしていただけるといいと思います。

以下のメッセージは、そういう生き方を選ぶすばらしさにすでに気づかれた人に向けて書かれています。

 

天使って、人間界ではいろいろに捉えられていますが、ほとんどは自分の思いの投影だと思います。私も実体としてどんな存在かと言われると、これ、というふうにはわかりません。でも、いる、というか、ある、ということはわかっています。
私のイメージでは、より高次元の意識の層みたいなものです。定義するなら、高次元であり人間として生きたことがないエネルギー、だそうです。

マスターは、人間として何度も転生して、そして人間をマスターしたエネルギー(魂)と言われていますよね。

私のお話をするのであれば、私が自分を明け渡していいのは「神」だけと強く思っています。「神」というのは、より高いものではなく、完全でありすべてです。

神は波動すら持たないと喩えられています。点、みたいですよね。点には面積も体積もない、とされています。神は全宇宙の点みたいに私は思っています。点は、すべてのどこにでも存在できます。

その神の次の次元には意識が存在する。もう少しこの次元に降りてきていただくと光や愛や叡智や完全なる生命力として姿を現してくださる。神の息吹のようなものです。それは聖霊と呼ばれます。

そうなると、私たち人間にもそれを捉えられる可能性が出てきます。
私たちの魂は本当はすべてを知っていますが、知覚で捉えるのはとても難しいです。知覚はからだベースでそれを理解しようとしますから。つまり体験的に知っているものの範疇で判断しようとするのです。

生き物は生まれてこの方、からだベースで生きるよう訓練されてしまっています。でも、待てよ、魂は知っていたはずなのに。では、魂に訊いてみよう。それが瞑想ですよね。(魂は、神に準ずる意識で、個々に備わっています。)

祈りは、そこへつなげてください、というお願いです。聖霊を通じて、神や魂そのものと直接つなげてください、という。

そんな私たちの姿勢があると、天使やマスターは喜びます。自分たちと近い波動を感じて引き寄せられます。
天使も、マスターも、神の波動が好きなのです。自分たちもそこへ近づきたくて仕方ない存在だからです。

ですから、ともに神に歩み寄ろう、明け渡そう、という意識と連帯し、協力し合い、助け合います。そう、これは助け合いです。仲間の誰かが前進したり、またはつまずいて学びを深めたりすることで、互いに影響し合えるからです。

彼らは神に歩み寄りたい意識を無条件に助けます。ですから、彼らにはただ、お願いすればいいのです。彼らは無条件の愛を体現したいのです。

私たちはその助けを受けることでまた、無条件の愛を実体験できます。お互い様です。

世間でいろいろ言われているのは、自分なりの考え、つまり次元の枠のなかで高次元を考えているからです。例えば、神に歩み寄ろう、自分を明け渡そうという決意無く、ただ漠然と天使にお願いしようとしても、本当は何をお願いしていいかわからないと思います。それで、こんなお願いはOK、こんなのはNGとか、そんなふうに分けなければならなくなります。例えば、自分が心地いいものをください、不快なものはいりませんとか。または、そんな低次元のお願いは通らない、とか、欲になるとダメ、とか。確かに自分をよく知る段階で、それは体験すべき道ではあります。

でも本当は、目的がはっきりしていなければ、天使も手伝いようがないのです。それでも彼らは無条件の愛を体現したいから、ある程度どんなお願いにも応えます。でも今度は、受け取る側に疑問が出てしまいます。「こんなになんでも叶えてもらうだけでいいのかしら。そんなはずないけど」と。

それで、真理の探求が始まるなら天使も本望なはずです。より良い目的をみんなが探し始めれば、それで無条件の愛は目的が果たせています。

私はいつも、「最高次元の根源なる神よ」と心の中で呼びかけ祈り始めます。天使やマスターたちはその私の祈りを全部聴いています。そして私の本当の望みを知っている神の意志に沿って私を護ったり導いたりしてくれます。

私にとってのピンチというのは、それらの信念(直覚)がぐらぐらとするときです。自分がとんでもなく間違ったところにいるような感じがしたり、愛という次元から外れてしまったように感じるときです。○○さんもそうではないでしょうか。

