言葉を聞く、観る

私は傷つきやすい子どもだったので、他人の言葉で何日も具合が悪くなったりダウンして動けなくなったりすることがよくあった。大人になってもひどかったので仕事や社会に出て行くということにとても抵抗があったし疲れやすく、何事にとりかかるのも億劫だったりもした。

この状況をどうしたかというと、私は自分のエゴ解体に取り組んで解明と転換に成功しました。実際多くの敏感な人は他人の言葉にも敏感だ。それで不用意な言葉に傷ついたりショックを受けて、悲しくなったりそれから腹が立ったり憎んだり或いは自己か他者を責めたり、それも嫌になるとそういうことを感じていないふりをして自分の感性にふたをするようになる、というような反応をする。とても大変なことで、莫大なエネルギーがここに消費されることになる。

これを解決するきっかけをくれたのは時々紹介するシャクティー・ガーウェインの『マインドトレーニング』という本。読みにくかったり難しいと言われることが多いようだけれど、私にはこの本はまさにドンピシャだった。20年前のことですが。

エゴの解体というとどうしてもエゴがわるもののように印象付けられるがそうではない。エゴには特性(くせ)があってそれはあるパターンになっているので、そのくせをちゃんと理解し、自分に当てはめて、自分の意志に関係なくパターン化されて反応してしまっている自分に気づきましょう。その気づきがあって、そのパータンを返上できると、本当の自分が見えてきますよ、ということです。

だから、本当の自分をみつけたければ、エゴを解体するしかないのです。旅したり新しい何かを手に入れたり習得したりというのはあくまでそのきっかけや背景にすぎず、主役は内面です。

言葉を使ってコミニュケーションしている人間の多くがエゴの解体に取り組んでいたりしたらまた世界は変わるでしょうがそうではないので、無意識に言葉を使い言葉の意味で何かを伝えようと多くの人がしています。人間が伝えたいのは意図や内面であって言葉の意味ではない。ですが言葉に傷つくとき、傷つくほうはその言葉の意味を自己解釈していて、相手の意図は見ていない。相手の気持ちには気づいていない。たとえるなら異国の言葉と風習を自国風に解釈しているようなもの。白いハンカチを手渡されたから決闘だと思ったら、愛の告白だった、というような。

エゴを解体するというのは自分のくせにとことん向き合って反応のくせを再教化するので、他者のくせに対しても寛大になります。みんな思い込んでいるし、みんな囚われているし、みんな恐れているんだ、ということがよくわかる。そうすると相手の不用意な言葉に即座に反応して攻防体制に入る前に、相手の内面にそっと入って確かめることができるようになる。自分に対していつもしているように。

だから、強くなると同時に優しくなるのがエゴの解体です。霊的な成長は常に強く優しいものです。

自己浄化のすすめ

参議院選挙が近いので、平和について、そして今という時代の岐路ともいうべき状況について、よく考えを巡らせています。思考というのはこういう時に使うのだな、と思います。過去から学習し、検討し、見極め、そして次にとるべき姿勢について思案する、ということです。

その上で自分にできることを考えると、やはり今取り組んでいる仕事をコツコツすることだな、と思います。それは自己への取り組みであり、自己意識の浄化であり、内なる神とのつながりを見つけることであり、それを生きるということです。自分の仕事は、自己の取り組みによって自己が幸せになった道を示し、気づきを分かち合い、案内すること。

世界にはこんなにたくさんの人が生きていて、それぞれが自分の人生を懸命に生きています。たくさんの情報、知識、教養への道があり、それを得ることが出来る人もたくさんいます。けれど、人間という生き物について、その細かな成り立ちや仕組み、取り扱い方について、また誰もが幸せになるために必要な自己への取り組みについて、すべての人に応用できるような教えというのはまだまだ、人々の間に浸透していません。

過去には宗教がその役割を担っていたのかもしれませんが、人々の間で語られる神と実際の神との間には大きなギャップがあるように感じられます。こういうとまるで私が神を熟知しているかのように聞こえそうですが、宗教の教義のなかにおられる神は私の知っている神にとは随分違っていて、まるで人間のように怒りっぽかったり偏狭だったり神経質だったり応用が効かなかったりあるいは優しいけれど無力だったり、するように見えます。けれどももちろん神はそんな存在であるはずがありません。人間が自己意識の尺度というフィルターのついためがねで神を見ようとしたり定義しようとするからそうなるのです。神は無限の愛というパワーそのもので唯一絶対です。ワンネスとはこのことです。

