I am that I am


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ふーちばー
裏庭に移植したよもぎがお花をつけました。かわいいので飾っています。

人間の探求は本当におもしろいものです。スピリチュアルなどという言葉を便宜上使っていますが、私にとってはそれが世界のすべてです。

意識が世界を創っているのだとすれば、人間がいかに生きるか、いかに自分を扱うか、そして内面をいかに知るかということで世界は直接的に創られています。

この目に見える現実と内面の世界が別々に進行しているように感じられるのは、その間に無意識が存在するからです。また、神という全き存在と自己とが分断されて感じる理由も同じです。

この無意識という存在こそが闇であり、その闇に気づいてその闇の一隅一隅に「光を」と宣言することが私たち人間の役割であり使命であるように思います。しかし宣言し、光を呼び戻てみて気づくのは、そもそも光はそこにあったというのに、ということなのです。人間というのはかように手間のかかる生き物です。神がその荷姿を生き物としてお創りになったばかりに。

ウッディー・アレンという人の映画が全くもって好きになれなかったのですが、その理由が最近わかってきました。人間があまりに当たり前のことに気づいてそれをそうだと認め、またそれを選んで生きる、ということを始めるまでに、そんなにも長くもってまわった物語が必要なのかとうんざりするし、その物語の必要性に共感が持てなかったからなのです。

でも最近ではそれも少し理解できます。スピチュアルにおけるニューエイジの物語にもそれは似ています。ただこれが好き、とか、これが嫌い、私にはこれが必要、と言うことのために宇宙人の壮大な歴史ドラマというバックボーンが必要だったりします。

人間が内面を変えるため、なにかを手放すため、自己を癒し、そして新たな信念体系を創造するには、宇宙全体があなたという物語を支持していますというくらいの壮大な愛がきっと必要なのでしょう。

確かに、人間ひとりが幸せに生きるようになるためにはそれくらいの大仕掛を要するということなのだな、と納得させられることばかりです。かくしてウッディー・アレンは正しかったと言えるかもしれません。