それは一番の試練ですよね。

そんな時こそ、お願いをします。そういう時は一番のピンチですから、お願いの仕方などまったく問題ではないと私は思います。普段から祈りと瞑想をしていればいるほど、それが届くことを知っています。

マザーテレサは、本当の愛は傷つくものだ、と言います。それは、愛が弱いものだという意味ではなく、本当の愛を求め、体現して生きようとすれば、肉体に近い次元の心は痛みを感じるということだと思います。多くの人が、覚醒すれば痛みを感じない、と誤解をしていますが、覚醒というのはより繊細になることですので、実際はますます神の助けを必要とするようになるのです。そしてますます、自分を神に明け渡せるようになります。

もし天使(無条件の愛)が、重い波動のものを救えないとすれば、地獄にいる人はどうやって救われればいいのでしょうか。最も困難で苦しみにある人は、どうやって光をみつけるのでしょう。一ミリも光が差し込む余地のないほど重たい苦しみにあっても、それを救うのが天使の仕事です。そうやって人はどこで何をしていても、光を見ないことはできません。ただ顔を少し上げるだけで、それはそこにあって、手を伸ばせば触れられてしまいます。願いというのはそこに手を伸ばすことです。

やってみてください。そして、神が望むのであれば、そのカオスの中で、ただ自分であり続けるという訓練を受けて立ってください。受けて立とうという決意によって、神は次のレッスンを準備し始めます。

祈りの環


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もし、すべての人が自分の内面と向き合って自分を癒やすことを始めたら、戦争というのもは必然的に地球から消滅すると私は思います。それが恐らく今人類が上がろうとしている次のステージの具現化のように日々感じています。

自らを癒し浄化することなく社会や政治について議論すると世の中は本当に難しいのですが、内面に向き合い、内なる神に向かう生き方をすることはすべての人にとって優しく幸せなことです。すべての人が優しく幸せな選択をするなら、世界の次元は上昇します。これは自然であるがままで易しい道だと私は思います。

人が宙に浮いたり洪水で淘汰されたりするよりも、ただ戦争が消滅することでどれだけの変化が人類にもたらされるでしょう。

人類は戦争という、カルマのブラックホールにエネルギーを投入し続けています。エネルギー問題。人間の生存の問題はイコールエネルギー問題です。エネルギーを足りなくさせている要因をすり替えて、更に足りない方へ、戦争の方へ導いているのは、コントロール支配したい人の常套手段だと言えます。

しかしそうしたい衝動にかられる人も、実際はもっと大きな人間の過去のカルマによって操られているだけです。ですから、本当に、互いが互いに愛を持って、そしてまず自己を癒やすことを始めれば、本当に世界は変わってしまいます。

『崇高な意識―自分自身そして生きるものすべての内に神がおられると悟ること-だけが世界を救うことを可能とします。これなくして平和が来ることはあり得ません。自分自身からはじめなさい。無駄に過ごす時間はありません。神の王国を地球にもたらすため、自分の役割を果たすことがあなたの義務なのです。』-パラマハンサ・ヨガナンダ

自分の役割というのはどこかへ行って何かをすることではありません。どこで何をしていても、内なる神とともに過ごすことです。そのことを知り、意識し、気づき、忘れず、行動するようになるよう、努力することです。その努力に応えてくれるのが神です。

もし、自己と世界のために自分にも何かできることを探している方がいらしたら、祈りをおすすめします。世界の平和、地上に愛がもたらされるために祈ることができたら、その祈りがあなた自身を祈りの使い手、愛の使者として成長できるようにあなたを導いてくれます。

『世界を結ぶ祈りの環』この小冊子がすばらしかったのでご興味のある方はご覧ください。祈りについて学べます。

いのちというすべての人への贈り物

みなさんこんばんは。AZU WORLDをご訪問いただきありがとうございます。

今日も書きます。いのちのこと。

今回の選挙で自民党が圧勝したことによって、日本の運命は大きくある方向へ舵が取られました。それは憲法の改定です。それで、この中身をよく調べてみると、それはどうしても「戦争をする国になる」ように変えられるということがわかってしまいます。まず多くの方はここがピンと来ないところかもしれません。「そんなことあるわけないじゃん」と思われるようなのです。