人間は理屈でものを考えると、自己意識の罠にはまります。自己意識が限定している枠から外へは決して出ることができません。なぜなら自己意識はその人の認識できる世界のすべてだからです。その中にない答えを求めているのにその範疇で考えているとき、人は悩みます。思考はグルグルと同じ所を回り、ああでもない、こうでもないと言い、ぱっとする心惹かれる名案は浮かびません。当然です。知っていることの中からどれかを答えとして選ぼうとしているのですから。でもみつけたいのは、これまで気づかなかったような新しく画期的なアイデアなのです。

その枠を出るのは難しいと多くの人は考えています。自分の能力や知識の限界を理由にあげるかもしれません。でも、それは本当は誰もが持っているもので突破でできます。それがよくスピリチュアルで言われる「答えは自分の中にある」です。

そこまでわかっていても、その方法を自分でみつけるのは難しいようです。あるいは方法が示されても一人で行うのが困難です。どうしてかというと、私達人間は「自分の見たくないものは見ない。感じたくないものは感じない」ことができるからです。裏返して答えを言えば、私達は自分の中の見たくないもの、感じたくないものへ積極的に開くことで、自分を迷宮に閉じ込めている枠を突破できるということです。

ただし、人間が本当に苦しみの中にあったり葛藤のさなかにいる時に、それ以上の不快なものを自ら感じるなんて不可能だ、と思うでしょう。その苦しみや葛藤から自由になること、それ以前にそこから逃げ出す方法を必死で探している時に、誰がそこにもっとじっくりいてやろうと思うでしょうか。これこそが、人間が幸せになる道が一般的に広まらない原因だと私は思います。

私がこれを自分だけでやろうとするなら、神という味方が必要だと思います。けれど姿が見えない実感のない味方を、雲を掴むような気持ちで信頼して飛び込める人はなかなかいないでしょう。この言葉もスピリチュアルではよく言われますね。「信頼して飛び込みなさい。」それで多くの人が、天使が目に見えたり神のお告げが言葉で聞こえることを切望するのです。でも本当は、それすらがレッスンです。見えないもの、聞こえないものをこそ信頼できる勇気、自分でそのブラックボックスの中身を想像する力をこそ、神が人間のなかに育てようとしている神の気質そのものだと今では思えます。私の人生で言えば、長い苦しみの期間、言い換えれば自分を探し迷子になっていた時期は、見えざる神を意識し信頼するレッスン期間だったと言えます。スピリチュアルを見るための何かだと思うのは間違いです。真の成長というのはそこにはありません。

「この嫌な感じなら、いつでも感じています。いつもイライラして、腹が立っています。そんなもの感じてもなんんの解決にもなりません。」と、多くの人は思うかもしれません。でもその理由を考えることはもっと解決になりません。理由を考える時、人間は理屈や理論を使って、自己意識の範疇で答えを探します。答えは誰か、もしくは自分のせい、これが悪い、これが間違っている、というふうになります。思考的な考え方です。

イライラしている、は、状態のことを言っているに過ぎません。そしてそれは、いつもではないのです。どこかで、誰かと、何かをしている時に頻繁に起こっているはずです。そして、イライラは感情ですらありません。そのイライラは本当は焦りかもしれない。何かを考えた時にそれを打ち消すように湧き上がる感覚かもしれない。例えば、私はこうしたいのに、そうならない、というような考え。私はこうしているのに、誰々に邪魔をされる。私は優しいお母さんでいたいのに、いつも怒鳴っている。自分に対する無力感を感じそうになると、自分への怒りがわき、その怒りをそらすために外側へ意識を向けてイライラだと認識している。・・・

大事なのはその状態の奥にある感情を感じ、その奥の思い、つまり心の声を聴くことです。それを細やかに感じてあげる「愛」によってです。それは間違いのために起こったのではなく、自己意識が真実に気づいていないために起こります。本当の声に自分が気づいていないのです。自己意識が誤解しているわけです。この誤解が解け理解されると暴れていたエネルギーは癒され、細やかなバイブレーションへと鎮まっていきます。つまりこれが愛の力です。この時の理解は思考、理屈ではなく共感という愛によります。本当の癒しは愛によってのみ行われます。

