使命

セッションで数名の方からほぼ同時にあるキーワードをちょうだいしました。そういう時はそのエネルギーが動きたがっている時です。ここからどこかへ、或いは同時多発的に、意識の大海の中でそれは震え輝こうとしています。そして言葉というメッセージとなり、人の気づきとなって流れを作ろうと発動しているのです。

キーワードは「自分自身への誤解」です。あまり耳ざわりのいい言葉ではないかもしれません。

私は長年、潜在意識の療法、つまりインナーチャイルドや前世療法、ハイヤーセルフのワークに取り組み実際の現場からたくさんの学びをいただいてきました。結局のところ、なにが問題の根っこなのか。意識の真実は薄皮を剥ぐように日々新しい姿となって私の前に現れてくれます。取組む姿勢は同じでも、根っこへ迫る道は日々シンプルに、可能な限りスマートに、みなさんをご案内できるようになってきていると思います。その道に従事する者へのそれがギフトであり、この世界に私を生かしてくださる神とみなさんへのご恩返しなのだと最近つくづく思うようになりました。

「愛」という、形に示すことのできないある大きな事象に込められた地上での意味は、私たちの気づきと体験と学びによって今も毎瞬上書きされています。この世のすべての事柄がそうです。世界のあらゆる出来事の意味は、私たちの実感によって書き換えられます。つまり、そこに込められたエネルギーは私たちの生命の営みと同時進行で変化し続けているのです。

潜在意識は、体験によって作られます。体験からくる実感が記憶された領域がそれです。

私たちは大海のうねりのような意識のエネルギーとともに、この肉体という船で波を体験しています。私たちは過去世から持ってくる見えざる記憶を初期設定とし、両親の創った王国に誕生し航海をゆるされます。細かなシナリオを持たないまま、地図のない航海を始めるのです。

しかしこのゲームの最大のカギは最初から手渡されています。魂は愛という至高の法則を記憶しており私たちはアクセスすることを思い出しさえすれば、どんな小道具や航海術を持つより遙かに安全で有意義な旅を進められます。

けれども私たちは荒波にあたふたするうち、すっかりそんなゲームの奥義は忘れ去ってしまいます。波を蹴散らし船の補修に補修を重ねるうち、この旅の目的どころか本当の自分の姿さえ忘れてしまいます。そしてイメージの中で、戦いのうちに受けた傷や怪我の後遺症や苦難の時に培った心の抵抗や痛み、孤独や悲しみのほうの記憶が鮮烈に大きく膨らんでしまうのです。

そんな自分が生きてきた人生、取り巻く人々、それらとのかかわりの中での自分像は、すっかり疲れ果ててボロボロでみじめでみすぼらしいかもしれません。逆にガッチガチに鎧を着こんで意気揚々としているかもしれません。どれにしてもその姿の奥にある本当の心、本当の気持ち、本当に感じていること、すなわち真のエネルギーの姿はよくわかっていないのです。そして周囲に対してはいつも「そんな自分がすべき行動」を無意識のうちに選択するようになっています。

これが自分自身への誤解、言い換えれば誤った自己イメージです。

私は、ヒプノセラピーの使命は誤解を解くことであると認識しています。誤解を解き、真実への橋渡しをすること。インナーチャイルドの癒しとは世間で言われているような、心の傷の原因探しなどでは決してなく、私の私に対する誤解を解くことであり、真の私自身との和解への道なのです。この和解なしに自分への愛は成就しません

実はこのプロセスこそが、無条件の愛、高次元の愛への最も重要なゲートのひとつであると私は思っています。多くの崇高な意思を持った人が首から上と下で分断されねじれた世界観の中でさ迷うのは、この領域に飛び込むことがある意味とても勇気を要する段階だからだと思います。おそらくどれだけのことを知っていようが、理解していようが、直感していようが無意味です。それは、自分が自分で進んで体験し突破するしかないゲートなのです。