しかし戦争前夜を体験した多くの人が、まさに今のこの空気がそれと酷似していると言います。そして安倍総理のなさっていることを見るとその指差す先にあるのはまさにそれだとわかります。彼は前回衆議院選挙で政権をとった直後のインタビューで真っ先に改憲について口にしていたのを私は見ました。テレビがないのでテレビの放送をネットで見ました。96条をまずは変えてそれから9条を問うと。彼は興奮していました。それは嬉しいでしょう。その興奮から真っ先に出た言葉が、改憲でした。彼は本気だと思います。知るのもこわいしめんどうかもしれないですが、ここだけは避けて通ることができません。もし、改憲が通り、基本的人権を私達が奪われ、戦争をする国に日本がなったとき、犠牲になるのは多くの市民です。子どもたちももちろんそうなります。また徴兵制がしかれればこの国に生まれた魂は平和ではなく軍事国家の民となるのです。誰もが人を殺める訓練を強いられるようになります。ご存じない方も多いかもしれませんが、自民党の石破さんは国防軍についてBSの番組で「命令に従わないものは死刑か懲役300年」にするなどと発言しています。フェイスブックやツイッターなどのメディアを頻繁に利用すると、それらの情報は簡単に入ってくると思います。

私はこの参議院選挙のあと、3度嗚咽しました。こんな泣き方をしたのは何年ぶりのことかわかりません。最近はほどんどが感動泣きかもらい泣きばかりで、自分のことで泣いたことはありません。しかもこの世の終わりのような嗚咽でした。

その3度というのがどれも、虐げられる人の痛みを話していて、突然襲ってきた悲しみのためでした。自分でも驚きましたが、3度とも寸分の狂いなくそのことを話していると始まりました。私は戦争というものにうんざりしています。まるで自分が何万回も体験してきたようにうんざりしています。また、民衆がうまく騙され乗せられて間違った方向へ進むことにもうんざりしています。そして、生活するのに不自由している人がいながら私腹を肥やすことに血眼になるその人間の心にもうんざりしています。自分ももちろん社会的には弱者です。家族に病気の者もいますし、心配とその悲しみはいつも背負っています。過去には私もひもじい思いばかりしました。なにより心細く生きた心地がしない時期が長かった。でも、誰にもそんな思いしてほしくないと強く思います。私は地球のすべての人が生まれてきてよかった、と生きている間に実感してほしいと思う。そしてそのことは、絶対に可能だと思っています。今生きている人それぞれがただ自己と向き合うことで可能になります。簡単ではないが不可能ではありません。

私は自由を切望します。誰の自由も奪いたくないし奪われたくありません。みんながそれぞれの道を自由に歩み、自由に助け合う世界を切望します。各々が完全な自分として自分を生きる世界を夢見ます。それは生命は等しく尊く平等であるという地表にみんなが立つことです。人権をなくした社会ではまずその地盤が失われます。

戦争は私たちから内面的な成長の機会を著しく奪うと思います。先に述べたように戦争を通して開花する文化や才能もあるかもしれません。ですが、失うものはあまりに大きく、癒しがたい傷を残し、なにより私たちの生命を争いの道具に貶めてしまいます。今現在も充分すぎるほどその証は地球上に刻まれています。沖縄に住むとわかるのはその痕跡の鮮明さです。

自分の生命の尊さに気づいた時、他の生命を殺めることは不可能です。戦争が外交の手段だなんてことは欺瞞だと私は言いたい。それは誇大妄想に取り憑かれ増長した小さなエゴの願望に過ぎません。

人間の心というものはみな同じです。本当に自分の尊さを知りたいと思う人はそれに出会うことができます。しかし他者にそれを示したいと願望した途端、それは私欲に変わってしまいます。

私は多数の人に影響を与える人間ではありません。ですが、自己の奥へと人間を掘り下げていくとその意識はすべての人とつながり一つであることを知っています。私が私を掘り、誰かが自分を掘るようになると、世界からは分断の壁が取り除かれ理解や受容というかたちの愛が広がっていきます。