その愛の後ろには忍耐や根気、理解、受容、寛容などという愛の側面が含まれています。人間は癒されるに従い自分自身に、そしてひいては周囲の人間にもそれを振り向けることが容易になります。真の愛が「自分を愛することでしか他者へ与えることはできない」と言われるのはこのためです。ただ愛っぽいもの-好きとかときめくとか気に入るとか-にはそれはできません。愛というのはとても明確で実態のあるものです。それを私達は感じ取る能力を与えられています。それが心の役割です。

こうして心が癒されると、自己意識が浄化されると、私達は平安という内なるスペースで神に出会うことができます。そうなった時、その内なる世界での価値観はもはや自己の欲求によるもの、世俗で言われるものとはかけ離れたものになっているでしょう。世俗と言われるものは、自己の欲求を満たすことを良しとしますが、癒された存在は、在ることを尊きとします。

私はそういう価値観への転換こそが、最も痛みのないそして最も素早い平和への革命であると感じています。私達は愛するものや食べ物や豊かさや繊細さや優しさや美しさを何も失うことなく革命することができます。ただ自分がしがみついている恐れを手放すことによって。そうすると私達は愛へまっすぐに進むことができます。

どこを掘ってもハートに繋がる

前回紹介した映像最悪な間違いだった・・・(目覚め始めたアメリカ兵)は、多くの方がシェアしてくださったようで閲覧カウントが伸びてきているようです。少なくても私のごく親しい人たちは涙が止まらない、涙なしには見られない、とおっしゃっていて、そうだよな、と、少し安心しました。

あの後TPPについても少し情報を見ましたが、一番思ったことは、これらの政策はどこの国民をも幸せにするためのものではないんだな、というものでした。当たり前ですが、前回書いたように、本当に戦争をやりたい人が世界のほんのほんのほんの一部の人間だけであるように、TPPという制度は多分同じ範疇の人が世界を牛耳るための制度です。とてもとても末期的な症状だな、と感じます。

原発の問題が浮上したとき、あまりに多くの国民が洗脳されてきてしまっていた事実と対面して圧倒されそうだったこともありました。ですが、私たちはすべての人が幸せである方向へ向かう選択というものが可能であることを知っています。私ですら知っているこの真実がすべての人に理解されないはずがなく、またその幸せというものが個々の心に届かないはずがありません。

私たちはまず、自分の心に立ち返って、幸せというものを感じてみる必要があります。幸せというものは人間にとって普遍的な真理です。そしてそれは心を通してしか知ることができません。頭で考えても分析してもまったく理解できないものです。

心は恐れによって閉ざされます。ですから私たちは心の領域に立ち返り、恐れによって閉ざされたハートをそっと開いていかなくてはなりません。恐れはすべてこの3次元で五感から来る記憶から作られた幻想です。私たち人間という存在が、3次元を圧倒する無限から創られた存在だということ、その無限の創造力のエネルギーである愛によって生かされている存在だということを思い出すことで、恐れという棘を取り去ることができます。

ですから世界平和や環境問題の解決、またあらゆる社会問題、社会の仕組みに関する問題のすべても、ここ、つまりハートに立ち戻ることで変えていくことができます。このやり方は、後戻りのない最も着実で優しい近道です。

洗脳、コントロール支配というのは私たちの肉体レベルの記憶にある恐れを触発することで行われます。ですから、目覚めるには自己の恐れを愛によって洗い流すことが大切なのです。目覚めた人は周囲をさらに目覚めさせることができます。抽象的でも観念的でもない、原理による鉄則なのです。

世界から戦争がなくなるとき

愛と平和。この言葉の中の本当のパワーに日々気づく。言葉の本当の意味に出会い続けている。

私はこの地上から戦争が消える日を望んでいる。実際には真の愛と平和の意味と価値に多くの人が気づき目覚めることでこのことは実現する。

戦争は世界最大にして最悪のビジネスだ。脱原発は多くの平和を愛する人が望んでいることだと思うが、戦争が必要なくなれば原発も必要なくなる。まだ原発が純粋な電力供給のツールだと信じている人がいるのだろうか。お湯を沸かすのに核はいらない。繰り返すが、戦争が消滅すれば原発は要らないのだ。核は戦争のための道具だから、戦争をしたい人のために価値がある。