魂はそのためにたくさんの仕掛けをしています。苦難や混乱という、あなたを撹乱させる思考や理性や既存の知識では対処不能な地雷を各所に埋め込みます。そうやってあなたに、魂自体に頼ることを思い出させるよう仕向けるのです。あなたの内の愛の体験の記憶の貯蔵庫である魂は、長い転生の履歴から愛を蓄え、あなたが肉体に宿りながらそこにアクセスし、その叡智を使ってあなたがさらにその体験を深めることを押し進めます。

その段階であなたはようやく、自分が自分にくっつけている歪んだ自己像に気づきつつあります。目覚めがそこまで来ているしるしです。

周囲からたくさんの攻撃を受けたと信じているあなたは、その攻撃によってずたずたに裂けた衣装をまとっています。でもそれは本当のあなたですか?答えはNOです。あなたはたくさんの人たちともみ合いながらコミュニケーションを繰り返し、古い衣装を脱ぎ捨てては生まれ変わっていきます。古い概念を捨て去りより大きな世界へと広がり続けています。脱ぎ捨てるほどに内側の光をよりストレートに放ちます。これが真実です。

あなたはそのプロセスの中にいて、それを体現しています。

決してひとりではありません。あなたは無限の霊(スピリット)とともに互いに作用し影響しあいながらその任務を全うしているのです。

心から惹かれるものが教えてくれる

『風の谷のナウシカ』みなさんご存知ですよね。

傷ついてボロボロの虫の子どもが風の谷に迷い込んできて谷が大騒ぎになっているとき(虫はすべてを腐敗させてしまう菌が生きる森で生きているからその菌を持ち込んでしまう)、ナウシカはその虫に

「だいじょうぶ、飛べるわ」と声をかけ、虫笛を鳴らし、メーヴェ(一人乗りの翼)で一緒に飛んで森まで誘導してあげるんです。

何度も繰り返し見ていますが、そこで自分の身体感覚としてあまりにボロボロの虫に声をかけようとするなら「かわいそうに、どうしてあげようもない」という気持ちが出てきそうになるんです。

でもナウシカには迷いがありません。
その子(虫)は飛んで森に帰るしか、幸せになる道がないからです。
その幸せが、風の谷にもそこに住む人間たちにも虫の世界の生き物にとっても、平和だからです。

私はナウシカのそういう意志に心を打たれます。がーーーーーん、というくらい。

そして、私はそういう人でありたいと心底から望んでいるんだな、と、とても思います。

自分の潜在意識(肉体感覚)は無理だと感じても、私の魂(ハイヤーセルフ)は、飛べるよ、それが幸せだよ、と私に告げるのです。
(ナウシカは多分、身体感覚で「だいじょうぶ」と感じているのだと思いますが…)

高次元て、具体的に言うと例えば、そういうことなんです。
そして、その意志に自分が従おうと決断するとき、神はその意志にちからを与えます。

大事なのは、自分の内側にある本当の意志に気づき、それを選ぶということです。

愛するちから

「やりたいことがなんなのかわからない」という声をセッションでよく伺います。また、「なにかやらなければならないことがある気がするけれど、それがなんなのかわからない」という声もあります。

ひとつには、それを思考で解析しようとしているうちは、たとえ候補があがっても、行動に移すには至らないものです。思考は何かを行う原動力にはなり得ません。私たちを揺さぶる心の要求の声は普通、感情・感覚・本能を通して発動します。

そこで世では潜在意識を活用(活性)せよ、というふうに言われたりします。しかし、潜在意識というのはあくまで欲の世界です。しかもその欲とは、からだが学習したことをもとに設定されています。からだが習慣としている反射がほとんどを占めます。欲がなくなったら死ぬよ、なんて言う人もいますが、欲が最低限命を守ろうとする力はそうそう抑えられるものではありません。いざとなったら働いてくれます。そんなことより私たちの欲求が普段、本当はしあわせになるためにいらないものを欲しがってみたり、それが必要だと思わせるよう私たちを仕向けているところが問題です。本当はその欲求を吟味し、手なずけたり手放していくことが重要なのです。

