最大限に生きるとは

久しぶりの投稿です。

今月私はお誕生日を迎え、51年目の時間を迎えました。ここまで生かしてくださったすべてに感謝すると同時に、これからの時間を何に捧げて生きるのかを思い、そのために今を最大限に生きたいと願っています。

今を最大限に生きるって例えばどんなふうに?そう思いませんか。以前の私だったら、今やりたいことをやる?今できることを目一杯やる?というようなイメージを漠然と感じていたかな。いや、思いっきり輝く、とかだったかな。

もしあなたが、それができていないと感じるならやってみるといいんじゃないかな。本当にやってみよう、と思ってそのために動き始めると、本当の問題はなにかということが初めてわかるものです。

頭の中で考えたり想定したりしているうちは、本当の問題点というのはだいたい見当外れなもの。なのにそれはあたかも確固たる「できない理由」として存在しているように見える。そしてやってみる前にやめてしまっていることが少しずつ人生の中に積もっていく。

その積もったものは、自分への不信感、周囲の人間関係や社会への不満という副作用をもって自分を縛ります。

それはそもそも、想像の中で自分が創ったものだったのに、いつの間にか自分への呪いのようにパワーを持つようになります。

本当にやってみたとき、本当に壁となるのは実は自分が想像もしなかったようなことだし、生長というのはその、本当の壁と向き合うことでしか成し得ないものだと思う。その時みつけた本当の壁と向き合うということはそれ自体が創造的で前向きなことなんだと思う。それが、人生を創るということだと。

私は自分への不信感も周囲への不満も、恐れも怒りも、およそネガティブと言われているものを大概持っていてそれを実感もしてきたけれど、そんな中で自分が持っているほんの一点の希望のために一生懸命に生きてきて、その結果少しずつ自分との信頼を築けて、結果たいていのものを肯定的に、前向きに、受け入れたり認めたりすることができるようになった。

この世のひどいものも、無理に見ないようにする必要もなくなり、そうなんだ、でも、そのうらっかわの素晴らしいところもあるよね、と、見聞きするおおよそすべてのことに対して言えるようになった。それは自分の中にあるあらゆるいいものとよくないものにYesと言うことから始まった。

Yesは光りと同じで、うらっかわの暗いところに当ててみればそれが表になる。人はみんなそのうらっかわを恐れている。うらっかわの暗いところから逃げようとがんばってもそれはもれなく人生についてくるものだ。だから逃げようとしている限り、人生は恐れから逃れられない。

人生の希望はたったひとつでいい。バランスなんてあとからついてくる。人間には所詮ひとつしか見えないし、見たいものしか見えないのだ。(これは精神論ではなくて、客観的な事実だ。)

希望から目をそらさず足を前に出せば恐れは薄れる。それが私たちに与えられた、人類の弱点の裏をかいた突破口だ。

人生に必要なものをあらかじめ揃えたら冒険の旅に出よう、などと思っていると恐れに追いつかれて飲み込まれてしまう。人生で一番大事なもののために今日を生きると、人生に必要なものはだんだんと整えられていくものだ。

本当に大事なものがみつかった人にはそのほかのすべては足りているし、大事なものがみつからない人にはいくら手に入れてもいつも足りない。

旅は終わる。旅は地から与えてもらうものであり、旅を終えた人は地の塩となる。地の塩となり世の光りとなる。世の光りとなることに本当は準備はいらない。ただ、真実と現実を覚悟するだけなのだ。

心のセラピーは、探す旅を完了させることを手伝うものだ。人生に与えてもらうことではなくて、与えることを選ぶという意識の進化を促す。

多くを持っていても、また多くを体験していても、得ようとするとき人は貧しい。またどんなに微細なものごとであろうが、与えようとするとき人は豊かだ。たった、それだけの違いなのに。

明日

子供の頃からなぜか戦争映画に惹かれていた。
今まで見たなかで一番印象に残るのは
『TOMORROW 明日』だ。

長崎の、市民の日常を淡々と、リアルに描く。

ある女は出産し
ある女は結婚し
ある男は出勤し
ある男は畑を耕し
ある女は洗濯し
親類は式に参列し
子供たちは夏の日差しのなかで遊び

そして、ぴか、と光り、
そのすべては終わる。

あるものは吹き飛び
あるものは蒸発し
あるものは焦げ
あるものは溶け
あるものは燃えたのだろう。

しかし、すべては終わる。

今の世の中を見ていると、
この映画の途中にいるような感覚になる。

きっと前触れはたくさんあったけれど
誰もそれに気づかない。
そして、明日が来ることを
誰も疑わない。

私が子供のころから見る悪夢に
こんな夢がある。

とても恐ろしいことが迫っていて
私はそれに気づいている。
でも誰も気づいていない。
私は逃げる。
恐れているのは私だけ。
やがてそれは本当になる。
私は怖くて仕方がない。
でも誰も気づいていない。
みんなに知らせられないことに罪悪感がある。
しかし気づいている私が一番不幸に見える。

そんな夢。

そういう察知する能力がきっと私にはある。
でも警告は早すぎると本気にされない。

1990年に、芝居の脚本を書いた。

世の中は便利で誰もがもっと便利な世界を求めていた。
その中で情報だけで戦争が起こっていた。
それを私は机上戦争と呼んだ。
だけど最後の核爆弾のボタンだけは本物だった、という話。

大衆は気づいていない、けれど、
感覚の研ぎ澄まされたある種の人だけが
その異変、
秘密裏に行われている
情報と命の取引きに気づいている。

そんな中で、生きることを選ぶには
意識的に生きるにはどんな道があるのだろう、という話。

実に25年前のこと。
でも今、だいたいほんとのことだったな、と思う。

311を機に、原発反対が持ち上がってきたとき
私は戦争反対、と叫んでいたけれど
多分あれすらも早すぎた。
しかし今ではもう、既にいろんなことが遅すぎる。
いや、そうではない。
完全な今がただあるだけ。

私たちはとても危ない橋をみんなで渡っている。
何も知らずに明日を信じるのはたやすいこと。
しかし私たちに天が求めるのは
危険を承知の上で、希望を持ち、信頼して橋を渡ること。

そのために私たちにはそのための武器を預かっている。

それが自己探求である。
自己探求は神に通じる道だから。


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