こうした美しい世界を構築するすべての人に、共に世界を守ることを私はここに呼びかけたいと思います。私たち人類が多くの犠牲と前進から構築し、すでに保持することに成功している平和憲法とその価値を今一度再確認し、もう一度意識的に我が物としてください。もう一度、自己の尊さと世界の平和を再構築しましょう。

今日はこちらを紹介します。

とてもわかりやすいちゃんと知らなきゃ大変だ (豊橋いのちと未来を守る会より)

スタジオ・ジブリの小冊子『熱風』7月号 テーマ「改憲」 です。

改憲を具体的に掴むことができると思います。ジブリの熱風は、特に最後の高畑勲監督のコラムをオススメします。これは本当に今がわかる。わかりやすく優しい文章です。

今日もおつきあいいただきありがとうございました。

潜在意識というのはたとえばこういうものです

昨夜の渾身の思いでのfacebookへのつぶやきですが、大事なことですので再度ここへかかせていただきます。文体がいつもと違うのはつぶやきだから(笑)

♥♡♥♡♥以下つぶやき♥♡♥♡♥

毎日選挙のことでうちなーのおばあとチャランケしてくるうちのだんなさん。(※チャランケとは…参議院議員比例区候補、三宅洋平の映像もしくはこんなサイトをご参照ください。)

確かに平和のためにここまで来た。戦争を勉強するためにここに来た気がしている。

普段穏やかで優しいおばあの癒されない痛みと怒り。あの、戦争の痛みは、体験しないとわからない。だから体験してみればいい、という。その悲しみを、私たちは愛でわからなきゃいけない。だって、それが人間だから。みんながどん底をわかるためにどん底を作り続けるやり方はもう終えよう。私たちのそれが使命。

「あんたは得するのか」「いいえ、みんなが幸せになってほしいだけ。生意気言ってすみません」「いや、そういうことじゃない」・・・

いつもおこりんぼのおばあが「いい話をありがとうございます」と言って缶ジュースをいつもより余計にくれた。

戦争だけは止めたいと選挙に行きたいけど寝たきりのおばあ、車椅子のおじい。

みんな戦争を体験している。どん底の地獄を見てる。そのことを簡単に、戦争はなくならない、なんて言わないで。なくそう。やめよう。やめると決めよう。それができるのが人間だ。

みんな、許すのに必死だ。許せない十字架を背負う人の、その重荷を少しでも分けてもらって私はかたづけを手伝いたい。なのにもう一度戦争なんて。簡単に譲らないで。そんな簡単なことじゃない。人が人のいのちを奪うなんて。その傷が全く癒えないのに、その傷は私たちの意識の中に引き継がれているのに、それを見ないふり感じないふりはもうやめよう。

私のおじいちゃんのからだも、私の暮らす近くのどこかでこの島の土になってる。おじいちゃんは陸軍で島の人は嫌っている。でも、おじいちゃんは本当はアーティストだった。美しいもの、表現、人間、言葉。好きで兵隊になったわけじゃない。私は感じる。おじいちゃんはきっとこの島の優しい女の子に優しくされたんじゃないかって。母も妹もひめゆりの塔で手を合わせた時なぜか同じこと思ったって。とってもお世話になって、本当にありがとう、って、なぜか少し嬉しい気持ちで泣きながらそう言った。

沖縄へ来る前は心配だった。おじいちゃんもすさんだ心で亡くなっていったんだろうか。でも海軍壕へ行った時、私はもしそうでもおじいちゃんを赦せると思った。誰だってこんなにも怖い目に合ったら、おかしくなって当然だ。だから私は赦せるって。海軍壕の守衛さんも怒っていた。海軍は立派だった。陸軍は人間じゃなかった。

でもしばらくったって、やっぱりおじいちゃんは最後まで人間らしく、死んでいったんじゃないかと思った。ただ、そうわかった。沖縄の優しい女の子の優しい気持ちをちゃんと受け取って死んでいった。なぜならおじいちゃんも優しい人だったから。33歳という若さで4名の子どもと若く美しい妻、祖母を残して。

人間らしい心のまま地獄を味わうなんてどれほど辛かったかと思う。この島では心を無くす訓練も受けないまま、家族みんなで戦争に参加させられ島民の4人に1人は亡くなった。家族や親戚のうちの誰かが痛ましく亡くなっている。その思いをどうやって乗り越え、あるいは乗り越えることもできずに胸に抱えて、みんなが生きているか。

私の母はそうして父親を亡くし、いろいろなものを諦めて、そして求めて生きてきた。何が足りないのかもよくわからないまま。誰かの利益、誰かの得のために誰かがそんな思いをするなんて、絶対にいけない。得した人も等しく背負う十字架だ。人間はすばらしい。そう思えるような人間を生きよう。

Don’t give up to stop the fight.