「やりたいこと」とみなさんが表現されるものの中味はそんな欲ではなくて、心底意義を実感できるような、人生や自分そのものを愛さずにはいられないくなるような、本当の満足のことを指しているのではないでしょうか。しあわせ、というのはその中身を手に入れいることに他なりません。

すべての人に可能で、そしてそれが最も地上で価値あるものだと神さまが人間に保証してくれているもの、それが、愛することです。「愛です」と言ってしまうと多くの人は、愛を手に入れるとか、愛されることを連想するかもしれません。しかし、愛を求めていても愛しているとは限りません。

愛することを始めるのに必要な準備は、それぞれに完璧なかたちで魂と内なる神から与えられています。その愛は内側で準備され、発動命令が下るのを待っています。

しかしそれを始めない限りは、そのレッスンを始めることはできません。自転車についていくら考えたとしても、自転車に乗ってみないと上達はしません。愛することも同じです。愛について知っているつもりでも、愛してみないことには問題点にすら気づけません。

現代では愛する前に問題点に気づきたいと考えている人も多く見受けられます。しかしそこでいう問題点とは他者の体験であって、自分のものではありませんから、いくら吟味しても自身に役立てることは難しいのです。わかったつもりでもいざ自分のこととなるとうまくいきませんから、余計にイライラしたり否定的になってしまう弊害も起こります。

愛に向かうための問題とは本当はそれ自体喜びです。向き合うほどに、愛が育つわけですからね。

すべての人は、生まれながらに愛を求める強いちからに動かされ、まず親からそれを受け取ります。そして同時に親を愛します。しかしその愛は、本能や刷り込み的な学習によって裏打ちされた、条件付けによる愛です。欲しい、という気持ちと表裏一体なのです。

ですから思春期に異性に抱く愛情もそれに似て、欲しいの裏返しの感情です。どうりで相手を思うと苦しかったり怖かったりしますよね。幼少期に愛情の欠乏感(寂しさ)を強く持つと、思春期的な愛情欲求が長く続いてしまうものです。求めては失望することを繰り返し、それを超えることができません。欠乏状態では信頼関係を育てることが困難なのです。

トラウマ(心的外傷)というと暴力を連想しますが、多くは共感力の強さ、優しさから傷つく人がほとんどです。他者にフォーカスすることに慣れすぎ、自己の欲求を抑え込んだ体験が寂しさ、欠乏につながって、インナーチャイルドが不満、不安を抱えたままになっていることが愛することを妨げています。ですから人一倍愛を求めていながら、恐れによって愛を遠ざけているのです。愛せていないのです。

一方で、強い欲求なしには人間はなかなか愛のレッスンに取り掛かれないのかもしれません。愛は受容や忍耐や理解や、自分の慣れ親しんだ世界観までもを差し出すことを私たちに求めます。そうすることで他でもない、自分自身が内なるスペースを広げ、養い、成長し、新しいものに生まれ変わるというしあわせを享受することが可能になります。

つまりは愛を学ぶことが即ちしあわせなのです。手放すとは、愛するもののためにスペースを明け渡すことです。愛は古い価値観を捨てるにふさわしい理由です。

その過程で、私たちは幾重にもがんじがらめに巻き付けられた恐れに出会うことでしょう。この恐れに直面させ、そのまやかしに気づかせてくれるのもまた、愛のちからです。

ではどうやって愛すればいいのでしょう? 未知を体験するにはそれを想定してやってみることです。最大限の想像力で、あなたが最上だとイメージできる限りの愛と見当をつけて。そうしてみるとき、魂のちからが発動します。悠久の時間を超えて、神の愛とともに歩んできた魂の記憶があなたの意志のちからに触発されて、魂が廻り始めます。あなたとともに。

するとあなたは気づきます。なんだ、なにも大げさなことじゃなかった。どこへ行く必要も、持ち物を変える必要もなかった。私はひとりじゃなかった。すべてはここにあったんだ、って。

東京勉強会へのお申込み、ありがとうございます。残席おひとり分ございます。お声がけください。
感謝とともに

AZU拝

この世の学び

ゆめものがたりだと思って聞いてください。(江原さん風)