平和のために社会の仕組みを変えよう、お金の仕組みを変えたいと望んでいる人は大勢いるだろう。でももし、世界から戦争が消えたら、恐らく今ある社会的な問題は遅かれ早かれ消えていく。貧困と貧困を助けることができない仕組みも戦争という仕組みに組み込まれている。戦争という癌細胞に組織がやられてしまっているのだ。戦争がある限り、人間は貧しい。貧しいから戦わなくてはと思わせられる。悪循環の輪だ。

私は日本が世界一お金持ちだった時を経験している。その時の世界を平和だったと思っている人もいるだろうが決してそうではなかった。平和ぼけ、などと戦争をしていない日本をばかにする人もいるけれど、日本は戦争にずっと利用されている。日本のお金や技術や人のパワーが利用され続けてきた。平和ぼけなんか、存在していない。私たちは常に恐れている。世界の在り方を。世界中の脅威を。

「世界中の兵士がいっせいに武器を置く」というたとえ話をどこからか耳にして、その情景をイメージしてみる。昨今の情勢を慮るとどうもそのイメージは遠い絵空事に感じていた。

日本は今戦争ビジネスマンによって煽られあたかも世界がその波に乗っているかのように思わされている。しかし、マスコミやテレビの報道のほとんどは情報操作、イメージコントロールによる支配のために容易に利用されることは311以来更に明確になった。ごく一部を全体のように取り上げ、全体の民意のうねりを点のように、或いは無視してないことにするのは簡単だ。

http://youtu.be/R4Z1avRGWiU

昨日たまたまこんな映像を見た。ものすごくセンセーショナルななにかではないのだけど、なぜか鳥肌が立った。それから涙が出てきた。最近はあまり泣くことがなかったのだけど、久々に泣けた。そして一瞬、世界中の兵士がいっせいに武器を置くビジョンが意識をよぎり、それは「可能だ」と私の中の声が言った。なにかが溶けた(解けた)。

こうして愛と平和の意識は今日も拡大し続けているのだ、と理屈抜きに感じた。

彼らが体験した戦争という名のテロ、或いは殺戮。嘘とコントロール支配。過去の自分を赦し立ち上がるために彼らが通過した儀礼はどれほどのものだろうと思う。

戦争が完全に消える世界。それは不可能ではない。なぜなら本当に戦争をしたいのは、世界のほんのほんのほんの一部の人だけだからだ。それに加担しているのは私たちの持つ本能の記憶の残像。人間には争いが必要だ、やられる前にやらなければやられる…というような。そんな記憶の残像をみんながお掃除し始めたら、誰も戦争に加担することはできなくなる。内面の浄化。記憶のクリーニング。

戦争を本当にやりたい人たちはこのような多数の目覚めを恐れているだろう。誰もが脅威の嘘と騙しに乗らなくなる時代。その前に稼げるだけ稼ごうと焦っているかもしれない。

戦争が完全に消えた世界。そこではお金の使い方が完全にかわるだろう。お金が純粋なエネルギーだとしたら、私たちは今はそのほとんどを誰かのある目的のために吸い上げられている。戦争から多くの人が目覚めるということは、支配者から目覚めるということだ。今は個々の幸せのための資金はほとんど回っていない。申し訳程度、あきらめさせるため程度にしか。そんな必要があるんだろうか。古くから強者に吸い上げられることに私たちが慣れすぎているのだ。巨額の軍事費。軍事ありきの外交のための予算は膨大で計り知れない。

戦争が完全に消える時には、多くがそれらの欺瞞に気づいている。だからその時には世界はひっくり返るほど変わっているだろう。人類が初めて社会に平等と平和をもたらす時だ。

だから、騙されたと思って内面の浄化に取り組んでほしいと思う。頭で考えていることがどれだけ小さい世界のことか。そこでひねり出すアイディアにどれほど無理があるか、気づく。

私たちの意識の中心はみんな繋がっているのだ。私たちが深いレベルで思うことは一瞬で全人類に伝わるということ、その真実の智恵を使って取り組んでいこうよ、と思う。そのためには有象無象の記憶を浄化し、内面により深く潜れるように内的環境を整えなくてはならない。

大切なのは作業に没頭しないで内面に戻ってくることだ。無限の領域に少しでも多くの人が多くの時間、戻ってくることだ。

いっせいに武器を置くとき、なるべく痛みと犠牲が少ないことを願う。個々が内面に愛を拡張することでそれは可能になる。