いのちより愛

ツイッターなんかで社会科のお勉強をしていると、「お金よりいのち」という言葉をよく目にします。これを見る度になにか引っかかって気持ちが悪かったのですが、それがなんなのか最近はっきりとわかりました。

お金よりいのち、と言っている人は善意ある、311以降脱原発などを訴えている人がほとんど。脱原発は私自身も賛成です。賛成というか、目指していることですから、この点では同志です。

ですが、お金といのちって、比べるものでしょうか。そして比べて確認して、何か意味があるのでしょうか。例えば政府や国家が国民すべてのいのちを軽んじて、経済優先にしていることに対する反論としての言葉だとしても、お金よりいのち、なんて言っては大切なことが遠くへ行ってしまうように思える。

なぜならまず第一に、国民のいのちを軽んじている政治家だって、お金より自分のいのちのほうが大事だと知っていると思うから。というよりも自分のいのちがなにより惜しいと思っていると思うから。お金にしがみつくのといのちにしがみつくのは同じことだから。彼らがもしわかっていないとすれば、自分のいのちと他者のいのちは等しく尊いということがわかっていない。(いのちは等しく尊い。このことはとても重要です。平和を訴える意識の根っこになくてはならないから。)

それから、お金というのは単なる道具、エネルギーの対価としての仮のしるし。それとわざわざいのちを並べてみることがいのちをとても軽くしてしまう。(結果的にいのちを軽く扱うこととなってしまう。)

それから、お金と並べてしまったいのちというのは、肉体のいのちのことにしか見えにくい。(自分のいのちにしがみつく、というふうに使われる意味でのいのち。)でも本当はいのちというのは宇宙と同じ。意識のことであり、神のことであり、愛のことだから。お金と並べてしまうなんて、物事を明らかにするどころか混乱へと向けることにしかならないと思う。(いのちとは肉体のことではなく意識とすべてのこと。)

比べて意味がないばかりか弊害が大きい気がしてならない。

もし私達が本気で世界を変えたいと思うなら、真実を語ろう。真実の言葉の中には莫大なパワーと奇跡の素が備わっている。

私は「いのちより愛」と言いたい。ここでいういのちは小さい意味のいのち。肉体に縛られた意識という意味のいのち。「子どもたちのいのちを守れ」の意味がこのいのちであるなら、私達は子どもを守るなんてできないと思う。すべての人は神の子ども。大いなるちからに生かされた宇宙の意識をわけた子どもだ。この地上でどのくらいの時間を生きたかどうか、その小さな差なんて問題ではない。すべての人が、今を、愛を生きることができるかどうかが問題だ。

もし私達が今を、愛をいきることができるなら、それはすべての人に伝わり、世界に伝わり世界を変えられる。結果的に子どもは守られ愛を受け取り学ぶこともできる。

すべての人のいのちを思いやることができるとき、人は自分という小さないのちの枠を超える。そのとき私達は愛であり、宇宙であり、真実であり、奇跡そのものになる。

愛が私達の中心であることがわかった人から、まだそれを見つけられない人を助ける。私達にできるのはただそれだけだ。地球を守るのでも子どもを守るのでもない。それは自分を救うことであり、同時に世界を救っている。

自分を掘る

自己の問題にぶつかる。
ちゃんと向き合う。
掘り下げる。
癒す。
視野が広がる
世界が広がる。
波動が上がる。
次元が上がる。
自分の問題は、共有できる人間の問題だと気づく。
個の問題は共通の課題。
自分に取り組んで、乗り越えると、他者を癒せる。癒している。
このプロセスなしに、ワンネスは想像できない。
この実感なしにワンネスは理解できない。