亡くなった私の父は、実のおとうさんを知らないまま亡くなりました。
30代になるまでそれも知らずに、祖父母を両親だと思っておとなになったのです。

事実を知ってから父は荒れました。
父親を知りたいがために、しまいには親戚中をおどかしてまわったので
みんなに縁を切られてしまいまいました。

それでも本当のおとうさんについては誰も教えてくれませんでした。

晩年父はほとんど穏やかにそれを受け入れていたようでした。
でも、私にとっても実のおじいちゃんがどんな人か、それは気になりました。

ぱぱ、本当にもういいの?と、何度か尋ねましたが
父はそれ以上、どうこうしたいとは言いませんでした。

父が亡くなって、私はあるとき、もしかして体から離れて自由になった父は
実のおとうさんとも会えたのかしらと思い、父に問いかけました。

ぱぱちゃん、実のおとうさんに、会えたの?
すると父の声がしました。
「いやいや、この世で体験していないことは、やっぱりわからないんだよ、美緒」

え、そうなのか、と、私は驚きとともに納得しました。

確かに肉体を離れた魂は自由かもしれませんが、それで万能になるわけではない。
当たり前か。

でも、そうか、だから、肉体をもって体験することが本当に大切なんだな。
そうして体験して、実感して、初めて学べる愛のために、
私たちは地球にやってきては去っていくわけだ。

ぱぱちゃんとの学びは私にとって巨大だった。
私は満足だよ。ぱぱちゃんはどう?

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すべての魂へ

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心のセラピストAZUです。

心のセラピーを長年やっていて痛感するのは
「優しい人が傷つきすぎている」ということ。

スピリチュアルも、人間の探求も、
人間という神たる意識の進化を目的にしている。

人間が自分の壁に取り組むのは
ただそのためであり
壁が払われたところに神という無限の姿を見るためだ。

その目的地を少しでも垣間見た者にとっては
それ以上の幸せはなく
代用品で満足するふりをする必要がなくなる。

優しさというのは
人間の持つ愛の特性のひとつで
共感という超越的な理解と和解、そして
エネルギーの活性と調和、癒やしと浄化のちからを持つ。

優しいというのは表面的な態度のことではなく
この超越的な神に通じるちからのことだ。

深い優しさというのは
一朝一夕に持てるものではない。

幾世もの体験から揉まれ削られ磨かれて養われた宝ものだ。

優しい魂は地上にたくさん降りてきてる。
そしてその多くが自分を忘れている。

それは私たちの頭が賢くなり合理的になる過程で
比較対照というテクニックに重きを置きすぎたからだ。

自分を知ることが、他者と比べることだと
未だ信じている人が多い。

自分の価値が、他者との対比で生まれると
あまりに当然として受け入れている。

その価値観が、自分を見失わせている。

自分を思い出すには、瞑想が必要というのはそういうだ。

比べることではなく、感じることで
行うことではなく、在ることで
批評することではなくて、理解することで

自分と、全体性というものを思い出すことができる。

しかし優しい人はこういうことが当たり前にわかるという
自分の価値すら忘れている。

そしてそういったことが
取るに足りない
世間や社会では大して役に立たないものだと信じている。

自分に与えられた機能をもう一度思い出して
それを活かしきる生き方を工夫する必要がある。

感じすぎて、痛み苦しみ悲しくなる機能が
また怒り、考えすぎる機能が
自己の魂と他の魂を救うためにあるということを。

それはそもそも、神の探求のために与えられた
最高の機能だということを。

共感という機能こそが人間の無限性を開く鍵であるということを。
超能力であるということを。
霊性であるということを。
愛であるということを。

あなたが、周囲の型にはまろうとするあまり
眠らせているそのちからを
解放し、活かし、生きる意味と喜びを取り戻すことが
「ありのままの自分を愛する」ことだということを。

その一歩を、その半歩を、
多くの人が踏み出し、歩み続けることができるように
そういう世界になるように。

ワークしよう。歌い、踊ろう。今日も。