私たちは自己を癒すと、真っ白になるわけではない。
完全無欠になるために癒すのではない。
ただ、他者と隔てていたものに意味がなかったとわかる。
自己の痛みと他者の痛みは同じ。
自己の喜びと他者の喜びは同じだったとわかるだけ。
そもそも持っていたものをあると認めるだけ。
それが気づき。

だから、そもそもあるものに気づき続け、癒すだけになる。
癒されるほどに自分が持っているエゴに気づけるようになる。
つっぱねようと、目をそむけていたちからをただはずす。
すると、そこにある。
どんどん出てくる。
気づいて、癒す。
他人のも自分のもない。
どれも大差ない。同じもの。
だから、比べてもしょうがない。意味がない。
比べる暇があったら癒す。
癒すは、解体。癒すは手放し。癒すは赦し。自分よりも大きく力ある、大きな愛に、癒してもらう。
それは、人間でも、地上のなにかでもない。
それを超えた、意識。意識を超えた波動。波動なき、光。
どこに行って何を楽しんでもいいけれど、それは神に与えられた贈り物だと受け取って。
本当の仕事は、自分の中にいること。
自分の中を、観ること。
自分の心を感じること。実感すること。

そこにすべてがある。
他者との関係もそこにある。
もし欲しいのなら、なすべきものもそこにみつかる。
本当はなすべきものはないけれど、欲しいのならみつかる。

それを掘る。掘り下げると、人生は心底豊かだ。
人間は果てしなくおもしろい。
地獄から天国までがそこにある。
どれを選ぶのも自分。

もし、あなたが天国を望むのであれば、ひたすらにここに戻る練習をすることをおすすめする。
やがて、選ぶことができるとわかる。

でもまずはあなたの心を、平安というところまで癒さなくてはならない。
少なくとも平安を知る心になるまでは。
まずそこまで行くと次の世界が見えてくる。
他者を癒すとか世界を変えるとか。
でも、その方法は、やはり同じ。
自分を癒す。
つまり、足元を掘るのだ。
掘るところは永遠に同じだ。
世界の入り口は自分の足元にしかない。
みんな自分探しと言って、その入り口を探し回っている。
世界中に足を伸ばし、情報を食いつぶしている。
そしていっこうに掘ろうとはしない。掘り下げない。
どこかにいい感じの入り口があって、あなたの使命です、とか、あなたの天職です、とか、運命です、と言われるのを待っている。
でもそんなものは、すべて幻想。それは、まやかし。迷妄。幻想。悪魔の誘惑。欲望の世界のできごと。

足元を掘り下げよ。
自分の心と向き合う。
醜さ、浅ましさ、弱さ、それでいい。
それを見つけて、そして、自分を痛めつけるのをやめるのだ。
それを、愛という熱で、光で、包み込め。溶かしきれ。焼き尽くせ。
抱きしめて、それを愛しいと言うのだ。
それから神に、これを愛させてください、と願って、そして安心して眠るのだ。

これを繰り返すうちに、人間すべてが、同じことで苦しんでいるとわかる。
自分の中の醜さ、浅ましさ、弱さを、人間は恐れている。
劣っていることを恐れ、向上を望むが、向上したところで恐れから自由にはなれない。
これから自由になるにはそれを愛するしかない。

人間のあらゆる恐れを愛でることができる人がブッダでありキリストだ。
だからそれを赦すことができる。
あらゆる醜さ、浅ましさ、弱さを赦すのが神だ。

あなたがもっと幸せになりたいのなら、神をまねるといい。
ブッダに、キリストに、あらゆるマスターと天使に頼るといい。
あなたに近づけるように、私を導いてください、と。
必要なのはただそれだけだ。
それで、なかなか簡単に立派になれない自分に出会い続けるといい。
立派でない自分を愛する練習を積むといい。
それが一番の修行だ。
神にもっとも早く近づく修行だ。

そうしていると、だんだんとあなたは、世界を愛することができるようになる。
本当に世界を愛する人は、世界の醜さと浅ましさと弱さをなめつくす。
そして、哀れみ、悲しみ、そして包み込む。

人間の悲しさを、無慈悲を、無力さを、愛することができたら、あなたの次元は上昇する。
あなたの内に、神がいるのをあなたは知ることができるだろう。